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終章 虹
第146話 「婚約」
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前半は現在(パステルの誕生日)、後半は回想です。
********
「さて、デビュタント用のお召し物は、これで完璧ですね。本番まであと二ヶ月――早いものですねえ。この間まであんなにお小さくていらっしゃったのに」
デビュタント用の衣装を丁寧にしまいながら、エレナは感慨深そうにそんなことを言う。
私にとって、実母や義母よりも側にいる時間が長かったエレナは、第三の母とも言える大切な人だ。
つられるように滲んできた寂しさを紛らわせるように、私は笑みをこぼす。
「ふふ、エレナったら」
「それにしても本当にお綺麗になられましたね。当日のエスコートで、ご主人様が泣かないと良いのですけれど」
「お義父様、涙脆いものね……」
私たちが苦笑いしていると、パタバタと賑やかな足音が聞こえてくる。
「この足音は……」
「噂をすれば」
「ハニー!!」
ノックもなく淑女の部屋に突撃してくる、予想通りの人物の声を聞いて、私とエレナは顔を見合わせて笑った。
「なんだいハニー、エレナ、楽しそうにして……ってそれより大変だよ、さっきの手紙っ」
「お義父様、落ち着いて。よく読んだの?」
「ああ、読んださ! ヒューゴ殿下と、こここ婚約って」
義父は額をばちんと叩く。
本当にきちんと読んだのだろうか。
「それでハニー、セオドア殿下はどうするんだい!? ハニーは王太子妃になるのかい、それとも王子妃に……ってあれ、これどう収拾をつければいいんだい!?」
「落ち着いて、お義父様。本当にお手紙よく読んだの? ヒューゴ殿下との婚約は、何の問題もなく白紙に戻せるはずよ?」
「えっ」
義父は再び紙面に視線を落とし、手紙を読み込み始めた。
「失礼します、お嬢様。入ってもよろしいでしょうか」
音もなくスッと部屋の入り口に現れたのは、家令のトマスである。
若い頃、ロイド領で医薬品の原料となる薬草や動物素材を採集する狩人として活躍していた彼は、常に冷静沈着だ。
どうぞ、と許可すると丁寧に一礼してから義父の側まで行き、義父の手元から手紙を取り上げる。
「ご当主様。先程も申しましたように、こちらのお手紙によると、ヒューゴ王太子殿下とお嬢様の婚約は成立していません。王太子殿下とお嬢様、両人が了承した場合のみ、この婚約は成立すると書かれています」
「そうなのかい?」
「左様でございます。ですから、この婚約はお断りすると――そういうことでよろしいのですね、お嬢様」
「ええ」
「下手に断ったりして、かど、たたない?」
「大丈夫ですよ。むしろ早めにお断りしないと、王太子殿下の方もご準備が大変かと思いますが」
「そ、そうか。じゃあ、ハニー、お断りの手紙を書くけど、それでいいね?」
「ええ。お願いします」
「トマスう、手伝ってくれえ」
「承知しておりますよ。さあ、参りましょうか。――失礼致しました」
トマスは再び丁寧に一礼して背筋を伸ばし、義父は頭を抱えて項垂れながら、私の部屋から出て行った。
「相変わらずご主人様は、ご家族のこととなると落ち着きがなくなりますねえ。デイビッド様もぼんやりなさっているところがありましたが、もう少し落ち着いておいででした……あらやだ、悪口じゃありませんよ。可愛らしいところがあるっていう意味ですからね」
エレナはそう言うと、口に手を当てて笑った。
「でも、ご存じだったなら事前に教えて差し上げれば良かったですのに」
「そうね、うーん、そうなんだけどね……」
私は曖昧に笑って、お茶を濁した。
記憶が曖昧だったこともあるし、話すタイミングがなかったということもあって、話せなかったのだ。
そもそも、この婚約に関する記憶だって、戻ったのはつい最近のことだった――。
