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後編
しおりを挟むそれから数日。
ヴィクトル様は、久しぶりに『夢喰みの香草』を混ぜたハーブティーを飲んでくれた。
私はいつものように、ヴィクトル様の夢にもぐる。
今日も、彼が立っているのは、戦場となった荒れ野だった。
空には、いつもと同じく分厚い雲がかかっている。
けれど、今日の夢は、普段と様相が異なっていた。
敵も味方も、誰一人ヴィクトル様の近くにいないのだ。
私は普段と同じように、青い小鳥の姿を借りて、ヴィクトル様に近づいた。
『ヴィクトル様』
私はそう発するが、口から出てくるのはピイピイという囀りの音だけ。
小鳥の姿を借りた私は、ヴィクトル様の差し出した指先に止まる。
「しばらくぶりだな、青い鳥よ。待っていたぞ」
『貴方は、私を待っていたのですか?』
「ああ」
言葉になっていない囀りの声なのに、彼には私の言うことが分かっているようだった。
「いつも俺を悪夢から救いだしてくれるのは、君なんだろう? 青い鳥――いや、アルマ」
『……!』
ヴィクトル様が私の名を呼ぶと、青い小鳥の姿が、私の意思に反して光の粒子に変わっていく。
光の粒子は再収束し、私――アルマ・フランソワの姿をとった。
「どうして、お分かりに?」
「君が、病床で私にこう言った。『過去は変えられないけれど、未来は変えられる。それができるのは、痛みを知る貴方だけ』と」
「……! まあ、うっかりしてしまったわ」
「それが決め手ではあったが、それだけではない。私が悪夢を見なくなってから、君は日中ずっと眠そうにしていた。まるで私と入れ替わるかのように。……日中に眠かったのは、夜に、ずっと私と一緒にいてくれたからなのだろう?」
「……もう隠し立てする必要もありませんわね。ご明察ですわ、ヴィクトル様」
「アルマ……ずっと、聞きたかったことがあるのだが……」
ヴィクトル様は、言い淀んで、かぶりをふった。
「いや、やめておこう。それより、ここは夢の中だ……なら、許される、よな?」
「え? 何が――」
尋ねようとした私の言葉は、突然唇に触れた柔らかな感触に塞がれてしまった。
ヴィクトル様の逞しい腕が、私の背中に回る。
夢の中なのだから好きにすればいいのに、ヴィクトル様は壊れ物を抱くように、私を優しく抱きしめた。
「アルマ……私は、君を愛さないと言ってしまった。なのに、今はこんなに君を愛しく思う。私は、どうしたら君に許してもらえる?」
「ヴィクトル様……」
間近で見る彼の瞳は、夢の中でも優しく澄んでいた。夢なのに、不安に潤んでいた。
私は、彼の背中にそっと自分の手を添える。
雲が切れ、空からは柔らかな光が降り注ぐ。
ヴィクトル様の秀麗な顔が、光に照らされ淡く色を帯びる。
「何度も言ったでしょう? 過去は変えられないけれど、未来は変えていけると。それができるのは――」
「痛みを知る、私自身……か」
彼の返答に私が頷くと、今度こそ、私は光の粒子となって、空へ舞い上がっていった。
夢が終わり、目覚めの時が来るのだ。
悪夢から解き放たれた彼は、決意に満ちた表情で、光差す空を見上げていた。
*
夢から戻った私は、昼過ぎまで眠って、夕食の席でヴィクトル様と顔を合わせた。
ディナーは二人で、いつも通り屋敷でいただく予定なのに、なぜか私は侍女に身だしなみを綺麗に整えられ、外出用の上品なドレスを着せられている。
ヴィクトル様も軍服ではなく貴族服を身にまとい、髪もセットされていて、いつも以上に凛々しい。
「アルマ、話がある」
ディナーの後で、ヴィクトル様は人払いをした上でそう切り出した。
その秀麗な顔には、うっすらと緊張が宿っている。
「昨晩、夢で話したことを覚えているか」
