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第七章 紫

第116話 「アイリスお姉様」

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 正午の鐘が鳴った後。
 私はさりげなく周囲を警戒しながら、中庭を歩く。
 近くの空は澄み渡っているが、遠くの空には分厚い雲が見え隠れしている。

 ――今夜は、真っ暗な夜になる。

 あの雲が、夜になると星も月も隠してしまうのだ。

 ふと、視線を感じた私は歩みを止めた。
 視界の端でちらちらと何かが動いている。
 カツ、カツ、と足音が近づいてくる。

「――虹の巫女」

 振り返った私が目にしたのは、キャラメル色の髪、くりくりとした瞳。
 使用人のエプロンを身につけた、年齢不詳の可愛らしい女性。
 一度だけ顔を合わせたことのある情報屋――『調香の巫女』フローラだった。


 ――私は、口元に布を当てられ、意識を失った。



 私はふと、目を覚ます。
 案の定、私は手足に枷を嵌められ、石の牢に繋がれていた。

「……うーん、まずいわよね……」

 連れ去られて牢に繋がれることは想定通りだったのだが、予想外だったのは私に薬を嗅がせた人物だ。

「調香の巫女……精神に作用する香りを操る、のよね」

 予想外の手強い人物の登場に、不安が募る。
 いくら毒のことを知っていても、警戒心を失わされたりしたら、みんなが毒入りのお茶を口にしてしまうかもしれない。
 解毒薬があるから大丈夫だと信じたいが……。

 何にせよ、既に風の力を使ってしまった私には、どうすることも出来ない。
 メーアたちが上手くやってくれることを祈るしかないのだ。
 私は、焦る気持ちを必死に抑え、これから来るであろうアイリスにかける言葉を考えるのだった。



 程なくして、その時はやってきた。
 コツコツと石の上を歩く足音が響く。
 木戸をあけて部屋に入ってきたのは、予想通りの人物。
 ランタンを手に冷たい微笑みを浮かべているアイリスだった。

「虹の巫女。起きたのね」

 私は笑顔を浮かべ、繋がれた両手両足で可能な限り首を垂らして、アイリスに一礼した。

「アイリスお姉様・・・、ご機嫌麗しゅう」

 アイリスは、私の反応が予想外だったようで、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。

「……何のつもり?」

「私はセオドア殿下の婚約者・・・、パステル・ロイドと申します。ずっと、愛する・・・婚約者の再従姉妹はとこであらせられるアイリスお姉様に、ご挨拶しようと思っていたのです。ご挨拶が遅れて、申し訳ありません」

「疫病神の、婚約者ですって? 嘘おっしゃい。あなたはあの疫病神に雇われているのではなくて?」

 案の定、アイリスは食いついた。
 正確には婚約者ではないし、今は何故かセオに避けられている身だが――そんなことは言う必要がない。

「疫病神……それはセオのことですか? セオが、私を雇った? 何の話でしょう……私たちは、ただ一緒にいたいからそばにいるんです」

「だって、あの疫病神はね――」

「セオが、お姉様にご迷惑をおかけしたみたいで、申し訳ありません」

 私はアイリスの言葉を遮って、再び頭を下げる。
 アイリスは呆気に取られている。
 今のところ、こちらのペースだ。

「私たちが結婚したら、アイリスお姉様も私の家族です。どうか私に免じて、許してあげてもらえませんか? お姉様の気が晴れるのなら、痛いことでも、苦しいことでも、何でも受け入れます。だから、セオを許してあげてほしいのです」

 私は頭を下げたまま、真摯にお願いをする。
 このままアイリスの敵愾心てきがいしんをなくすことが目的だ。
 情報を得るのは、それからである。

「パステルと言ったわね。顔を上げなさい」

 その言葉に、私は顔を上げる。

「パステル、あなたは、あの疫病神がそんなに好きなの? あいつはどう思っているの? 本当に、あなたたちは結婚するの?」

「私はセオが好きです。誰よりも大切に想っています。それから……セオは私にプロポーズしてくれました。私も、一生セオと共にありたいと願いました」

 私がはっきりと答えると、アイリスは何故か顔を赤くして、もじもじし始めた。
 ヒューゴに対してかなり積極的なようだったが、実は初心うぶなのかもしれない。

「そ、その……どんなプロポーズだったの? あいつのどこが好きなの? デートの時はどうしてるの? どうやって想いが通じ合ったの? それからそれから――」

「へっ!? あ、あの、そんないっぺんに聞かれましても……」

「あっ! そ、そうよね。わたくしったら、つい……」

 アイリスは、ランタンの薄暗い明かりでも分かるくらい真っ赤になっている。

 時間遡行する前に話をした時、アイリスは人との関わり方が致命的に下手なのだろうと私は感じた。
 思い込みも激しく、強引で、第一印象は最悪。関わり合いになりたくないタイプだ。

