色のない虹は透明な空を彩る〜空から降ってきた少年は、まだ『好き』を知らない〜

矢口愛留

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終章 虹

第140話  霧虹

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 モック渓谷にいわおのごとくそびえる、『天空樹』。
 打ち捨てられた天空の樹は、すっかり濁り切った茶色に染まっていた。
 隣にいるセオとティエラも、不安そうに樹を見つめている。

「おう、お前たちも着いたか」

 数週間ぶりに聞こえたその声に振り返ると、滔々とうとうと流れゆく水辺に、先客がいた。

「――フェンに、ハルモニア様? 来てくれたの?」

「おう。セオに先に運んでもらったんだ。俺、こう見えて結構重いからよ」

「パステルさん」

 その時、りん、と鈴を鳴らしたような可愛らしい声がフェンの隣から聞こえてきて、私は驚愕する。
 ハルモニアはゆるやかに微笑みながら、私たちの近くに歩を進めた。

「――え、あの? ハルモニア様、お声が……」

「うふふ、『大海樹』に三人で力を注いだおかげで、すぐに樹の状態が安定したの。だから、魔力を温存出来たのよ」

 やはりハルモニアが言葉を発したのは、気のせいではなかったようだ。
 巫女の魔力が回復しきったことで、人と言葉を交わせるようになったのだろう。

「旋律のねえね、話せるのか? そしたら、フェン、来た意味、あるのか?」

「ひでえな、ティエラ。俺はよ、ハルの相棒だからな。しっかり見届けなきゃ気が済まねえんだよ」

「ふーん」

 フェンは鼻をふん、と鳴らして不機嫌そうに返答する。当のティエラは、そんなに興味もなさそうだ。

「うふふ。あのね、ここだけのお話、してもいい?」

 ハルモニアが楽しそうに言う。
 私もセオも頷いたのを見て、彼女は少しだけ笑みを深めて、話し出したのだった。

「あのね、実はわたし、フレッドさんが聖王様だった頃はね、お話ししようと思えば、出来る時もあったんだ。でも、いつもお話し出来ないふり、してたの」

「――え? そうなのですか?」

 セオはかなり驚いたようで、目を丸くして聞き返す。

「うん、そうよ。だって、よく考えてみて?
 フレッドさんとジェイコブさんの強い魔力があったから、世界樹に負担はかかってなかったし、フレッドさんのお母様から、ソフィアさんに『虹』は滞りなく引き継がれたのよ。
 あの頃は、わたし一人に負担がいくようなこと、なかったの。ソフィアさんも、色が見えなくなるのは神事のあと一日ぐらいで済んでたはずだわ」

「じゃあ、どうして……」

「うふふ、それはね、あの人たち――ジェイコブさんとマクシミリアンがね、勘違いしたのよ。初めて二人とお話しした時、わたしは魔法を使った後で、本当に聞こえなかったから。それでね、都合が良かったから、そのまんま聞こえないふりをしてたの」

「都合が良かった?」

「そうよ。その頃ね、マクシミリアン――マックスは、フローラさんとお付き合いをしていたの。わたし、別にマックスのこと何とも思ってないのに、フローラさんにいじめられたら、イヤじゃない」

 ハルモニアは、そう言って舌をぺろっと出す。
 本当に妖精みたいで、可愛らしい人だ。

「フローラさんはいつの間にか『調香』を引き継いでいたし、わたしが喋れないふりをしてれば婚約から逃げられると思ったの。なのに、わたしのお父様がなんか変な約束してたみたいで、逃げられなくなっちゃったのよ。予想外だったなぁ」

「それで、そのまま婚約を……?」

「うん。妖精さんたちにお願いして逃げようかとも思ったんだけど、聖王都からはどう頑張っても出られなくってね。
 アルが生まれてから、子供たちが大きくなるまでは、逃げようって気持ちもあんまりなくなっちゃった。気付いたらこんなに時間が経ってたの」

 聖王都は、その全域を世界樹の枝葉が覆っている。
 セオのように風の魔法を使っても、空から脱出することは不可能だ。
 私たちは賓客来訪の混乱に乗じて抜け出すことが出来たが、監視のついているハルモニアにとっては、聖王城から抜け出すタイミングをはかることも難しかっただろう。