「……はい」
「そうか」
私が頷くと、ヴィクトル様は小さく微笑んだ。
「なら……聞きたかったことがあると言ったのも?」
「ええ、覚えておりますわ」
ヴィクトル様は、私をソファーまでエスコートした。
一人分の空間をあけて、隣同士、並んで座る。
「アルマ。私は、君に最初から冷たく当たっていた。なのに、どうして、自分を犠牲にしてまでも私を救おうとしたのだ?」
「それは……公爵閣下の頼みで、貴方の体調を気にかけるように言われたから……というのが最初のきっかけです。けれど、それだけだったら、本気で取り組んだりしませんでした。私が身を削ってでも、何としても貴方を救おうと思ったのは、私自身が、貴方に笑ってほしいと願ったから」
「……どうして、そこまで?」
「うーん、どうしてでしょうね。貴方に同情したから? お飾りとはいえ、貴方の妻だから? 放っておけなかったから? ……いえ、どれもしっくりこないわ」
私は、首を傾げて少し考える。
隣を見ると、澄んだ青い瞳と視線が交わって、私はその答えにピンと来た。
「分かったわ。きっと、私が貴方に惚れてしまったから、ですわね」
「ほ、惚れ……?」
「貴方は、最初から優しく紳士的でした。寝不足で体調が悪いにも関わらず、私を気遣ってくれましたし、使用人にも優しく接していました。お仕事に対しても真面目で手を抜かず、真剣に領民や国のことを思っています。私は、そんな貴方に、人として惚れ込んでしまったのですわ」
「人として……か」
ヴィクトル様は、ふ、と笑みをこぼした。
「それでも嬉しいことには違いないが。……だが、アルマ」
「はい、何でしょう」
「私は君を、人としても、女性としても、愛してしまった。愛さないと宣言したのは自分なのに、何を言っているのかと思うだろうが……それでも、いつの間にか、君を心から愛しいと思うようになっていた」
ヴィクトル様は、私の手を取った。
彼の手は、緊張からか、冷たくなっている。
「三年間の契約ではなく、君さえ良ければ……アルマ・フランソワ、君を、本当の妻として迎えたい」
「……それって……」
「結婚してくれないか、アルマ。仮初なんかではなく、心から望む、愛しい妻として」
真っ直ぐな彼の言葉に、視線に、頬がじわじわと熱を帯びてゆく。
「わ……私、その、貴方を」
「――今はまだ、『人として』でも良い。けれど、いつか、『男として』君に惚れてもらえるように努力するから」
切実な眼差しが、私を射抜く。
私は、冷えたヴィクトル様の手をあたためるように、上からもう一方の手を重ねた。
「ヴィクトル様。心配なさらなくても、私、貴方をお慕いしていますわ……男性として。本当の、夫として」
「……! アルマ……!」
一人分あいていた空間が、二人の距離が、ゼロになる。
ヴィクトル様の抱擁は、夢の中と同じく、やはりどこまでも優しかった。
「夢じゃない、よな」
「ええ。夢ではありません」
「じゃあ、これも、ノーカウントかな?」
ヴィクトル様は、私の顎に手をかけて、低く甘く囁いた。
「――ええ。夢の中のことは、幻……ですから」
私はそっと瞼を閉じる。
正真正銘、はじめてのキス。
唇に落ちた感触は、夢よりもあたたかく、優しいものだった。
「……今度は、幸せな夢を、二人で見ましょうね」
「ああ。夢でも、現実でも、幸せにする」
すっかりクマの消えた美しい目元が優しく細まり、私は再び目を閉じる。
甘く優しい幸せが、彼を苦しめる悪夢を全て溶かしてしまう日も、きっともうすぐだろう。
内に眠る夢喰みの力によるものだろうか、私はそんな確信を抱いた。
――愛しいひとと、甘く深い口づけを交わしながら。
〈了〉
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