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鬼
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『桃太郎は鬼を倒して幸せになりました』
『一寸法師も鬼を倒して幸せになりました』
おとぎ話には夢がある。どんな奴だって、鬼さえ倒せば英雄になれるのだ。
だけど、鬼は本当に悪人だったのだろうか?
他人より力が少し強いだけ、見た目が少し違うだけで、本当は良い奴だったのかもしれない。ところが誰かの出世のために利用され、悪者にされ、倒されたのだとしたら。
力で弱者を駆逐する残酷物語。
おとぎ話が見せる夢など、鬼にとっては悪夢でしかなかっただろう。
なんて、ありもしない作り話にムキになっても無駄なこと。
時代は二十一世紀。世界中に情報が溢れ、神秘の謎はモニター越しに丸裸にされる。
およそ分からないことはないこの世の中。どれだけ探しても、鬼や化け物の類が発見された例は一度もない。所詮あんなものは空想の産物だ。まともに考えるのも馬鹿らしい。
だから世間がそうであるように、僕もまた、鬼の存在など信じていなかった……そう、あんな事件に遭遇するまでは。
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【五月十日 午後四時 台東区 某総合病院】
鬼頭雅人。どこにでもいる、平凡な高校二年生。学校の成績は並程度。特に優れた才能があるわけでもなく、磨けば光りそうな容姿も、原石のままほったらかし。そんな、普通の物語で言えばその他大勢に位置する少年が、この物語の中心人物である。
ゴールデンウィークも明けた五月の夕方。雅人は学校帰りに、家から少し離れた総合病院に来ていた。目的は父親の見舞い。彼の父親は今年で八十歳を迎えるが、いままで風邪ひとつひいたことはなかった。それが昨日、旅先から帰った途端に倒れたため、大事をとって入院させることにしたのだ。
入院病棟の最上階。限られた富豪や権力者が利用する特別室。関係者以外は立ち入り禁止で、来訪の際には専用のエレベーターを利用することになっている。さらに専属の警備員と患者個人の護衛役が廊下を埋め尽くし、蟻の子一匹忍び込む隙を与えない。
婦長によってここへ案内された雅人だったが、特に驚く素振りもなく、平然と男たちの前を通り過ぎて行く。
対する男たちの方は、雅人の来訪に気付くと一斉に頭を下げ、異口同音に挨拶の言葉を発した。
「お待ちしておりました、若」
雅人は男たちから『若』と呼ばれている。彼の父親は、東日本全域に勢力を誇る反社会的勢力『鬼頭組』の組長なのだ。
「あぁうん、ごくろうさま。どうでも良いけどこの数、ちょっとやり過ぎじゃない?」
「隙を吐いて、どこぞの馬の骨が紛れ込むか分かりませんからね。用心に越したことはありませんよ」
「これだけいたら、余計に人の見分けがつかなくなる気がするけど……。それより親父は?」
「奥にいらっしゃいます。こちらへどうぞ」
案内されたのは、まるで高級ホテルのスイートルームのように豪華な部屋だった。足の甲まで埋まりそうな絨毯に、黒光りする革張りのソファー、磨き上げられた大理石のテーブルはまだ良いとして、小さいながらもバーカウンターまであるのは何の冗談か。ここが病室であると証明できるものはせいぜい、機能優先の介護ベッドぐらいだ。
そのベッドを背上げし、上半身だけ起こした格好でいるのが、雅人の父親にして鬼頭組組長の鬼頭源二である。また脇には、筋肉質で暑苦しい中年大男と、知的で均整の取れた身体つきの好青年が控えていた。大男の方が若頭の磐田で、好青年の方が若頭補佐の西原だ。
二人は雅人の姿を見ると一礼し、何も言わず病室から出て行った。気を遣い、親子水入らずで話せる時間を作ってくれたのだろう。
「おう、来たな雅人」
年齢を感じさせない張りのある声で、源二は息子に軽く声をかけた。
「意外と元気そうじゃん。その様子じゃ、検査の結果も大したことなかったの?」
父親の様子にホッと胸を撫で下ろした雅人だったが、肝心の父の返答は、その安堵を台無しにするほど強烈だった。
「聞いて驚け、癌だってよ。それも肺やら腸やら、大事な部分が根こそぎ末期なんだと」
「……え?」
「もってあと一カ月もないそうだ。ははは、これから忙しくなるぞ」
声色と話の中身にギャップがありすぎた。雅人は暫し呆然とし、それから感情の赴くままに怒鳴り散らした。
「な、なに他人事みたいに言ってんだよ! いきなりそんな……無茶苦茶だ」
「そうは言ってもなぁ。事実である以上、ウダウダ喚いても仕方ねぇだろう。こうなりゃ腹ぁ括って、この先どうするか決めねぇとな」
「……………」
「だから明日には帰るつもりなんだが……って、おいおい、そんな暗い顔すんじゃねぇよ」
既に覚悟を決めている源二とは違い、雅人は怒れば良いのか、それとも悲しむべきなのか、感情の矛先を決めかねていた。
「人の気も知らないで。親父は勝手過ぎるよ」
震える声でそう漏らし、雅人は俯いた。
源二は目を瞑り、深いため息をひとつ。それから再び雅人の方に顔を向け、申し訳なさそうに答えた。
「そうかもしれんな。ジジィになってからお前をこしらえて、男手ひとつでロクに面倒もみねぇで、挙句にゃ一人前にする前に逝っちまうんだ。ホント、お前にゃあ苦労のかけまくりだよ」
ちなみに雅人は源二の還暦後に生まれた子供である。母親は当時二十代だったが、雅人が物心つく前に他界した。
(違う、僕が聞きたいのはそんな言葉じゃない。いつもならもっと強気で、『病気なんて気合で治す』ぐらい言うじゃないか)
しかし言葉を返せば返すほど、父親の弱い部分が見えてしまう気がして、雅人は言いかけた言葉をグッと堪えた。
「と、とにかく! 親父は組を背負ってるんだ。僕なんかより、もっと大事なことがあるだろ?」
「おいおい、最期ぐらいは俺も親父らしくだなぁ……まぁ良い。確かに組の今後も、色々と考えんといかんな。今日はこのまま泊まっていくが、明日の朝には家に帰るつもりだ」
「無理して大丈夫なの? 昨日の夜に倒れたばかりなのに」
「ハッ、手遅れだってんなら、どこにいようが同じだろ」
「だけど――」
「なぁに心配すんな、いますぐくたばる気はねぇからよ。だからお前も、今日はもう帰んな」
雅人は気持ちの整理がつかず、ここでの会話を諦めた。
「あぁ……うん」
気のない返事を返し、重い足取りで病室を後にする。
廊下に出た途端、組員たちが一斉に雅人の方を向いた。皆、表情が暗い。おそらく磐田と西原から、源二の病状を聞いたのだろう。
雅人は彼らにかける言葉が思いつかず、黙って会釈をしてエレベーターに向かった。
病院の外へ出ると、辺りはだいぶ暗くなっていた。ここから自宅までは電車の乗り換えが不便で、タクシーはアルバイトで小遣いを稼ぐ高校生には高額すぎる。仕方なく最寄りのバス停を探し始めると、一台の車が雅人の目の前に横付けした。乗っていたのは西原だった。
「お乗りください、若。家までお送りします」
「悪いけど、一人で帰りたいんだ」
西原の気遣いはありがたいものの、雅人はいま、誰とも顔を合わせたくなかった。
「ですがそんな顔で歩いていたら、車に轢かれますよ?」
疑うまでもなく、気持ちが顔に出ているようだ。雅人は意地を張る気にもならず、黙って後部座席に乗り込んだ。
出発してからはお互いに無言だった。ラジオをつけるでもなく、かすかなエンジン音だけが耳を刺激した。
(帰ったら、まずは夕飯の仕度をしよう。豚バラがあるはずだから、今夜は味噌炒めかな。あとはほうれん草の白和えと、揚げ出し豆腐。味噌汁の具は大根で……)
現実逃避。ただ車に揺れているだけだと、どうしても父親のことを考えてしまう。だから無理やりにでも趣味の料理に没頭し、暗鬱な気持ちを誤魔化したかった。
沈痛な面持ちで沈黙を続ける雅人を気遣い、西原が声をかけた。
「お気持ち、お察しします」
「………………」
「あまりに急な話で、私たちも正直途方に暮れているところです」
「………………」
「駄目ですね、普段は極道だ何だと――」
「ごめん西原、いまはあまり、そのことを考えたくないんだ」
「……失礼しました」
再び流れる沈黙。気まずい空気が車内を包み込む。
失言だった。辛いのは雅人だけではないのだ。
この手の組織にしては珍しく、鬼頭組は結束力が非常に強い。ひとえに組長である源二の人望によるものだ。中でも西原は孤児院から組に引き取られ、源二を実の親以上に慕っていた。しかも若頭補佐という高い地位にありながら、わざわざ雅人のために運転手を買って出てくれたのである。この好意を無碍にするわけにはいかない。
雅人は暗く沈んだ空気を変えるべく、今度は自分から話を切り出した。
「と、ところでさ、次に組を仕切るのは誰なんだろうね。経験なんかで言ったら、やっぱり筆頭舎弟の広瀬さんかな?」
「叔父貴にはその気がないみたいですよ。ご自身の組の方も、そろそろ次の世代に任せたいなんて仰っていましたし」
「そのまま引退するつもりなのかな。なら次は磐田? もしくは諫早組の金本さん?」
「磐田のカシラなら誰もが納得しますが、残念ながら辞退されるらしいです。金本の叔父貴は最近、大陸系との良くない噂があるので、下手をすれば組全体が荒れることになるかと」
「なんだ、誰もいない……って、西原がいるじゃないか。二十九歳って年齢はともかく、実力で言えばトップなんだしさ。十分にその資格はあるんじゃない?」
「いやいや、私なんて器じゃ……。そう仰る若こそ、いかがなんですか?」
「勘弁してよ。十八歳未満お断りの世界に、平凡な高校生を誘い込まないで」
「ですが言ってみれば、親の家業を継ぐだけのことじゃないですか。若なら誰もが納得するでしょうし」
「器でもガラでもないよ。喧嘩もロクにやったことない僕に、度胸試しのチャンピオンみたいな仕事は務まらないって」
「しかしですね……」
何か気にかかることでもあるのだろうか。冷静さが売りのインテリヤクザにしては珍しく、西原はやたらとこの話題に食いついてきた。
それでも雅人には、家を継ぐ気が微塵もなかった。組長の息子という立場上、式典への出席を余儀なくされることはある。しかしそれ以外は普通に学校へ行き、友達と遊び、コンビニのアルバイトに精を出す、ごく一般的な十代の少年なのだ。来客にも時折、住み込み家政婦の息子に間違えられる。
むろん喧嘩などもっての外。強面男への耐性こそ人並み以上にあるものの、殴り合いはまともに体験したことがなかった。
こんな彼に総勢三千人を超える組織の代表が務まるわけがない。仮に祭り上げられたとしても、誰かに乗っ取られるか、それとも力で潰されるか。どちらにしても、明るい未来はやって来ないだろう。
「では若は、これからどうなさるおつもりですか?」
「いまの家は組の本部でもあるし、そう遠くない日に引っ越すことになるだろうね。そこから先は、まだ分からないな。いつか小さなレストランを開きたいって夢はあるけど」
雅人は話の流れから、将来の夢について軽く漏らした。何をやっても人並な雅人にとって、料理は唯一の特技であり、趣味だった。きっかけは家政婦の勧め。幼くして母親と死別した雅人を慰めようと、当時の家政婦が親身になって教えてくれたのだ。そのレパートリーは煮物を中心とした家庭的な料理が多く、独身組員たちの夕食もほぼ毎日賄っている。高校を卒業したら調理師免許を取り、本格的に学ぶつもりでいた。
西原は雅人の話を聞くと急に車を止め、険しい目付きで後部座席に振り向いた。
「何故です? 親父は鬼頭組組長、構成員三千の頂点に立たれるお方なんですよ? その一人息子であるあなたが、どうしてそんな、誰にでも叶えられそうな夢で満足なさるのですか!」
「さ、西原?」
目付きだけでなく、語調も強い。西原は雅人にとって兄のような存在で、物心つく頃からの付き合いだった。しかしここまで熱くなった姿は初めてで、雅人はただただ面食らってしまった。
「度胸なんて、そのうち嫌でも身に付きます。喧嘩や金勘定は、それこそ得意な者に任せれば良いのです。ですが親父、鬼頭源二の血を受け継いでいる者は、若をおいて他にいないじゃないですか」
「いや、血だなんてそんな、大袈裟な」
皇族だの著名人だのならともかく、ヤクザが血筋を気にしてどうする。そう思う雅人だったが、西原の勢いに圧倒され、口に出すことができなかった。
「大袈裟ではありません。若だってあの方の本当の姿を知れば、叔父貴たちでは力不足だということが――」
「ストップ! いまの一言はマズイよ」
興奮からつい出てしまったのだろう身内批判を、雅人は慌てて遮った。
西原も失言に気付き、気まずそうに正面を向いた。再び車が動き始める。
「自分から話を振っといて何だけど、ここであれこれ言っても意味がなかったね」
「え……えぇ、そうですね」
そこから先は、二人とも無言だった。
やがて、自宅に到着。部屋に戻るなりどっと疲れを感じた雅人は、着替えも何も後回しにして、ベッドに身体を埋めた。
目覚めたのは夜中。一人きりで父親のことを考え、少し泣いた。
【五月十一日 午後四時 鬼頭組本部】
帰宅した雅人は玄関で出迎えた組員から、すぐに父親の部屋へ来るようにとの伝言を受けた。本人が昨日言っていた通り、昼前には帰宅したそうだ。
「ただいま」
「おう、おかえり」
源二は座椅子に腰かけ、何かしらの書類に目を通していた。
「起きてて大丈夫なの?」
「別に何ともねぇなぁ。流石に大立ち回りはできんだろうが、普通に生活する分には平気だ」
源二の様子は普段と同じ、並の八十歳とは比較にならないほど元気だった。誰が見ても、これで末期癌だとは思わないだろう。病院で着ていた医療用の浴衣と違い、資産家らしい一品ものの和服姿だからなおさらだ。
「わざわざ呼びつけたのはよ、お前に話しておくことがあってな。とりあえずそこ座れ」
改まって話というのも珍しい。よほど大事なことなのか。雅人は源二の前に置かれた座布団に正座した。
「話したいことはいくつかあるが、まずは組についてだな。おい雅人、お前、跡を継ぐ気あるか?」
雅人は些かの逡巡もなく即答した。
「親不孝かもしれないけど、正直に言うと、ないんだ」
「おう、そうか。ならそれで良い」
源二の意外な言葉に、雅人は少々肩透かしを食らったような気分になった。
察した源二が言葉を続ける。
「極道なんざ、胸張って人様に言える仕事じゃねぇからな。無理やり継がせちゃあ親失格だろう。まっ、お前はお前で、好きな道を探せ」
言いながら、袖口から小さな冊子を取りだし、ポンッと雅人の方へ放った。手に取って見ると、それは銀行の預金通帳だった。
「お前名義でいくらか入れてある。生活費の足しにでもしとくれ」
まるで小遣いをやるかのように源二は軽く言ったが、指をさして確認しないと数えきれないゼロの羅列。一生遊んでも使い切れない程の金額だった。
「こ、これは何の冗談?」
「あん? 足りねぇってか。お前も男だろう、そこは自分で何とかしろや」
「逆だよ逆! こんな金額、見たことないよ」
「多いんならイイじゃねぇか。こまけぇこたぁ気にすんな」
源二は満足げにカカカと笑った。
「あと組の方だがよ。そっちはまぁ、磐田と西原に任せときゃ問題ねぇ。頭もそのうち決まるだろうさ」
「意外とあっさりしてるんだね。下手したら身内同士で潰し合いになるかもしれないのに」
「ところがどっこい、誰もやりたがらねぇんだよ。自分は器じゃねぇとか言ってな。普通なら親を殺してでもテッペン目指すと思うんだが」
それは仕方のないことだった。鬼頭組は室町時代から原形が存在する、言うなれば老舗の極道である。だがその立場はせいぜい地元の顔役であり、台東区を離れれば誰も知らない小さな集団だった。そこから急成長を遂げ、日本の半分を牛耳るまでになったのは、他ならぬ源二の手腕なのだ。
腕っ節にしても人望にしても、源二はとにかく影響力が強すぎた。下からすればこれほど頼もしい指導者もいないが、だからこそ大きな壁にもなりうる。親への忠誠心と、跡を継ぐことへの重圧。反社会的勢力には野心家が数多くいるが、どうしてなかなか、この二つを無視できる者はいなかった。
「ともかく俺としてはよ、組よりもお前の将来の方が心配なんだ」
「気持ちはありがたいけど、好きな道を探せって、いま言ったばかりじゃないか」
「いや、そうじゃねぇ。話はむしろこっからが本題だ」
そう言って源二は、軽く咳払いをした。そして真剣な眼差しで雅人を見つめた。親子二人だけの部屋に、何とも言えない緊張感が走る。
時間にして、三十秒もない沈黙。しかし雅人にはそれが、異様に長く、重苦しいものに感じられた。
やがて、源二の口が開いた。
「お前、鬼を見たことあるか?」
さらに十秒の沈黙。雅人は気の抜けた返事で答えた。
「……は?」
「だから鬼だよ、鬼。もちろん作りモンじゃねぇぞ。本物の鬼だ」
病気のショックで頭までおかしくなってしまったのだろうか。人を呼びつけておいて鬼がどうこうなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
雅人は若干苛つきながら、吐き捨てるように言葉を返した。
「あるわけないだろ。現実にいないものをどうやって」
おかしな質問を投げておきながら、源二はそうだろうと言わんばかりの顔で頷いた。
「まぁ、普通ならそう思うわな。ならやっぱり、一度見せておくべきか」
見せる? まさか桐箱から干物を出して、『鬼の手のミイラでござい』なんて言うつもりじゃなかろうか。
訝しむ雅人を尻目に、源二は一人で納得して話を進めた。
「いまの身体じゃ、やれて一瞬だ。だから雅人、目ぇ逸らすんじゃねぇぞ」
源二はゆっくりと座椅子から立ち上がると、腰の辺りに拳を添え、空手の正拳突きと似た構えを取った。それから、大きく二回の深呼吸。部屋の中に独特の空気が漂い、ただ座って見ているだけの雅人の方が、呼吸を整える源二よりも息苦しさを感じた。
「フンッ!」
源二は息を止め、全身に力を込めた。するとどうしたことだろう、彼の身体がぼやけて消え、入れ替わりに、赤黒い肌をした大男が現れたではないか。それはまさに一瞬。まるで手品のように、あっという間の出来事だった。
身長は三メートル前後。天井を突き抜けないよう、僅かに身体を丸めている。張り詰めんばかりの強靭な筋肉が全身を覆い、拳など岩石そのもの。何より驚いたのがその顔だ。肉食獣さながらに長く尖った牙、不気味に黒光りする双眸、ボサボサの長髪から覗かせる二本の角。そう、大男は、誰もが思い描く鬼の姿をしていたのだ。
「お、おにっ!」
雅人は理解不能な光景に腰を抜かし、引きつった顔で鬼を見上げた。身体は元より喉までも震え、これ以上叫ぶことすらままならなかった。
鬼がこちらを向いた。そして右手を雅人の肩へと伸ばす。捕まえるつもりなのか。
身動きできない雅人。鬼の手がゆっくりと近づく。肩まであと数センチ。
ところが、何があったのか。鬼はいきなり膝をつき、苦しそうに心臓の辺りを手で押さえ始めた。激しい息使い。全身から噴き出す大量の汗。やがて耐えきれなくなったのか、鬼はそのままうつ伏せに倒れた。そして出て来た時とは逆、鬼と入れ替わりで、源二の姿が現れた。
「いまのは……親父?」
「ハァ……ハァ………やれやれ、ジジィにはキツイぜ」
起き上がり、胡坐をかいた源二が照れたように笑った。どうやら体力は消耗したようだが、体調的には問題なさそうだ。
「見ただろ雅人、いまのが鬼だ。つまり早い話、俺は人間じゃねぇってことよ」
「人間じゃ、ない?」
僅かな間に流れ込んできた情報量が多すぎる。雅人は処理が追いつかず、眉間にしわを寄せて源二の言葉をそのまま返した。
「ああ。人に化けた鬼、とでも言うのか。まぁ歳食ったいまじゃ、鬼の姿になる方がしんどいけどな」
身体の汗を手拭いで拭いつつ、源二は真剣な眼差しで雅人の顔を見た。
「それより重要なのはよ、お前にも鬼に変解(へんげ)する可能性があるってことだ」
「えっ?」
「人じゃねぇ俺の子なんだ、当然だろ」
話は勝手に、雅人の理解の範疇外へと飛んでいた。父親の正体が鬼であるということが、まず意味がわからない。そのうえ自分まで人ではないなんて。どう見ても平凡な学生なのに。
「で、でも、死んだ母さんは人間だったんだよね?」
「おうよ、だから絶対ってことはない。あくまで可能性の問題だ」
変解した源二がそうであったように、世間一般で言う鬼のイメージは、力強くて荒々しいものだ。対して雅人は、良く言えば温和な性格、悪く言えばぬるま湯で育ったお坊ちゃま。そんな彼が鬼になったところで、豚に真珠、猫に小判。これ以上のミスマッチもないものである。
「う~ん。仮にその……へんげ、だっけ? ができたとして、何か問題でもあるのかな? 強そうで良いじゃないか」
何もかも実感が沸かず、雅人は他人事のように答えた。
「バカッ、そんな甘ぇモンじゃねぇんだよ、鬼になるってのはなぁ」
「そう言われても、まったく想像できないよ」
「気持ちは分かるが、用心するに越したことはないだろ? だからコイツに目を通しとけ」
源二はそう言って、二冊の書物を雅人に渡した。ひとつは古めかしい和紙でできたもので、博物館にでも寄贈されていそうな重厚感がある。そしてもうひとつは、どこにでもある大学ノートだった。
「これは?」
「ウチの血筋だの、変解の方法だのが書かれた文献だ。だがお前、昔の文章なんて読めねぇだろ。要点のまとめと解説を、こっちのノートにメモしといてやった」
気が利く父親に感謝すべきか、不出来な自分を恥じるべきか。雅人は苦虫を噛み潰したような顔で愛想笑い。
「必ずしもお前が鬼になるとは限らねぇ。事実、俺の親はどっちも人間だったしな」
「でも可能性がゼロではない以上、油断するわけにもいかないと?」
「特に成長期が一番危険なんだが、生憎と俺は、お前を見続けることができそうにない。もしもの時はその二冊を頼りに、自分で切り抜けてくれ」
「……わかった。とりあえずもらっとく」
事実を受け入れたというより、あまりに現実離れした話に、雅人の思考はついて行けなかった。文献にしても、源二のように危機感を抱いているわけではないから、恐らく一度読んでそれっきりになるだろう。
「仮にお前は無関係だったとしても、その本は絶対に捨てるなよ。もしかしたらお前の子供が――」
「はいはい、言われなくてもわかってるよ。家宝みたいなもんだし、大切に扱うって」
用件はこれで終わりのようで、雅人は自分の部屋へ戻ることにした。言われた通り、貰った二冊を読んでみるつもりだ。
【午後十時七分 雅人の自室】
気が付けば時計は、夜の十時を少し回っていた。源二のノートはかなりのボリュームがあり、数時間かけてようやく読めたのは半分程度。ちなみに彼が言った通り、原典の方は読めないどころか、文字として認識すらできなかった。
雅人はとりあえず、読み終えた部分を頭の中で整理してみた。
最初に書かれていたのは、鬼と鬼頭の家についての歴史だった。
そもそも鬼とは、荒神と呼ばれる存在の一種である。では荒神とは何なのか。一言で表すなら、人や獣ならざるもの、である。
いまでこそ神や妖怪、精霊など、人間の都合で多様にカテゴライズされているが、元来これらは全て荒神と呼ばれていた。八百万の神と言えば、よりわかり易いだろうか。およそ人類の歴史が語られる以前より存在し、卓越した力や知恵、あるいは知識でもって、社会と密接な関係を築いていたという。
しかし日本に仏教が伝来し、それを政治に利用する者が出始めると、その関係にもズレが生じるようになる。名実ともに有力な一部の者は変わらず神として祀られたが、大半は仏に仇なす悪鬼妖怪とのレッテルを貼られ、酷い場合には討伐対象にされたのだ。
もちろん荒神たちも黙ってやられはしない。全力でもってこれに対抗したが、如何せん人間たちは数が多すぎた。
全ての荒神に共通する唯一の弱点、それは出生率の低さである。荒神同士、あるいは人間との間から生まれるが、基本的に親一組につき子は一人ないし二人。それも晩年にできれば良い方とされている。雅人もその例に漏れず、源二が六十歳を超えてからできた一人息子だ。
いくら個々が強くとも、数の暴力には敵わない。休む間もなく襲われ続け、日を追うごとに数を減らし、やがて荒神たちは、三つの選択を迫られることとなった。
ひとつは人間との干渉を避け、山の奥深くに隠れ住む道。
ひとつは人間に化け、人間社会に溶け込む道。
そして最後のひとつは、滅ぶまで己を貫き通す道。
鬼が選んだのは、人間社会に溶け込む道だった。元々人間に近い容姿をしていたので、人足や大工などといった荒くれ者の中に混ざっても違和感がなかったのだろう。中でも雅人の祖先に当たる者は、腕っ節の強さと人情味溢れる性格で皆に慕われ、いつしか町の顔役にまでなったという。時代にして、室町前後のことである。組織構成や体制など、現在のものとはかなり違うが、つまり鬼頭組の原点とも言えるべき組織は、実に七百年近くも前から存在したことになるのだ。
さて、鬼はこうして人間との共存を始めたわけだが、いくら似ている外見も、並んで立てば違いは明らか。またどんなに加減したところで、比類なき千人力は誤魔化しようがない。そこで『変解』と呼ばれる幻術(外見や能力に影響を及ぼす、強力な自己催眠)を日常的に使用し、人間のフリをしていたという。もっとも、長い時が経過した現代では、変解前と後の状態が完全に逆転してしまったが(今後は便宜上、人間から鬼の姿へ変わる方を変解と称する)。
変解の方法は、言葉で説明するだけなら至極簡単である。感情を高め、強い力を欲すること。どんな感情でも構わないが、物理的な力を望む都合上、怒りや殺意といった闘争本能に近いものの方が良いらしい。
しかし喧嘩すら満足に経験がない雅人に、闘争本能を剥き出しにしろと言ったところで無理な話だった。嫌なことを自分なりに思い出してみたものの、不快にこそなれ、鬼へと変解する気配は全くなかった。
後日そのことを源二に伝えると、
「まぁお前が鬼になれるんなら、夏華ちゃんはいまごろ般若にでもなってらぁな」
と、いたく安心した顔で笑った。
【五月十九日 午後二時 応接室】
源二が癌の宣告を受けてから一週間が経過した。紆余曲折ありながらも次の組長は西原に決まり、襲名式の打ち合わせだの何だのと、組の中は連日あわただしい。雅人も完全に無関係とはいかず、学業そっちのけで、細々とした用事に駆り出されていた。そしてこれから始まるのは、雅人の転居先選びだった。
組長の座を西原に任せ、反社会的勢力とは関係のない世界で生きていく以上、組織の本拠地でもあるこの家にはいられない。そこで雅人は、学校の近くにアパートを借りることにしたのだ。未成年の一人暮らしとなるが、金銭面は源二の遺産で事足りる。また、身元保証人や面倒な書類の類は、全て磐田が引き受けてくれた。磐田は副業として賃貸住宅をいくつか経営しているので、新居もその中から選ぶことになるだろう。本音を言えば無関係の不動産屋に頼みたかったが、保証人になってくれる彼に対してあまり我儘は言えなかった。
「すいやせん若、わざわざお時間をいただきまして」
がっしりとした身体に、茶色のスーツを着込んだ、濃い顔の大男。基本的には温和な性格で、いつもにこやかに笑っているが、それが逆にフランケンシュタインの如き凄みを感じさせる。磐田とはそういう男だった。
「いやいや、僕から頼んだことだから。それはともかく、どうして西原と夏華が居るの?」
客間には磐田の他に、西原と、磐田の娘である夏華が同席していた。
少々恐縮しながら西原が答える。
「これから襲名式当日まで、息つく暇がなさそうなんですよ。若とゆっくりお話できる時間も作れそうにないので、磐田のカシラに無理言って同席させてもらいました」
