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1 公爵令嬢エミリア・ブラウン
しおりを挟む私は、泣き虫である。
怖いことはおろか驚いただけでも泣き、怒られそうな気配がすれば怒られる前に泣き、悲しい事が起きるのを想像しただけで泣く。
映画を見れば序盤で泣き、綺麗な曲を耳にすれば泣き、幸せそうな家族や恋人を目にすれば泣き、友人に良い事があれば本人よりも泣く。
勿論、わざと泣いているのではない。
泣きたくないと思えば思うほど、自然と涙が溢れてくるのだ。
かと言って、当然だが泣きたいと思った時に自由に泣ける訳でもない。
この物語は、そんな私がよりによってヒロインを苛めて悪虐の限りを尽くし、婚約破棄の上追放される運命の悪役令嬢に転生してしまった所から始まる――。
********
私の名はエミリア・ブラウン。
父は王国の宰相をしており、公爵位を賜っている。
母はかつて王国の至宝と呼ばれた美貌の持ち主である。
また、私には兄が一人、妹が一人おり、自分で言うのも何だが、家族全員が金髪碧眼のかなりの美形である。
そして、私が王国の王太子、ラインハルト・ヴァン・レインフォード殿下と婚約したのは、今から10年前――殿下と私が7歳の時だった。
私が殿下に一目惚れしたのだ。
殿下は、銀色の髪と瞳を持つ、美丈夫である。
容姿端麗なだけではなく、頭脳明晰、剣術や馬術の心得もあり、カリスマ性を持ち合わせる、まさに完璧で理想の王子様なのだ。
殿下は幼い頃からそれはそれは美しく聡明な少年であり、私はさして苦労もせずに、王国宰相である父の力で殿下との婚約を取り付けて貰ったのだった。
逆に苦労したのは王太子妃としての教育だった。
婚約が決まってから、私は王城に毎日通い詰め、マナーや語学、ダンスや芸術……朝から夕方までみっちりと、様々なことを叩き込まれたのである。
だが、大好きなラインハルト殿下の妃になる為なら、と、辛い妃教育も乗り越えてきた。
そうして花も恥じらう17歳、私は立派な淑女に成長したのである。
********
私が前世の記憶を思い出したのは、突然のことだった。
私と殿下が王立貴族学園の最終学年となり、新入生を迎える入学式に出席した時である。
初めて会う筈の新入生の一人に、違和感を覚えたのだ。
王国の貴族は大体把握しているが、その新入生とは会った事がない。
私は違和感の正体を掴もうとその新入生の女子を観察していると、ふいに彼女と目が合った。
その瞬間――私は、突然思い出したのだ。
私は日本人だった。
この世界は、私が以前読んだことがある小説の世界だ。
主人公は、プリシラ・スワロー男爵令嬢。
新入生として貴族学園に入学した主人公は、二つ上の学年の王子様に恋をする。
王子も主人公に惹かれていくが、彼には既に決められた婚約者がおり、主人公はその婚約者の嫉妬を買って、激しい嫌がらせを受けることになる。
そして卒業式の日、王子は公衆の面前で婚約者が主人公に行った数々の悪行を並べ立て、婚約破棄を突き付けるのだ。
王子の元婚約者は、地位も名誉も家族も友人も失って修道院に送られ、邪魔者を追い出した王子と主人公はめでたく結ばれる、というストーリーだ。
ちなみに、乙女ゲームではなく小説の世界なので、イケメンはたくさん出てくるものの攻略対象は王子で確定である。
つまり、ラインハルト殿下は確実にプリシラに攻略され、私エミリアは確実に悪役令嬢として追放されるのだ。
そしてその記憶を思い出した瞬間、今までは王国の花・エミリアとして愛でられていた私は、泣き虫で弱気な元日本人の、ただのエミリアに変わってしまったのだった――。
********
「……エミリア? 大丈夫かい?」
「……っ」
「エミリア? 何故泣いているんだい? どこか具合が悪いのか?」
「……で、殿下……ごめんなさい。少し、休ませていただきます。失礼しますわ」
「エミリア……?」
記憶が戻った瞬間に涙が溢れてきてしまった私は、入学式を抜け出し、校舎の裏にあるベンチで休む事にしたのだった。
声は何とか抑えたものの、隣にいたラインハルト殿下だけは私の異常にいち早く気が付いたようだった。
心配をかけてしまっただろうが、殿下はこれから生徒代表としてスピーチをしなければならないため、追ってくることはなかった。
「はぁ、どうして……。どうして私はエミリアなのかしら……」
考えれば考えるほど泣けてくる。
私は、殿下が大好きなのである。
幼いころに一目惚れして、その人柄を知り、心に触れ、思い出を積み重ねて……今は、出会った頃よりもっともっと好きになっていた。
殿下が大好きだから辛い妃教育も頑張れた。
太るからといって甘いものだって我慢してきたし、嫌いな運動も毎日続けてきた。
誰よりも気高く美しくあろうと、いつ何時も努力を惜しまなかったのだ。
それなのに、私は、あと一年で殿下に捨てられてしまう。
それだけじゃなく、家族も、友達も、何もかも失って一人寂しく修道院に行く事になるのだ。
今までの努力に対して、こんな仕打ちがあるだろうか。
幸いここには人がいないから、思いっきり泣ける。
「う……うぅ……。頑張ってきたのに。いっぱい我慢したのに……。うぅぅ……ひっく」
そうして私は、気の済むまで泣いた。
入学式が終わるまでには、泣き止んで化粧直しをしなければならない。
何故なら、私は王国の花、エミリア・ブラウンだからである――。
結局、いくら考えても、いくら泣いても、私は殿下を諦める事は出来そうになかった。
恐ろしい記憶が戻ったとはいえ、エミリアとして生きてきた17年間の記憶が消えた訳ではない。
10年間も好きでい続けた相手を、そう簡単に諦めることなど出来るはずがないのだ。
だが、殿下の気持ちがプリシラに移ってしまうのを止める事は、私には出来ないだろう。
そもそも今現在、殿下は婚約者として私と親しくしてくれてはいるが、私に恋愛感情を持ってくれているのかどうかはさっぱり分からないのである。
しばらく泣いて少しすっきりした私は、冷静な頭で考える。
小説のエミリアは、プリシラに対して酷い仕打ちをしていた。
そして、それを理由に断罪されるのである。
という事は……プリシラがどれだけ非常識な事をしても、殿下を奪われそうになっても、私がプリシラに対して何も行動を起こさなければ、地位剥奪や修道院送りまではされないのではないか?
