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第9話 ジーンと怪盗シリル

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 涙をこぼすセレーナを見て、シリルはうろたえた。セレーナの反応が、予想外だったのだろう。

「……わかってるなら、どうして」
「だって……あなたが、なかなか戻ってこないから」

 うつむくセレーナの瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれてゆく。
 シリルは、セレーナの顔に手を伸ばそうとした。だが、その手は届くことなく、空中で行き場を失う。
 そのまま力なく下ろされ、体の横でぐっと握られたこぶしは、何かに耐えるように震えていた。

「――俺が帰ってこなくて退屈だったから、外に出たってのか? こちとら遊びじゃねえんだぞ? あんたのためを思って――」
「わかってるよ! でも……でも……、わたし、不安だったの」

 セレーナは、両手で顔を覆い隠す。どれだけ拭おうとも、涙は次から次へとあふれてくる。それを止めるすべを、セレーナは知らなかった。

「怖かったの。わたしだけ残して、みんながいなくなっちゃうのは、もう嫌なの」
「……っ」

 シリルは、はっと息をのんだ。セレーナの心に残る、深い傷跡を垣間見て。
 セレーナは、涙をこらえながら続ける。

「ダブは、ある日突然いなくなった。何にも言わずに、どこかへ出かけて、二度と帰ってこなかった。その日を境に、わたしの小屋を訪ねてくる人は、誰もいなくなったわ」

 正確には、遠くから見られている気配は感じていた。井戸に水を汲みにいくとき、洗濯物を干しているとき、夜になって母屋に食料を探しに行ったときにも。
 けれど、話しかけてくるでもなく、姿を見せるでもなく、ただ視線だけがセレーナを追ってくる。父か継母か、義妹弟か……結局、視線の主が誰かはわからなかった。

「――ジーンは、人買いの馬車に押し込まれるときに、きっとまた会えるって言った。それから、絶対に、すぐに迎えに来るって。約束するって。わたし、信じてたの。でも、彼は戻ってこなかった」
「セラ……」
「あれから、五年も経った。全然すぐじゃないわ。それなのに――」

 セレーナは涙を拭うのをやめ、シリルをキッと睨んだ。自分の中でも咀嚼しきれない、強い感情を宿して。

「なのに、ジーンは・・・・わたしに・・・・何も言わない・・・・・・
「……っ!」

 眼鏡の奥の、シリルの琥珀色の瞳が、大きく見開かれる。

「あんた、もしかして……」
「気づいてないと思った? そこまでボヤボヤしてないわ、わたしは意外と鋭いのよ?」
「……そっか。悪かったよ」

 シリルは、握りしめていたこぶしを開いて、大きく深呼吸をした。
 一度目を閉じ、寝るとき以外ずっとかけていた銀縁眼鏡を、ゆっくりと取る。
 再び開かれた瞳の色は、美しく輝く金色だった。

「……いつ、気づいた?」
「もしかして、って思ったのは、あなたが式場からわたしを盗み出した翌日。確信したのは、その次の日――森で野宿した日の、朝よ」
「……はは、けっこう早く気づかれてたんだな」

 シリル――もとい、ジーンの指先が、セレーナの目元をなぞる。赤く染まったまなじりは、まだしっとりと濡れていた。

「約束を守って、迎えに来てくれたんでしょう? わたしね、あなたがジーンだってわかって、とっても嬉しかったの。一人でドキドキして、舞い上がって……なのにあなたは、わたしから簡単に離れて、女物の香水の匂いをさせて、なんだか無性に腹が立って」
「俺が外出してたのは、主に情報を集めるためで――」
「わかってる。わかってるのよ。だからこそ、悔しかったの。あなたがわたしをいたずらにもてあそぶのが。あなたがわたしの心を乱すことが。あなたがいつの間にか、びっくりするほど大人の男性になって戻ってきて……なのに、わたしは無駄に意地を張るだけの、子どものままなのが」