西原は雅人にとって兄のような存在だった。だがいまの言葉で、今後は住む世界が変わるのだと、改めて意識させられた気がした。もちろん口にした本人にその気はなく、ただの何気ない一言だったのだろうが。
続いては明るい少女の声。
「アタシはおじさまのお見舞いで来たんだけどね。若サマが独り暮らしするとか、なんか面白そうな話を聞いたんで、ちょ~っと混ぜてもらおっかなと」
夏華は雅人よりひとつ年下の幼馴染で、ただひたすらに能天気な性格をしている。学校帰りに寄ったのか、制服姿のままだ。
「にしても若サマ、ホントにこの家を出ていくつもりなんだ?」
夏華は雅人の顔をしげしげと眺めた。
「会社を辞めたら社宅から出ていくだろ? 要はそういうことだよ」
「う~ん、理屈じゃそうなんだろうけどさ。温室育ちのお坊ちゃまが、いきなり独り暮らしなんてできるの?」
温室育ちのお坊ちゃま。雅人も自覚しているが、夏華に指摘される謂れはない。彼女こそ雅人に負けず劣らずの温室育ちで、何より両親が健在なのだ。
苛立った雅人は若干の嫌味を込めて反論した。
「少なくとも家事は、お前より遥かに上手だぞ」
「そういうことじゃなくてさ、誰もいない寂しさに耐えられるのかなって」
それを聞いた磐田と西原が、もっともらしく相槌を打った。
「確かに。若の周りには、いつも必ず組の誰かがいましたよね」
「まぁあっしらにしてみても、若がこの屋敷にいらっしゃるのは当たり前だったからな。そうでなくなるのは寂しすぎやすよ」
世間知らずの雅人を揶揄するのかと思いきや、いたって真面目に本音を漏らした。二人はこれまで、多忙な源二に代わって雅人を世話してきた。しかも今回は普通の家庭で独り立ちするのとは勝手が違う。雅人の保証人となる磐田はまだしも、西原はこのまま疎遠になってしまうかもしれないのだ。
「できればずっとここにいていただきたかったです。そもそも私は、若にお仕えするつもりでいたのですから」
「またその話? 勘弁してよ。器じゃないって何度も言ったじゃないか」
「そんな……いや、そうですね。流石にしつこく言い過ぎました。以後気を付けます」
ふっ切れたような、落胆したような、少しだけ悲しそうな。西原の表情は複雑すぎて、そこから気持ちを汲み取ることはできなかった。
しばらく続く沈黙。
「…………」
何となく居づらい空間。チクタク、チクタク。壁掛け時計の秒針が、やたらと耳触りな音を刻む。雅人も磐田も西原も次の言葉を探したが、何を言っても居づらさが増してしまいそうで、ただ視線を下に落とすことしかできなかった。
「そう言えばさ、西原さんはなんで鬼頭組に入ったの? ご先祖様の代から働いてるウチと違って、自分からヤクザになりに来たんだよね?」
本人にその気があったわけではなかろうが、夏華が上手い具合に会話の流れを切り替えた。
これ幸いとばかり、西原は笑顔で答えた。
「ええ。元々は親父の経営する孤児院にいました。ですがそこが火事に遭いましてね。逃げ遅れた私を救ってくれたのが親父で、そのご恩返しがしたくて、組に入ったんです」
「あん時ぁ確か、まだ十歳にもなってなかったよなぁ。無茶なガキがいやがると思ったモンだぜ」
磐田も当時を懐かしむ。
「火事の一件で孤児院が閉鎖になって、子供たちはみんな他の施設に引き取られたんだがよ。コイツだけは組に居させてくれの一点張りで、テコでも動きやしなかった」
夏華が興味深そうに目を輝かせる。
「へぇ~、意外と頑固だったんだ」
「仕方ねぇってんで、舎弟だった先代の西原さんが養子にしたんだが、それからも雑用だの、若の子守りだの、ほぼ毎日組に顔を出してな。で、いつの間にか組員になって、次は組長だってんだから、ホント、世の中はわからねぇや」
雅人や磐田にしてみれば、鬼頭組は先祖の代から当たり前にあるもの。言うなれば住み慣れた家と同じで、愛着こそあれ、特別な感情は湧いてこない。しかし西原の場合は、自らの意思で選んだ居場所である。組に対する想いは、雅人たちの比ではないだろう。それを考慮すれば、やはり西原こそが次の組長に相応しいのかもしれない。
「一番驚いたのは私ですよ。磐田のカシラはともかく、他の幹部連中まで跡目を断るなんて思ってもみませんでしたから」
磐田家は代々鬼頭組の幹部を務め、組長である鬼頭の家を支え続けてきた。ある意味ナンバー二であることを誇りとしているため、他の候補者を押しのけてトップに立つ気はなかった。
「みんなそんだけ親っさんに惚れ込んでたってこった。ま、余計な喧嘩が起こるよかマシだろう。下手すりゃ跡目争いやら独立やらで、組がグチャグチャになってたかもしれん」
「西原さんだから暴れなかったんじゃないの? これが頼りない若サマなら、毎日が戦争だったかもね」
「お、おい夏華!」
「いくら若の幼馴染みでも、さすがに言葉が過ぎますよ」
夏華の冗談に磐田と西原は狼狽したが、彼女の言葉通りだと思った雅人は何も感じなかった。
「まぁ辞退した僕の選択は正しかったってことで、話を本題に戻させてもらうよ。やっぱり学校から近い方が……」
結局、部屋の設備にこれといった要望があるでもなく、家賃も磐田が相場よりも安くしてくれた為、選ぶ条件は立地ぐらいなものだった。あっさりと物件が決まったものの、入居は源二を看取ってからとなるので未定。おそらくはそう遠くない話だろうが、かと言って現段階で決められることは少なく、一通り片付けるのに二十分もかからなかった。
「それじゃあ今日のところはこの辺で。本人確認の必要がある書類がまだ二、三残っとりやすが、急ぐモンじゃありやせんので、また都合良い時にお願いしやす」
「こちらこそ。面倒事を引き受けてくれてありがとう」
「本音を言やぁ、アパートじゃなくて我が家に来て欲しいんですがね」
「磐田の家に下宿しろって? 悪いけど、それなら独り暮らしの方が気楽だよ」
義務教育中の児童ならともかく、雅人はあと二年もしないうちに高校卒業だ。それに源二の遺産だって十分すぎるほどある。にもかかわらず、わざわざ他人の家に厄介になるのは甘えでしかない。なまじ親しいからこそ互いに余計な気を遣ってしまいそうで、できればそういったことも避けたかった。
「いまさら気遣いなんて無用ですぜ。入居特典に娘も付けやすから」
「ますますお断りだ」
「あっしはね、息子が欲しかったんでやすよ。成長した息子と酒を飲むとか、最高だと思いやせん?」
「いまからでも作れば良いじゃないか」
「ならせめておや……いや親父は親っさんただ一人だから、お父さん、もしくはパパと呼んでくだせぇ」
「誰が呼ぶか!」
【六月十二日 午前十一時 源二の自室】
梅雨入り間もない六月。畳部屋の中央に敷かれた布団を囲んで、白衣の主治医と、黒服の幹部たちが座している。源二が自身の最期を悟って集めた面々だ。むろん、その傍らには雅人もいた。
「頭の引き継ぎは終えた。雅人への相続も問題ない。さて、これでいよいよお役御免だな」
癌の発覚からわずか一月程度にも関わらず、源二の身体はすっかり痩せ細り、筋骨逞しい鬼の面影は微塵もなくなっていた。ある意味ようやく年齢相応の姿になったのかもしれないが。それでも眼光は鋭く、極道者ならではの凄味も健在なのは流石。どっしりと腰を据え、自身の最期と正面から向き合っていた。
「親父……」
むしろ傍にいる者たちの方が、別れを惜しむあまり、冷静さを失いそうだった。誰もが正座したまま俯き、叫びだしそうになるのをぐっと堪えて、肩を震わせている。
「なんだ辛気臭ぇな、おい。やれ喧嘩だ戦争だって、やりたい放題やってきた俺がよ、お前らに囲まれながら、畳の上で死ねるんだ。こんなめでたい日に悲しそうな顔するなよ」
しかし何を言っても状況は変わらない。源二はやれやれと溜め息を吐いた。
「いい歳こいた大人、それも極道モンが、いつまでもメソメソしてんじゃねぇ。俺のことなんざサッサと忘れて、西原をしっかり支えてやってくれ。それから雅人、お前はもう自由だ。渡した金で、好きなように生きろ………」
これが、源二の残した最期の言葉だった。まるで世間話でもするかのような調子で、特に苦しむ素振りもなく、しかし雅人が返事をしようと顔を見た時には、既に事切れていた。
「あ……あぁぁ、あああああああぁああああぁあぁあああああぁぁー!」
雅人は言葉にならない叫びを上げた。この日が来ることは覚悟していた。だから話を聞かされた当日に少しだけ泣き、以後は全てを前向きに受け止めたつもりだった。腐っても組長の息子である。取り乱すようなことだけは絶対にならないと、心に刻み込んだはずだった。しかし、いざ肉親の死を目の当たりにすると、全ての覚悟は霧散し、視界が真っ白になってしまった。
その後のことを、雅人はあまり覚えていない。気付いた時には一日が過ぎており、晩には幹部連中が手配した通夜に出席していた。その翌日に開かれた告別式でも、特別な挨拶などをするでもなく、あくまで参列者の一人として源二を送った。唯一の血縁でありながら情けない話だが、場慣れした大人たちが仕切ってくれたおかげで、余計な醜態を曝さずに済んだとも言えるだろう。
ただ、告別式を前にして棺が閉じられ、源二の顔を拝む機会が一度もなかったことだけが気がかりだった。本人から遺言として頼まれていたらしいが、詳しい理由は最後までわからなかった。
2
【八月二日 午後三時 雅人のアパート】
源二の葬儀を終えて間もなく、雅人は予定通り、鬼頭組の屋敷を出て行った。
現在の住居は二階建てアパートの二階。築五年の八畳一Kで、学校から程近い場所にある。交通の便は若干悪く、どこへ行くにも自転車が欠かせないが、日当たりの良さとベランダの広さでここに決めた。
なお、源二を失ったショックからは既に立ち直っている。引越し直後は何かと多忙で、悲しみに暮れる余裕があまりなかったことが幸いした。いや正しくは、もうひとつの要因のおかげ、とでも言うべきか。
「若サマー、替えのシャツ貸してー。自分の部屋から持ってくんの忘れちゃったよー」
「バカッ! バスタオルのまま出て来る奴があるか」
雅人の入居にあわせて、なんと夏華が隣に引っ越してきたのだ。しかも通っていた私立女子高から、雅人の高校へと編入までして。
理由は、『女子高は自分にあわなかったので、雅人と同じ学校に通うことにした。ついでに通学時間のことを考え、“たまたま”空いていた隣に引っ越してきた』とのこと。
ちなみに磐田家は、ここから二駅離れた場所にある。時間にして、徒歩で二十分前後だろうか。つまりどう考えても磐田の陰謀。鬼頭雅人養子化計画の一端だった。
「いいじゃん別に。パンツはちゃんと履いてるんだし」
「若い娘が、男の前でそんな格好するな」
家事全般が得意な雅人と違い、夏華は米を洗剤で研ごうとする娘だった。故に雅人は彼女の面倒まで見る羽目になり(下着だけは自分で洗わせているが)、家政婦や組の者が手伝ってくれた実家の頃よりも、遥かに忙しい毎日を送っていた。
「おんやぁ~、もしかして欲情しちゃいヤしたか? なんならパンツも脱ぎヤしょうか?」
雅人は渾身の力を込めて、丸めたTシャツを夏華に投げつけた。顔面にヒット。
「ふにゃん! 意外と痛いッス」
「さっさとそれ着て部屋に戻れ! だいたい、なんで自分の部屋の風呂を使わないんだよ」
「だからさっきも言ったじゃん。買い物帰りに雨にやられて、シャワー入ろうと思ったら給湯器が壊れてたんだって」
「夏なんだし、水で十分だろ?」
「甘いよ若サマ。女子の髪は水で洗うと痛みやすいんだぜい」
「ワガママ言うなら実家に帰れ……」
ほぼ毎日こんなやり取りの繰り返しだった。クラスメイトからは羨ましがられるが、雅人にとって夏華は手のかかる妹でしかなく、本人以外が期待するような恋愛展開は一切なかった。
「それはそうと、夕飯は冷蔵庫に入れておくから、適当な時間に取りに来て」
「ん? 出かけるの?」
「急にシフトが入ったんだ。雨でチャリンコ使えないから、帰りは十一時近くになると思う」
雅人はコンビニのアルバイトをまだ続けていた。もちろん源二の遺産は十二分にある。仮にこのアパート全てを土地ごと購入したとしても、まだ三分の二以上は残る程だ。しかし一介の高校生がそれに甘えたら、恐らく自分を見失ってしまうに違いない。豪遊に次ぐ豪遊で、正常な生活には二度と戻れなくなるだろう。もしくは古巣にいた類の人種に目をつけられ、骨の髄までしゃぶられてしまうか。だから生活に必要な分以外は定期預金に入れ、できるだけ手をつけないようにした。いずれ将来の夢であるレストランを開くようなことがあれば、その預金に頼るつもりだ。
「よくもまぁ疲れませんね。夏休みの間中ほとんどバイトじゃん」
「働かないと食べていけないんだよ。労わる気持ちがあるなら、少しぐらい自分で家事をやれ」
「いやいや、アタシはいまのままで大丈夫っすわ。いずれ若サマ嫁に貰うから」
「バカ、こっちがお断りだ。とにかく行ってくる」
「は~い、お気をつけて~」
【午後十時二十分 帰路】
仕事を終えた雅人は家路を急いでいた。この辺りは左手に市民グラウンド、右手に片側二車線の車道があり、昼夜で人通りが極端に違う。また街灯が少なく、かなり薄暗い。加えて真夏には珍しい大雨で、雅人はアルバイト先のコンビニを出て以来、誰の姿も目にしていなかった。
好んで歩きたくはないが、自宅までの最短ルートがこの道だった。夜遅く、雨にも濡れている現状、そこはかとない恐怖心よりも、目先の欲求の方が勝っていた。帰ったらまずシャワーを浴びたい。それから軽く夜食でも作ろうか。
ところがここで、不測の事態が発生する。進行方向、車道脇に停車中のワゴン。単なる路上駐車だと気にも留めていなかったが、雅人が近寄るといきなりドアがスライドし、若く大柄な男たちがゾロゾロと出てきた。そして雅人の前に三人、後ろに二人、明らかに進路を阻む形で立ち塞がった。
「お前、鬼頭雅人だな?」
雅人が身構えるよりも先に、前方の一人が声をかけてきた。脱色で傷んだ髪と浅黒い肌、だらしなく胸元を開けた安物のシャツに、不自然な光沢を放つ金のネックレス。まさに素行不良者の典型といった風体だ。他の者たちも似たような恰好で、髭やボディピアス、タトゥなど、近寄りがたい雰囲気を不必要に強調していた。
しかし実家が実家だっただけに、雅人はこの手の輩は見慣れていた。威圧的な風貌に委縮することもない。そして相手の素情が不明である以上、迂闊な言動は避けるべきと判断し、とぼけてこの場を離れることに決めた。
「いや、ちが――」
いや、違う。そう言いかけた雅人の後頭部を激しい痛みが襲った。硬い石、あるいは鉄の塊を叩きつけられたような感覚。それが後方の一人が手にした金属バットの一撃だと理解した時、雅人の意識は遠のいていった。
「おいおい、いきなりやるか?」
「コイツで間違いねぇって。ハズレならまた拉致りゃイイし」
「ミスると琢磨さん怖ぇ~ぜ?」
「コイツが暇潰しに使えりゃ問題ねぇさ」
「まぁそれもそっか。ならサッサと連れてこう」
【?】
「……………………う、うぅ………」
雅人は顔や頭が濡れた感覚で目を覚ました。何者かに頭から水をかけられたらしい。横向きに寝ていた状態から上半身だけ起こし、まだ少し呆けた頭で周囲を見回す。
薄暗い室内に飛び交うレーザー光線、耳障りな機械音をがなりたてるスピーカー、酒と煙草のむせ返る臭い。
雅人がいまいる場所は板張りの床、どうやら小さな舞台の上のようだ。二畳ほどの奥行きと、そこより若干低い位置の観客席へ続く花道がある。そして観客席には、先ほど会った連中の同類が数十名。
「琢磨さーん!」
「早くブッ殺しちまえ!」
年の頃は十代半ばから二十代前半ぐらい。男性が多いが、ところどころに少女も混ざっている。その誰もが雅人のいるステージに注目し、野次とも罵声ともつかない叫び声を上げていた。
「ここ、は……?」
「ハッ、ようやくのお目覚めだ」
雅人は声が聞こえた方に顔を向けた。ブリキ製のバケツを投げ捨てる男が一人。かなりの大柄で、腕っ節に自信がありそうな体つきだ。それがカーゴパンツにタンクトップというラフな格好と相まって、物々しい威圧感を全身から醸し出していた。
雅人に水をかけて起こしたのは彼で、観客席からの言葉を拾うに、名前は琢磨というらしい。
「眠ったままじゃ面白くねぇからよ。きっかり起きて、俺を楽しませろや」
「いったい何を……ウッ!」
殴られた後頭部がズキズキ痛む。咄嗟に手で押さえようとしたが、両手はなぜか後ろ手に手錠がかけられていた。
「ここは潰れたストリップ小屋で、俺たちの溜まり場よ。で、テメェは今夜の殺戮ショーの主役。素敵に無敵な俺様のために用意された、生きたサンドバッグってわけだ」
「なんで僕が?」
琢磨は少しも悪びれた様子もなく、口角を吊り上げて下衆に笑った。
「ヒャハハ! テメェをバラしたら金くれるって奴がいんだよ」
組長の息子ともなると、誘拐事件は決して珍しい話ではなかった。実際に誘拐されたこともあったが、しかしそれはあくまで非力な小学生時代の話。その後は危険な場所を避けることで難を逃れてきた。それがこの歳になって、しかも後頭部を殴って気絶させるなどという強引な方法で拉致されるとは。
「生憎だけど、僕はもう組とは無関係だ。殺したところで何の得にもならないよ」
強面相手の度胸だけはある雅人は、今回も組同士の抗争か何かだろうと思い、無関係であることを冷静に告げた。
ところが琢磨は、
「はぁ? カッコつけて何言ってんだ、お前?」
予想外の返答だった。しかし彼の怪訝そうな顔は、嘘を言っているようにも見えない。ならば今回の件は、組とは無関係ということか。
観客席から声が飛ぶ。
「琢磨さん、ソイツん家ヤクザなんだってよ」
「ほぉ~、ヤクザってのはアレだよな、俺らみてぇな一般市民に迷惑かける、どうしようもねぇウジ虫どもだ。だったらよぉ、なおさら始末して、社会に貢献しねぇといけねぇよなぁ?」
雅人は普通の高校生で、見るからにガラの悪い琢磨たちこそ、社会の害悪に他ならない。などという正論がこの場で通じるわけがなく、観客席は『殺せ』『処刑しろ』と、悪意に満ちた歓声で盛り上がる一方だった。
「家が関係ないなら、ますますこんなことをされる理由が思い当たらない。学校じゃ目立たないし、友達は少ないし、バイト先でトラブルを起こしたこともないし……」
「ごっちゃごっちゃウルセーなぁオイ。いいからコレ見ろや」
琢磨はズボンからスマートフォンを取り出し、画面を雅人に見せた。表示されていたのは受信メール。内容は非常にシンプルで、『殺処分。鬼頭雅人。前金五十万。成功報酬二百万。』とだけ書かれ、雅人の顔写真も添付されていた。また、差出人の欄は『依頼者』と書かれており、アドレスもフリーメールが使われていた。一般的なネット知識しかない雅人には、これだけの情報から相手を特定するのは不可能だった。
「こんなメールがな、時々俺んトコに送られてくんのよ。へへ、結構いい小遣い稼ぎになるんだぜ」
琢磨の顔は、まるで武勇伝を語っているかのように誇らしげだった。
「どう考えても使いっぱしりじゃないか。そもそもそんな怪しいメールを信じるなんて」
「んなこたぁどうでも良いんだよ。好きなことやって金もらえるなんて最高じゃねぇか。いや、金だけじゃねぇ。コイツはよ、銃とかヤクとか、俺が欲しいと思ったモンを何でもくれるんだぜ」
ヤクと聞いて、雅人は思考を巡らせた。
鬼頭組では薬物の取引を行っていない。先代の源二が嫌い、服用も商売もさせないよう、徹底的に取り締まったからだ。そして鬼頭組は、日本の裏社会の東半分を牛耳切っている。ならば琢磨に薬物を提供したのは、鬼頭組とかかわりを持たない西日本ないし海外の人物か。しかしそんな者が堅気の雅人を襲って、いまさら何の得があるというのか。
「琢磨さーん、そろそろおっぱじめませんか? オレらもう待ち切れねぇッスよ」
痺れを切らした観客が琢磨を急かした。
「おう、そんじゃあ始めようか。楽しい楽しい殺戮ショーだ!」
琢磨の言葉で、場内は一気に沸きたった。観客は見たところ二、三十人のようだが、異様な熱気と歓声が、その数を何倍にも錯覚させる。勢いに飲まれただけで気絶してしまいそうだ。
「ま、待って! まだ聞きたいことが――」
「とりあえず一発、喰らっとけや!」
雅人の顔面めがけ、琢磨の右足が飛ぶ。足の甲を使ったサッカーボールキックだ。
雅人はそれを避けるどころか、目で追うこともできなかった。まず視界が琢磨の靴紐で覆われ、続いて鼻を中心に顔全体が痛みに襲われ、文字通り蹴られたサッカーボールのように、身体が斜め上後方へと跳ね上がった。
「カハッ!」
雅人は仰向けにのけ反り、後頭部を床に打ちつけた。しかもいまの一撃で鼻骨が折れたらしい。止め処なく鼻血が吹き出し、顔半分を赤く染め上げた。
「おぉ、イイカンジにぶっ飛んだなぁ。開幕としちゃあ悪くねぇ。だがなぁ」
琢磨は倒れた雅人の前髪をつかみ上げ、強引に立たせた。
「ちゃんと立って受け止めてくれねぇとよぉ、面白くねぇだろぉぉ~? もっと楽しませてくれよぉぉ~」
いまの蹴りのおかげで、拉致される前に受けた後頭部へのダメージが再び悲鳴を上げた。吐き気がこみ上げ、額や首筋から脂汗が滲み出る。
しかし琢磨は雅人の様子などお構いなしに、むしろ最悪のコンディションであることを喜びながら、左のジャブを顔面に二発。次いで、右のボディブローを一発。無理やり顔面に意識を向かわせ、反射的に無防備となった鳩尾に、ゴツゴツした重い右拳を打ち込んだ。
「ウゲェェェ」
衝撃に耐えきれなくなった雅人は両膝をつき、俯いて何度も嘔吐を繰り返した。が、元々仕事明けで空腹だったため、苦痛に反して汚物は漏れず、少量の胃液が口から流れ出ただけだった。
「大袈裟だなぁオイ。まだ怪我らしい怪我もしてねぇだろうが」
琢磨は再び雅人の前髪をつかんだ。今度は左手で吊るし上げて固定したまま、右の拳を顔面に三回、五回、十回と打ち込む。
「そうそう、よえぇぇぇ~奴はこんぐらいブサイクじゃねぇと、なっ!」
殴られる度に、ガンッガンッと骨のぶつかり合う音が耳の奥に響く。折れた歯が口の中で跳ねる。腫れた頬と瞼が視界を狭め、もはや足元すら見えない。単純な痛みだけでなく、視覚と聴覚に訴える恐怖が、雅人から徐々に抵抗心を剥ぎ取っていった。
「ほら、下にいる奴らにも見てもらえ」
琢磨は雅人をひとしきり殴り終えると、両手でその顔を持ち上げ、観客席の方へと放り投げた。観客たちは、背中から落ちてくる雅人を避けるべく一斉に後退。雅人は高さ二メートル強のステージから、コンクリート地むき出しの床へと叩きつけられた。
「ッ!」
視界と手の自由を奪われた状態では、受け身どころか、衝撃に備えることすらままならなかった。雅人はかろうじて頭部へのダメージを防いだものの、背中に受けた衝撃で息を詰まらせた。いっそこのまま気を失ってしまえば楽だろうに、全身の痛みがそれを許さない。
「うっわキモッ! 見られた顔じゃねぇな」
「いやいや、こんなのまだ序の口だろ。手足の二、三本引っこ抜くぐらいはしねぇと」
再び寄ってきた観客たちが雅人を見下ろす。中には踏みつけたり、爪先で蹴ったりと、精神的苦痛をさらに与える者もいた。
顔は潰され、手は縛られ、身体のあらゆる箇所が猛烈に痛い。冷静な判断力は既に失われ、雅人の頭の中にはもう、苦痛と恐怖しかなかった。芋虫のように這って逃げようとするも、
「どこ行くつもりだよ?」
当然逃げられるものではない。頭を踏みつけられ、額や頬を地面に擦りつけられ、この場にいる全員から、嘲笑と罵声を浴びせられた。
琢磨は仲間たちが雅人をいたぶる様を、ステージの上から満足そうに見下ろしていた。だがすぐに飽きてしまったのか、右手を上げて、仲間たちの行動を止めた。
「ただ痛めつけるだけじゃ芸がねぇな。よし、アレを出せ」
琢磨の指示で舞台袖から運ばれてきたのは、頑丈そうな長い鉄の棒。ポールダンス用のポールだ。おそらくここがストリップ小屋だった頃の名残だろう。それを再びステージに上げられた雅人の腕に通し、床と天井にしっかりと固定する。
「た、助け……」
心身ともに衰弱し、助けを求める声にも力が入らない。仮に声が出たとしても、ここには雅人の味方など一人もいないのだが。
「安心しな、裸になって踊れなんて言わねぇからよ」
頭から何かの液体をかけられた。目は塞がり、鼻も血で利かなくなっているので、その正体は分からない。しかし肌に触れた感覚と、口の中に入った味からすると……油だ!
「ヒャハハハ! 燃えちまいなー!」
琢磨は躊躇なく雅人に火を点けた。
「ガアアァァァァァァァァァァァーッ!」
火は油伝いに素早く燃え広がり、無慈悲にも雅人を焼き始めた。
雅人は足をバタつかせ、上半身を前後左右に振り、まさしく死に物狂いで暴れた。しかしポールに繋がれているせいで、ほとんど身動きがとれない。
「鉄製の手錠だからなぁ、どんだけ暴れようが壊れねぇよぉぉ~。ヒャハハハ、このまま灰になっちまえ」
炎は早くも体毛を燃やし尽くし、露出した皮膚を赤黒く焼き、さらに奥の筋組織にまで達しようとしていた。手錠を外そうともがいても、肉に食い込み血を滴らせるだけでビクともしない。
「ガァァァァァァァァァーッ!」
熱いとか痛いとか、単純な言葉では表現できない苦痛。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。嫌だ、死にたくない。それもこんな理不尽で惨めな死に方なんて。
死にたくない。死にたくない。この言葉を頭の中で二十一回繰り返したところで、雅人の意識は完全に途絶えた。
3
【八月三日 午前八時 雅人のアパート】
目覚めた雅人が最初に見たのは、自宅の天井だった。いまいるのはベッドの上。じわりと蒸し暑い室内。カーテン越しに差し込む太陽の光。普段と変わらない夏の朝だ。
「僕は確か……拉致されて、それから……?」
顔面が潰れるまで殴られ、罵声や蹴りを浴びせられ、最後は焼き殺されたはず。ところがいまは目が見えているし、身体のどこにも傷がない。髪の毛だって生えている。
「夢、だったのかな?」
だとしても、何という悪夢か。しかも生々しくリアルな夢だった。琢磨とかいう半グレの声と言葉が、いまもしっかりと耳に残っている。
「うぅ、最悪の気分だ。こんな夢は早く忘れてしまおう」
雅人はベッドから身体を起こし、頭を左右に振った。
「とりあえず、顔でも洗うか」
「おっはよ~若サマ、今日はイイ天気だよ~って、あら?」
雅人が立ち上がると同時に、夏華がベルも鳴らさず部屋のドアを開けた。二人は一瞬目が合うも、夏華の方が先に逸らす。いや正確には、夏華の目線は雅人の下半身に向けられていた。
「ヤダなぁ若サマ、ようやくその気になったんなら、待ってないで早く呼んでよ」
「へ?」
「でもアタシだって女の子で、それも初めてだからさ。まずはシャワーを浴びさせて欲しいな」
「だから何を言って?」
「全裸でスタンバイだなんて、若サマも滾る青少年だったってことでしょ?」
「ぜん、ら……?」
雅人が下を向くと、そこには一糸纏わぬ姿で自己主張するものが。
「なぁぁーっ、なんで!?」
雅人は顔を真っ赤にしてうろたえた。自分はなぜ服どころか、下着も履かずに寝ていたのか。そして、とにかく大事な場所だけは隠そうと、ベッドにあったタオルケットを慌てて掴んだ。
「まぁまぁ、いまさら隠さなくてもイイじゃない。お姉さんが優しくしてあげるから」
「誰がお姉さんだ、年下のクセに! いいから僕が呼ぶまで外に出てろ!」
「えぇ~、せっかくなんだしこのまま――」
言いかけたところで、雅人の枕が飛んできた。夏華は急いでドアを閉め、廊下に退避するのだった。
【五分後】
服を着た雅人は夏華を部屋に招き入れ、朝食の準備に取りかかった。朝は軽く、トーストにベーコンエッグ、サラダ、それにコーヒーとヨーグルト。こんな簡単な食事でも、二人は毎朝一緒に食べていた。
フライパン片手に、雅人は昨夜のことについて考えた。
(昨日着ていたはずの服が見当たらない。そもそも僕は、いつ家に帰ってきたんだ?)