***
私の目に光が戻り始めてからは、あっという間に日々が過ぎ去っていった。
落ちてしまった体力を取り戻すために邸内や庭の散歩は欠かせなかったし、食事の量も少しずつ元通りに戻していった。
ある程度体力が戻ってきたら、デビュタント・ボールに向けてマナーのおさらいやダンスの練習も始まった。
考え事をしている暇も、精霊の樹に向かわなくてはと焦る暇もない。
記憶が曖昧なんて言い訳をしている場合でもない。
そもそも社交の場に出るのをサボっていた私は、覚え直しなのか元から知らなかったことなのかもわからないが、とにかく驚くほどやることが多かった。
ぼやけたままの記憶の方も、視力と体力が戻るにつれ、劇的に回復していった。
この子爵家の関係者については、もう全てのピースがはまったようだ。
一方、旅に出てから出会った人たちは、名前や人となりは思い出せるものの、やはり顔や声、話した内容など、人それぞれではあるが一部ぼやけている。
ただ、子爵家の記憶が完全に戻ったことからも、きっとこの『魂の傷』は徐々に癒えていくもので、そのうち全て思い出せるのだと信じたい。
セオはあれから時折、手紙を送ってくれた。
聖王国の情勢についても、話せる範囲で教えてくれる。
文面を見る限りとても忙しいはずなのに、セオは弱音を一切吐かず、私への気遣いまで見せてくれる。
セオが私のために時間を割き、心を砕いてくれるのは、嬉しくもあり心配でもあった。
本当は側にいて手伝ってあげられたらいいのだが、私の『色』が回復しないことには、彼の側に立つことは出来ない――記憶が戻ってきたことで、私の思考はそんな事実に行き着いた。
けれど、いくら焦っても、魔力の回復速度はそうそう上がるものではない。
巫女の力が回復するには、どれほどの時間が必要なのだろうか。
視界が完全にクリアになっても、失われた『色』が戻ってくる気配は、一向になかった。
一方、世界情勢は、目まぐるしく変化していた。
情報のソースはセオの手紙と、王都から届く新聞の記事だ。
まず、ファブロ王国の王太子ヒューゴの働きにより、ファブロ王国がずっと断絶していた両国との国交を、復活させるということが決まった。
精霊や妖精、魔法の力を恐怖し、その力を棄てて国交を絶ったファブロ王国。
だが、戦争から数百年――その恐怖を覚えている人間は、もう一人もいなかったのである。
さらに、人々が魔法の力に興味を持つのに一役買ったのが、ティエラの存在である。
おおよそ二ヶ月の間、人々の話題にのぼり続け、ある日忽然と姿を消した魔女の噂。
彼女が傷付いた人を癒し、壊れたものを直し、神子の『因果』の力を良いことにだけ使ったのが、功を奏した。
魔女の噂がきっかけとなって魔法に興味を持ち、その怖さだけではない、優しい側面に触れた人々が、精霊や妖精たちを受け入れる気持ちを強く持ったこと。
そのことが、開国に賛成する声をより大きくしたのである。
ファブロ王国の国王は、王妃ヴァイオレットと共に、いまだ眠り続けている。
次の社交シーズンが始まるまでに国王が目覚めなければ、今後はヒューゴが一人で表舞台に立つことになるだろう。
国王の状態については「病気療養中」とだけ報じられている。
そんな中、密かに注目が集まっているニュースがあった。
王太子ヒューゴの、婚約発表だ。
国王の状態によっては、すぐにとはいかないが、ヒューゴが早めに即位することも考えられる。
ヒューゴは社交シーズンが始まる時点で十七歳。早ければ一年後には、即位可能な年齢となるのだ。
その際、隣に立つ女性が誰なのか、王都では様々な憶測が飛び交っている。
――かくいう私も、その噂が届いた時にようやく、王城でヒューゴと交わした会話を思い出した。
婚約の件を思い出してからは、余計に聖王国のことや精霊の樹のことが気になってしまう。
しかし、この頃から聖王国の情勢が大きく変わってきて、セオも手紙を書く時間が充分に取れなくなってきたようだった。