 セレーナが胸に抱えていたもやもやを全て吐ききると、ほろりと最後の涙が、頬を伝う。
 ジーンは、もう片方の指もセレーナの頬に伸ばして、優しく涙を拭った。

「……なあ、セラ。俺はさ、あんたを地獄から救い出すって約束があったから、この五年間、生き延びることができたんだ。本当は、セラのこと、もっと早く助けたかった。でも……隣国に連れて行かれた俺には、国境を越える力すらなかった」
「隣国へ……?」
「ああ。俺自身も五年前まで知らなかったんだけどさ、この金色の瞳は、隣国、シュトロハイム王国にとって大切なものだったらしい。おかげで国を揺るがすデカい争いに巻き込まれちまったよ」

 ジーンはセレーナの頬から手を離し、眼鏡をかけ直す。瞳の色は、一瞬で琥珀色に変わったのだった。

「この眼鏡は、『怪盗シリル』が俺のために作ってくれた物だ。これがないと、安心して出歩けねえ」
「え……怪盗シリルが作ってくれたって? シリルはあなたじゃないの?」
「俺も、怪盗シリルの一人さ。国境を越えたら、皆にも会わせてやるよ。ちなみに、さっきのアイツ――リチャードも、怪盗シリルの一人だ」

 怪盗シリルは、どうやら一人を表す呼称ではないらしい。
 怪盗シリルについて出回っている情報はほぼ皆無。なので、それはセレーナにとっても初耳だった。
 リチャードというのは、先ほどの金髪ウィッグのオネエさんだろう。

「で、さっきの話。本当はもっと早く、セラを迎えに行きたかったんだ。けど、五年も経っちまって……。悪かったと思ってる。ごめん」
「ううん。ジーンが生きてて、本当に良かった」

 隣国では、半年ほど前まで、王位を争って揉めていたと聞く。一部の地域では関係貴族たちが挙兵し、大きな内紛が起こってしまったのだとか。
 ジーンは、その内紛に巻き込まれたのだろう。生きていてくれて、本当に良かった。

「それで、すぐ名乗らなかった理由だけど。再会したときに、俺はシリルだったろ? その後も、ほら……あんたに悪いこと、色々しちまった。だから、言うタイミング逃しちまって……。なかなか『ジーン』の約束を果たせなかった」
「悪いこと……確かに脱がされたり、一緒のベッドで寝たり、あることないこと言って恥ずかしい思いをさせられたりしたもんね」
「す、すまん。でも、全部人の目を欺くために必要なことだったんだ……悪かったよ」
「ふふ、大丈夫。ちゃんとわかってるよ」

 セレーナが微笑むと、ジーンは安心したように息をつく。続く言葉は、困ったように話し出した。

「……まあ、でもそれも全部建前で。本当は、俺も怖かったんだよな。セラが俺との約束を覚えてるかどうか、自信なかったし。だから……気付いてくれるまで待ちたいって気持ちもあった」
「そっか。お互いに、タイミング見失っちゃったんだね」
「ああ」

 視線が、交わる。
 怪盗シリルの眼鏡は、本来の瞳の色は隠せても、その目に宿る熱も、甘さも、大切な元主人を慈しむ気持ちも、隠せはしない。

「――だから、もういいよな? ジーンに戻っても」
「……うん」

 先ほどまでとは違う涙が込み上げてきて、セレーナの目の奥は熱を持ち始める。

「待たせたな、セラ。約束通り、迎えに来た」
「……うん……! 待ってた。待ってたよ、ジーン」
「ああ。お待たせ」

 ジーンは両腕を大きく広げる。セレーナは、思い切り彼の胸に飛び込んだ。ジーンは、優しく、力強く、セレーナをその腕に閉じ込める。
 懐かしい香りがいっぱいに広がり、セレーナの目からは、新しい涙がこぼれ落ちたのだった。
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