「……サマ、わか……ば」
(バイトが終わって、雨の中を歩いていた。そこまでは覚えている。だけど、その後はいったい?)
「お~い、………すか~?」
(寝ている間に見たおかしな夢。万が一にもありえないけど、もしあれが本当のことだったとしたら……いや、それならもう死んで――)
「若サマッ、焦げてるよ!」
「ん? 焦げるって何が……うわぁっ!」
気付いた時には既に遅し。フライパンに敷いたベーコンが消し炭となって黒煙を上げていた。
「……作り直すよ」
それから更に数分後。二人はテーブル越しに向かい合い、朝食をとり始めた。
トーストにマーガリンを塗りながら、雅人は言いにくそうに口を開いた。
「な……なぁ、夏華。僕は昨日、何時ごろに帰ってきたかな?」
コーヒーの入ったマグカップにミルクを注ぎながら夏華が答えた。
「はぁ? 自分のことなのに覚えてないの?」
「あぁ……えっと、バイトの先輩に無理やり飲みに連れてかれてさ、何も覚えてないんだ」
「あ~ダメなんだ、未成年のクセに。パパに言いつけちゃうぞ」
「それだけは勘弁してくれ。磐田の場合は怒るどころか、特級酒持って駆けつけるはず」
「あはは、それもそうだね。う~ん、そうだなぁ。アタシも寝ちゃってたんで詳しくは覚えてないけど、夜遅くにドアを開け閉めする音は聞こえたよ。たしか……三時か四時、ぐらいだったかな?」
(三時か四時? バイトが終わったのは十時ごろだったはず。それからそんな時間まで、僕は何をやっていたんだ?)
「にしてもさ、そのまま裸で寝ちゃうなんて、そ~と~酔っ払ってたんだね」
「あ? あぁうん、そうなんだ。なにせ記憶がなくなるまで飲まされたからね」
(やっぱりおかしい。それに琢磨って男。まったく見覚えがない人物が、名前つきで夢に出てくるものなのか?)
色々と納得のいかない事柄が多すぎる。雅人は早々と朝食を済ませると、ダメ元でスマートフォンを取り出し、琢磨という名を検索してみた。しかし有名人でもない一個人、それも苗字しか知らない人物を探し当てることは難しく、早々に打つ手がなくなってしまう。
(いや、待てよ。半グレだか何だか知らないけど、奴らはそれなりに大きな集団だった。もし実在するなら、組の連中に知られていてもおかしくないのでは)
夏華も既に自室へ戻っている。雅人は意を決し、古巣の鬼頭組本部へ行ってみることにした。
【午前十時三十分 鬼頭組本部前】
ここへ戻ってきたのは何ヶ月ぶりだろう。敷地面積三百坪を超える和風豪邸は四方を高い塀に覆われ、これぞ極道ものの屋敷といわんばかりの威圧感を醸し出していた。
もっとも、雅人にとっては先日まで暮らした古巣でしかない。だから何食わぬ顔で、正門の隣にある小さな入り口から中へと入ろうとした。だが……。
「おいテメェ、ここがどこだか知ってんのか?」
脱色した髪に派手な柄のシャツを着た、いかにも下っ端といった風貌の男が、ドアに手をかけた雅人の手首を掴んだ。雅人を知らないということは、最近入ったばかりの新人だろうか。
「あぁすみません。僕は昔ここの関係者だった者で、挨拶がてらちょっと寄らせてもらおうと……」
しかし男は敵意むき出しで、
「テメェみてぇなガキが関係者なワケねぇだろ。ちょっとこっち来い」
「いや、だから……うわっ、手を引っ張らないで」
「うるせぇ! いまからオレが、社会の常識ってモンを教えてやるよ」
男が左の拳を振り上げる。
殴られる! 雅人は咄嗟に頭を両手で覆い隠した。
「ガフッ!」
男が呻き声をあげて膝をついた。その背後には、浅黒い肌に紫のスーツを着込んだ別の男が。どうやら彼が雅人を助けてくれたようだ。
「金本、さん?」
横浜周辺で幅を利かせる諫早組。元は源二の代で傘下に加わった、言わば外様のような位置づけだった。しかし汚れ仕事を率先して買って出ることによって一目を置かれ、いまや鬼頭組随一と呼ばれるほどになった武闘派集団である。
そこの組長にして、実力で鬼頭組次期組長候補の一人にまで名を連ねた男、それがこの金本だ。
金本は膝をついた男の前髪を掴んで強引に立たせた。それから相手の額と自分の額を合わせ、グリグリとこすりつけた。
「カタギに因縁付けんなって言ったろ。だいたいこのお方はなぁ、先代のご子息だぞ? ウジ虫が軽々しく声かけてんじゃねぇ」
「す、すいません。知らなかったもので……」
どうやら彼らは親と子の関係らしい。見ると子分の足は震えていた。雅人を前にした時の高圧的な態度はどこへやら。
「あん? 知らなかったら何でも許されると思ってんのか。誰かれ構わず噛み付きやがるから、テメェはいつまで経ってもドサンピンなんだよ」
金本は掴んだ子分の頭を地面に叩きつけた。それからうつ伏せに倒れる子分を見下ろし、憎々しげに腹部を蹴り上げた。
「テメェみてぇな馬鹿がいるとよ、親である俺の評判も下がるんだ。いくら躾けても学習しねぇな、おい」
「ヒ、ヒィィィ! すいません! すいません!」
子分は亀のように丸まって、金本に必死に謝り続けた。しかし金本の怒りはおさまらない。いや、怒りというよりは、相手を痛みつける行為そのものを楽しんでいるようだ。
見かねた雅人は金本を止めに入った。
「もうこの辺で。僕は別に気にしてませんし、外でこんなことやったら近所の評判が……」
雅人の説得を聞いて、金本はようやく落ち着きを取り戻した。
「若がそう仰るなら、まぁ良しとしましょうか。おい、いつまでも縮こまってねぇで、サッサと車を持ってこい」
子分は恐怖で半泣きになりながら雅人と金本に一礼し、駐車場へと駆け去っていった。
その姿を見送りながら、金本は胸元から出した煙草に火をつけた。それからフゥ~と紫煙を吹き出すと、雅人の方に顔を向けた。
「改めて、ご無沙汰しております、若。お元気そうで何よりですな」
「あぁ、はい。お久しぶりです」
正直言って雅人は彼のことが苦手だった。いまの暴力的な行動もそうだが、どこか雅人を小馬鹿にしたような態度が以前から度々見られたからだ。そもそも源二の下についていた頃も、その人望に惹かれたというよりは、力で敵わない相手に渋々従っているような感があった。家族同然の磐田や西原とは、まったくの正反対だ。だからというわけでもないが、雅人は彼に対しては、年上相手の丁寧な言葉遣いをしていた。
「でももう若は止めてくださいよ。組とはもう無関係になったんですから」
「そうですか。では雅人さん、お言葉を返すようで何ですが、カタギの世界に行かれたのでしたら、軽々しく組に足を運ぶのはお控えになられた方がよろしいかと」
何故かはわからないが、普通に諭しているようなその言葉の節々に、どこか侮蔑に近い感情が込められている気がした。
「そ、そうですよね。すみません。ちょっと組の人に話したいことがあったもので」
「ほう、それはどんな?」
「いえ、ちょっとした昔話みたいなものです。ですから磐田か西原……あ、いまは組長でしたね、そのどちらかに会えればと思いまして」
金本に心を開くつもりがない雅人は、適当に話をはぐらかした。それに実を言うと、雅人は今回の件を磐田たちに尋ねるつもりはなかった。仮に琢磨が実在するとしても、そんな輩を彼らが知るはずはないだろうし、何より余計な心配をかけたくなかったのだ。
「そうでしたか。しかし残念ですが、お二人ともいまは外出中ですよ」
「ありゃ、無駄足になっちゃったかな。でもまぁせっかくなんで、手土産だけでも渡して帰ります」
こんな話をしているうちに、先ほどの子分が車に乗って戻ってきた。
「お、来ましたね。それでは雅人さん、もうお会いすることはないでしょうが、どうかお元気で」
「はい、ありがとうございます」
金本の車が去っていくのを見送り、雅人はほっとため息をついた。強面の男たちは見慣れている雅人だが、金本だけは何度会っても慣れないし、緊張してしまう。
「さて、誰かいるかな」
雅人は今度こそ入り口のドアを開けた。
【午後一時 新大久保 駅周辺】
組の本部で顔見知りに声をかけてみたところ、なんと琢磨という人物は実在した。それも十代から二十代の若者を率い、夜な夜な歌舞伎町周辺に現れては、暴行や強盗などといった犯行を繰り返しているのだという。これには警察だけでなく、店からみかじめ料を徴収するヤクザたちも頭を抱えているとのこと。だが相手はいまや外国人街と化している新大久保を根城としているため、なかなか思うように手が出せないらしい。
ちなみに質問の意図については、『その琢磨という男の噂を友達から聞いたから』と適当な嘘で誤魔化しておいた。まさか夢の中で出会ったとは言えない。
「真珠貝、ここか」
地域さえ分かれば、店の特定は存外楽だった。寂れた三階建ての建物。明かりの消えたネオン看板。入り口脇の割れたショウケースには、営業当時の踊り子のポスターが、半分以上破れた状態でまだ残っている。壁にはサラ金やいかがわしい仕事を斡旋するチラシがビッシリ。入り口のドアガラスは割られ、誰でも入れるようになっているが、外から見た限りでは人の気配は感じられない。琢磨が言っていた『潰れたストリップ小屋』はここで間違いなさそうだ。
(本当にあるなんて。でもそれならそれで、どうして僕は生きているのだろう。間違いなく殺されたはずなのに)
そんなことを考えながら、辺りをキョロキョロと見回してみる。幸か不幸か、誰もいない。それから深呼吸をひとつ。
(僕はこんなところで何をする気だ。もしこの先に琢磨がいたら、本当に夢の通りになってしまうじゃないか)
いつになく緊張した面持ちで、割れたドアを慎重に潜り抜ける。やはり人の気配はまったくしない。
(確認だけしてサッサと帰ろう。そして夢で見たことも全部忘れよう)
入ってすぐに、地下へと続く階段を発見。その先には重そうな観音開きの防音ドアが。どうやらここがステージへの入り口らしい。
(もしこのドアが開かなかったら帰ろう。仮に開いたとしても、中に誰かいたら、全速力で逃げよう)
すぐに帰る。そう何度も心の中で繰り返すが、まるで怖いもの見たさのように緊張と興奮が高まり、身体が勝手に動いてしまう。
防音ドア特有の、重い鉄製のノブに手をかけ、力いっぱい下へ倒す。鍵はかかっておらず、ガチャリとフックが外れる音。いとも容易く開いたことに驚く雅人だったが、しかしその感情は、ドアの隙間から漏れ出た悪臭によってかき消された。
「うっ!」
生ごみに血と酢を混ぜたような強烈な臭い。趣味で料理をたしなむ雅人には、これが腐った臓物が放つものだとすぐにわかった。しかもどうやら糞尿も混ざっているらしい。鼻だけでなく目にもくる悪臭だ。雅人は少し嗅いだだけで気分が悪くなり、ズボンのポケットに入れておいたハンカチで、慌てて鼻と口を覆った。
(なんでこんな臭いが?)
理由を調べようにも、ドアの向こうは灯りの消えた地下室。真っ暗で何も見えない。雅人はスマートフォンを取り出し、そのバックライトを懐中電灯代わりに中の様子を伺ってみた。すると……。
「なっ!?」
劇場の床は、赤黒い血液と薄桃色の肉片で埋め尽くされていた。具体的には人体のパーツ。それも一人や二人のものではなく、軽く見ただけでも十人は超えている。そのどれもが、割れた頭蓋骨から脳が漏れ出ていたり、手足をもがれて頭と胴体だけになっていたり、逆に胴体部分だけがミンチ状に潰されていたりと凄惨な有様。作業を終えたばかりの堵殺場よりも酷い惨状だ。
「うぐっ」
雅人は不快感に耐えきれず、いきなりその場で嘔吐した。またそれと同時に、脳の奥底に眠っていた記憶がフラッシュバックした。
「……これをやったのは……僕だ」
それはいまから、ほんの十二時間ほど前の記憶。雅人は確かにこの劇場、このステージの上で晒し者にされていた。殴られ、踏みつけられ、罵倒され、最後には燃やされた。だがその結果、雅人一人では辿り着けなかった境地、感情の極限に達することができた。源二が危惧した通り、雅人には鬼の血が受け継がれていたのだ。
鬼の生命力は凄まじく、無残に焼け爛れた肉体を瞬時に回復させた。さらに両手を拘束していた手錠を、まるで紙でできた輪のようにたやすく引きちぎった。それからゆっくりと立ち上がり、突然の事態に驚く琢磨たちを一望すると、野獣の如き素早さで、入り口のドアの前へと飛んだ。逃げるためではない。この場にいる全員を逃がさないためだ。
その後の惨劇は、殺人などというレベルを超えていた。鋭く尖った爪と牙で肉を削ぎ、強靭な拳で骨を砕く。逃げ惑う者は頭を握り潰し、武器を手に向かってくる者は胴体に風穴を開け、腰を抜かして泣き叫ぶ者は踏みつける。相手が動かない物体と化すまで、強引に、執拗に。
鬼の身体が殺戮を続ける間、雅人の意識ははっきり目覚めていた。しかしいくら頭で殺戮を止めろと命じても、身体はその命令を拒み、勝手に動き続けた。殴る拳に痛みはなく、まるで撮影者視点のドキュメンタリー映像を見ているような気分だった。
数十分後、劇場から一切の音が消えた。鬼は視界から動くものがなくなったことを確認すると、入り口のドアを開け、劇場を後にした。そこから先の記憶はない。おそらく泥酔者さながら、無意識のうちに自宅へと帰ったのだろう。
「これが、鬼……」
雅人は再び嘔吐した。思い出した記憶のせいで頭の中がゴチャゴチャになり、額からはドロリとした脂汗が止まらない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
死に直面した恐怖、自分の正体に対する驚き、グロテスクな死体への嫌悪感、正当防衛ながら人を殺してしまった罪悪感、それらが混ぜこぜになった最悪の気分だった。
(もういい。ここで起きたことは一通り思い出したんだ。人目につかないうちに早く帰ろう)
まずは外に出て口をすすぎたかった。そうすれば、この最悪な気分も少しは晴れるかもしれない。
落ち着きを取り戻した雅人。それと同時に、劇場の奥から響く異音にも気が付いた。
ピチャピチャ、ズズズと、何かを舐め啜るような音。十中八九良くないことの前触れ。何も考えず、一目散に逃げるべきである。
しかし雅人は状況を確認せずにはいられなかった。見えない何かに怯えるより、少しでも現実を見て安心感を得たかったのだ。そこで思わずスマートフォンの光を音のする方へと向けてしまう。
「な……なんだ?」
それは、人らしき形をした肉の塊だった。大きさは雅人を一回り大きくした程度。顔の器官らしきものは一通り揃っているが、赤ん坊の頭ぐらいのブヨブヨした水ぶくれが、身体のいたるところにできている。しかもそれらは時折破裂し、黄ばんだ体液を垂れ流しては、再び新たな水ぶくれを生みだしていた。
雅人が聞いたのは、この化け物が、床一面に広がる血を啜る音だった。犬が水を飲む時のような姿勢で、一心不乱に顔を床に擦りつけていたのだが、下手に雅人が光を当ててしまったため、自分以外の存在がいることに気がついたらしい。顔を上げ、じっと雅人の方を凝視した。
「テメェは、鬼頭」
化け物は人の言葉を発した。
「鬼頭、鬼頭……あぁ、鬼頭の野郎だ」
「誰だ?」
「オレだよ、琢磨だよ。忘れたとは言わせねぇぞ」
既に雅人は昨夜の夢のことを現実の出来事として認め、しっかりと記憶している。その中で琢磨は、確かに首を引きちぎって殺したはずだった。
「アンタは死んだはずじゃ?」
「目が覚めたらこのザマだった。テメェ、オレに何しや――」
話の途中で、琢磨の口元にある水ぶくれが大きく膨らんだ。琢磨は煩わしそうに水ぶくれを掴み、強引に握り潰した。
「……クソが。無性にのどが渇く。どんだけ飲んでも落ち着かねぇ」
そう言って琢磨は再び、床の血に舌を伸ばし始めた。ビチャビチャと耳障りな音が暗闇に響く。
「身体中痛い、身体中かゆい。なんでオレがこんな目に。全部テメェのせいだ」
「僕は抵抗しただけだ。その姿のことは知らない」
「許せねぇ、許せねぇ、ゆるせねぇゆるせねぇゆるせねぇゆるせゆるゆるゆるユユユるユユルユゆユユ……」
琢磨は壊れた機械のように、言葉にならない声を繰り返した。明らかに様子がおかしい。襲われる前に逃げなければ。雅人は一歩、二歩と慎重に後ずさった。
「ニゲンナ!」
気付かれた。琢磨はその見た目からは想像もつかない速さで雅人に飛び掛かった。
「なっ!?」
雅人は避けられず、あっけなく琢磨に押し倒された。両手で両肩を押さえつけられ、まともにもがくことすらできなかった。
「お、オマ……ころコロこここ殺すころろコロス殺殺殺殺ろろろ」
琢磨の口内から、赤いひも状の物体が飛び出した。長さにして一メートル超。常人とは比較にならないサイズだが、それは間違いなく舌だった。おそらく化け物になった影響なのだろう。左右に揺れ動き、雅人の頸動脈を探る姿は、まるで頭をもたげる蛇のようだ。
「ぐあっ!」
狙いを定めた舌が、雅人の首筋に突き刺さった。刺された痛みはそれほどでもなかったが、舌が頸動脈に吸いついて離れない。しかもそこから血を吸っているらしい。雅人は急激な体温の低下と脱力感を感じた。
(このままでは殺される。変解……鬼にならないと。だけど、できるのか?)
昨日は気を失い、一種の防衛本能が働いたおかげで変解できた。今回も状況的にはさほど変わりないはず。強い感情。いまであれば、死にたくないという思い。意識を集中させ、ただひたすらにそれを願えば……。
「変解!」
ほんの一瞬、視界が強い光に包まれた。その光の中で雅人は、全身に力が漲っていくのを感じた。そして開放感。窮屈な檻の中から、繋がれた鎖から解き放たれたような心地良さ。『荒神から人の姿に化けた』と源二のノートには書かれていたが、雅人もいまならそれが信じられた。身長こそ人の姿と変わらず百七十センチ程度。なれど全身を覆う鋼鉄のごとき筋肉。硬く鋭く尖った爪と二本の角。この姿こそが本当の自分だったのだ。
鬼に変解した雅人はまず、肩を押さえ込んでいた琢磨の腕を振りほどいた。続いて自由になった右手で頚動脈に突き刺さっていた舌を掴み、そのまま強引に引きちぎった。
「グギャァァァァァー!」
琢磨は仰け反り、苦痛にもだえて叫んだ。
「このばケモんがぁぁぁー!」
再び生えてきた舌で、どうにか聞き取れる言葉を吐き捨てる。どちらが真の化け物なのやら。
雅人は上体を起こす勢いで琢磨を跳ね飛ばし、今度は自分が馬乗りに。それから間髪入れず、垂直に、鉄杭のごとき拳を琢磨の顔面に打ち込んだ。
グシャリ
骨の砕ける乾いた音と、血管が弾ける音の二重奏。琢磨の顔に、雅人の拳と同じサイズの穴が開く。勝敗はこの一撃で完全についた。舌が再生した時は不死身かと若干危惧したが、頭までは治しようがないらしい。
「……ッ!」
危機が去って緊張が解けたのだろう、雅人は急な脱力感に襲われ、うつぶせに倒れた。変解も自然に解け、人の姿に戻った。血塗れの床に衣服が汚れてしまうが、そんなことを気にかける余裕もなかった。
「はぁ……はぁ……」
昨夜からここまで、衝撃的な事態が山積みだった。並みの高校生には刺激が強すぎた。前もって知らされていた鬼の存在はともかく、自分が襲われた理由と化け物になった琢磨、これらはいったい何だったのだろうか。しかし当然のことながら、こんな悪臭漂う場所では頭は回らなかった。
(考えるのは後だ。とにかく帰ろう)
雅人は疲れた身体に鞭を打ち、立ち上がって劇場のドアを開けた。
「ひぃぃーっ!」
ドアの向こうから甲高い男の悲鳴が。見るとそこには、趣味の悪い柄シャツを着た若い男が腰を抜かしていた。いまの戦いを覗いていたらしい。
男は雅人と一瞬だけ目を合わせると、腰を抜かしたまま数歩後退。それから慌てて立ち上がり、一目散に逃げ去った。
「まずい、追いかけないと」
しかし追いついたところで何もできない。まさか口封じに殺すわけにもいかないだろう。それより急いでこの場から立ち去るべきではないか。
迷っている暇はない。雅人は逃げた男に負けない速さで劇場から離れた。その時になって初めて服が血だらけであることに気づいたが、運よく公園のトイレを発見。そこの洗面所で最低限の血を洗い流し、電話でタクシーを呼んだ。
運転手は雅人の様子を訝しんだが、特に何かを聞くわけでもなく、無事に自宅アパートまで運んでくれた。
【午後十一時十五分 雅人のアパート】
雅人が自宅に到着したのは午後の四時前だった。幸い夏華は出かけていた。この隙に服を洗い直し、シャワーを浴び、夕飯の仕度。本当は食欲がなく、いますぐにでも眠りたかったが、夏華に不審に思われたくなかった。
やがて夏華が帰宅。友人と遊びに行っていたそうで、特に雅人の様子を気にかける素振りはなかった。
そんな彼女が自分の部屋に戻ったのは八時十分。それから雅人はベッドに倒れ、三時間ほど死んだように眠った。
(とりあえずの疲れは取れたか)
日をまたぐ前に目覚め、暗がりの中で体調を確認する。どうやら身体の方は問題なさそうだ。琢磨にやられた傷も、最初からなかったかのように綺麗になっていた。
ただし心のダメージは、いまだに癒えていなかった。化け物になった琢磨、同じく化け物になった自分。思い出すだけでも頭がおかしくなりそうだ。
何より、昼間は感じた殺人の罪悪感を、いまは微塵も感じていないことが恐ろしかった。殺した者たちこそ狂人ばかりで、無残な最期も自業自得。雅人が責められる謂れはない。が、そんな理屈を抜きにしても、蚊を叩き潰した程度の感情しか湧かないのだ。これが鬼になった証、人間に同族意識を持たなくなったことの表れだとしたら、ただひたすらに不気味で、恐ろしい。自分はこの先どうなってしまうのだろうか。
(そうだ、親父のノート。あれを読み返してみよう)
半信半疑だった以前と違い、いまは自分の身で思い知らされている。だからノートを読み返せば、必ず役に立つ発見があるはずだ。
しかし、すがれる藁があることに安心したのか、身体を動かすよりも先に意識が遠のき、今日のところは再び眠りについてしまうのだった。
4
【八月十五日 午後十時四十分 高架下】
アスファルトを覆う鮮血、折れた骨が突き出た肉塊、高架の柱に貼り付いた腸とその内容物。まるで爆発四散したかのような有様である。今回の相手は再生能力が極めて高く、完全に息の根を止めるにはミンチにするしかなかったのだ。
「くっ……」
雅人は変解を解き、足早に現場から立ち去った。
先日の一件から数日、雅人はなおも謎の襲撃を受けていた。相手は初老の浮浪者、みすぼらしい東洋人、手足の震えを酒で抑える中年男性など。誰もが金に困っていそうな怪しい人物ばかり。雅人の姿を見た途端、化け物となって襲いかかってきた。幸い狙われるのは決まって人気のない場所で、いままで鬼の姿を他人に見られたことはなかった。しかし化け物たちはまともに言葉が通じず、持ち物は例の殺害依頼メールが入った携帯電話のみ。雅人はメールの差出人も襲われる理由もはっきりしないまま、場当たり的な戦いを余儀なくされていた。このままでは肉体はともかく、精神が悲鳴をあげそうだ。
【八月十九日 午前八時 雅人のアパート】
「若サマ、最近家から一歩も出てないけど、何かあったの?」
いよいよ雅人の精神は限界寸前まで追い詰められていた。いつ襲われるかわからない恐怖。もう三日は引きこもっているが、化け物が家まで押しかけてこないという保証はなく、少しも気が休まらない。
「何でもない」
「でもさ、あからさまに変だよ? 目も何だか濁ってるし」
こんな気遣いですらも、疲れ切ったいまの雅人には煩わしかった。一人にさせて欲しい。しかし一人になったところで眠れない。余計な不安感が増し、無駄に神経ばかりが過敏になる。興奮しているわけではないのに鼻息が荒くなる。
「あっ、ひょっとしてかなり特殊な一人遊びを――」
「うるさいな!」
「ひゃっ!」
苛立ちからついあげてしまった大声は、夏華だけでなく、雅人本人をも驚かせた。
「ごめん。その……ホントに何でもないんだ。ただちょっと疲れてるだけで……」
雅人は失言を謝罪し、ばつが悪そうに目を逸らした。
そんな雅人を夏華はまじまじと見つめた。特に怒っているようには見えないが、彼女にしては珍しく真剣な眼差しで、何を考えているのかわからない。
それからややあって、夏華は、
「ふむ……よし、わかった」
と一人で納得し、
「若サマ、アタシとデートしようぜい」
唐突に雅人を誘った。
「ヒトの話を聞いてた? 疲れてるって言ったろ?」
「そんな時は糖分補給がイチバン。だから目的は、有名スイーツ店巡りでどうよ?」
相手の気持ちを知ってか知らずか、夏華は一方的にこの後の予定を決め、雅人を強引に外へと連れ出した。
「よし、とりあえず近場から攻めてこう」
【午後一時 銀座のカフェ】
飲食店を中心に、昼休み客で慌ただしい銀座の町並み。二人は昼食を抜いて、早くも二軒目のカフェに到着。窓際の席で看板スイーツとアイスティーを注文した。
「んん~、これはイケる! ほら見て若サマ、中心はバニラアイスになってんだよ」
「あ、うん……」
夏華が嬉しそうに声をかけても、雅人の反応は薄い。窓の外を警戒しつつ、作業的にケーキを口に運んでいた。
「はぁ……心ここにあらず、だね」
アパートを出た時からずっとこの調子だった。夏華がいくら関心を引こうとしても、雅人は何も反応しないのだ。
「ねぇ若サマ、ひょっとして、なんだけどさ……」
上目遣いに夏華が尋ねる。
「うん?」
うわの空で答える雅人。
「ひょっとしてぇ~……鬼になった?」
まるで髪を切ったか尋ねる程度の軽い一言。これまで何を話しても無反応だった雅人が、『鬼』の一言で急に目を見開いた。同時に席を立ち、いまにも噛み付かんばかりの勢いで夏華を詰問した。
「何でお前がそれを知ってる!」
この急変にはマイペースな夏華も仰天した。
「ちょっ、若サマ、落ち着いて」
「どの口がそんなことを。こっちは殺されかけたんだぞ!」
「ここ外だから。知ってることは全部話すから。ね、落ち着いて」
ほかの客や店員、全員がこちらを見ている。雅人は落ち着きを取り戻し、そそくさと再び席に座った。
「わかった、話してくれ」
流石は都会の一角。静まり返ったのは一瞬だけで、雅人が席に着くと、二人に関心を持つ者はいなくなっていた。
「単刀直入に言うよ。アタシが若サマの隣に越してきたのは、パパから二つのことを頼まれたからなの」
「二つ?」
「ひとつめ。どんなエロい手を使ってでも若サマを落として、ウチの家族にする」
困ったことに、夏華の目は真剣だった。こんな冴えない自分になぜそこまで執着するのか。疑問に思いながらも、雅人はこの目的を聞き流した。
「……まぁそれはいいや。二つめは?」
「ふたつめは、若サマが鬼になったとしても、いままで通りに接してあげる」
「ちょっと待った。そもそもお前が鬼のことを知ってるのはどうしてだ?」
「ウチはずっと前から鬼頭の家と付き合いがあるんだよ? 中には嫁入りだか婿入りだかしたご先祖様もいるそうだし。だから知らないワケないじゃん」
言われてみれば当然のことだった。磐田家は先祖の代から鬼頭組に、鬼頭家に尽くしてきたのだ。その中で鬼の存在を知り、子孫に伝えた者がいても不思議ではない。
「まぁアタシは直接見たことないけどね、その鬼ってヤツを。やっぱアレなの? 虎柄のパンツ履いてウクレレ弾いたり?」
「それは雷様だろ。質問はもうひとつある。僕を襲った理由は?」
「そう、それ! さっき殺されかけたとか言ってたけど、何があったの?」
夏華は本気で心配している。とても嘘を吐いているようには見えない。
「お前じゃないのか?」
「夜這いならともかく、アタシが若サマ殺して何の得があんのさ」
「いや、夜這いも勘弁してくれ」
夏華は身内だから鬼を知っていた。雅人を襲った黒幕も、意外と近しい人物なのではなかろうか。可能性としてはかなりあり得るが、正直その線で探りを入れたくはなかった。もし身内に裏切られていたのだとしたら精神的に辛い。疑うだけでも胃が気持ち悪くなる。
「ねぇ、パパにも相談してみない?」
「磐田に?」
「パパならそれなりに顔が広いし、おじさまとの付き合いも長かったからさ。力になってくれるハズだよ」
そもそも夏華は、父親である磐田から鬼の話を聞いたという。意外と鬼になりたての雅人より事情に詳しいかもしれない。少なくとも一人で抱え込んでいるよりずっと前向きだ。
さっそく磐田に連絡すると、すぐアパートに向かうとの返事をもらえた。
【午後二時三十分 雅人のアパート】
「若、一日だけ我慢してくだせぇ!」
雅人たちの帰宅とほぼ同じタイミングで、磐田はアパートに駆け付けた。なぜかやたらと鼻息荒く、いまにもゴリラのように胸を叩きそうな勢いだ。その傍らには、いまや鬼頭組三十二代組長の西原がいた。興奮する磐田を放っておけず同行したとのこと。
「ひとまず明日の朝までに兵隊二千を揃えやす。それで足りなけりゃさらに――」
「ちょっと待った! いきなり兵隊とか勘弁してよ」
「若を殺ろうなんてナメた野郎にゃ、これでも足りねぇぐらいですぜ」
黒幕を探す相談で呼んだのに、どうやら早合点して戦争を始めるつもりらしい。
「そもそも相手が誰だかわからないんだっての」
「それこそ兵隊使って虱潰しに探せば、どうとでもなりまさぁ」
「落ち着いてください。そんなことをすれば警察沙汰ですよ」
雅人と西原がどれだけ宥めようとしても、磐田の耳には入らなかった。これでは相談どころではない。
「若をお守りするためなら、あっしは軍隊とも――」
スパーン!