「お辛かったですね」

「まあね。でも、フェンがいてくれたから」

 そう言ってハルモニアは、フェンに微笑みかける。

「あのね、フレッドさんとソフィアさんがいなくなってからは、負担が増えたから本当にほとんど喋れなかったのよ。
 でも、エルフの特性で妖精さんたちとはお話し出来たの。だからね、フェンがいてくれたおかげで、全然寂しくなかったわ」

 フェンの背を優しく撫でるハルモニアの表情は慈愛に満ちていて、深い絆を感じさせる。

「それにね、ソフィアさんだけは、わたしの秘密に気付いてたの。でも、内緒にしてもらってたわ。
 ソフィアさんは時々お話ししに来てくれてね――西塔のお庭に遊具があったでしょ? 時々セオくんを連れてお茶しに来てくれるソフィアさんのために、カイくんと一緒に作ったのよ。
 わたしは子供たちと引き離されちゃって、子育て出来なかったから……日々成長していくセオくんを見ているの、楽しかったなあ」

 ハルモニアは、懐かしむように目を閉じ、天を仰ぐ。
 セオは申し訳なさそうに眉を下げ、口を開いた。

「ハルモニア様……ごめんなさい、僕、あまり覚えてなくて」

「そうよね、ちっちゃい頃のことだもんね」

 セオの方へと視線を戻したハルモニアは、ふふっと笑って、あたたかい笑顔で続ける。

「今はね、結局アルと一緒に森に帰れたし、すっごく幸せよ。
 アイリスの方は……残念だけど、仕方ないわね。あの子は人の血の方が濃いみたいだから、森での暮らしを望んでいないし。
 それにあの子は、わたしよりもフローラさんの方を母親として慕っているみたいだし、お外でも色々やらかしちゃったみたいだし……あとはマックスパパに任せましょ」

 ハルモニアは、想いを馳せるように、遠くの空を見上げる。

「まあ……」

 突如感嘆の声をあげたハルモニアの視線は、ある一点で固定した。

 私もつられるように空を見上げると、そこには――


 真っ白な虹が、澄んだ青空にかかっていたのだった。


「白い、虹……?」

「――霧虹だ」


 ――霧虹、または白虹。
 それは、非常に稀有けうな光学現象である。
 特別な条件を満たした時にだけ見ることが出来る、特別な虹。


「自然の虹、初めて見たなあ」

「僕も、霧虹は初めて見た」

「けど……初めて見る虹は、普通の虹が良かったな」

 色を失ってから、灰色の虹は何度も見てきた。
 『虹』の力を使った時に、一色だけの虹も、何度か見た。
 けれど、七色全ての色が戻ってから、私はまだ虹を見ていなかったのだ。

「さあ……名残惜しいけれど、そろそろ時間ね」

 ハルモニアが、告げる。
 『天空樹』が、もやもやと淡い輝きを放ち始めた――下界の『魔力』の準備が整ったようだ。

「パステル……」

「……セオ……」


 ――もう随分昔のことに思える。
 感情を持たない少年が、空から突然降ってきたのは。

 彼が何処から、何のためにやって来たのか、その時の私には分からなかった。
 だが、私に生きる意味を見出してくれたのは、確かにその少年だったのだ。


 目の前で切なげに揺れる、金色の瞳。
 風にそよぐ、柔らかな水色の髪。
 天使のように整った、美しいかんばせ
 出会った頃よりも伸びた背丈、優しく涼やかに澄んだ声。

 私を抱きしめる腕の暖かさ。
 頬をなぞる、繊細な指先。
 そっと触れる、唇の熱。

 私に心を教えてくれたのは、感情を失ったあなただった。
 私に色付いた世界を見せてくれたのは、真っ直ぐで透明なあなただった。

 ほんの少し触れただけなのに、溶けてしまうような、錯覚。
 このまま溶けて混ざり合ってしまえたら、どんなに幸せだろう。


 しかし無情にも、その熱はゆっくりと離れていく。
 甘く打つ鼓動と、たっぷりした余韻をこの身に残して。

「――忘れないで」

「――うん。忘れないよ」

 私は視線を無理矢理セオから引き剥がし、後ろを向く。
 魔力を求めてうごめく、最後の樹に。

「お待たせしました。さあ、行きましょう」

 ハルモニアも、ティエラも、しっかりと頷く。


「――世界に美しい調和を。素敵なハーモニーを、取り戻すわよ」

「ええ。綺麗なパステルカラーに、塗り替えましょう」

「それが、母なる星ティエラの意思」


 そして私たちは、同時に『天空樹』へと手をかざした――
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