もう、季節は盛夏に差し掛かっていた。
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「さて、デビュタント用のお召し物は、これで完璧ですね。本番まであと二ヶ月――早いものですねえ。この間まであんなにお小さくていらっしゃったのに」
デビュタント用の衣装を丁寧にしまいながら、エレナは感慨深そうにそんなことを言う。
私にとって、実母や義母よりも側にいる時間が長かったエレナは、第三の母とも言える大切な人だ。
つられるように滲んできた寂しさを紛らわせるように、私は笑みをこぼす。
「ふふ、エレナったら」
「それにしても本当にお綺麗になられましたね。当日のエスコートで、ご主人様が泣かないと良いのですけれど」
「お義父様、涙脆いものね……」
私たちが苦笑いしていると、パタバタと賑やかな足音が聞こえてくる。
「この足音は……」
「噂をすれば」
「ハニー!!」
ノックもなく淑女の部屋に突撃してくる、予想通りの人物の声を聞いて、私とエレナは顔を見合わせて笑った。
「なんだいハニー、エレナ、楽しそうにして……ってそれより大変だよ、さっきの手紙っ」
「お義父様、落ち着いて。よく読んだの?」
「ああ、読んださ! ヒューゴ殿下と、こここ婚約って」
義父は額をばちんと叩く。
本当にきちんと読んだのだろうか。
「それでハニー、セオドア殿下はどうするんだい!? ハニーは王太子妃になるのかい、それとも王子妃に……ってあれ、これどう収拾をつければいいんだい!?」
「落ち着いて、お義父様。本当にお手紙よく読んだの? ヒューゴ殿下との婚約は、何の問題もなく白紙に戻せるはずよ?」
「えっ」
義父は再び紙面に視線を落とし、手紙を読み込み始めた。
「失礼します、お嬢様。入ってもよろしいでしょうか」
音もなくスッと部屋の入り口に現れたのは、家令のトマスである。
若い頃、ロイド領で医薬品の原料となる薬草や動物素材を採集する狩人として活躍していた彼は、常に冷静沈着だ。
どうぞ、と許可すると丁寧に一礼してから義父の側まで行き、義父の手元から手紙を取り上げる。
「ご当主様。先程も申しましたように、こちらのお手紙によると、ヒューゴ王太子殿下とお嬢様の婚約は成立していません。王太子殿下とお嬢様、両人が了承した場合のみ、この婚約は成立すると書かれています」
「そうなのかい?」
「左様でございます。ですから、この婚約はお断りすると――そういうことでよろしいのですね、お嬢様」
「ええ」
「下手に断ったりして、かど、たたない?」
「大丈夫ですよ。むしろ早めにお断りしないと、王太子殿下の方もご準備が大変かと思いますが」
「そ、そうか。じゃあ、ハニー、お断りの手紙を書くけど、それでいいね?」
「ええ。お願いします」
「トマスう、手伝ってくれえ」
「承知しておりますよ。さあ、参りましょうか。――失礼致しました」
トマスは再び丁寧に一礼して背筋を伸ばし、義父は頭を抱えて項垂れながら、私の部屋から出て行った。
「相変わらずご主人様は、ご家族のこととなると落ち着きがなくなりますねえ。デイビッド様もぼんやりなさっているところがありましたが、もう少し落ち着いておいででした……あらやだ、悪口じゃありませんよ。可愛らしいところがあるっていう意味ですからね」
エレナはそう言うと、口に手を当てて笑った。
「でも、ご存じだったなら事前に教えて差し上げれば良かったですのに」
「そうね、うーん、そうなんだけどね……」
私は曖昧に笑って、お茶を濁した。
記憶が曖昧だったこともあるし、話すタイミングがなかったということもあって、話せなかったのだ。
そもそも、この婚約に関する記憶だって、戻ったのはつい最近のことだった――。
***
私の目に光が戻り始めてからは、あっという間に日々が過ぎ去っていった。
落ちてしまった体力を取り戻すために邸内や庭の散歩は欠かせなかったし、食事の量も少しずつ元通りに戻していった。