磐田の言葉を遮る軽快な打撃音。夏華は父親の頭をスリッパで思いっきりはたいた。
「いい加減にして! 何のために呼んだと思ってんの?」
この一撃で磐田はケロっと大人しくなった。まるで猛獣使いの鞭である。
「あ、すまん」
この親子と長年付き合いのある雅人ですら初めて目にした光景だった。西原にしてもそれは同じで、思わず二人揃って目を丸くしてしまった。
「いつものことだから気にしないで。それよか早く本題に入ろ」
磐田と夏華は仲が良い。こういう親子の形もあるのだと雅人は妙に納得した。
「じゃあ本題に入らせてもらうけど、その……」
磐田の問題が片付くと、次は西原のことが気になった。西原がすぐにそれを察する。
「ご安心ください、鬼の件は私も知っています」
西原の意外な発言に、雅人は再び驚いた。今度は磐田が察し、いまの発言に補足を入れた。
「組長はガキの頃に先代に助けられたって話をしたでやしょ。そん時に鬼の姿を見てるんでさぁ」
二回り近く歳の差があるためか、磐田は西原を組長と呼び、西原も磐田のことを『さん』付けで呼んでいる。
「なるほどね。二人が力になってくれるなら心強いよ」
雅人はテーブルの上座に年上の二人を座らせ、自分は下座に。夏華も四人分の冷茶を用意すると、雅人の隣に腰を下ろした。
「まず、ここ数日の出来事を一通り報告するよ」
半グレ集団に拉致されたこと。鬼の力に目覚めて返り討ちにしたこと。ストリップ小屋で琢磨が化け物になって蘇ったこと。その後も出かける度に化け物に襲われていること。雅人は全てを包み隠さず三人に語った。
三人は黙って話を聞いていたが、夏華はただただ驚き、磐田は腕を組んで小声で唸り、西原は事細かくメモを取りと、三者三様の反応を示した。
「若サマ……アタシが見てないトコで、そんなハードな生活してたんだ」
「もっと早く気付いてりゃ良かったんでやすが。すいやせん」
「いや、隠していたのは僕の方だし」
誰にも相談できない、自分の素性を知られるわけにはいかない。雅人はそう考えていたので、現状を打ち明けられただけでも気持ちがだいぶ軽くなった。
西原がメモを取る手をいったん止め、雅人に顔を向けた。
「ひとつ気になることがあります。若はこれまでに何度も襲われたんですよね?」
「うん」
「その場所は?」
「最初はいま話したストリップ小屋。それ以外だと、グラウンド脇の路地とか空家の前とか、人通りの少ない場所ばかりだね」
「なぜ、ニュースになっていないのでしょうか?」
「…………あっ!」
いくら人通りが少ないとはいえ、都内の街中である。ましてや夏場の血肉は強烈な悪臭を放つもの。誰かが通りかかり、通報してもおかしくないはずだ。にもかかわらず、ニュースどころか地域住民の噂ひとつ聞いたためしがない。むろん、雅人の体験は現実のものである。が、それを裏付ける証拠が一切発見されていないのはどういうことか。
「敵を倒すことばかり考えて、そこまで注意がいってなかった」
「試しに確認してみませんか。ここから近い現場だけでも」
【午後三時五十分 高架下】
自宅アパートから徒歩でおよそ十分。先日襲われたばかりの高架下。ここで雅人は確かに敵を惨殺し、地面や柱を血で塗りたくったはずだった。ところが数日経ったいま改めて来てみると、血痕どころか一滴の染みすら見当たらなかった。
「こんなはずない。僕は間違いなくここで返り討ちにしたんだ」
戸惑う雅人に夏華が尋ねる。
「夢だった可能性は? 最近暑くて寝苦しかったし、寝不足で夢と現実がごっちゃになったとか」
「中二病の妄想じゃあるまいし。何だったらこの場で変解してみせようか?」
「その必要はありやせん。若は間違ってませんぜ」
場慣れしている大人二人は何かに気付いたようだ。コンクリート製の柱を注意深く観察し、それからお互いの顔を見て頷いた。
「柱が綺麗すぎます。最近掃除を、それも業務用の洗剤まで使って洗浄していますね」
そう言って西原は、洗浄された箇所所とされていない箇所の境目を指さした。指摘されなければ気付かないほどの違いではあるが、確かに柱の色にはムラがあった。
「でもこんなの、素人目にわかる違いじゃないよね? 証拠にしては曖昧すぎない?」
なぜ洗剤を使ったなどとわかるのか。話を信じてもらいたい雅人の方が、西原の推理に否定的になってしまった。
磐田が若干気まずそうに答える。
「まぁ職業柄と言うかですね……専門の掃除屋に伝手があるんでさあ」
「職業柄? ……あー」
源二の代で東日本を手中に収め、余計な抗争や不法なシノギを減らす努力はしてきたが、鬼頭組は反社会的勢力である。表立って公表できない問題は必ず起こり、その際に出た『厄介なもの』を片付ける掃除屋の世話になることも少なくなかった。
「蛇の道は蛇とは言いますが、掃除屋を使ったということは、若を襲った首謀者は裏社会の者に間違いないでしょう」
普通の生活ではまず聞くことがない単語がチラホラと。それだけ一般社会から外れた事件であるわけだが、夏華は異常事態である点を考慮に入れても、西原の推理にいささかの疑問を感じた。
「う~ん、それもどうなんだろう」
「と、仰いますと?」
「相手は本気で殺しに来てるんだよね? 律儀にお掃除していくもんかな」
「相手も話を大きくしたくないのでしょう。なりふり構わないのであれば、若の正体をマスコミにでも流せば一発ですから」
それがたとえ三流ゴシップ誌だったとしても、記事にさえなってしまえば、興味を持つ人間が必ず現れる。恐らく他人の人権など平気で無視して、プライベートの暴露に躍起になるだろう。そうなれば雅人は終わりだ。噂が消えるまで雲隠れを強いられる程度ならまだ良い。変解を見られでもしたら、化け物として処分されるか、はたまた珍獣として監禁されるか。しかし相手はなぜかそれをしてこない。ならば雅人にも、まだ企みを阻止するチャンスがあるということだ。
「襲撃や掃除のタイミングを計る見張りが、必ずどこかにいるはずです。組の者を使って洗い出しましょう」
「それはできれば遠慮したいかな。騒ぎを大きくしたくないし、組員たちが襲われる危険だってある」
さらに言えば、仮に鬼の存在が組員たちから世間に広まりでもすれば本末転倒である。
「では私と磐田さんで」
西原は雅人のこととなると冷静さを失うようだ。
「気持ちは嬉しいけど、組長と若頭が高校生一人について回るとかおかしいでしょ」
「父親が息子を守るのは当然でさぁ」
磐田は平常運転だ。
「色々と間違ってるから。いいこと言った風にドヤ顔しない」
空気が緩んだところで四人は頭を切り替え、現場の一帯を事細かに調べた。見張り役ないし掃除屋を特定できる証拠の発見に期待したのだ。しかし残念ながら、洗剤のキャップひとつ見つからなかった。
「まぁ掃除のプロがゴミを残していくはずないか」
「ゲームならこういう時、鍵とか拾うんだけどね」
夏華がわざとらしく両手を挙げて首を振った。
「だけど相手を見つけるヒントがわかった。それだけでも大きな収穫だよ」
時計は午後五時を過ぎていた。真夏とはいえ暗くなり始めている。これ以上ここにいても時間の無駄だろう。雅人は探索の打ち切りを指示した。
「長々とつき合わせて悪いね。トップ二人が不在で、組の方は混乱してるんじゃない?」
雅人は相談に乗ってもらえただけで十分に満足していた。焦りや警戒心はまだあるが、一人で悩み続けていた時より気持ちが楽になっていた。
「がはは、そこまでヤワじゃありやせんて」
磐田が豪快に笑い飛ばした。
「それよりもうすぐ夜ですね。たまには外食なんていかがです?」
西原は話し足りない様子だった。内容こそ緊急の相談事だったが、久々に雅人との再会である。新組長として激務に追われる中で、よい息抜きになったのだろう。
それは雅人も同じだった。数ヶ月ぶりに会った身内ともっと話したかった。
「そうだね。いまからご飯を作るのもダルいし、おいしいものでも食べて気分転換したいよ」
「はいはーい! アタシはお寿司を所望したい」
夏華が我先にと希望を述べた。残りの三人も同意し、磐田の行きつけの店へ行くことに決まった。
「では車を呼びます」
車はアパートの裏に止めてあった。西原は運転手に連絡しようと、懐からスマートフォンを取り出した。
「待った。何かいる」
雅人は身構えた。何度も襲われるうちに身に付いた感覚。前後左右から複数人の気配。自分たちを取り囲んでいる。
「いままでは一人の時しか襲ってこなかったのに」
夢遊病者のようにゆっくりと、足を引きずりながら現れたのは六人。伸ばし放題の髭と、黒ずんだボロ布を纏った姿から、一目で浮浪者の集団だとわかる。しかも口の周りや身体の一部を血で汚し、クチャクチャと生肉らしきものを咀嚼していた。
「な、なに、コイツら……」
あまりのおぞましさに夏華がおののいた。無理もない。まだ会話が可能だった琢磨とは違い、目の前にいる六人は、白痴のような奇声を上げるだけ。まさにB級映画のゾンビそのものだったのだ。
「ゴェッ!」
浮浪者の一人がいきなり嘔吐した。反射的に吐瀉物を目で追うと、それは濁った色の生肉と、茶色がかった毛髪の塊だった。どうやら飲み込めず、喉に引っかかっていたらしい。さらに毛髪には安物のネックレスが絡まっていた。西原はそのネックレスに見覚えがあった。
「残念ですが、運転手は食われたようです」
雅人たち四人の顔が引きつった。ただひたすらに気持ちの悪い光景。全身水ぶくれの琢磨も大概だったが、今回はそれに輪をかけて不快だった。
加えて、雅人には懸念があった。これまでの襲撃と違い、今回はそばに夏華たちがいる。浮浪者たちを倒すのは困難ではなさそうだが、勢い余って彼女たちも巻き込んでしまうかもしれない。
「僕が何とかする。みんなは下がって」
狙われているのは自分だけのはず。ほかの者は見逃してもらえるのではないか。雅人はその可能性に賭けたかった。少なくとも自分といるよりは安全だと思った。
しかし三人とも、特に磐田は、頑としてその提案を聞き入れなかった。
「冗談じゃないですぜ。若を見殺しにできやすかい」
「力の加減ができそうにないから言ってるんだ」
「ですが……」
雅人は浮浪者たちを警戒していたが、一瞬だけ、磐田の方へ注意を集中させてしまった。その一瞬をついたか、単なる偶然か、浮浪者の一人が雅人の首筋に飛びかかった。お互いの距離は五メートル以上。しかし化け物の脚力は尋常ではなかった。大砲の弾のごとき突進。瞬きする間もなく距離を詰められる。避けられない。
「若!」
西原が叫び、雅人の後方から体当たりをかました。おかげで雅人は敵の攻撃から逃れられたが……。
「くはっ!」
身代わりとなった西原の左肩に、浮浪者が強く噛みついた。頑丈なはずの肩肉に歯が深々と食い込み、シャツが鮮血に染まる。このまま骨ごと噛み砕くつもりらしい。ほかの浮浪者たちもいまが好機と捉えたか、大きく口を開いて西原に殺到する。
「西原!」
身内を傷つけられた怒りと殺意。単なる自衛ではなく、心から敵を引き裂きたいという衝動。それらは雅人にとって、まったく未体験の感情だった。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁー!」
わざわざ意識する必要はない。激しい怒りが、既に鬼の肉体を呼び寄せている。全身がみるみる膨張し、反対に筋繊維の一本一本が引き締まっていくのを感じた。
雅人はまず、西原に噛みつく浮浪者の頭部を鷲掴みにした。人の姿ならいざ知らず、いまは筋骨たくましい鬼である。指先からはみ出る大きさであろうと、力強く掴んで離さない。そして、握りしめる。固いはずの頭蓋骨が、いまの雅人には生卵のよう。パキッという乾いた音とともに砕け、柔らかくも粘つく脳と、硬さの中に弾力を含んだ目玉の触感が掌に伝わった。それから、倒した浮浪者を早々に投げ捨て、次の獲物の接近に備えた。
浮浪者の二人目と三人目が、同時に雅人に噛みついた。二人目は右足の脛に、三人目は左腕の手首に。さらに四人目が首筋の頸動脈に迫る。
雅人は嬉しそうに口元を吊り上げると、まず三人目ごと左腕を持ち上げた。それを首筋に迫る四人目に振り下ろし、そのまま足にまとわりつく二人目の上へ。重ねられた身体は衝撃に耐えられず、破裂して臓物をまき散らした。
これで四人が終わった。残るは二人だが、僅かながら考える頭が残っていたか、それとも本能で危険を察知したか。圧倒的暴力を披露した雅人を前に、一歩、また一歩と、恐る恐る後退を始めた。
雅人は一足飛びで二人の背後へと回った。それから両手を、それぞれの背中へ一刺し。胸まで突き抜けた手刀を持ち上げ、上半身を縦に両断した。
ここまででおよそ三分。戦いとはとても呼べない、一方的な虐殺劇だった。しかも殺意に酔った雅人は完全に正気を失っていた。先ほど頭部を握り潰した遺体を拾い上げ、赤ん坊が手にしたものを振り回すかの如く、何度も地面に叩きつけた。まだまだ遊び足りないらしい。
「わ、若サマ……」
残された三人は雅人の凶行に驚愕し、ただ呆然と成り行きを見守っていた。戦いは終わった、敵はもういない。雅人にそう伝え、守ってくれた礼を言いたいのだが、暴走を続ける彼は危険すぎて、声をかける隙がなかった。
破壊衝動のはけ口となっていた遺体が完全に壊れた。雅人は手元の感覚がなくなったことを確認すると、周囲をゆっくりと見回した。次のおもちゃを探しているのだ。そして、夏華を目に留めた。
「……マジ?」
夏華は動けなかった。雅人に見られた時点で足がすくんでいた。
一歩一歩、ゆっくりと近づく雅人。もし夏華が逃げ出す素振りを見せていたら、反射的に彼女を追って仕留めていただろう。
結果論ながら最悪の流れだけは回避できた。しかし雅人を正気に戻せなければ行きつく先は同じだ。夏華はこの場を切り抜けるべく頭を捻ったが、返り血で顔を赤く染めた雅人の迫力に圧倒され、少しも考えがまとまらなかった。
「若!」
「夏華!」
西原と磐田が雅人に飛びついた。力尽くでも止めなければならない。大柄な磐田はもちろんのこと、西原もそれなりに体を鍛えている。普段の雅人であればどちらか一人でも楽に押さえつけられるのだが、しかし鬼相手には全くの無力だった。
雅人は煩わし気に腕を振り回した。これだけで磐田と西原は引き離され、五メートルほど宙を舞った。浮浪者たちのように殺されはしなかったが、単に後回しにされただけの模様。どうやら雅人は三人の中で最も『食いで』がなさそうな夏華から片付けるつもりのようだ。
雅人が夏華の前に到着。彼女の喉元に右手を伸ばす。
「こ、こうなったら!」
夏華は迫る右手を避け、逆に自分から手を伸ばして、雅人の頭部を抱きしめた。
「若サマ、もう終わったよ」
優しい抱擁。抵抗するのではなく、受け入れる。腕の中の赤子を寝かしつけるように、丁寧に何度も頭をなでる。
「若サマのおかげでみんな無事。だからもう、落ち着いて……」
余裕と慈愛に満ちた姿を装っているが、しかし声は若干震えていた。いまの雅人は飢えた大型肉食獣さながらの危険な状態。それを胸に抱き、大人しくさせようとしているのだから当然である。一か八かの賭けだった。
夏華の突拍子もない行動に雅人は虚を突かれ、誘われるまま彼女の胸元に頭を預けた。振りほどくことは容易。むしろ相手から急所をさらけ出してきている。だからこのまま心臓を一突きにでもすればいいのに、なぜかそれができない。暖かくも柔らかい感触に包まれ、興奮で強張っていた全身から力が抜けていく。
「落ち着いて。落ち着いて……」
夏華の囁きが子持り歌のように頭に流れ込む。それに洗い流されるように闘争心が遠のき、入れ替わりで雅人本来の意識が戻ってきた。
「僕………は……?」
姿はいまも鬼のままだが、口調は頼りないお坊ちゃん然としたいつもの雅人だ。
「若サマ? 正気に戻ったんだね」
言われたところで雅人は自分が夏華の胸の中にいることに気付き、慌ててそこから脱出した。
「ごご、ごめん! もう大丈夫!」
「ありゃ残念、このまま堕としたかったのに」
軽口の割に夏華の膝は笑っていた。
「つつっ……」
雅人に飛ばされた大人たちも起き上がってくる。
「夏華、守ってやれずにすまん。若も申し訳ございやせんでした」
磐田は親としての不甲斐なさから頭を下げた。
「謝るのは僕の方だよ。夏華が機転を利かせなかったら本当にマズかった」
鬼になるということは甘いものではない。雅人はいま初めて源二の言葉を実感した。浮浪者に傷つけられた西原を見て逆上。ここまでは至極人間的な感情による行動だった。だが変解した後は嬉々として弱い者いじめを楽しんでいた。倒すべき浮浪者たちは元より、守るべき夏華たちでさえも、鬼となった雅人には動く粘土細工のように見えた。握り潰して遊びたいという衝動を抑えきれなかった。夏華の博打が成功しなかった場合を想像すると、浮浪者などより自分の方が何倍も恐ろしい。心をしっかり持たねば、鬼の残虐性に流されては駄目だと、今更ながら肝に銘じた。
「今回は本気で感謝してる。よくあんな方法を思いついたもんだ」
「ドーテーくんは女の子の匂いに弱いからね。まぁキョドって暴れられたらヤバかったけど」
「ド……それは関係ないだろ!」
「声が裏返ってる。そんな見た目でカッコ悪いよ?」
「うるさい!」
二人のやり取りを磐田が満面の笑みで見守っている。恐らく娘夫婦の痴話喧嘩にでも見えるのだろう。夏華の生意気な物言いは安堵の裏返しということで我慢できるが、磐田の態度には若干腹が立つ雅人だった。
「お話し中のところすみません、若」
西原が話に割って入った。
「西原、怪我は?」
肩の傷はかなり深いようで、シャツの袖から血が滴り落ちていた。
「はは、若を止めるのに必死で、痛みなど忘れていましたよ」
命の危険はなさそうだが、早くきちんとした治療を受けさせるべきだ。
「私のことよりも若、まだ見張りがどこかにいるはずです。野次馬が来る前に、早く」
急なトラブルのせいで忘れていた。ここまでの大騒ぎをしながら誰も様子を見に来ないということは、どこかに見張りがいて、人払いをしつつ雅人たちを監視している可能性が高い。
雅人は鬼の姿のまま跳躍。軽々と高架の防音壁に飛びついた。そして多少なりとも高い場所から周辺を見回すと、ここから二十メートルと離れていない脇道に、趣味の悪い柄シャツを着た若い男を発見した。
男はビデオカメラを構えていたが、雅人に見つかったことを自覚したのだろう。慌てふためき、後ろに停めたワゴン車に乗り込もうとしていた。
これ以上ないほどあからさまな見張り役だ。むしろこんな、いかにも見つけてくださいと言わんばかりの存在に、なぜいままで気付かなかったのか。敵の対処で手一杯だったとはいえ、雅人は己の不甲斐なさに落胆した。
「後悔は後回しだ」
防音壁から飛び降りて男の目の前へ。有無を言わさず襟首を掴み、来た時と同じく跳躍して西原たちの前へ。皆で囲んで男の退路を断ったところで変解を解いた。
「如何にもって感じの人がいたよ。でもこの人、どっかで見たような?」
男は『ひぃぃーっ!』と悲鳴をあげつつその場にへたり込んだ。どこかで聞いた悲鳴だ。
「そうだこの人、ストリップ劇場でも僕を見張ってた」
「なんだお前、木田じゃねぇか」
磐田はこの男を知っているらしい。
「知り合い?」
「知り合いも何も、金本んトコの使いっぱしりでやすよ」
「金本って、諫早組の?」
ここまで言われて、ようやく雅人は思い出した。鬼頭組本部前で雅人に食ってかかり、金本からきつい躾を受けた男だ。
「ということは、今回の件は金本さんが黒幕ってこと? でもどうして?」
木田は声を裏返らせながら命乞いをした。
「オ、オレは何も知らねぇッス。おや、おや……親父の命令で……」
嘘ではなさそうだ。というより、仮に金本以外が主人だとしても、見るからに下っ端であるこの男に、命令の意図を説明する者はいないだろう。
「落ち着け。とにかく、お前は何をやってたんだ?」
怯える木田を宥めながら、磐田がゆっくりと尋ねた。
「ああああ、あいつら……あのバケモンをはこ、運んで……雅人……さんを襲うところを撮って………終わったら……おや、親父と、そ、掃除屋に……連絡、を……」
見張り役と掃除役、全て西原の仮定通りだ。
「見張りはお前一人か?」
「オ、オレだけです」
「ではとりあえず、掃除屋を呼んでもらった方がいいでしょう」
西原が次にとるべき行動を提案した。痛む肩口は、夏華にハンカチで血止めをしてもらっている。
いまのところ部外者に目撃されていないようだが、ここが夕暮れ時の住宅街である以上は時間の問題だ。金本の考えはともかく、一刻も早く片付けてしまった方が双方にとって都合がいい。
雅人たちは震える木田をどうにか落ち着かせ、掃除役に連絡させた。既に近くで待機していたらしく、五分以内に到着するとのこと。
これで目の前の問題は何とかなりそうだ。雅人は次いで、本題ともいえる質問を木田に投げた。
「金本さんはいまどこに?」
「まだ事務所にいると思います。でも夜は大抵、馴染みのキャバに行っちまうんで……」
できるだけ人目を避け、確実に金本を問い詰めるには、諫早組の事務所まで乗り込んで話をつけるべきだ。モタモタしていれば金本が現状を察知し、シラを切るための準備を済ませてしまうかもしれない。
「いまから木田さんと一緒に諫早組に行ってくる」
「では車はアッシが。夏華は組長を病院に連れて行ってくれ」
「いや、ついてこなくていいよ」
鬼の力は一応使いこなせるようになったが、まだ何が起こるかわからない。それでなくとも相手の居場所はヤクザの事務所。武器には事欠かず、追い詰められれば若頭の磐田にさえ牙をむく可能性があるだろう。
「でも若は車の運転なんてできやせんよね? 木田はまだビクついてやすし、電車ってわけにもいかんでしょう」
「なら――」
磐田は滅多に見せない深刻な顔で、雅人の言葉をさえぎった。
「子供のピンチを放っといて、親代わりもねぇですよ。何と言われようが、アッシはついて行きやすぜ」
こう言われては雅人も邪険にはできなかった。そこで渋々、荒事になりそうな時は下がること、とだけ約束させた。
「私こそご一緒したいところですが、残念です。どうかお気をつけて」
傷ついた西原のことは夏華に任せ、雅人、磐田、木田の三人は一路、横浜の諫早組へ。
5
【午後九時 横浜市末広町】
繁華街から僅かに離れ、地味なマンションと、二昔前のこぢんまりした事務所ビルが立ち並ぶ。新宿歌舞伎町のようなどぎつい喧騒もなく、ファッションホテルが申し訳程度に目に入る。神奈川県横浜市末広町。その一角、川沿いの、カビか何かで白い壁が若干黒ずんだ、四階建てのビル。それが諫早組の事務所だった。
「着きやした。まだいるんでしょうかね」
一階こそ真っ暗だが、最上階は残業続きの一般企業よろしく、まだまだ明るい。
「行けばわかるさ」
雅人は磐田というより、若干緊張する自分にそう言い聞かせた。それから木田にパスワード式のオートロックを開けさせ、エレベーターで最上階に向かった。
最上階に到着し、エレベーターのドアが開いた。見た目には中小企業の事務所と変わらず、いくつかの事務机とOA機器が並んでいた。
「これはこれは。磐田のカシラに雅人さんじゃありませんか。こんな時間になぜウチに? しかも木田まで一緒だなんて」
金本は急の来客に動じた素振りもなく、自ら入り口まで駆け寄って三人を出迎えた。
「白々しいぞ、金本! テメェが若を――」
雅人は喧嘩腰の磐田を制し、努めて冷静に金本と対峙した。
「いまさら惚ける必要もないでしょう。大まかな話は木田さんから聞きました」
「はぁ。何を聞いたか知りませんが、どうやら長い話になりそうですね。生憎といまは俺一人しかおりませんが、それでもよろしければ、どうぞおくつろぎください」
金本は二人の感情を無視してそ知らぬ顔。経営者然とした態度で、応接ブースのソファーを勧めた。
「実は先日、焼酎のいい物が手に入りましてね。ぜひカシラにも一杯飲んでいただきたい。あぁ、未成年の雅人さんはお茶で勘弁してくださいね」
妙に愛想の良い態度が逆に鼻につく。三下の木田が本気で怯えながら、親である金本の差し金だと白状したのだ。彼が今回の件に絡んでいることは、もはや疑いようがないはずなのに。
「それより本題に入りましょう。どうして僕を襲ったんですか?」
「襲った? 誰が?」
金本には演技の才能がないらしい。愛想笑いから真剣な眼差しへ。本人は自然を装っているつもりだろうが、最初から目が笑っていなかった。
「あなたの命令だと、木田さんがはっきり言いました」
「ふむ、つまり俺が木田を使って、雅人さんを襲ったと?」
「そうです」
「何のために?」
「それを聞いてるんですよ」
「おっと、そうでしたね。ははは、これは失礼」
くどくどと確認するのは雅人たちを苛立たせるためか。事実、磐田は回りくどい受け答えに早くも痺れを切らし、小刻みに貧乏ゆすりを始めていた。金本はそれに気付いてなお、悠長な態度を崩さなかった。
「すみません、煙草いいですかね?」
「いい加減にしやがれ! 時間稼ぎのつもりか!」
磐田が吠えた。ソファーから立ち上がり、金本の首根っこに手を伸ばす。しかし寸前のところで雅人に止められ、渋々再び腰を下ろした。金本の煮え切らない態度には雅人も爆発寸前だったが、磐田が先走ってくれたおかげで自分を失わずにいられた。
「金本さん、あなたが何をしようと、僕は聞きたいことを全部聞くまで帰りません」
雅人は金本を見つめた。睨み付けるような真似はしない。路傍の石を視界に納めるように、一切の感情を込めなかった。
しかし少年が精いっぱい捻り出した凄みなど、海千山千の中年男には全く効果がなかった。
「はは、そんな冷たい顔しないでくださいよ、一応は顔見知りなんですから。わかってます、ちゃんと小細工抜きで答えますって」
そう言って金本は木田を呼んだ。木田はビクビクしながら、金本が座るソファーの横に立った。
「おい木田。お前、雅人さんを襲ったんだって?」
金本は作り笑顔のまま木田に尋ねた。
「えっ? いや、それは親父の――」
「襲ったんだって?」
語気を強め、木田の発言を上から押し潰す。
「は、はい!」
笑顔の下の凄みに圧倒され、木田は『はい』としか答えようがなかった。
「そうかそうか」
金本は意味深に相づちを打った。それから、パンッと乾いた破裂音。胸元に忍ばせていた銃で、木田の眉間を打ち抜いた。
「なっ?」
これには雅人も磐田も驚いた。悲鳴こそ上げなかったものの、身体が瞬時に強ばった。撃った理由を尋ねようにも言葉が出なかった。雅人は金本に目を奪われ、磐田は倒れた木田を凝視する。ただ一人金本だけが、この場で平然としていた。
「こいつは前々から、雅人さんのことが気に食わなかったようですわ。だから金で人を雇って、コッソリ殺そうとしたんでしょうな」
小細工はやめると言ったそばから手の込んだ小細工。雅人と磐田が言葉を失っているのをいいことに、金本は至極自分勝手なシナリオを語り始めた。
「子の不始末は親の責任ということで、カタをつけさせてもらいました。もちろんこの程度で許されるとは思っていません。雅人さんにも本部にも、改めて詫び金持参でお伺いいたします」
深々と頭を下げる金本。だが見えなくなったその顔は、得意気に舌を出しているに違いない。
「これで手打ちにしろってか。舐めるのも大概にしやがれ」
「いえいえ、そんなつもりはありませんよ。ご納得いただけないのでしたら、エンコでも詰めましょうか?」
演技の出来不出来はともかく、役者としての経験は金本の方が上だった。異常な修羅場を経験したとはいえ、雅人は所詮ぬるま湯で育った高校生。単純な腕っ節とはまた違う、社会のいやらしい駆け引きができるわけではないのだ。またそれは、ヤクザの割に愚直すぎる磐田も同様だった。このままでは金本のペースで、全てがうやむやにされてしまう。