それに、自分が悪い事をしていないという自信と、家族や友人の支えがあれば……そうすれば、たとえ殿下の気持ちがプリシラに向いたとしても、それによって婚約破棄されたとしても、なんとか立ち直れるかもしれない。
仮にも10年もの間、妃教育を受けてきたのだから、就職先にも嫁ぎ先にも困らないだろう――まあ、殿下以外の誰かを愛せるようになるかどうかはわからないが。
********
「しまった……目が腫れてる。泣いたのが久しぶりで忘れてた……」
どうにか泣き止んだ私は、化粧直しをしようと手鏡を取り出し、目元が腫れている事に気がついた。
これでは、化粧を直したとしても泣いていたことは明らかである。
「……これじゃあ教室に戻れないわ」
先生達にも、殿下にも何も言わずに出てきてしまった。
私は途方に暮れてしまう。
ぼんやりしていると、また涙が出そうになってしまうが、これ以上泣くと家にも帰れなくなってしまうので、私はぐっと堪えた。
「はぁ……」
日本みたいにスマホがあれば、しばらく風に当たって休んでいるから心配しないようにとか何とか、誰かに伝えられたのに。
そんな便利なものはこの王国にはないから、仕方ない。
気は重いが、もう少し休んだら戻ろう……そう思っていた時だった。
「エミリア・ブラウン様ですか?」
後ろから、鈴を転がすような可憐な声が聞こえ、私はびくりと肩を揺らす。
私が恐る恐る振り返ると、そこには、ピンク色の髪と瞳が特徴的な、愛らしい少女――プリシラ・スワローがいた。
「……ええ、そうです。私に何か御用でしょうか?」
私は警戒しながらも背筋を伸ばして、プリシラに返事をした。
プリシラは私の正面に立つと、大きな愛らしい目を真っ直ぐにこちらに向け、わざとらしく首を傾げる。
「あれぇ、泣いてらしたんですかぁ? 目が腫れてますよぉ」
「……少々、体調が悪かったものですから。御用がないのでしたら、お引き取り下さい。私はもう少しこちらで休んでから戻りますので」
「あ、そうだったんですかぁ。ごめんなさい。ところで、エミリア様、私のことご存知ですよね?」
「……いえ、初対面だと思いますが。何故そう思われたのですか?」
プリシラには、私の記憶のことを気取られたくなかった。
しかし彼女は何故私の名前を知っているのだろうか。
「エミリア様、入学式で私をじっと見てましたよね? それに私と目が合ったら急に涙を流されたので、びっくりしちゃいましたぁ」
……そうだ。彼女と目が合った瞬間に、記憶が蘇ってきたのだった。
だが、彼女は小説に出てきたプリシラとは、何となく印象が違う。
小説のプリシラは、天然で甘え上手な典型的なヒロインだったが、彼女は何か底知れない雰囲気がある……ここは何とか誤魔化すしかない。
「そうだったかしら? 確かに入学式の途中で目にゴミが入って涙が出てしまいましたけれど、その時に誰かと目が合った記憶はありませんわ」
「ふぅん、誤魔化すんだ。まぁいいけど。……エミリア様、ご存知だとは思いますが、私はプリシラ・スワローと申します。あなたの愛しの王子様は私がいただいちゃいますから、覚悟しておいて下さいねぇ」
「……!! どういう、事かしら?」
その言葉に、また涙が出そうになるが、眉に力を入れてぐっと堪える。
さっき思い切り泣いたから少しは我慢できる…プリシラの前では泣きたくないし。
「やあねぇ、言葉通りよぉ。私はヒロイン、あなたは悪役令嬢。あなたも転生者なら、わかってるでしょう? 諦めて大人しくしててくれたら、修道院は回避させてあげてもいいわよぉ」
「……意味が、わからないわ」
「ふふふん、どうあってもシラを切るつもりねぇ。なら、物語通りに退場してもらいますからぁ。では、ご機嫌よう、エミリア様」
そう言い残して、プリシラは颯爽と来た道を引き返していった。
プリシラも、転生者……。
私は、声を出さずに再び泣いたのだった。
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