ある程度体力が戻ってきたら、デビュタント・ボールに向けてマナーのおさらいやダンスの練習も始まった。
考え事をしている暇も、精霊の樹に向かわなくてはと焦る暇もない。
記憶が曖昧なんて言い訳をしている場合でもない。
そもそも社交の場に出るのをサボっていた私は、覚え直しなのか元から知らなかったことなのかもわからないが、とにかく驚くほどやることが多かった。
ぼやけたままの記憶の方も、視力と体力が戻るにつれ、劇的に回復していった。
この子爵家の関係者については、もう全てのピースがはまったようだ。
一方、旅に出てから出会った人たちは、名前や人となりは思い出せるものの、やはり顔や声、話した内容など、人それぞれではあるが一部ぼやけている。
ただ、子爵家の記憶が完全に戻ったことからも、きっとこの『魂の傷』は徐々に癒えていくもので、そのうち全て思い出せるのだと信じたい。
セオはあれから時折、手紙を送ってくれた。
聖王国の情勢についても、話せる範囲で教えてくれる。
文面を見る限りとても忙しいはずなのに、セオは弱音を一切吐かず、私への気遣いまで見せてくれる。
セオが私のために時間を割き、心を砕いてくれるのは、嬉しくもあり心配でもあった。
本当は側にいて手伝ってあげられたらいいのだが、私の『色』が回復しないことには、彼の側に立つことは出来ない――記憶が戻ってきたことで、私の思考はそんな事実に行き着いた。
けれど、いくら焦っても、魔力の回復速度はそうそう上がるものではない。
巫女の力が回復するには、どれほどの時間が必要なのだろうか。
視界が完全にクリアになっても、失われた『色』が戻ってくる気配は、一向になかった。
一方、世界情勢は、目まぐるしく変化していた。
情報のソースはセオの手紙と、王都から届く新聞の記事だ。
まず、ファブロ王国の王太子ヒューゴの働きにより、ファブロ王国がずっと断絶していた両国との国交を、復活させるということが決まった。
精霊や妖精、魔法の力を恐怖し、その力を棄てて国交を絶ったファブロ王国。
だが、戦争から数百年――その恐怖を覚えている人間は、もう一人もいなかったのである。
さらに、人々が魔法の力に興味を持つのに一役買ったのが、ティエラの存在である。
おおよそ二ヶ月の間、人々の話題にのぼり続け、ある日忽然と姿を消した魔女の噂。
彼女が傷付いた人を癒し、壊れたものを直し、神子の『因果』の力を良いことにだけ使ったのが、功を奏した。
魔女の噂がきっかけとなって魔法に興味を持ち、その怖さだけではない、優しい側面に触れた人々が、精霊や妖精たちを受け入れる気持ちを強く持ったこと。
そのことが、開国に賛成する声をより大きくしたのである。
ファブロ王国の国王は、王妃ヴァイオレットと共に、いまだ眠り続けている。
次の社交シーズンが始まるまでに国王が目覚めなければ、今後はヒューゴが一人で表舞台に立つことになるだろう。
国王の状態については「病気療養中」とだけ報じられている。
そんな中、密かに注目が集まっているニュースがあった。
王太子ヒューゴの、婚約発表だ。
国王の状態によっては、すぐにとはいかないが、ヒューゴが早めに即位することも考えられる。
ヒューゴは社交シーズンが始まる時点で十七歳。早ければ一年後には、即位可能な年齢となるのだ。
その際、隣に立つ女性が誰なのか、王都では様々な憶測が飛び交っている。
――かくいう私も、その噂が届いた時にようやく、王城でヒューゴと交わした会話を思い出した。
婚約の件を思い出してからは、余計に聖王国のことや精霊の樹のことが気になってしまう。
しかし、この頃から聖王国の情勢が大きく変わってきて、セオも手紙を書く時間が充分に取れなくなってきたようだった。
もう、季節は盛夏に差し掛かっていた。
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