「さて、早いとこ仏を片付けねぇとな。てなわけで、今日のところはお引き取りください」
「……い、いや…………」
雅人はまだ言葉を失っていた。引き下がるわけにはいかないのに、咄嗟に見せられた処刑行為に動揺していた。決して死体や銃に怯えたわけではないのに、声が上手く出せなかった。
察した磐田が代弁する。
「詫び金だのエンコだの、いつまで茶番を続けるつもりだ」
「おいおい待ってくださいよ。茶番で子を殺す親がいますかい」
「まさしくテメェがそうだろうが。正直に全部ぶちまけるまで帰らねぇぞ」
「だからぶちまけるも何も俺は……困ったなぁ」
このような問答を繰り返すこと数分。直情型の磐田では金本の口を割れそうにない。しかし雅人が自分を取り戻すための時間は稼いでくれた。
「答える気がないならもういいです。金本さん、いますぐ警察を呼んで、木田さん殺しの件で逮捕してもらいます。この件は僕らが目撃者ですから、言い逃れはできませんよ?」
「おや、それはちょっと薄情すぎやしませんかねぇ。俺はあなたのために泣く泣くやったってのに」
「そういう訳のわからない理屈も結構です。捕まって懲役刑にでもなってくれれば、僕も襲われたことを忘れます」
こんな脅しが金本に通じるとは雅人も思っていなかった。だがこうして釘を刺しておけば、今後はむやみやたらと襲ってこなくなるだろう。それだけでも幾分かマシと妥協するしかないようだ。
最大限の譲歩を示す雅人に、金本は『はぁぁ~』と長くわざとらしい溜息で応えた。
「思った以上に強気なお方だ……まぁいい。わざわざ東京からお越しくださった礼ってことで、話せることは話しましょう」
金本の目つきが尚も芝居がかっているのが気になるが、雅人たちはひとまず話を聞くことにした。
金本は居住まいを正し、コホンと軽く咳払い。それから組んだ両手を腹の上に乗せ、淡々と語り始めた。
「磐田さん、それに雅人さん。俺はねぇ、初めてお会いした時から、あなた方が嫌いだったんですよ。いや、お二人だけじゃないな。先代の源二組長からして大嫌いでした」
聞き手の二人は若干眉をひそめたが、そのまま黙って独白の続きを待った。
「俺ら諫早組は元々鬼頭組の傘下じゃねぇ。横浜界隈で幅を利かせた独立組織だ。まぁ世間からは半グレとか呼ばれてましたがね。それが二十年ほど前、鬼頭組に目を付けられ、無理やり下に入れられちまったんですわ」
源二が一代で成し遂げた東日本制覇。その話は大まかながら雅人も聞かされていたし、磐田に至っては直接の関係者だった。
「とはいえ最初はムカつく反面、期待もしてたんですよ。外様ながらデカイ組織の幹部になれるんだ、いいシノギができるに違いないってね」
ここまで話して金本は、胸元から煙草を取り出した。火を点け、口に含み、ゆっくりと紫煙を吐き終えると、口調に苦々しさを含めつつ話を続けた。
「ところが実際はどうですか。カタギには手を出すな、クスリは売るな、まっとうに生きろと組長様は仰る。これには正直困りましたよ。こちとら楽に儲けたいからヤクザやってんだ、テメェは力任せに従わせといて寝言言ってんじゃねぇと思いましたね」
源二は仁侠映画さながらの極道組織を理想に掲げ、本人もその映画の主役のような人格者だった。それゆえ部下や世間から大いに慕われたが、彼が仕切っていたのはあくまで反社会的勢力であり、善良な市民の集まりではない。だから金本のように、裏で憎々しく思う者も少なくなかった。
「他人の涙でメシ食うのがヤクザでしょう。正義面したいなら一人でボランティアでもすりゃあいいのに、なんで俺らまで巻き込みますかねぇ」
この言葉は金本の本心で、よほど腹に据えかねていたらしい。話しながら、火を点けたばかりの煙草を卓上の灰皿にこすり付け、苛立ちを紛らわした。
磐田は似たような内容を、金本と同じく外様の幹部から聞いた覚えがあった。とはいえそれは酒の席での愚痴であり、磐田も次の言葉で聞き流していた。
「組織のアタマってのは、誰よりも世間体を気にしなきゃならねぇ。てめぇも組を仕切ってんだからわかんだろ」
「だから仲良しごっこをしろと? はは、ヤクザが聞いて呆れまさぁ」
金本は二本目の煙草に火を点けた。
「俺はねぇ磐田さん、あなたと先代のそういうところが嫌いなんですよ。いまも言いましたが、先に戦争吹っ掛けてきたのは鬼頭組だったでしょうが。終わった途端に手のひら返すんじゃねぇよ」
「そうじゃねぇ、組同士の小競り合いを終わらせるためにデカイの一発吹っ掛けたんだ。無理やりにでも押さえつけねぇと、てめぇらヒトの話聞かねぇだろが」
二人の言葉に熱がこもる。が、根本的に主義主張が違う口論である。何を言っても平行線でしかなかった。
完全に蚊帳の外になる雅人。ひとまず様子を見守るつもりであったが、その姿に気付いた金本から声をかけられた。
「おっと雅人さん、この話はあなたにも他人事じゃありませんぜ」
「……わかってます。続きを」
金本は煙草を大きく吸い、それから下を向いて、肺まで流し込んだ煙を吐き出した。
磐田は右の親指を額に当て、にじみ出た汗を拭った。
「雅人さんあなた、ご自分がこれまでどうやって生きてきたかご存知で? 生活費や学費はどこから出たんでしょうね」
「えっ? それは親父が……」
「ええ、先代のポケットマネーです。ならその金はどうやって作ったか。むろん、俺らのアガリからですよ」
下位組織が上に利益を差し出し、代わりに円滑な事業展開を保証してもらう。それは反社会的勢力のみならず、一般企業でも当たり前の仕組みだ。
「なのにあなたは組から抜けてしまった。親の遺産という名目で俺らの稼ぎをごっそり持って。ご自分の手は一切汚さずに」
「それで恨まれるぐらいなら、お金は組に返します。元から分不相応な額だと思ってましたし」
「いや、誤解しないでください。一度払っちまったモンを上が何に使おうが知ったことじゃありません。ただ、俺らが他人から恨まれて稼いだ金で、あなたが平々凡々と暮らしてるのがムカつくってだけでさぁ」
恨みや妬みではなく、単に虫が好かないから襲わせたというのか。幸い雅人は鬼の力で難を逃れたが、金本の話が全て本音であれば常軌を逸している。
「ムカつくっててめぇ、仮にも先代のご子息に対して失礼だぞ」
磐田は再び激昂するが、雅人本人は元から金本のことが苦手だったせいもあり、特に何とも思わなかった。むしろこれまでの自分を小馬鹿にしたような態度の理由がわかり、胸のつかえが少し取れた気すらした。
「殺意を抱かれるほど近しい間柄じゃないとか、色々と不可解な点はありますが、とりあえず動機はわかりました。でもこの話よりもっと聞きたいことがあります」
「俺に答えられることでしたら何なりと」
金本は余裕の笑みで返した。雅人だけでなく、組織では上の立場にある磐田ですら小馬鹿にした態度だ。
「襲わせた化け物たちのことです。特に琢磨とかいう半グレは、元はただの人間でした。あれはいったい何なんですか?」
「はっはっは、そう仰るあなただって人間じゃないでしょ」
「だからこそです。僕みたいなのがどこにでもいるとは思えない」
金本の視線がわずかに横に動いた。雅人も同じように目だけ動かし、その先を追ったが、仰向けに倒れた木田の遺体があるだけだった。
「まぁわかりやすく言えば、クスリの影響ですよ。身体能力向上と精神高揚といったところですか。今後のシノギになるかと思いまして」
「金本てめぇ、ヤクは先代から禁止されてただろうが」
雅人は磐田を制して、
「化け物になるような薬が売れますか?」
「もちろんそこらのジャンキーには売りません。クソどものケツの毛を毟ったところで大した儲けにはなりませんから。でも世の中には特殊な需要がありましてね」
販路や儲けのことなどどうでもいい。ここまでの金本の話をまとめると、以前から気に入らなかった雅人を殺そうとするついでに、新薬の実用試験をしていたということになる。
「話は理解しました。商売の良し悪しは組が決めることで、僕に口を出す権利はありません。でも襲撃はもうやめてください」
「断ったら?」
「殺します」
警察に突き出すなどといった回りくどい交渉は諦め、率直に事実だけを述べた。
「おーこわ。軽々しく殺すだなんて言っちゃあいけませんぜ、お坊ちゃま」
金本は再び視線を木田に移した。自分で殺しておいて、いったい何を気にしているのか。
「さて、お話はここまでにしましょう。時間は十分に稼げました」
まるで商談でもしていたかのような態度だが、その口角が僅かに上向きになったのを雅人は見逃さなかった。やはりただのネタ晴らしではなく、何か企みがあって対話に持ち込んだようだ。
「ふざけんな。こっちはまだ聞きてぇことだらけだ」
吠える磐田を金本は相手にしなかった。
「一から十まで全部話す気はありませんよ。俺も暇じゃないんでね、後はこいつに任せますわ」
そう言って金本が指さしたのは木田の遺体だった。それとほぼ同時に、異常な現象が始まった。遺体の手足が激しく痙攣し、腹部が風船のように膨れ上がったのだ。
「な、なんだこりゃ……」
遺体の腹部は限界まで膨らむと、今度は急激に萎み始めた。そして再び膨張と収縮を繰り返す。
「金本さん、木田さんに何を?」
「すぐにわかりますから少々お待ちを」
雅人たちは腹部の異変にばかり気を取られていたが、それ以外の部分にも異常が見られた。四肢や指が倍近くまで長く伸び、口が耳のそばまで裂けた。金本に撃たれた眉間は肉が波打ち、やがて奥に詰まっていた弾丸を吐き出した。
「お待たせしました。ようやくクスリの効果が出ましたわ」
裂けた隙間から唾液を滴らせる口。餓鬼さながらに突き出た腹。異様な長さを持て余し、四つん這いで床につけた手足。数分前まで人の遺体だったそれは、完全な化け物となって目を覚ました。
「こいつには特注品を与えましたからね。いままでの雑魚とは勝手が違いますぜ。悪いがお二人にはここで――」
死んでもらいます、そう言いかけた金本の首筋に木田が噛みついた。
「グェッ!」
金本は言葉にならない叫びをあげた。
「き……木田、てめぇ………」
木田は何も答えない。それどころかますます金本に歯を突き立て、その血肉を貪り始めた。高架下で戦った食人鬼たちと同じように、他者を食うことしか頭にないようだ。しかもかなり力が強いようで、抵抗しようと暴れる金本を長い手足で拘束し、体重を乗せて押し倒してしまった。
呆気にとられた雅人と磐田は動けなかった。
「クソッ……はな…………ちが……」
木田の歯が金本の頸動脈を噛みちぎった。事務所の天井スレスレまで、噴水の如く噴き出る鮮血。金本はもう助からない。
「西原ぁぁぁーっ!」
恨みがましく叫んだ断末魔、それはなぜか現組長の名前だった。
「西原?」
問い質そうにも金本は既に息絶え、なおも木田に食われ続けている。
「若、ひとまずは」
「うん、木田さんをどうにかする。危ないから磐田は下がって」
磐田が事務所の隅まで避難する。それを見届けてから雅人は木田に声をかけた。
「木田さん、僕の言葉がわかりますか? わかるならこっちを向いてください」
木田は答えなかった。金本が特注品を与えたと言っていたが、その効果で人語を解さないのだろうか。もしくは金本を食らうのに夢中で、雅人の呼びかけに気付かないのか。どちらにせよ、食人鬼となった彼をこのまま放っておくわけにはいかない。
「変解!」
流れるように自然な動作で、雅人は鬼に変解した。この短期間に何度も繰り返したおかげで、いまや凝った衣装に着替えるよりも容易く変われるようになってしまった。争いを嫌う本人としては望まざる成長であったが。
「さて……」
夏華に襲いかかった時の高揚感はない。敵に襲われた時の危機感もない。冷静に、事務的に、自分の役目として木田を止める。恐らく殺すことになるだろうが、大事の前の小事。早く終わらせて、金本と西原の関係を調べなければならない。
雅人は殺気を放ってはいなかったが、鬼という存在そのものに強烈な威圧感があるのだろう。木田はビクンと肩を震え上がらせ、警戒心むき出しの眼光を雅人に向けた。それから頭を低く、長い四肢を床に付け、肉食獣のような威嚇体勢を取った。
「…………」
互いに微動だにせず、にらみ合いが一分ほど続いた。先に動いたのは木田だった。高速で床を這い、雅人に急接近。目で追う雅人が右の拳を打ち下ろして迎撃しようとするも、木田は斜め上方向に跳躍し、紙一重で回避した。跳んだ先は天井。なんと床にいた時と同じ、しかしながら上下逆さまの姿で天井に貼り付いた。
床から天井までの高さが四メートル強。雅人は源二と違い、鬼になっても身長は百七十センチ程度。跳躍すれば木田に届くが、正面から向き合うよりもずっと戦いにくい。対する木田は、床にいた時と同じように動ける様子。攻撃が届きにくい位置からけん制し、隙あらば上から全体重をかけて降下するつもりらしい。ゾンビと大差なかった高架下の連中と比べ、かなり頭が働く。
天井から剥がそうと、雅人が木田に手を伸ばした。木田はそれを横にずれて回避。さらにカウンターで、口から黄ばんだ液体を吐き出した。今度は雅人が回避するが、床に落ちた液体はジュワジュワとカーペットを溶かして白い煙を上げた。かすかに残るすえた臭いから察するに、恐らくは濃縮した胃液だろう。いまの木田は雅人以上に人間離れした化け物だ。
「若、お気を付けくだせぇ」
木田の動体視力と瞬発力は雅人を上回った。高低差のせいで単調な攻撃しか出せない雅人にも問題はあったが、それを見てから避け、さらにカウンターまで当てる余裕を木田は持っていた。軽くひっかく程度、薄皮一枚すらも引き裂けない小技ながら、相手を苛立たせるには十分。手を出すほどに隙が増えていく雅人を軽くあしらい、大技の機会を伺いだした。
雅人からすれば全く想定外の展開だ。向かってくるところを返り討ちにして終わりと考えていただけに、化け物らしくない消極的な動きに翻弄され、相手の術中にまんまとはまってしまった。
知的に考えて張った罠なのか、本能的な行動なのか、言葉を発しない木田からは伺い知れない。わかっているのは完全に彼のペースで戦いが展開しているということ。どこかで反撃のチャンスを掴まない限り、雅人は負ける。
業を煮やした雅人が跳躍した。掴んでしまえば速さなど関係ない。しかし木田の反応は雅人の一歩先を行っていた。横に回避。上に伸ばした雅人の手が空を切る。跳躍から一瞬生まれる降下の隙。木田の長い右手が雅人の左脇に突き刺さった。ダメージは小さい。が、今度は木田が天井を蹴って跳躍。刺さった右手を軸にして雅人に急接近。勢いを付けて首筋に食いつく算段だ。
「若!」
磐田が叫ぶ。やはり雅人の負けか。否、これこそが反撃のチャンスだった。
雅人は筋肉を引き締め、木田の右腕が抜けないように固定した。木田は回避行動が取れない。それどころか自分から無防備な顔面を雅人に差し出している。一足先に床に着地した雅人は、右の拳を突き上げた。
ネチャ……ドスッ
粘り気のある不快な音が室内に響いた。上から下へとかかる木田の力と、下から上へとかかる雅人の力が衝突。その結果、木田の身体は壁や天井に飛ぶことなく、顔面から股間まで左右真っ二つに両断された。
勝負はついた。木田の半身はどちらもピクリとも動かない。雅人は変解を解いた。
「若、お疲れさまでした!」
すぐに磐田が駆け寄る。だが事はこれで終わりではない。
「ねぇ……磐田、まさかとは思うけどさ、今回の件は西原が関わってるのかな?」
たったいま荒々しい戦いを終えたばかりとは思えない弱々しい声で雅人は尋ねた。
「ひょっとして磐田も? だって磐田は若頭で、西原と一緒にいることが多いよね?」
磐田はきっぱりと断言した。
「組長のことはあっしにもわかりやせん。ですがあっしは無関係です。それだけは先代にも誓えまさぁ」
まっすぐ雅人を見つめる目に嘘はなかった。
「ごめん、疑うなんてどうかしてた」
仮に一人で事務所に来て、金本の独白と断末魔を聞いていたら、疑心暗鬼と孤独感で頭がおかしくなっていただろう。雅人は磐田に救われた気がした。
「お気持ちお察ししやす。金本の野郎、なんで最期に組長の名前を」
「金本さんの持ち物を調べてみよう。それと、諫早組の組員たちはいまどこにいるんだろう?」
事務所には金本しかいなかった。夜とはいえ、組長一人残して全員出払った状態だったのは不用心かつ不自然すぎる。
「少々お待ちを。本部にいるヤツに探させやす」
磐田が連絡を入れている間に、雅人は金本の遺体を漁り、ジャケットからスマートフォンを取り出した。指紋認証でロックがかかっていたが、登録者は目の前にいるので難なくこれを解除。次いで手早く通話やメールの履歴などを調べた。
「これは!」
送信済みメールのフォルダに見覚えのあるメールが一件。
『殺処分。鬼頭雅人。前金五十万。成功報酬二百万。』
忘れもしない、琢磨から自慢げに見せられた殺害依頼だ。金本はあの時から雅人を殺す気だったのか。しかしどうにも腑に落ちない。単に気に入らないだけの少年を、大金を使ってまで殺そうとするだろうか。
「若、こっちは何とかなりそうです」
諫早組組員は拍子抜けするほどすぐに捕まった。総勢二十名足らず、みな馴染みの店や自宅にいたようで、招集をかけてから一時間とかからず事務所に集合した。彼らは事務所の惨状に驚き、金本の死について雅人たちを問い詰めた。しかし雅人と磐田が事のあらましを説明すると(むろん鬼の部分は伏せた)、怒るでも悲しむでもなく、静かに事実を受け入れた。
「やけにしおらしいな、てめぇらの親父が死んだってのに」
組員たちはポツポツと呟くように答えた。
「親父が何かをやってたのは知ってました。でも『新しいシノギだ』って言うだけで、詳しいことは何も教えてくれませんでした」
「だからこんな姿になっても諦めるしかないというか、実感がわかないというか……」
金本は人を化け物に変える薬で商売をしようといていた。ものがものだけに、できるだけ秘密裏に進めたかったのだろうか。
「今日も夜になったら急に帰れと言われて、訳がわかりませんでした。もちろん若たちがいらっしゃるなんてことも聞いてません」
嘘を吐いている様子はない。これ以上探っても有益な情報は得られないだろう。
ならばと雅人は金本のパソコンについて尋ねた。組員たちの集合を待つ間、雅人はスマートフォンに加えて金本の机の周りも調べた。しかしめぼしい情報は何ひとつ得られず、最も気になるパソコンはパスワードのせいで開けなかったのだ。
幸い諫早組のパソコンは担当者が管理しており、この問題はすぐに事なきを得た。雅人は中を覗き、間もなく目当てのフォルダを発見した。
「見て、磐田。薬の資料だ」
資料には薬物の詳細や投与前後の被験者の観察状況などがびっしりと書き込まれていた。まるで研究機関のレポートのようで、これを作ったのが金本だとすれば、彼は間違いなく就く職業を間違えた。
「むぅぅ、専門用語のせいで肝心なところがサッパリでさぁ。結局このヤクは何なんでやすかね」
「麻薬の類とは違うと思う。金本さんもジャンキーには売らないと言ってたし」
いまは薬の成分より、この資料を誰に見せていたのかが重要だ。
「大した進展なし。金本さんが全ての元凶とはとても思えないけど、このままじゃ八方塞がりだ」
「となりゃあ、やっぱり組長に直接聞くしかありやせんぜ」
それが最善の策なのは雅人にもわかっていた。だが彼にとって西原は兄同然の存在。できることなら疑いたくなかった。
「そ、そうだ、掃除屋。木田さんが雇った掃除屋がいたよね? その人たちなら何か知ってるんじゃないかな」
磐田は雅人の気持ちを理解しつつも、その提案を否定した。
「詳しいことは何も伝えねぇ、調べさせねぇってのがヤツらとの付き合い方ですぜ。まぁ必ずしも組長が黒幕ってわけじゃねぇんだ。ひとまず話だけでも聞いてみましょうや」
このまま黙って不安を募らせるぐらいなら、西原を信じて確認するべきである。雅人は頭を切り替え、西原に連絡しようと自分のスマートフォンを取り出した。するとそのタイミングを狙っていたかのように着信音が。西原からだった。
「お疲れさまです、若。そちらは片付きましたか?」
「うん、一応は。西原の方はどう? 怪我は大丈夫?」
「かすり傷ですからお気遣いなく」
お互いの無事を確かめ合ったところで雅人は本題に入った。
「……西原、ちょっと聞きたいことがあるんだ。金本さんが亡くなったんだけど、死ぬ間際に西原の――」
西原は強引に割り込み、話の腰を折った。
「すみませんが、私からも若にお話がございます」
「えっ?」
「ですが今日はもうお疲れでしょう。よろしければ明日、いまから申し上げる場所までご足労願えませんか」
6
【八月二十日 午前十時 青山霊園】
盆を過ぎて間もない八月、平日。早朝の散歩客も消えたこの時間、青山霊園は都内の一角とは思えない程ひっそりと、静かな佇まいを見せていた。セミの鳴き声もなく、季節の割には過ごしやすい。
駐車場に車を止め、降車する三人。雅人と磐田と夏華である。この墓地には源二が眠っている。西原がここを指定してきた理由は不明だが、場所が場所だけに三人とも、それなりに小綺麗な恰好で臨むことにした。大した話でなければ後で源二の墓標を見舞い、それから先日やり損ねた会食にでも行きたいところだ。そんな楽観的な展開は恐らく期待できないだろうが。
「磐田はともかく、夏華まで来る必要ないのに」
「ここまで巻き込んどいて仲間外れはないっしょ」
「自分から首を突っ込んだの間違いだろ」
「まぁまぁ。男だけじゃムサ苦しいですし、こんなヤツでも一応は花ってことでひとつ」
口では迷惑がましく言う雅人だったが、本音は夏華がいてくれて助かっていた。今回の件に西原が関わっている、彼が自分を殺そうとしている、そう考えると胸が苦しい。昨夜は連戦でかなり疲れたはずなのに、この件が気がかりでほとんど眠れなかった。夏華の能天気な話で気を紛らわせていないと、自分の意思に反して身体が動かなくなりそうだ。
「さて、肝心の組長は………おっ、いやしたぜ。親っさんの墓に手を合わせてまさぁ」
三人は足早に源二の墓前へと向かった。西原の方もその来訪に気付き、挨拶で迎えた。
「おはようございます。わざわざご足労いただきまして、ありがとうございます」
いつも通りの丁寧な態度。組長になっても全く変わらない。
「おはよう。早速で悪いけど、話を聞かせて」
「ええ。立ち話で恐縮ですが、どうかご容赦ください」
西原は護衛を付けていなかった。先日と違い、運転手すらもいない様子。昔からヤクザらしからぬ腰の低さが目につく男ではあったが、大組織の長という立場上、弾除けぐらいはそばに置いて然るべきなのに。
「まずは皆さんが最も知りたがっていることから話しましょう。今回の騒動は、全て私が仕組みました」
勿体つけるでも興奮するでもなく、まるで他人事のように西原は言った。
雅人の頭に鈍器で強打されたような、芯まで響く重い衝撃が走った。昨夜から覚悟していた真実。されど直に本人の口から聞かされると、そんな覚悟など一瞬で明後日の方向に吹き飛んでしまった。
「な……」
ショックが大きすぎて思うように声が出せない。磐田親子も驚きで言葉を失っている。
西原にとっては予想通りの反応だったのだろう。三人の様子を伺いつつも話を続けた。
「なぜこんなことをしたのか、ですよね? 事の発端は……古いですが、孤児院の火事から親父に救われた一件です」
その表情は暗く、口調も淡々としたもの。決して悪企みを暴露する時のしたり顔ではなかった。
西原孝弘は捨て子だった。三歳ぐらいの頃、孤児院の前に置き去りにされた。その前から父親はおらず、母親も朝から夕方にかけて寝姿を見かけた程度。恐らく水商売をしていたのだろうが、ほとんど構ってもらった記憶がなく、もはや顔すらも覚えていない。一言で言えば育児放棄の末に捨てられたのだ。
名前は母親から『たかひろ』と呼ばれていたからで、正しい漢字も苗字も不明(現在の氏名は里親からもらったもの)。幼いながらも捨てられたことを理解しており、他人への不信感から孤児院では誰とも打ち解けず、常に死んだ目をしていた。
孤児院暮らし二年目の秋、院内で火災が発生。周囲との接触を避けていた西原は逃げ遅れ、火の海に呑み込まれる事態に。そこへ颯爽と現れたのは、鬼に変解した源二だった。
「火事の原因は覚えていません。ですが炎を掻い潜って現れ、私を抱え上げてくれた親父の逞しい腕の感触だけは、二十年以上経ったいまでも身体に残っています」
話しながら西原は、視線を目の前の三人から源二の墓標へと移した。どことなく遠い目。事件当時を懐かしんでいるのだろう。
「捨て子の私が死んだところで誰も悲しみません。それなのに親父は命がけで現場に飛び込み、私の無事を喜んでくれました。こんなに嬉しいことが他にありますか?」
両親ともに健在の夏華。これまで家族同然の組員が常にそばにいた雅人。二人からすれば西原の境遇は、あまりにも自分と違いすぎた。そもそも自分の死や悲しむ者について深く考えたことすらなかった。だからいま言葉を返したところで上っ面な慰めしか言えそうになく、黙って話の続きを待つことにした。
「私にとって親父は唯一無二のヒーローでした。この人ならいつ、いかなる時でも私を守ってくれると。それで無理を言って組に置いてもらい、西原家の養子になったんです」
このくだりは雅人の新居を決める時にも聞いた。周囲の反対を押し切ってまで組に入ったという。
「そして若は親父の後を継ぐべきお方でした。ところがあなたはそれを拒んだ。大きな素質を秘めながら、凡人の道を選んだ。私はショックで頭がおかしくなりそうでしたよ」
病院からの帰り道、車の中で話した内容だ。源二の血がどうとか。雅人はいまになってようやく、あの時西原が激昂した理由を理解した。
「当時は鬼のことなんて知らなかったんだ。だけどもし知っていたとしても、結果は同じだったよ」
腕っぷしが現代社会でどれほど役に立つというのか。せいぜい組同士の抗争でもあれば使える程度。それも変解しても世間から騒がれないという前提があってのことである。
「こんな力、いまの世の中には必要のないものだ」
「世間は関係ありません。憧れのヒーローが私のそばにいる、それが重要なんです」
雅人は言葉を交わしながら困惑していた。西原の意外な一面。ヒーロー依存症とでもいうのだろうか。
「ならどうして僕を殺そうとしたんだ?」
せめて抱えていた想いをもっと早く伝えてくれれば。仮に鬼の素質がなかったとしても、何かしら力になれることがあったはず。
雅人は西原に命を狙われてなお、彼を恨む気持ちにはなれなかった。なにせ生まれてからずっと面倒を見てくれた恩人であり、実の兄も同然だったのだ。嘘でも『冗談でした』と言ってくれれば、いままでのことを全て水に流したいとすら思った。しかしそんな願いは西原に全く伝わらなかった。
「重要な話はここからです。忘れもしません、あれは親父が亡くなった日の夜でした……」
源二の通夜は死亡した翌日の夜に行われた。それまで遺体は斎場の霊安室に置かれたわけだが、西原は人払いをして、誰の入室も許さなかった。無粋な輩に遺体を汚されたくないとか、跡を継ぐ者として先代と二人きりで向かい合いたいとか、最初はそういった理由だった。例外として雅人の入室は認めるつもりだったが、この時の彼は父親の死に己を見失い、自室に引きこもっていた。
正確な時間は覚えていない。恐らく日付が替わる前だったと思われる。西原は盃に日本酒を注いだ。それから懐に忍ばせていたドスを抜き、源二の指先に小さな傷をつけ、流れ出た血を盃に。義兄弟の契りというわけではないが、新組長就任式とはまた別の、あくまで個人的な儀式のつもりだった。源二の血を体内に取り込むことで、組長としての意思を引き継ごうと考えたのだ。またそれは同時に、心の支えとの決別という意味合いもあった。幼い頃に出会ったヒーローはもういない、これからは自分が組員たちを支えていかねばならぬのだと。