 だが同時に、一度懐に潜り込んでしまえば、容易く心を開くタイプだろうとも感じられた。
 正義をこんこんと説くのではなく、敵意がないことを示して仲良くなってしまえば良かったのである。
 城で私を捕まえたフローラのように、人の心理を扱うのに長けた人間にとっては、アイリスは操りやすい性格だろう――まあ、私が扱うには、彼女は考えが突飛すぎるし、ちょっと引くほど積極的だが。

 とにかく、私はそのまま、アイリスが興味を持ちそうな話題に持っていくことにした。
 風の力を失った私が少しでも早く王都に戻るには、アイリスの協力を得ることが一番の近道なのだ。

「ふふ、お姉様、もしかして好きな方でもいらっしゃるんですか? 私で良かったら、聞きますよ。恋バナ」

「まぁ! ほ、ほんとうに!? どうしましょう、わたくし、お友達が出来たわ! 憧れの恋バナ……っ」

 アイリスの、警戒するような冷たい雰囲気はすっかり消え去り、ぱあっと顔を綻ばせる。

「ねえ、本当にわたくしのお話を聞いてくれるの? お友達になって下さる?」

「はい、もちろんですよ。お姉様のお話、たくさん聞かせて下さい」

「まぁ……! 嬉しいわ! 無理言って来てもらって良かったわ……ねえ、それならこんな場所じゃなくて、わたくしの部屋に来て下さらない? 美味しいクッキーがあるの!」

 そう言ってアイリスは鍵を取り出し、私の手足の枷を外していく。
 ……攫われたはずだったのだが、いつの間にか「無理言って来てもらった」ということに置き換わっている。

「ああ、パステル、手荒な真似をしてしまったわね。てっきり、あなたは疫病神がわたくしを手元に置くために連れて来られた人なんだと思ってたの。
 あの疫病神も、ついに好きな人を見つけたのね! 弟が旅立って行くみたいで少し寂しい気もするけど、ホッとしたわ」

「いいえ、勘違いが解けて良かったです」

 予想以上に懐かれてしまって若干困惑しているが、この調子で喋っていれば、重要な情報も出てくるかもしれない。

「ところでお姉様、ここはどこなのですか? 王都にいるセオたちは――」

「あっ、そうだわ! まあ、どうしましょう……わたくし、大変なことをしてしまったのよ!」

 アイリスは、毒のことを思い出したのだろうか。
 口に手を当てて、あわあわし始めた。

「あの、お姉様?」

「わたくし、忘れていたわ! わたくしとしたことが、あなたをここに招待したことを誰にも伝えていなかったのよ! ああ、でもフローラおば様が話しているかしら?」

 毒のことではなかった。
 ……そして今度はいつの間にか、ここに招待されたことになってしまった。
 だが、フローラの名前が出たのはチャンスだ。

「あの、フローラさんって?」

「フローラおば様はねえ、お父様がかつて、心から愛した人なのよ。お父様はお母様と望まない結婚をさせられたの。
 フローラおば様はね、努力家なのよ? なんたって、お父様と結ばれるために、『調香の巫女』に頼み込んで力を引き継がせてもらったんだから」

「そんなことが……」

「けれどね、お父様はお母様との婚約を解消出来なかったの。フローラおば様はお父様との間に子供を授かっていたのだけど――ああ、可哀想なおば様。その子は流れてしまった上に、二度と子を産めない身体になってしまったの」

 もしかして、それでフローラは『傷を癒す魔女』を探していたのだろうか?
 ノエルタウンの領主――氷の魔法を必要としているのは、また別の話だろうか。

「それで……フローラさんはお城で、何を?」

「それがね、フローラおば様は魔女に会いたいらしくて、情報を集めるためにお城に潜入――あ」

 今度こそアイリスは、ばたばたと落ち着かない様子で、慌て始めた。

「たたた、大変よ! 毒薬、もう使っちゃったかしら!」

「――毒薬?」

 欲しかった情報のひとつが得られそうな気配に、私は身を乗り出したのだった。
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