盃を空にした数秒後、異変は突如起こった。身体が熱い。全身の血が沸騰し、血管や内臓が焼けただれてしまいそうな感覚だった。それから肉と骨が痛痒い。手も足も腹も心臓さながらにバクバクと脈動し、その度に太く硬くなっていったのだ。
「待った! 西原、それってもしかして……?」
「そうです。変解したんです、私も」
何という奇跡! 何という僥倖! 鏡に映った西原は、彼が幼い頃に見た鬼そのものだった。しかし喜びは、ほんの一瞬しか続かなかった。抗いようのない強烈な吐き気。食中毒の症状がそうであるように、体内から異物を排除しようと、肉体が強制的に機能する。それは胃の内容物はもちろんのこと、胃液しか出ない状態になってもまだ続き、食道から漏れた血を吐くようになってようやく治まった。その頃には姿も人に戻っていた。
「さすが、荒神と崇められていただけはありますね。人間ごときが鬼の血をそのまま飲もうだなんて傲慢が過ぎました。でもヒーローになるチャンスを諦めきれなかった私は、それから血の研究を始めたんです」
「研究? どうやって?」
「知り合いに製薬会社の研究員がいましてね。通夜の前に呼んで、血を全て抜き取ってもらいました」
葬儀では源二の顔を拝むことができなかった。本人からの遺言と聞いていたが、真相は血を抜いた事実を隠ぺいするためだったらしい。平時であれば誰かしらがその遺言に疑いを持っただろう。しかし組全体が葬儀の準備で慌ただしかったことや、伝言役が新組長であったことなど様々な要因が重なり、当時は口をはさむ者がいなかった。
「さ、西原てめぇ、親っさんに何てことを……」
磐田は激昂のあまり、西原が上司であることも忘れて嚙みついた。
「仕方ないじゃないですか、若には跡を継ぐ気がなかったんですから。親父の尊厳を汚してでも、私はヒーローにならないと駄目だったんです」
西原の返答に罪の意識はなかった。謎の義務感。鬼頭組の組長は鬼でなければ務まらないとでも考えているのか。
「私の身体でも鬼の力を操れるよう、知り合いに血と薬の調合を頼ました。そうしてできた試作品は、金本さんに実験してもらいました。紛争地に売るとか、適当な理由をでっち上げてね」
つまり琢磨や食人鬼たちは、源二の血によって生み出されたということだ。
「彼はよく働いてくれましたよ、若の暗殺も二つ返事で引き受けてくれましたし。ですが親父のことを悪く言うので、薬の完成を待って始末しました」
金本は諫早組の事務所で木田に殺された。その木田は雅人が片付けた。襲撃現場を監視する存在についてアドバイスをくれた点から考えて、昨日の出来事は全て西原の筋書き通りだったのだろう。
「親父の名を汚す者は許せません。若、あなたもその一人です」
「僕が親父の名を?」
西原は目を血走らせながら怒りをぶつけた。
「息子でありながら組を継がず、鬼にもなれなかったあなたに、私がどれだけ失望したかわかりますか? だからその両方を受け継いだ私は、失敗作であるあなたを始末したかったんです」
これは彼の勝手な思い込みだった。源二は雅人を跡継ぎにする気はなく、何より身体も生活も平凡な人間のまま過ごしてくれることを望んでいたのだ。しかし雅人は浴びせられた罵声に憤るどころか、期待に応えられなかったことに罪悪感すら感じていた。
「ちょっとちょっと! 失望とか失敗作とかさ、いくら何でも失礼すぎない?」
うな垂れる雅人に代わり、夏華が話に割って入った。
「アタシも西原さんのこと、イトコの兄ちゃんみたいに思ってた。でもまさかこんな嫌な奴だったなんてさ。なんか裏切られた気分だよ」
「非礼はお詫びします。ですがこれは私と若の問題です。口を挟まないでください」
「むっか! 黙って見てらんないから言ってるんでしょ」
しかし磐田父娘は、西原に飛びかかる寸前でぐっと堪えた。ここで感情任せに殴ったところで何の意味もない。全ては当事者である雅人が決めるべきことなのだ。
「若サマも言ってやんなよ、『オレのタマ取ろうなんざ十年はえー』とかさ」
三人が雅人に注目する。雅人は三十秒程度の沈黙の後、重々しく口を開いた。
「西原には申し訳ないと思ってる。でもだからって、僕に死ぬ気はない」
「その気があろうがなかろうが、私はあなたを殺します」
「だったら抵抗するよ」
「つまり私と戦うと? わかりました」
西原は満面の笑みで両手を広げた。
「どちらが後継者に相応しいか、親父の目の前で決めようじゃありませんか」
芝居がかった言動。最初から源二の墓前で雅人と戦う気だったようだ。
二人の戦いは止められない。それどころか、下手な場所にいては雅人の邪魔になる。磐田父娘は数メートル離れた木陰まで下がった。
「人払いはしてあります。墓地の被害もご心配なく。私が責任もって弁償しますので。では始めましょう」
雅人と西原は五メートルほど間を空けて対峙した。しばらく目を合わせ、やがてどちらからともなく声を張り上げた。
「変解!」
現れた鬼と鬼。西原の方が若干身体が大きく、手足も太い。
「改めて比べると違いがはっきりしますね。では能力は?」
西原はいきなり距離を詰め、左、右とジャブを一発ずつ、それから胸元から腹部に向けて左の前蹴りを放った。
かろうじてジャブを回避する雅人。だが意識を頭部に集中させてしまい、胸元が留守に。前蹴りの直撃を受け、後ろの墓石を巻き込みながら吹き飛んだ。
「力の増加量が同じであれば、より鍛えている方が強い。若もそれなりに場数を踏みましたが、まだまだ足りません」
西原は頭脳派とはいえ職業柄、荒事にもそこそこ精通している。対する雅人はこの半月でかなりの経験値を稼いだものの、元は非力な高校生である。これまでの相手は試作薬による不完全な状態だったため、どうにか切り抜けてこられたに過ぎない。同等の相手との戦いは今回が初めてだ。
「くっ……まだやれる」
雅人は起き上がった。派手に飛ばされた割にダメージはなかった。
「当然です、いまのは小手調べですから。そうだ、実験ついでに面白い芸を見せましょう」
西原は右手を胸の辺りまで上げ、手のひらを空に向けた。するとそこから、紫色に燃える炎が上がった。
「これは鬼火。文字通り鬼の能力で生み出した炎です」
「そんな手品ができたからって何だっていうんだ」
江戸時代ならともかく、現代なら使い捨てライターで事足りる。西原の告白で散々衝撃を受けた雅人からすれば、いまさらこんな芸を見せられたところで驚きようがなかった。むしろ西原の方が、雅人の反応に若干の驚きと呆れを見せた。
「ただの炎ではありません。自在に操ることができるのです。あなたが譲り受けた文献にも書いてある技ですが、まさかご存知ないとは」
古い言葉で書かれた原典は早々に読むことを諦めた。源二が書き直してくれたノートの方も、細かく目を通したのは変解のやり方などの基礎的な内容だけだった。だがこれは仕方のないことだ。初めて変解した夜から今日まで気の休まらない日々が続き、技について考える余裕などなかったのだから。
「そ、それより西原がどうして文献を?」
「子供の頃から知っていましたよ。親父の部屋を掃除した時に閲覧許可をいただきましたから」
憧れの存在について書かれていると知り、恐らく熱心に解読したのだろう。源二のノートも案外、西原の研究を基にしたのかもしれない。
「何をどう焼き尽くすかも自由自在。その気になれば、あなたを灰にすることだって容易い」
そう豪語する西原だったが、言葉とは裏腹にすぐさま炎を消した。
「無粋な小細工は使いません。正面から力の差を思い知ってください」
西原が再び雅人に迫る。先ほどよりも速いステップで距離を詰め、左を主軸にジャブを連発。ボクシング教本に載りそうなほど正確で無駄のない攻撃だ。むろん格闘技経験のない雅人に避けられるわけがなく、ろくな防御もできずに全て被弾してしまう。
「あなたの抵抗は口だけですか? 正直期待外れです」
西原は右腕を後ろに引いた。重いストレートで早々に勝負を決めるつもりらしい。
「来た!」
雅人は姿勢を低くして攻撃を掻い潜り、そのまま身体を前に乗り出して西原に飛びかかった。しかし渾身のタックルは簡単に見切られる。
「大振り狙いとは恐れ入りました。失言をお詫びします」
「ヤマを張っただけだよ。さっきみたいに釣られたら勝てないから」
ジャブは避けられないまでも耐えられる。多少のダメージは覚悟し、少しでも反撃のチャンスがある方に賭ける。これが雅人なりに考えて出した作戦だった。
「悪くない判断です。人間だった頃のあなたなら考えもしなかったでしょうね」
西原は軽く微笑んだ。その笑顔はかつての弟分の成長を喜ぶものか。見方によっては、倒しがいのある相手に興奮しているようにも見える。会話内容だけなら組手を楽しむ師弟なのだが、西原の心の内は如何に。
「小技でチマチマ攻めても時間の無駄です。本腰を入れますよ」
三たび西原から攻撃を仕掛けた。振りこそ大きいが、速さはジャブにも劣らない。重く鋭い拳が、強靭な蹴りが、容赦なく雅人を襲った。
雅人は防戦一方。反撃のチャンスを掴めずにいた。
勝負の行末を見守る磐田父娘。だがひたすら雅人の安否を気遣う夏華とは違い、磐田は得心がいかないといった顔つきで唸り声を漏らした。
「むぅぅ……妙だな」
「何がよ?」
夏華は緊迫した場面で水を差されたように思い、若干苛つきながら父親に尋ねた。
「諫早組の木田は人間離れした動きで若を攻めた。その前に見たヤツらも、いかにも化け物といった動きだった。だが組長にはそれがねぇ」
「完成した薬を使ってるからでしょ。それにさっき言ってたじゃん、小細工は使わないとか何とかさ」
「にしたってどの攻撃も素直すぎる。明らかに倒せる場面で深追いしねぇし」
「とっておきの必殺技でもあるんじゃないの。それ使ってかっこよく勝ちたいんだよ、きっと」
「ヒーローがどうたら言ってたから有り得る話ではあるが、むぅぅ……」
そんな磐田の疑問を跳ね除けるかのように、西原の攻撃が勢いを増した。アスファルトの地面を穿つ踏み込み。そこから放たれる蹴りの破壊力は、解体クレーン車の鉄球にも劣らない。かろうじて防御した雅人だったが衝撃は殺しきれず、周囲の墓石ごと数メートル吹き飛ばされた。
経験の差は歴然。頑丈な身体のおかげで雅人に現状大きなダメージはないが、反撃できなければそれも無意味である。気力が尽きたところで一気に追い込まれるだろう。
「また何かを狙っているのなら、急いだ方が良いですよ」
西原の左拳が雅人の顔面に迫る。
「言われなくとも!」
雅人は西原の左腕が伸びきる前に掴み、逃げられないよう脇で固定した。それから上半身を後ろへ反らし、西原の顔面に頭突きを食らわせた。
「カハッ」
予想外のラフな反撃に西原が怯んだ。雅人にとっては好機到来。勢いに乗じて西原を押し倒そうとする。が、組んだ両手を背中に打ち下ろされ、逆にうつ伏せに倒れることに。
再び攻守逆転。西原の踏みつけが容赦なく雅人の後頭部を狙う。察した雅人は横に転がってこれを回避。立ち上がり体勢を立て直した。
いまだ西原の方が上という状況。しかし防御一辺倒だった先ほどまでとは違い、ほぼ五分にまで持ち込めている。雅人はこの機を逃すまいと、今度は自分から攻撃を仕掛けた。
雅人の右ストレート。西原は首の動きだけで回避しつつ左を放つ。雅人は直撃を受けるも、お構いなしとばかりに左のボディブロー。さしもの西原もこれは避けられず、身体をくの字に曲げて息を詰まらせた。
そこから先は至極シンプルな殴り合いだった。互いに相手の拳を受け止め、応酬する。力と力、意地の張り合い。雅人はもちろんのこと、西原にもおよそ似つかわしくない泥臭い攻防だが、だからこそ相手を確実に倒そうとする凄みがあった。
「うっ」
先に根負けしたのはやはり雅人だった。ふいに出された右ハイキックがこめかみにヒット。意識を刈り取られ、グラリと膝を曲げてしまう。
「取った」
西原はこの隙を見逃さなかった。打ち下ろし気味の右拳で、雅人の息の根を止めにかかる。
「若サマ!」
悲鳴にも似た夏華の叫び。雅人の身体はこれに反応。絶妙のタイミングでカウンターを繰り出した。
「なっ……」
西原は膝から崩れ落ちた。そのまま両手も地面につけ、四つん這いの姿勢ではぁはぁと息を切らした。相打ちかと思いきや、ほんのわずかではあるが雅人の拳の方が先に届いたのだ。
「若!」
「やった! 若サマ勝ったよ」
リング下で選手を見守るセコンドよろしく、磐田親子は歓喜の声を上げた。
その騒ぎに誘われ、雅人の意識がようやく回復。拳に残る感触と膝をつく西原から状況を理解した。
「ラ、ラッキーパンチに救われた」
雅人は安堵の息を漏らした。これで勝敗は決した……と思いきや。
ドスンッ
辺りが一瞬、縦に揺れた。悔し紛れか、西原が全力で地面を殴ったのだ。
「まだ終わりませんよ」
言うが早いか、西原は立ち上がりながら雅人に急接近。目まぐるしいラッシュで襲いかかった。
対する雅人は全く動じなかった。先ほどの一撃こそ無意識に放ったラッキーパンチだったが、身体は既に西原の攻撃パターンとタイミングを記憶していた。回避と防御と巧みに使い分け、時には捌いて反撃まで行う。考えるよりも先に身体が、荒々しい鬼の本能が反応した。
「無駄だよ、西原。お前の攻撃はもう通用しない」
「らしくない口ぶりですね。勝てると思った途端に気が強くなりましたか」
「違う。自分でも信じられないけど、身体が勝手に動くんだ」
雅人の足刀蹴りが西原の顎を捉えた。むろん雅人に空手の経験などない。これも鬼の本能によって成しえた技だ。
「ゴフッ」
もんどり打って吹き飛ぶ西原。開幕と真逆の状況だが、ダメージは比較にならない。派手に後頭部から落下するだけでは飽き足らず、水の石切りさながら二回、三回と地面を跳ねた。
「終わりにしよう。これ以上は取り返しがつかなくなる」
成り行きで戦うことになったが、雅人に殺し合いをする気はなかった。
「……紛い物はどれだけ磨いても本物には敵わない、そういうことですか」
西原は若干ふらつきながら立ち上がった。その顔は怒りとも喜びともとれる複雑な表情をしていた。
「もはや無粋だ何だと気取る余裕もなくなりました。どんな手を使ってでも若、あなたを倒します」
西原は両の手のひらを重ね、雅人の方に向けた。最初に見せた鬼火を使う気だ。
「燃えてください」
手のひらから噴き出た炎が雅人を襲う。
「ぐぁぁぁー!」
操られた炎は目で見て避けられるものではなく、一瞬にして雅人を火だるまに変えた。
「若サマ!」
「危ねぇ!」
急展開に夏華が思わず飛び出すも、磐田に腕を掴まれて引き戻された。そばへ行くには炎の勢いが強すぎるのだ。火あぶりから鬼の力に目覚めた雅人。再び火あぶりにされ、今度こそ死んでしまうのか?
「勉強不足でしたね。ちゃんと扱い方を学んでいれば、私から鬼火を奪えたかもしれないのに」
熱さと痛みに我を失いそうな雅人だったが、不思議といまの西原の言葉だけははっきりと聞き取れた。そして多少なりとも頭を使えるほどには冷静さを取り戻した。
(鬼火を奪う? そんなことができるのか? でもどうやって?)
変解のスイッチは強い闘争心だった。精神を研ぎ澄ませ、力を振るうことに集中する。西原が特に道具を使っていない点から考えて、鬼火も変解と同じように心で操るのでは?
悠長に考えている暇はなかった。いくら強靭な鬼の身体でも、業火の中では長くはもたない。雅人は意を決し、身体にまとわりつく炎に全神経を集中させた。
「……いける」
徐々に苦痛が和らぎ、いつしか薄絹に触れたかのような心地よさすら感じるように。焼かれた肌も早くも回復し始めている。鬼火はいまや完全に雅人のものだ。
「…………」
西原が無言で跳躍。全体重を乗せた飛び蹴りで雅人に迫った。
雅人は手のひらを西原に向けた。そして先ほどの動きに倣って炎を放った。炎の渦、あるいは炎を纏った竜巻とでも言おうか。雅人が放ったそれは、西原のものよりはるかに巨大だった。
「これは!」
西原は跳躍中に攻撃から防御に切り替えた。だがその判断も空しく、炎に包まれて十メートルほど空に打ち上げられた。それから、一呼吸おいて落下。肩や腰を地面に打ち付けた。
「今度こそ終わりだ」
雅人は西原の全身にまとわりつく鬼火を消した。西原は落下と火傷でかなりのダメージを負ったが、命に別状はなかった。
「なぜとどめを刺さないのです?」
「僕にその気はない」
言いながら雅人は変解を解き、これ以上戦う意思がないことをアピールした。
「甘すぎます。私はあなたを裏切ったんですよ?」
「裏切られたとは思えなかった。口では上手く説明できないけど、その……」
磐田が助け舟に入る。
「横から失礼しやす。組長アンタ、若を鍛えるつもりで戦ったんじゃありやせんか?」
「は? 磐田さん、急に何を言い出すんです」
「アンタにその気がありゃあ、開幕の時点で勝負はついてたはずだ。なのにご丁寧に技を見せたり、殴り合いに付き合ったり、まるで組手みたいでしたぜ」
磐田の的確な指摘に、雅人はウンウンと繰り返しうなづいた。
「殺すだ何だって暴言も、若にやる気を出させるめに言ったんでしょ。あっしらみんな短くない付き合いだ。一思いに全部ぶちまけてくれやせんか?」
厳つい外見とは正反対の優しい説得。これに心を動かされたというわけでもなさそうだが、西原は妙に晴れ晴れとした顔で口角を上げた。
「買い被らないでください。私は本気で若を殺すつもりでしたよ。でなきゃ金本さんや化け物なんて使いません」
拉致からのリンチ、そして火あぶり。最初の騒動は殺意に満ち溢れていた。その後の襲撃も、精神に支障をきたすほど執拗で苛烈なものだった。
「いまの戦いだってそうです。最初の宣言通り、親父の名を汚す若を倒す気でいました。ですが同時に、私を倒して新たなヒーローになってほしいという願いもありました」
本気の殺意で襲っておきながら、雅人の勝利に期待する。いびつな愛情。少なからず死傷者も出ており、どう贔屓目に見ても美談には程遠い。
夏華は今回の一件に巻き込まれた一人として、はぁぁ~と長い溜め息をついた。それから西原に尋ねた。
「そんで、西原さんの願いは叶ったの?」
「ええ。感無量です」
西原は声を弾ませて答えた。興奮を抑えきれないようだ。
雅人は西原の意外な一面に困惑しつつも、ある意味自分のために憎まれ役になってくれたのだと解釈し、全てを水に流すことにした。
「じゃあこの件は終わりでいいよね?」
寝不足と戦闘疲れで身体が悲鳴を上げている。問題が片付いた以上、早く帰って眠りたかった。
「西原も早いとこ変解を解きなよ。適当に後始末して帰ろう」
「いいえ、まだ終わりではありません。不義理のけじめを取らせてもらいます」
そう言い終えた次の瞬間、西原の身体が消えた。新たに作り出した鬼火で、自身を焼き尽くしたのだ。
「なっ?」
あまりに唐突すぎて、三人は反応すらできなかった。状況を把握した時にはもう、足元に灰の山が積まれていた。
「えっ……西原さん、いまここに………えぇー?」
先代の亡骸を利用したうえ、その息子の命を狙った。確かにいくら組の長とはいえ、下の者に示しがつかない不義理ではあったが。
「身勝手が過ぎる。ワビ入れりゃあいいってモンじゃねぇだろ」
磐田は怒りの矛先に迷い、手のひらに拳を打ち付けた。
雅人には怒りも憎しみもなかった。ただ、身内を亡くした喪失感と、少しの罪悪感が胸を苦しめた。
「そもそも僕がもっとしっかりしていれば良かったんだ。そうすれば西原は組長になることも、鬼になることもなかったはず」
雅人の嘆きに磐田も怒りを鎮め、己の過去を悔やんだ。
「それで言ったらあっしこそ、二番手に拘るべきじゃありやせんでした。無理くり組長役を押し付けて、プレッシャーかけちまいやしたね」
二人は言葉を失い、ただじっと西原の遺灰を眺め続けた。どちらも心の中で、二十年近い西原との思い出を反芻していた。
夏華も二人の気持ちを汲んでしばらくは黙っていたが、やがて周囲を見回して沈黙を破った。
「はい、感傷に浸るのはここまで。早いトコ片付けないと、誰かにケーサツ呼ばれるよ」
墓石はへし折れ、地面は穴だらけ。嵐が過ぎた後よりも酷い有様だった。それでいて源二の墓だけは無傷なのが余計に性質が悪い。恐らく西原が細心の注意を払ったのだろうが、このままでは鬼頭組の悪評が広まりかねない。
「お、おう。じゃあ人を呼んできますんで、若たちはひとまずゴミ拾いでも」
磐田は巨体に似合わぬ猫背でそそくさと走り去った。
「我が親ながら、墓場から蘇ったフランケンみたいだね。見た人が気絶したらどうしよう」
夏華の軽口が聞こえていないのか、雅人はなおも下を向いたままだった。
「若サマ、気持ちはわかるけどさ、あんま考えすぎない方が良いよ。ぶっちゃけ西原さんは死にたがってたと思うし」
「え?」
雅人はビクリと反応した。
「あの人には鬼頭のおじ様が全てだったっていうか、若サマでも代わりにはならなかったっていうかさ。今日の話を聞いた限りだとそんな感じがしたんだ」
「そう……なのかな」
「勝負の最後に若サマが必殺技出したじゃない? 西原さんあの時、妙に嬉しそうな顔したんだよね」
夏華の推察が正しいとすれば、それは鬼火を操る雅人の成長を喜んでのことか、死んで源二のもとへ行けるためか、あるいはその両方か。
「だから死んだのは若サマのせいじゃないよ。西原さんだってきっとそう言うはず」
慰めの言葉が傷ついた心に染みる。
「……ありがとう。なんか吹っ切れた気がする」
モヤモヤと胸を締め付ける想いはまだ残るものの、会話ができる程度には回復した。
夏華は雅人の様子に内心では安堵しながら、したり顔で胸を張った。
「ふふん、連れてきて正解だったっしょ」
「素直に認めておく」
「それよかこの先が大変だよ。組長が突然いなくなったんだからさ」
結果のみを一言で言えば、組長の焼身自殺である。しかし鬼の存在を世間から隠すため、そこに至った経緯は迂闊に口外できない。また次の組長も早く決めねばならない。モタモタすれば組内外の混乱を招き、さらに警察やメディアにも目を付けられてしまうだろう。
「わかってる」
雅人は源二の墓を見つめ、強く答えた。
7
【九月五日 午前九時三十五分 鬼頭組本部 雅人の自室】
何の前触れもなく起きた組長の自殺というトラブルは、関連組織である諫早組の組長が前日に死亡したこともあり、三流ゴシップ誌が嬉々として陰謀説などをでっち上げた。しかし予想したほどの騒ぎにはならず、大衆は既に本件とは全く関係ない話題で盛り上がっていた。危惧していた組内部の混乱も、磐田と雅人の尽力により大事には至らなかった。
あの日、墓地の片付けを終えた雅人は、磐田経由で鬼頭組幹部に招集をかけた。そして西原の死と、自分が組を継ぐという意思を皆に伝えた。すると幹部たちは一様に驚き、雅人の決意を一笑に付した。源二が倒れた直後ならともかく、いまさら何の実績もない子供に用はないというのだ。だが磐田の強い推薦と、何よりかつての弱々しさが消えた雅人の相貌にただならぬものを感じ、一人、また一人と膝をついていった。いまや組の誰もが雅人を新組長と認めている。本日これから執り行う就任式も、万事問題なく進行するだろう。
「むぅ、馬子にも衣裳って言葉は嘘だね。服が立派すぎて、若サマの薄っぺらさが逆に目立っちゃってるよ」
姿見の前に立つ雅人を見て、夏華が残念そうに呟いた。
「……言われなくてもわかってる」
一世一代の大事な式典であるため、高級ブランドのスーツ一式が急ぎ用意された。しかし雅人がこれを着こなすには、社会人経験が圧倒的に足りていなかった。組織の長としての貫禄が皆無で、せいぜい紋付き袴を着るよりはマシといった程度の見栄えである。
「まるで七五三だね。千歳飴買ってこよっか?」
「うるさい」
余談だが、新組長就任に伴い、住居もアパートから再び組の本部へと移した。雅人の一人暮らしは結局半年も続かなかったことになる。幸い磐田が管理するアパートなので家賃や契約周りの面倒はなかったが、なぜか夏華まで一緒に引っ越してきた。理由は前回と同じく通学時間の問題らしい。アパート住まいの頃より五分ほど長くなるが、通学時間の問題らしい。
「でもさ、ホントに良かったの? 若サマが無理して組長にならなくても、パパがどうにかしたんじゃない?」
「うん、その方が組も上手く回るとは思う。だけど……」
雅人はネクタイを直しながら、いまの気持ちに最適な言葉を探した。
「だけど?」
夏華がオウム返しで発言を促す。
「西原への罪滅ぼし、なんて言うと格好つけすぎかな。でも僕が跡を継いでいたら今回みたいな展開にはならなかった。そう思うと、なんだか気が晴れないんだ」
今回の一件において雅人は被害者であり、倒した相手に責任や罪悪感を感じる必要はない。しかし兄同然だった西原の最期を思い返すと、どうしても後悔を伴う割り切れなさを感じてしまうのだった。
「それに親父の血の行方が気になる。もしまだ残ってるなら根こそぎ片付けないと」
源二の血はどこかの製薬会社に渡った可能性が高い。であれば一介の高校生に回収は不可能だ。この問題に関しては、反社とはいえ鬼頭組の組織力と権力が役に立つだろう。
「あとは自分のルーツに興味を持ったってのもある。荒神が鬼だけ、ましてや僕だけとは思えない。ほかにもいるなら会ってみたいし、種族としての歴史とか、色々なことを知りたい」
鬼頭組の基礎は室町時代から続く組織である。ほかにも似たような組織や古い歴史を知る人物などがいれば、向こうから組を尋ねてくるかもしれない。少なくともただの学生でいるよりかはずっと目立ち、荒神の情報も得やすいはずだ。
「ふ~ん、思ったよりちゃんとした理由があるんだ」
「最後のはついでみたいなものだけどね」
「まぁアタシ的には、ご飯作ってくれるなら組長でも何でもお好きにーって感じかな」
「まだ作らせる気か」
本部には家政婦も若手の組員もいるのに、なぜか食事の大半はいまも雅人が作ることになっていた。料理自体は趣味なので不満はない。だがそれがお前の役目だと言わんばかりに催促されると若干苛つく。
「だって若サマのご飯がイチバンおいしいんだもん」
唯一の特技を褒められて悪い気はしない雅人だったが、アパートでの暮らしを思い出して身構えた。
「その一言に乗せられて、お前の世話をやらされたからな。もう騙されないぞ」
「いやいや、ガチの感想よ? 別にチョロいとか思ってないかんね」
とりとめのない会話が続く。鬼となって死線を潜り抜け、組のトップになる覚悟も決めたが、雅人自身は冴えない高校生のまま。普段の態度や性格が変わるわけではなさそうだ。
「組長、そろそろお時間です」
廊下越しに若手組員の声が。どうやら就任式の準備が整ったらしい。
「よし、行くか」
「がんばってね、新組ちょー」
雅人は雑談で緩んだ顔を引き締め、部屋のドアを開けた。
『桃太郎は鬼を倒して幸せになりました』
『一寸法師も鬼を倒して幸せになりました』
僕のおとぎ話に夢はなかった。一攫千金を狙う英雄は登場せず、倒されて悪夢になることもなかった。
現実なんてこんなものだ。時代は二十一世紀。世界中に情報が溢れ、神秘の謎はモニター越しに丸裸にされる。
だけど世間がどれだけ否定しても、神や化け物は実在する。先入観を捨てて周りを見渡せば、意外とすぐそばにいるのかもしれない。ただの高校生だった僕がそうであるように。
僕は鬼頭雅人。情報だらけの社会に隠れ住む、現代の鬼。
『一寸法師も鬼を倒して幸せになりました』
おとぎ話には夢がある。どんな奴だって、鬼さえ倒せば英雄になれるのだ。
だけど、鬼は本当に悪人だったのだろうか?
他人より力が少し強いだけ、見た目が少し違うだけで、本当は良い奴だったのかもしれない。ところが誰かの出世のために利用され、悪者にされ、倒されたのだとしたら。
力で弱者を駆逐する残酷物語。
おとぎ話が見せる夢など、鬼にとっては悪夢でしかなかっただろう。
なんて、ありもしない作り話にムキになっても無駄なこと。
時代は二十一世紀。世界中に情報が溢れ、神秘の謎はモニター越しに丸裸にされる。
およそ分からないことはないこの世の中。どれだけ探しても、鬼や化け物の類が発見された例は一度もない。所詮あんなものは空想の産物だ。まともに考えるのも馬鹿らしい。
だから世間がそうであるように、僕もまた、鬼の存在など信じていなかった……そう、あんな事件に遭遇するまでは。
1
【五月十日 午後四時 台東区 某総合病院】
鬼頭雅人。どこにでもいる、平凡な高校二年生。学校の成績は並程度。特に優れた才能があるわけでもなく、磨けば光りそうな容姿も、原石のままほったらかし。そんな、普通の物語で言えばその他大勢に位置する少年が、この物語の中心人物である。
ゴールデンウィークも明けた五月の夕方。雅人は学校帰りに、家から少し離れた総合病院に来ていた。目的は父親の見舞い。彼の父親は今年で八十歳を迎えるが、いままで風邪ひとつひいたことはなかった。それが昨日、旅先から帰った途端に倒れたため、大事をとって入院させることにしたのだ。
入院病棟の最上階。限られた富豪や権力者が利用する特別室。関係者以外は立ち入り禁止で、来訪の際には専用のエレベーターを利用することになっている。さらに専属の警備員と患者個人の護衛役が廊下を埋め尽くし、蟻の子一匹忍び込む隙を与えない。
婦長によってここへ案内された雅人だったが、特に驚く素振りもなく、平然と男たちの前を通り過ぎて行く。
対する男たちの方は、雅人の来訪に気付くと一斉に頭を下げ、異口同音に挨拶の言葉を発した。
「お待ちしておりました、若」
雅人は男たちから『若』と呼ばれている。彼の父親は、東日本全域に勢力を誇る反社会的勢力『鬼頭組』の組長なのだ。
「あぁうん、ごくろうさま。どうでも良いけどこの数、ちょっとやり過ぎじゃない?」
「隙を吐いて、どこぞの馬の骨が紛れ込むか分かりませんからね。用心に越したことはありませんよ」
「これだけいたら、余計に人の見分けがつかなくなる気がするけど……。それより親父は?」
「奥にいらっしゃいます。こちらへどうぞ」
案内されたのは、まるで高級ホテルのスイートルームのように豪華な部屋だった。足の甲まで埋まりそうな絨毯に、黒光りする革張りのソファー、磨き上げられた大理石のテーブルはまだ良いとして、小さいながらもバーカウンターまであるのは何の冗談か。ここが病室であると証明できるものはせいぜい、機能優先の介護ベッドぐらいだ。
そのベッドを背上げし、上半身だけ起こした格好でいるのが、雅人の父親にして鬼頭組組長の鬼頭源二である。また脇には、筋肉質で暑苦しい中年大男と、知的で均整の取れた身体つきの好青年が控えていた。大男の方が若頭の磐田で、好青年の方が若頭補佐の西原だ。
二人は雅人の姿を見ると一礼し、何も言わず病室から出て行った。気を遣い、親子水入らずで話せる時間を作ってくれたのだろう。
「おう、来たな雅人」
年齢を感じさせない張りのある声で、源二は息子に軽く声をかけた。
「意外と元気そうじゃん。その様子じゃ、検査の結果も大したことなかったの?」
父親の様子にホッと胸を撫で下ろした雅人だったが、肝心の父の返答は、その安堵を台無しにするほど強烈だった。
「聞いて驚け、癌だってよ。それも肺やら腸やら、大事な部分が根こそぎ末期なんだと」
「……え?」
「もってあと一カ月もないそうだ。ははは、これから忙しくなるぞ」
声色と話の中身にギャップがありすぎた。雅人は暫し呆然とし、それから感情の赴くままに怒鳴り散らした。
「な、なに他人事みたいに言ってんだよ! いきなりそんな……無茶苦茶だ」
「そうは言ってもなぁ。事実である以上、ウダウダ喚いても仕方ねぇだろう。こうなりゃ腹ぁ括って、この先どうするか決めねぇとな」
「……………」
「だから明日には帰るつもりなんだが……って、おいおい、そんな暗い顔すんじゃねぇよ」
既に覚悟を決めている源二とは違い、雅人は怒れば良いのか、それとも悲しむべきなのか、感情の矛先を決めかねていた。
「人の気も知らないで。親父は勝手過ぎるよ」
震える声でそう漏らし、雅人は俯いた。
源二は目を瞑り、深いため息をひとつ。それから再び雅人の方に顔を向け、申し訳なさそうに答えた。
「そうかもしれんな。ジジィになってからお前をこしらえて、男手ひとつでロクに面倒もみねぇで、挙句にゃ一人前にする前に逝っちまうんだ。ホント、お前にゃあ苦労のかけまくりだよ」
ちなみに雅人は源二の還暦後に生まれた子供である。母親は当時二十代だったが、雅人が物心つく前に他界した。
(違う、僕が聞きたいのはそんな言葉じゃない。いつもならもっと強気で、『病気なんて気合で治す』ぐらい言うじゃないか)
しかし言葉を返せば返すほど、父親の弱い部分が見えてしまう気がして、雅人は言いかけた言葉をグッと堪えた。
「と、とにかく! 親父は組を背負ってるんだ。僕なんかより、もっと大事なことがあるだろ?」
「おいおい、最期ぐらいは俺も親父らしくだなぁ……まぁ良い。確かに組の今後も、色々と考えんといかんな。今日はこのまま泊まっていくが、明日の朝には家に帰るつもりだ」
「無理して大丈夫なの? 昨日の夜に倒れたばかりなのに」
「ハッ、手遅れだってんなら、どこにいようが同じだろ」
「だけど――」
「なぁに心配すんな、いますぐくたばる気はねぇからよ。だからお前も、今日はもう帰んな」
雅人は気持ちの整理がつかず、ここでの会話を諦めた。
「あぁ……うん」
気のない返事を返し、重い足取りで病室を後にする。
廊下に出た途端、組員たちが一斉に雅人の方を向いた。皆、表情が暗い。おそらく磐田と西原から、源二の病状を聞いたのだろう。
雅人は彼らにかける言葉が思いつかず、黙って会釈をしてエレベーターに向かった。
病院の外へ出ると、辺りはだいぶ暗くなっていた。ここから自宅までは電車の乗り換えが不便で、タクシーはアルバイトで小遣いを稼ぐ高校生には高額すぎる。仕方なく最寄りのバス停を探し始めると、一台の車が雅人の目の前に横付けした。乗っていたのは西原だった。
「お乗りください、若。家までお送りします」
「悪いけど、一人で帰りたいんだ」
西原の気遣いはありがたいものの、雅人はいま、誰とも顔を合わせたくなかった。
「ですがそんな顔で歩いていたら、車に轢かれますよ?」
疑うまでもなく、気持ちが顔に出ているようだ。雅人は意地を張る気にもならず、黙って後部座席に乗り込んだ。
出発してからはお互いに無言だった。ラジオをつけるでもなく、かすかなエンジン音だけが耳を刺激した。
(帰ったら、まずは夕飯の仕度をしよう。豚バラがあるはずだから、今夜は味噌炒めかな。あとはほうれん草の白和えと、揚げ出し豆腐。味噌汁の具は大根で……)
現実逃避。ただ車に揺れているだけだと、どうしても父親のことを考えてしまう。だから無理やりにでも趣味の料理に没頭し、暗鬱な気持ちを誤魔化したかった。
沈痛な面持ちで沈黙を続ける雅人を気遣い、西原が声をかけた。
「お気持ち、お察しします」
「………………」
「あまりに急な話で、私たちも正直途方に暮れているところです」
「………………」
「駄目ですね、普段は極道だ何だと――」
「ごめん西原、いまはあまり、そのことを考えたくないんだ」
「……失礼しました」
再び流れる沈黙。気まずい空気が車内を包み込む。
失言だった。辛いのは雅人だけではないのだ。
この手の組織にしては珍しく、鬼頭組は結束力が非常に強い。ひとえに組長である源二の人望によるものだ。中でも西原は孤児院から組に引き取られ、源二を実の親以上に慕っていた。しかも若頭補佐という高い地位にありながら、わざわざ雅人のために運転手を買って出てくれたのである。この好意を無碍にするわけにはいかない。
雅人は暗く沈んだ空気を変えるべく、今度は自分から話を切り出した。
「と、ところでさ、次に組を仕切るのは誰なんだろうね。経験なんかで言ったら、やっぱり筆頭舎弟の広瀬さんかな?」
「叔父貴にはその気がないみたいですよ。ご自身の組の方も、そろそろ次の世代に任せたいなんて仰っていましたし」
「そのまま引退するつもりなのかな。なら次は磐田? もしくは諫早組の金本さん?」
「磐田のカシラなら誰もが納得しますが、残念ながら辞退されるらしいです。金本の叔父貴は最近、大陸系との良くない噂があるので、下手をすれば組全体が荒れることになるかと」
「なんだ、誰もいない……って、西原がいるじゃないか。二十九歳って年齢はともかく、実力で言えばトップなんだしさ。十分にその資格はあるんじゃない?」
「いやいや、私なんて器じゃ……。そう仰る若こそ、いかがなんですか?」
「勘弁してよ。十八歳未満お断りの世界に、平凡な高校生を誘い込まないで」
「ですが言ってみれば、親の家業を継ぐだけのことじゃないですか。若なら誰もが納得するでしょうし」
「器でもガラでもないよ。喧嘩もロクにやったことない僕に、度胸試しのチャンピオンみたいな仕事は務まらないって」
「しかしですね……」
何か気にかかることでもあるのだろうか。冷静さが売りのインテリヤクザにしては珍しく、西原はやたらとこの話題に食いついてきた。
それでも雅人には、家を継ぐ気が微塵もなかった。組長の息子という立場上、式典への出席を余儀なくされることはある。しかしそれ以外は普通に学校へ行き、友達と遊び、コンビニのアルバイトに精を出す、ごく一般的な十代の少年なのだ。来客にも時折、住み込み家政婦の息子に間違えられる。
むろん喧嘩などもっての外。強面男への耐性こそ人並み以上にあるものの、殴り合いはまともに体験したことがなかった。
こんな彼に総勢三千人を超える組織の代表が務まるわけがない。仮に祭り上げられたとしても、誰かに乗っ取られるか、それとも力で潰されるか。どちらにしても、明るい未来はやって来ないだろう。
「では若は、これからどうなさるおつもりですか?」
「いまの家は組の本部でもあるし、そう遠くない日に引っ越すことになるだろうね。そこから先は、まだ分からないな。いつか小さなレストランを開きたいって夢はあるけど」
雅人は話の流れから、将来の夢について軽く漏らした。何をやっても人並な雅人にとって、料理は唯一の特技であり、趣味だった。きっかけは家政婦の勧め。幼くして母親と死別した雅人を慰めようと、当時の家政婦が親身になって教えてくれたのだ。そのレパートリーは煮物を中心とした家庭的な料理が多く、独身組員たちの夕食もほぼ毎日賄っている。高校を卒業したら調理師免許を取り、本格的に学ぶつもりでいた。
西原は雅人の話を聞くと急に車を止め、険しい目付きで後部座席に振り向いた。
「何故です? 親父は鬼頭組組長、構成員三千の頂点に立たれるお方なんですよ? その一人息子であるあなたが、どうしてそんな、誰にでも叶えられそうな夢で満足なさるのですか!」
「さ、西原?」
目付きだけでなく、語調も強い。西原は雅人にとって兄のような存在で、物心つく頃からの付き合いだった。しかしここまで熱くなった姿は初めてで、雅人はただただ面食らってしまった。
「度胸なんて、そのうち嫌でも身に付きます。喧嘩や金勘定は、それこそ得意な者に任せれば良いのです。ですが親父、鬼頭源二の血を受け継いでいる者は、若をおいて他にいないじゃないですか」
「いや、血だなんてそんな、大袈裟な」
皇族だの著名人だのならともかく、ヤクザが血筋を気にしてどうする。そう思う雅人だったが、西原の勢いに圧倒され、口に出すことができなかった。
「大袈裟ではありません。若だってあの方の本当の姿を知れば、叔父貴たちでは力不足だということが――」
「ストップ! いまの一言はマズイよ」
興奮からつい出てしまったのだろう身内批判を、雅人は慌てて遮った。
西原も失言に気付き、気まずそうに正面を向いた。再び車が動き始める。
「自分から話を振っといて何だけど、ここであれこれ言っても意味がなかったね」
「え……えぇ、そうですね」
そこから先は、二人とも無言だった。
やがて、自宅に到着。部屋に戻るなりどっと疲れを感じた雅人は、着替えも何も後回しにして、ベッドに身体を埋めた。
目覚めたのは夜中。一人きりで父親のことを考え、少し泣いた。
【五月十一日 午後四時 鬼頭組本部】
帰宅した雅人は玄関で出迎えた組員から、すぐに父親の部屋へ来るようにとの伝言を受けた。本人が昨日言っていた通り、昼前には帰宅したそうだ。
「ただいま」
「おう、おかえり」
源二は座椅子に腰かけ、何かしらの書類に目を通していた。
「起きてて大丈夫なの?」
「別に何ともねぇなぁ。流石に大立ち回りはできんだろうが、普通に生活する分には平気だ」
源二の様子は普段と同じ、並の八十歳とは比較にならないほど元気だった。誰が見ても、これで末期癌だとは思わないだろう。病院で着ていた医療用の浴衣と違い、資産家らしい一品ものの和服姿だからなおさらだ。
「わざわざ呼びつけたのはよ、お前に話しておくことがあってな。とりあえずそこ座れ」
改まって話というのも珍しい。よほど大事なことなのか。雅人は源二の前に置かれた座布団に正座した。
「話したいことはいくつかあるが、まずは組についてだな。おい雅人、お前、跡を継ぐ気あるか?」
雅人は些かの逡巡もなく即答した。
「親不孝かもしれないけど、正直に言うと、ないんだ」
「おう、そうか。ならそれで良い」
源二の意外な言葉に、雅人は少々肩透かしを食らったような気分になった。
察した源二が言葉を続ける。
「極道なんざ、胸張って人様に言える仕事じゃねぇからな。無理やり継がせちゃあ親失格だろう。まっ、お前はお前で、好きな道を探せ」
言いながら、袖口から小さな冊子を取りだし、ポンッと雅人の方へ放った。手に取って見ると、それは銀行の預金通帳だった。
「お前名義でいくらか入れてある。生活費の足しにでもしとくれ」
まるで小遣いをやるかのように源二は軽く言ったが、指をさして確認しないと数えきれないゼロの羅列。一生遊んでも使い切れない程の金額だった。
「こ、これは何の冗談?」
「あん? 足りねぇってか。お前も男だろう、そこは自分で何とかしろや」
「逆だよ逆! こんな金額、見たことないよ」
「多いんならイイじゃねぇか。こまけぇこたぁ気にすんな」
源二は満足げにカカカと笑った。
「あと組の方だがよ。そっちはまぁ、磐田と西原に任せときゃ問題ねぇ。頭もそのうち決まるだろうさ」
「意外とあっさりしてるんだね。下手したら身内同士で潰し合いになるかもしれないのに」
「ところがどっこい、誰もやりたがらねぇんだよ。自分は器じゃねぇとか言ってな。普通なら親を殺してでもテッペン目指すと思うんだが」
それは仕方のないことだった。鬼頭組は室町時代から原形が存在する、言うなれば老舗の極道である。だがその立場はせいぜい地元の顔役であり、台東区を離れれば誰も知らない小さな集団だった。そこから急成長を遂げ、日本の半分を牛耳るまでになったのは、他ならぬ源二の手腕なのだ。
腕っ節にしても人望にしても、源二はとにかく影響力が強すぎた。下からすればこれほど頼もしい指導者もいないが、だからこそ大きな壁にもなりうる。親への忠誠心と、跡を継ぐことへの重圧。反社会的勢力には野心家が数多くいるが、どうしてなかなか、この二つを無視できる者はいなかった。
「ともかく俺としてはよ、組よりもお前の将来の方が心配なんだ」
「気持ちはありがたいけど、好きな道を探せって、いま言ったばかりじゃないか」
「いや、そうじゃねぇ。話はむしろこっからが本題だ」
そう言って源二は、軽く咳払いをした。そして真剣な眼差しで雅人を見つめた。親子二人だけの部屋に、何とも言えない緊張感が走る。
時間にして、三十秒もない沈黙。しかし雅人にはそれが、異様に長く、重苦しいものに感じられた。
やがて、源二の口が開いた。
「お前、鬼を見たことあるか?」
さらに十秒の沈黙。雅人は気の抜けた返事で答えた。
「……は?」
「だから鬼だよ、鬼。もちろん作りモンじゃねぇぞ。本物の鬼だ」
病気のショックで頭までおかしくなってしまったのだろうか。人を呼びつけておいて鬼がどうこうなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
雅人は若干苛つきながら、吐き捨てるように言葉を返した。
「あるわけないだろ。現実にいないものをどうやって」
おかしな質問を投げておきながら、源二はそうだろうと言わんばかりの顔で頷いた。
「まぁ、普通ならそう思うわな。ならやっぱり、一度見せておくべきか」
見せる? まさか桐箱から干物を出して、『鬼の手のミイラでござい』なんて言うつもりじゃなかろうか。
訝しむ雅人を尻目に、源二は一人で納得して話を進めた。
「いまの身体じゃ、やれて一瞬だ。だから雅人、目ぇ逸らすんじゃねぇぞ」
源二はゆっくりと座椅子から立ち上がると、腰の辺りに拳を添え、空手の正拳突きと似た構えを取った。それから、大きく二回の深呼吸。部屋の中に独特の空気が漂い、ただ座って見ているだけの雅人の方が、呼吸を整える源二よりも息苦しさを感じた。
「フンッ!」
源二は息を止め、全身に力を込めた。するとどうしたことだろう、彼の身体がぼやけて消え、入れ替わりに、赤黒い肌をした大男が現れたではないか。それはまさに一瞬。まるで手品のように、あっという間の出来事だった。
身長は三メートル前後。天井を突き抜けないよう、僅かに身体を丸めている。張り詰めんばかりの強靭な筋肉が全身を覆い、拳など岩石そのもの。何より驚いたのがその顔だ。肉食獣さながらに長く尖った牙、不気味に黒光りする双眸、ボサボサの長髪から覗かせる二本の角。そう、大男は、誰もが思い描く鬼の姿をしていたのだ。
「お、おにっ!」
雅人は理解不能な光景に腰を抜かし、引きつった顔で鬼を見上げた。身体は元より喉までも震え、これ以上叫ぶことすらままならなかった。
鬼がこちらを向いた。そして右手を雅人の肩へと伸ばす。捕まえるつもりなのか。
身動きできない雅人。鬼の手がゆっくりと近づく。肩まであと数センチ。
ところが、何があったのか。鬼はいきなり膝をつき、苦しそうに心臓の辺りを手で押さえ始めた。激しい息使い。全身から噴き出す大量の汗。やがて耐えきれなくなったのか、鬼はそのままうつ伏せに倒れた。そして出て来た時とは逆、鬼と入れ替わりで、源二の姿が現れた。
「いまのは……親父?」
「ハァ……ハァ………やれやれ、ジジィにはキツイぜ」
起き上がり、胡坐をかいた源二が照れたように笑った。どうやら体力は消耗したようだが、体調的には問題なさそうだ。
「見ただろ雅人、いまのが鬼だ。つまり早い話、俺は人間じゃねぇってことよ」
「人間じゃ、ない?」
僅かな間に流れ込んできた情報量が多すぎる。雅人は処理が追いつかず、眉間にしわを寄せて源二の言葉をそのまま返した。
「ああ。人に化けた鬼、とでも言うのか。まぁ歳食ったいまじゃ、鬼の姿になる方がしんどいけどな」
身体の汗を手拭いで拭いつつ、源二は真剣な眼差しで雅人の顔を見た。
「それより重要なのはよ、お前にも鬼に変解(へんげ)する可能性があるってことだ」
「えっ?」
「人じゃねぇ俺の子なんだ、当然だろ」
話は勝手に、雅人の理解の範疇外へと飛んでいた。父親の正体が鬼であるということが、まず意味がわからない。そのうえ自分まで人ではないなんて。どう見ても平凡な学生なのに。
「で、でも、死んだ母さんは人間だったんだよね?」
「おうよ、だから絶対ってことはない。あくまで可能性の問題だ」
変解した源二がそうであったように、世間一般で言う鬼のイメージは、力強くて荒々しいものだ。対して雅人は、良く言えば温和な性格、悪く言えばぬるま湯で育ったお坊ちゃま。そんな彼が鬼になったところで、豚に真珠、猫に小判。これ以上のミスマッチもないものである。
「う~ん。仮にその……へんげ、だっけ? ができたとして、何か問題でもあるのかな? 強そうで良いじゃないか」
何もかも実感が沸かず、雅人は他人事のように答えた。
「バカッ、そんな甘ぇモンじゃねぇんだよ、鬼になるってのはなぁ」
「そう言われても、まったく想像できないよ」
「気持ちは分かるが、用心するに越したことはないだろ? だからコイツに目を通しとけ」
源二はそう言って、二冊の書物を雅人に渡した。ひとつは古めかしい和紙でできたもので、博物館にでも寄贈されていそうな重厚感がある。そしてもうひとつは、どこにでもある大学ノートだった。
「これは?」
「ウチの血筋だの、変解の方法だのが書かれた文献だ。だがお前、昔の文章なんて読めねぇだろ。要点のまとめと解説を、こっちのノートにメモしといてやった」
気が利く父親に感謝すべきか、不出来な自分を恥じるべきか。雅人は苦虫を噛み潰したような顔で愛想笑い。
「必ずしもお前が鬼になるとは限らねぇ。事実、俺の親はどっちも人間だったしな」
「でも可能性がゼロではない以上、油断するわけにもいかないと?」
「特に成長期が一番危険なんだが、生憎と俺は、お前を見続けることができそうにない。もしもの時はその二冊を頼りに、自分で切り抜けてくれ」
「……わかった。とりあえずもらっとく」
事実を受け入れたというより、あまりに現実離れした話に、雅人の思考はついて行けなかった。文献にしても、源二のように危機感を抱いているわけではないから、恐らく一度読んでそれっきりになるだろう。
「仮にお前は無関係だったとしても、その本は絶対に捨てるなよ。もしかしたらお前の子供が――」
「はいはい、言われなくてもわかってるよ。家宝みたいなもんだし、大切に扱うって」
用件はこれで終わりのようで、雅人は自分の部屋へ戻ることにした。言われた通り、貰った二冊を読んでみるつもりだ。
【午後十時七分 雅人の自室】
気が付けば時計は、夜の十時を少し回っていた。源二のノートはかなりのボリュームがあり、数時間かけてようやく読めたのは半分程度。ちなみに彼が言った通り、原典の方は読めないどころか、文字として認識すらできなかった。
雅人はとりあえず、読み終えた部分を頭の中で整理してみた。
最初に書かれていたのは、鬼と鬼頭の家についての歴史だった。
そもそも鬼とは、荒神と呼ばれる存在の一種である。では荒神とは何なのか。一言で表すなら、人や獣ならざるもの、である。
いまでこそ神や妖怪、精霊など、人間の都合で多様にカテゴライズされているが、元来これらは全て荒神と呼ばれていた。八百万の神と言えば、よりわかり易いだろうか。およそ人類の歴史が語られる以前より存在し、卓越した力や知恵、あるいは知識でもって、社会と密接な関係を築いていたという。
しかし日本に仏教が伝来し、それを政治に利用する者が出始めると、その関係にもズレが生じるようになる。名実ともに有力な一部の者は変わらず神として祀られたが、大半は仏に仇なす悪鬼妖怪とのレッテルを貼られ、酷い場合には討伐対象にされたのだ。
もちろん荒神たちも黙ってやられはしない。全力でもってこれに対抗したが、如何せん人間たちは数が多すぎた。
全ての荒神に共通する唯一の弱点、それは出生率の低さである。荒神同士、あるいは人間との間から生まれるが、基本的に親一組につき子は一人ないし二人。それも晩年にできれば良い方とされている。雅人もその例に漏れず、源二が六十歳を超えてからできた一人息子だ。
いくら個々が強くとも、数の暴力には敵わない。休む間もなく襲われ続け、日を追うごとに数を減らし、やがて荒神たちは、三つの選択を迫られることとなった。
ひとつは人間との干渉を避け、山の奥深くに隠れ住む道。
ひとつは人間に化け、人間社会に溶け込む道。
そして最後のひとつは、滅ぶまで己を貫き通す道。
鬼が選んだのは、人間社会に溶け込む道だった。元々人間に近い容姿をしていたので、人足や大工などといった荒くれ者の中に混ざっても違和感がなかったのだろう。中でも雅人の祖先に当たる者は、腕っ節の強さと人情味溢れる性格で皆に慕われ、いつしか町の顔役にまでなったという。時代にして、室町前後のことである。組織構成や体制など、現在のものとはかなり違うが、つまり鬼頭組の原点とも言えるべき組織は、実に七百年近くも前から存在したことになるのだ。
さて、鬼はこうして人間との共存を始めたわけだが、いくら似ている外見も、並んで立てば違いは明らか。またどんなに加減したところで、比類なき千人力は誤魔化しようがない。そこで『変解』と呼ばれる幻術(外見や能力に影響を及ぼす、強力な自己催眠)を日常的に使用し、人間のフリをしていたという。もっとも、長い時が経過した現代では、変解前と後の状態が完全に逆転してしまったが(今後は便宜上、人間から鬼の姿へ変わる方を変解と称する)。
変解の方法は、言葉で説明するだけなら至極簡単である。感情を高め、強い力を欲すること。どんな感情でも構わないが、物理的な力を望む都合上、怒りや殺意といった闘争本能に近いものの方が良いらしい。
しかし喧嘩すら満足に経験がない雅人に、闘争本能を剥き出しにしろと言ったところで無理な話だった。嫌なことを自分なりに思い出してみたものの、不快にこそなれ、鬼へと変解する気配は全くなかった。
後日そのことを源二に伝えると、
「まぁお前が鬼になれるんなら、夏華ちゃんはいまごろ般若にでもなってらぁな」
と、いたく安心した顔で笑った。
【五月十九日 午後二時 応接室】
源二が癌の宣告を受けてから一週間が経過した。紆余曲折ありながらも次の組長は西原に決まり、襲名式の打ち合わせだの何だのと、組の中は連日あわただしい。雅人も完全に無関係とはいかず、学業そっちのけで、細々とした用事に駆り出されていた。そしてこれから始まるのは、雅人の転居先選びだった。
組長の座を西原に任せ、反社会的勢力とは関係のない世界で生きていく以上、組織の本拠地でもあるこの家にはいられない。そこで雅人は、学校の近くにアパートを借りることにしたのだ。未成年の一人暮らしとなるが、金銭面は源二の遺産で事足りる。また、身元保証人や面倒な書類の類は、全て磐田が引き受けてくれた。磐田は副業として賃貸住宅をいくつか経営しているので、新居もその中から選ぶことになるだろう。本音を言えば無関係の不動産屋に頼みたかったが、保証人になってくれる彼に対してあまり我儘は言えなかった。
「すいやせん若、わざわざお時間をいただきまして」
がっしりとした身体に、茶色のスーツを着込んだ、濃い顔の大男。基本的には温和な性格で、いつもにこやかに笑っているが、それが逆にフランケンシュタインの如き凄みを感じさせる。磐田とはそういう男だった。
「いやいや、僕から頼んだことだから。それはともかく、どうして西原と夏華が居るの?」
客間には磐田の他に、西原と、磐田の娘である夏華が同席していた。
少々恐縮しながら西原が答える。
「これから襲名式当日まで、息つく暇がなさそうなんですよ。若とゆっくりお話できる時間も作れそうにないので、磐田のカシラに無理言って同席させてもらいました」
西原は雅人にとって兄のような存在だった。だがいまの言葉で、今後は住む世界が変わるのだと、改めて意識させられた気がした。もちろん口にした本人にその気はなく、ただの何気ない一言だったのだろうが。
続いては明るい少女の声。
「アタシはおじさまのお見舞いで来たんだけどね。若サマが独り暮らしするとか、なんか面白そうな話を聞いたんで、ちょ~っと混ぜてもらおっかなと」
夏華は雅人よりひとつ年下の幼馴染で、ただひたすらに能天気な性格をしている。学校帰りに寄ったのか、制服姿のままだ。
「にしても若サマ、ホントにこの家を出ていくつもりなんだ?」
夏華は雅人の顔をしげしげと眺めた。
「会社を辞めたら社宅から出ていくだろ? 要はそういうことだよ」
「う~ん、理屈じゃそうなんだろうけどさ。温室育ちのお坊ちゃまが、いきなり独り暮らしなんてできるの?」
温室育ちのお坊ちゃま。雅人も自覚しているが、夏華に指摘される謂れはない。彼女こそ雅人に負けず劣らずの温室育ちで、何より両親が健在なのだ。
苛立った雅人は若干の嫌味を込めて反論した。
「少なくとも家事は、お前より遥かに上手だぞ」
「そういうことじゃなくてさ、誰もいない寂しさに耐えられるのかなって」
それを聞いた磐田と西原が、もっともらしく相槌を打った。
「確かに。若の周りには、いつも必ず組の誰かがいましたよね」
「まぁあっしらにしてみても、若がこの屋敷にいらっしゃるのは当たり前だったからな。そうでなくなるのは寂しすぎやすよ」
世間知らずの雅人を揶揄するのかと思いきや、いたって真面目に本音を漏らした。二人はこれまで、多忙な源二に代わって雅人を世話してきた。しかも今回は普通の家庭で独り立ちするのとは勝手が違う。雅人の保証人となる磐田はまだしも、西原はこのまま疎遠になってしまうかもしれないのだ。
「できればずっとここにいていただきたかったです。そもそも私は、若にお仕えするつもりでいたのですから」
「またその話? 勘弁してよ。器じゃないって何度も言ったじゃないか」
「そんな……いや、そうですね。流石にしつこく言い過ぎました。以後気を付けます」
ふっ切れたような、落胆したような、少しだけ悲しそうな。西原の表情は複雑すぎて、そこから気持ちを汲み取ることはできなかった。
しばらく続く沈黙。
「…………」
何となく居づらい空間。チクタク、チクタク。壁掛け時計の秒針が、やたらと耳触りな音を刻む。雅人も磐田も西原も次の言葉を探したが、何を言っても居づらさが増してしまいそうで、ただ視線を下に落とすことしかできなかった。
「そう言えばさ、西原さんはなんで鬼頭組に入ったの? ご先祖様の代から働いてるウチと違って、自分からヤクザになりに来たんだよね?」
本人にその気があったわけではなかろうが、夏華が上手い具合に会話の流れを切り替えた。
これ幸いとばかり、西原は笑顔で答えた。
「ええ。元々は親父の経営する孤児院にいました。ですがそこが火事に遭いましてね。逃げ遅れた私を救ってくれたのが親父で、そのご恩返しがしたくて、組に入ったんです」
「あん時ぁ確か、まだ十歳にもなってなかったよなぁ。無茶なガキがいやがると思ったモンだぜ」
磐田も当時を懐かしむ。
「火事の一件で孤児院が閉鎖になって、子供たちはみんな他の施設に引き取られたんだがよ。コイツだけは組に居させてくれの一点張りで、テコでも動きやしなかった」
夏華が興味深そうに目を輝かせる。
「へぇ~、意外と頑固だったんだ」
「仕方ねぇってんで、舎弟だった先代の西原さんが養子にしたんだが、それからも雑用だの、若の子守りだの、ほぼ毎日組に顔を出してな。で、いつの間にか組員になって、次は組長だってんだから、ホント、世の中はわからねぇや」
雅人や磐田にしてみれば、鬼頭組は先祖の代から当たり前にあるもの。言うなれば住み慣れた家と同じで、愛着こそあれ、特別な感情は湧いてこない。しかし西原の場合は、自らの意思で選んだ居場所である。組に対する想いは、雅人たちの比ではないだろう。それを考慮すれば、やはり西原こそが次の組長に相応しいのかもしれない。
「一番驚いたのは私ですよ。磐田のカシラはともかく、他の幹部連中まで跡目を断るなんて思ってもみませんでしたから」
磐田家は代々鬼頭組の幹部を務め、組長である鬼頭の家を支え続けてきた。ある意味ナンバー二であることを誇りとしているため、他の候補者を押しのけてトップに立つ気はなかった。
「みんなそんだけ親っさんに惚れ込んでたってこった。ま、余計な喧嘩が起こるよかマシだろう。下手すりゃ跡目争いやら独立やらで、組がグチャグチャになってたかもしれん」
「西原さんだから暴れなかったんじゃないの? これが頼りない若サマなら、毎日が戦争だったかもね」
「お、おい夏華!」
「いくら若の幼馴染みでも、さすがに言葉が過ぎますよ」
夏華の冗談に磐田と西原は狼狽したが、彼女の言葉通りだと思った雅人は何も感じなかった。
「まぁ辞退した僕の選択は正しかったってことで、話を本題に戻させてもらうよ。やっぱり学校から近い方が……」
結局、部屋の設備にこれといった要望があるでもなく、家賃も磐田が相場よりも安くしてくれた為、選ぶ条件は立地ぐらいなものだった。あっさりと物件が決まったものの、入居は源二を看取ってからとなるので未定。おそらくはそう遠くない話だろうが、かと言って現段階で決められることは少なく、一通り片付けるのに二十分もかからなかった。
「それじゃあ今日のところはこの辺で。本人確認の必要がある書類がまだ二、三残っとりやすが、急ぐモンじゃありやせんので、また都合良い時にお願いしやす」
「こちらこそ。面倒事を引き受けてくれてありがとう」
「本音を言やぁ、アパートじゃなくて我が家に来て欲しいんですがね」
「磐田の家に下宿しろって? 悪いけど、それなら独り暮らしの方が気楽だよ」
義務教育中の児童ならともかく、雅人はあと二年もしないうちに高校卒業だ。それに源二の遺産だって十分すぎるほどある。にもかかわらず、わざわざ他人の家に厄介になるのは甘えでしかない。なまじ親しいからこそ互いに余計な気を遣ってしまいそうで、できればそういったことも避けたかった。
「いまさら気遣いなんて無用ですぜ。入居特典に娘も付けやすから」
「ますますお断りだ」
「あっしはね、息子が欲しかったんでやすよ。成長した息子と酒を飲むとか、最高だと思いやせん?」
「いまからでも作れば良いじゃないか」
「ならせめておや……いや親父は親っさんただ一人だから、お父さん、もしくはパパと呼んでくだせぇ」
「誰が呼ぶか!」
【六月十二日 午前十一時 源二の自室】
梅雨入り間もない六月。畳部屋の中央に敷かれた布団を囲んで、白衣の主治医と、黒服の幹部たちが座している。源二が自身の最期を悟って集めた面々だ。むろん、その傍らには雅人もいた。
「頭の引き継ぎは終えた。雅人への相続も問題ない。さて、これでいよいよお役御免だな」
癌の発覚からわずか一月程度にも関わらず、源二の身体はすっかり痩せ細り、筋骨逞しい鬼の面影は微塵もなくなっていた。ある意味ようやく年齢相応の姿になったのかもしれないが。それでも眼光は鋭く、極道者ならではの凄味も健在なのは流石。どっしりと腰を据え、自身の最期と正面から向き合っていた。
「親父……」
むしろ傍にいる者たちの方が、別れを惜しむあまり、冷静さを失いそうだった。誰もが正座したまま俯き、叫びだしそうになるのをぐっと堪えて、肩を震わせている。
「なんだ辛気臭ぇな、おい。やれ喧嘩だ戦争だって、やりたい放題やってきた俺がよ、お前らに囲まれながら、畳の上で死ねるんだ。こんなめでたい日に悲しそうな顔するなよ」
しかし何を言っても状況は変わらない。源二はやれやれと溜め息を吐いた。
「いい歳こいた大人、それも極道モンが、いつまでもメソメソしてんじゃねぇ。俺のことなんざサッサと忘れて、西原をしっかり支えてやってくれ。それから雅人、お前はもう自由だ。渡した金で、好きなように生きろ………」
これが、源二の残した最期の言葉だった。まるで世間話でもするかのような調子で、特に苦しむ素振りもなく、しかし雅人が返事をしようと顔を見た時には、既に事切れていた。
「あ……あぁぁ、あああああああぁああああぁあぁあああああぁぁー!」
雅人は言葉にならない叫びを上げた。この日が来ることは覚悟していた。だから話を聞かされた当日に少しだけ泣き、以後は全てを前向きに受け止めたつもりだった。腐っても組長の息子である。取り乱すようなことだけは絶対にならないと、心に刻み込んだはずだった。しかし、いざ肉親の死を目の当たりにすると、全ての覚悟は霧散し、視界が真っ白になってしまった。
その後のことを、雅人はあまり覚えていない。気付いた時には一日が過ぎており、晩には幹部連中が手配した通夜に出席していた。その翌日に開かれた告別式でも、特別な挨拶などをするでもなく、あくまで参列者の一人として源二を送った。唯一の血縁でありながら情けない話だが、場慣れした大人たちが仕切ってくれたおかげで、余計な醜態を曝さずに済んだとも言えるだろう。
ただ、告別式を前にして棺が閉じられ、源二の顔を拝む機会が一度もなかったことだけが気がかりだった。本人から遺言として頼まれていたらしいが、詳しい理由は最後までわからなかった。
2
【八月二日 午後三時 雅人のアパート】
源二の葬儀を終えて間もなく、雅人は予定通り、鬼頭組の屋敷を出て行った。
現在の住居は二階建てアパートの二階。築五年の八畳一Kで、学校から程近い場所にある。交通の便は若干悪く、どこへ行くにも自転車が欠かせないが、日当たりの良さとベランダの広さでここに決めた。
なお、源二を失ったショックからは既に立ち直っている。引越し直後は何かと多忙で、悲しみに暮れる余裕があまりなかったことが幸いした。いや正しくは、もうひとつの要因のおかげ、とでも言うべきか。
「若サマー、替えのシャツ貸してー。自分の部屋から持ってくんの忘れちゃったよー」
「バカッ! バスタオルのまま出て来る奴があるか」
雅人の入居にあわせて、なんと夏華が隣に引っ越してきたのだ。しかも通っていた私立女子高から、雅人の高校へと編入までして。
理由は、『女子高は自分にあわなかったので、雅人と同じ学校に通うことにした。ついでに通学時間のことを考え、“たまたま”空いていた隣に引っ越してきた』とのこと。
ちなみに磐田家は、ここから二駅離れた場所にある。時間にして、徒歩で二十分前後だろうか。つまりどう考えても磐田の陰謀。鬼頭雅人養子化計画の一端だった。
「いいじゃん別に。パンツはちゃんと履いてるんだし」
「若い娘が、男の前でそんな格好するな」
家事全般が得意な雅人と違い、夏華は米を洗剤で研ごうとする娘だった。故に雅人は彼女の面倒まで見る羽目になり(下着だけは自分で洗わせているが)、家政婦や組の者が手伝ってくれた実家の頃よりも、遥かに忙しい毎日を送っていた。
「おんやぁ~、もしかして欲情しちゃいヤしたか? なんならパンツも脱ぎヤしょうか?」
雅人は渾身の力を込めて、丸めたTシャツを夏華に投げつけた。顔面にヒット。
「ふにゃん! 意外と痛いッス」
「さっさとそれ着て部屋に戻れ! だいたい、なんで自分の部屋の風呂を使わないんだよ」
「だからさっきも言ったじゃん。買い物帰りに雨にやられて、シャワー入ろうと思ったら給湯器が壊れてたんだって」
「夏なんだし、水で十分だろ?」
「甘いよ若サマ。女子の髪は水で洗うと痛みやすいんだぜい」
「ワガママ言うなら実家に帰れ……」
ほぼ毎日こんなやり取りの繰り返しだった。クラスメイトからは羨ましがられるが、雅人にとって夏華は手のかかる妹でしかなく、本人以外が期待するような恋愛展開は一切なかった。
「それはそうと、夕飯は冷蔵庫に入れておくから、適当な時間に取りに来て」
「ん? 出かけるの?」
「急にシフトが入ったんだ。雨でチャリンコ使えないから、帰りは十一時近くになると思う」
雅人はコンビニのアルバイトをまだ続けていた。もちろん源二の遺産は十二分にある。仮にこのアパート全てを土地ごと購入したとしても、まだ三分の二以上は残る程だ。しかし一介の高校生がそれに甘えたら、恐らく自分を見失ってしまうに違いない。豪遊に次ぐ豪遊で、正常な生活には二度と戻れなくなるだろう。もしくは古巣にいた類の人種に目をつけられ、骨の髄までしゃぶられてしまうか。だから生活に必要な分以外は定期預金に入れ、できるだけ手をつけないようにした。いずれ将来の夢であるレストランを開くようなことがあれば、その預金に頼るつもりだ。
「よくもまぁ疲れませんね。夏休みの間中ほとんどバイトじゃん」
「働かないと食べていけないんだよ。労わる気持ちがあるなら、少しぐらい自分で家事をやれ」
「いやいや、アタシはいまのままで大丈夫っすわ。いずれ若サマ嫁に貰うから」
「バカ、こっちがお断りだ。とにかく行ってくる」
「は~い、お気をつけて~」
【午後十時二十分 帰路】
仕事を終えた雅人は家路を急いでいた。この辺りは左手に市民グラウンド、右手に片側二車線の車道があり、昼夜で人通りが極端に違う。また街灯が少なく、かなり薄暗い。加えて真夏には珍しい大雨で、雅人はアルバイト先のコンビニを出て以来、誰の姿も目にしていなかった。
好んで歩きたくはないが、自宅までの最短ルートがこの道だった。夜遅く、雨にも濡れている現状、そこはかとない恐怖心よりも、目先の欲求の方が勝っていた。帰ったらまずシャワーを浴びたい。それから軽く夜食でも作ろうか。
ところがここで、不測の事態が発生する。進行方向、車道脇に停車中のワゴン。単なる路上駐車だと気にも留めていなかったが、雅人が近寄るといきなりドアがスライドし、若く大柄な男たちがゾロゾロと出てきた。そして雅人の前に三人、後ろに二人、明らかに進路を阻む形で立ち塞がった。
「お前、鬼頭雅人だな?」
雅人が身構えるよりも先に、前方の一人が声をかけてきた。脱色で傷んだ髪と浅黒い肌、だらしなく胸元を開けた安物のシャツに、不自然な光沢を放つ金のネックレス。まさに素行不良者の典型といった風体だ。他の者たちも似たような恰好で、髭やボディピアス、タトゥなど、近寄りがたい雰囲気を不必要に強調していた。
しかし実家が実家だっただけに、雅人はこの手の輩は見慣れていた。威圧的な風貌に委縮することもない。そして相手の素情が不明である以上、迂闊な言動は避けるべきと判断し、とぼけてこの場を離れることに決めた。
「いや、ちが――」
いや、違う。そう言いかけた雅人の後頭部を激しい痛みが襲った。硬い石、あるいは鉄の塊を叩きつけられたような感覚。それが後方の一人が手にした金属バットの一撃だと理解した時、雅人の意識は遠のいていった。
「おいおい、いきなりやるか?」
「コイツで間違いねぇって。ハズレならまた拉致りゃイイし」
「ミスると琢磨さん怖ぇ~ぜ?」
「コイツが暇潰しに使えりゃ問題ねぇさ」
「まぁそれもそっか。ならサッサと連れてこう」
【?】
「……………………う、うぅ………」
雅人は顔や頭が濡れた感覚で目を覚ました。何者かに頭から水をかけられたらしい。横向きに寝ていた状態から上半身だけ起こし、まだ少し呆けた頭で周囲を見回す。
薄暗い室内に飛び交うレーザー光線、耳障りな機械音をがなりたてるスピーカー、酒と煙草のむせ返る臭い。
雅人がいまいる場所は板張りの床、どうやら小さな舞台の上のようだ。二畳ほどの奥行きと、そこより若干低い位置の観客席へ続く花道がある。そして観客席には、先ほど会った連中の同類が数十名。
「琢磨さーん!」
「早くブッ殺しちまえ!」
年の頃は十代半ばから二十代前半ぐらい。男性が多いが、ところどころに少女も混ざっている。その誰もが雅人のいるステージに注目し、野次とも罵声ともつかない叫び声を上げていた。
「ここ、は……?」
「ハッ、ようやくのお目覚めだ」
雅人は声が聞こえた方に顔を向けた。ブリキ製のバケツを投げ捨てる男が一人。かなりの大柄で、腕っ節に自信がありそうな体つきだ。それがカーゴパンツにタンクトップというラフな格好と相まって、物々しい威圧感を全身から醸し出していた。
雅人に水をかけて起こしたのは彼で、観客席からの言葉を拾うに、名前は琢磨というらしい。
「眠ったままじゃ面白くねぇからよ。きっかり起きて、俺を楽しませろや」
「いったい何を……ウッ!」
殴られた後頭部がズキズキ痛む。咄嗟に手で押さえようとしたが、両手はなぜか後ろ手に手錠がかけられていた。
「ここは潰れたストリップ小屋で、俺たちの溜まり場よ。で、テメェは今夜の殺戮ショーの主役。素敵に無敵な俺様のために用意された、生きたサンドバッグってわけだ」
「なんで僕が?」
琢磨は少しも悪びれた様子もなく、口角を吊り上げて下衆に笑った。
「ヒャハハ! テメェをバラしたら金くれるって奴がいんだよ」
組長の息子ともなると、誘拐事件は決して珍しい話ではなかった。実際に誘拐されたこともあったが、しかしそれはあくまで非力な小学生時代の話。その後は危険な場所を避けることで難を逃れてきた。それがこの歳になって、しかも後頭部を殴って気絶させるなどという強引な方法で拉致されるとは。
「生憎だけど、僕はもう組とは無関係だ。殺したところで何の得にもならないよ」
強面相手の度胸だけはある雅人は、今回も組同士の抗争か何かだろうと思い、無関係であることを冷静に告げた。
ところが琢磨は、
「はぁ? カッコつけて何言ってんだ、お前?」
予想外の返答だった。しかし彼の怪訝そうな顔は、嘘を言っているようにも見えない。ならば今回の件は、組とは無関係ということか。
観客席から声が飛ぶ。
「琢磨さん、ソイツん家ヤクザなんだってよ」
「ほぉ~、ヤクザってのはアレだよな、俺らみてぇな一般市民に迷惑かける、どうしようもねぇウジ虫どもだ。だったらよぉ、なおさら始末して、社会に貢献しねぇといけねぇよなぁ?」
雅人は普通の高校生で、見るからにガラの悪い琢磨たちこそ、社会の害悪に他ならない。などという正論がこの場で通じるわけがなく、観客席は『殺せ』『処刑しろ』と、悪意に満ちた歓声で盛り上がる一方だった。
「家が関係ないなら、ますますこんなことをされる理由が思い当たらない。学校じゃ目立たないし、友達は少ないし、バイト先でトラブルを起こしたこともないし……」
「ごっちゃごっちゃウルセーなぁオイ。いいからコレ見ろや」
琢磨はズボンからスマートフォンを取り出し、画面を雅人に見せた。表示されていたのは受信メール。内容は非常にシンプルで、『殺処分。鬼頭雅人。前金五十万。成功報酬二百万。』とだけ書かれ、雅人の顔写真も添付されていた。また、差出人の欄は『依頼者』と書かれており、アドレスもフリーメールが使われていた。一般的なネット知識しかない雅人には、これだけの情報から相手を特定するのは不可能だった。
「こんなメールがな、時々俺んトコに送られてくんのよ。へへ、結構いい小遣い稼ぎになるんだぜ」
琢磨の顔は、まるで武勇伝を語っているかのように誇らしげだった。
「どう考えても使いっぱしりじゃないか。そもそもそんな怪しいメールを信じるなんて」
「んなこたぁどうでも良いんだよ。好きなことやって金もらえるなんて最高じゃねぇか。いや、金だけじゃねぇ。コイツはよ、銃とかヤクとか、俺が欲しいと思ったモンを何でもくれるんだぜ」
ヤクと聞いて、雅人は思考を巡らせた。
鬼頭組では薬物の取引を行っていない。先代の源二が嫌い、服用も商売もさせないよう、徹底的に取り締まったからだ。そして鬼頭組は、日本の裏社会の東半分を牛耳切っている。ならば琢磨に薬物を提供したのは、鬼頭組とかかわりを持たない西日本ないし海外の人物か。しかしそんな者が堅気の雅人を襲って、いまさら何の得があるというのか。
「琢磨さーん、そろそろおっぱじめませんか? オレらもう待ち切れねぇッスよ」
痺れを切らした観客が琢磨を急かした。
「おう、そんじゃあ始めようか。楽しい楽しい殺戮ショーだ!」
琢磨の言葉で、場内は一気に沸きたった。観客は見たところ二、三十人のようだが、異様な熱気と歓声が、その数を何倍にも錯覚させる。勢いに飲まれただけで気絶してしまいそうだ。
「ま、待って! まだ聞きたいことが――」
「とりあえず一発、喰らっとけや!」
雅人の顔面めがけ、琢磨の右足が飛ぶ。足の甲を使ったサッカーボールキックだ。
雅人はそれを避けるどころか、目で追うこともできなかった。まず視界が琢磨の靴紐で覆われ、続いて鼻を中心に顔全体が痛みに襲われ、文字通り蹴られたサッカーボールのように、身体が斜め上後方へと跳ね上がった。
「カハッ!」
雅人は仰向けにのけ反り、後頭部を床に打ちつけた。しかもいまの一撃で鼻骨が折れたらしい。止め処なく鼻血が吹き出し、顔半分を赤く染め上げた。
「おぉ、イイカンジにぶっ飛んだなぁ。開幕としちゃあ悪くねぇ。だがなぁ」
琢磨は倒れた雅人の前髪をつかみ上げ、強引に立たせた。
「ちゃんと立って受け止めてくれねぇとよぉ、面白くねぇだろぉぉ~? もっと楽しませてくれよぉぉ~」
いまの蹴りのおかげで、拉致される前に受けた後頭部へのダメージが再び悲鳴を上げた。吐き気がこみ上げ、額や首筋から脂汗が滲み出る。
しかし琢磨は雅人の様子などお構いなしに、むしろ最悪のコンディションであることを喜びながら、左のジャブを顔面に二発。次いで、右のボディブローを一発。無理やり顔面に意識を向かわせ、反射的に無防備となった鳩尾に、ゴツゴツした重い右拳を打ち込んだ。
「ウゲェェェ」
衝撃に耐えきれなくなった雅人は両膝をつき、俯いて何度も嘔吐を繰り返した。が、元々仕事明けで空腹だったため、苦痛に反して汚物は漏れず、少量の胃液が口から流れ出ただけだった。
「大袈裟だなぁオイ。まだ怪我らしい怪我もしてねぇだろうが」
琢磨は再び雅人の前髪をつかんだ。今度は左手で吊るし上げて固定したまま、右の拳を顔面に三回、五回、十回と打ち込む。
「そうそう、よえぇぇぇ~奴はこんぐらいブサイクじゃねぇと、なっ!」
殴られる度に、ガンッガンッと骨のぶつかり合う音が耳の奥に響く。折れた歯が口の中で跳ねる。腫れた頬と瞼が視界を狭め、もはや足元すら見えない。単純な痛みだけでなく、視覚と聴覚に訴える恐怖が、雅人から徐々に抵抗心を剥ぎ取っていった。
「ほら、下にいる奴らにも見てもらえ」
琢磨は雅人をひとしきり殴り終えると、両手でその顔を持ち上げ、観客席の方へと放り投げた。観客たちは、背中から落ちてくる雅人を避けるべく一斉に後退。雅人は高さ二メートル強のステージから、コンクリート地むき出しの床へと叩きつけられた。
「ッ!」
視界と手の自由を奪われた状態では、受け身どころか、衝撃に備えることすらままならなかった。雅人はかろうじて頭部へのダメージを防いだものの、背中に受けた衝撃で息を詰まらせた。いっそこのまま気を失ってしまえば楽だろうに、全身の痛みがそれを許さない。
「うっわキモッ! 見られた顔じゃねぇな」
「いやいや、こんなのまだ序の口だろ。手足の二、三本引っこ抜くぐらいはしねぇと」
再び寄ってきた観客たちが雅人を見下ろす。中には踏みつけたり、爪先で蹴ったりと、精神的苦痛をさらに与える者もいた。
顔は潰され、手は縛られ、身体のあらゆる箇所が猛烈に痛い。冷静な判断力は既に失われ、雅人の頭の中にはもう、苦痛と恐怖しかなかった。芋虫のように這って逃げようとするも、
「どこ行くつもりだよ?」
当然逃げられるものではない。頭を踏みつけられ、額や頬を地面に擦りつけられ、この場にいる全員から、嘲笑と罵声を浴びせられた。
琢磨は仲間たちが雅人をいたぶる様を、ステージの上から満足そうに見下ろしていた。だがすぐに飽きてしまったのか、右手を上げて、仲間たちの行動を止めた。
「ただ痛めつけるだけじゃ芸がねぇな。よし、アレを出せ」
琢磨の指示で舞台袖から運ばれてきたのは、頑丈そうな長い鉄の棒。ポールダンス用のポールだ。おそらくここがストリップ小屋だった頃の名残だろう。それを再びステージに上げられた雅人の腕に通し、床と天井にしっかりと固定する。
「た、助け……」
心身ともに衰弱し、助けを求める声にも力が入らない。仮に声が出たとしても、ここには雅人の味方など一人もいないのだが。
「安心しな、裸になって踊れなんて言わねぇからよ」
頭から何かの液体をかけられた。目は塞がり、鼻も血で利かなくなっているので、その正体は分からない。しかし肌に触れた感覚と、口の中に入った味からすると……油だ!
「ヒャハハハ! 燃えちまいなー!」
琢磨は躊躇なく雅人に火を点けた。
「ガアアァァァァァァァァァァァーッ!」
火は油伝いに素早く燃え広がり、無慈悲にも雅人を焼き始めた。
雅人は足をバタつかせ、上半身を前後左右に振り、まさしく死に物狂いで暴れた。しかしポールに繋がれているせいで、ほとんど身動きがとれない。
「鉄製の手錠だからなぁ、どんだけ暴れようが壊れねぇよぉぉ~。ヒャハハハ、このまま灰になっちまえ」
炎は早くも体毛を燃やし尽くし、露出した皮膚を赤黒く焼き、さらに奥の筋組織にまで達しようとしていた。手錠を外そうともがいても、肉に食い込み血を滴らせるだけでビクともしない。
「ガァァァァァァァァァーッ!」
熱いとか痛いとか、単純な言葉では表現できない苦痛。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。嫌だ、死にたくない。それもこんな理不尽で惨めな死に方なんて。
死にたくない。死にたくない。この言葉を頭の中で二十一回繰り返したところで、雅人の意識は完全に途絶えた。
3
【八月三日 午前八時 雅人のアパート】
目覚めた雅人が最初に見たのは、自宅の天井だった。いまいるのはベッドの上。じわりと蒸し暑い室内。カーテン越しに差し込む太陽の光。普段と変わらない夏の朝だ。
「僕は確か……拉致されて、それから……?」
顔面が潰れるまで殴られ、罵声や蹴りを浴びせられ、最後は焼き殺されたはず。ところがいまは目が見えているし、身体のどこにも傷がない。髪の毛だって生えている。
「夢、だったのかな?」
だとしても、何という悪夢か。しかも生々しくリアルな夢だった。琢磨とかいう半グレの声と言葉が、いまもしっかりと耳に残っている。
「うぅ、最悪の気分だ。こんな夢は早く忘れてしまおう」
雅人はベッドから身体を起こし、頭を左右に振った。
「とりあえず、顔でも洗うか」
「おっはよ~若サマ、今日はイイ天気だよ~って、あら?」
雅人が立ち上がると同時に、夏華がベルも鳴らさず部屋のドアを開けた。二人は一瞬目が合うも、夏華の方が先に逸らす。いや正確には、夏華の目線は雅人の下半身に向けられていた。
「ヤダなぁ若サマ、ようやくその気になったんなら、待ってないで早く呼んでよ」
「へ?」
「でもアタシだって女の子で、それも初めてだからさ。まずはシャワーを浴びさせて欲しいな」
「だから何を言って?」
「全裸でスタンバイだなんて、若サマも滾る青少年だったってことでしょ?」
「ぜん、ら……?」
雅人が下を向くと、そこには一糸纏わぬ姿で自己主張するものが。
「なぁぁーっ、なんで!?」
雅人は顔を真っ赤にしてうろたえた。自分はなぜ服どころか、下着も履かずに寝ていたのか。そして、とにかく大事な場所だけは隠そうと、ベッドにあったタオルケットを慌てて掴んだ。
「まぁまぁ、いまさら隠さなくてもイイじゃない。お姉さんが優しくしてあげるから」
「誰がお姉さんだ、年下のクセに! いいから僕が呼ぶまで外に出てろ!」
「えぇ~、せっかくなんだしこのまま――」
言いかけたところで、雅人の枕が飛んできた。夏華は急いでドアを閉め、廊下に退避するのだった。
【五分後】
服を着た雅人は夏華を部屋に招き入れ、朝食の準備に取りかかった。朝は軽く、トーストにベーコンエッグ、サラダ、それにコーヒーとヨーグルト。こんな簡単な食事でも、二人は毎朝一緒に食べていた。
フライパン片手に、雅人は昨夜のことについて考えた。
(昨日着ていたはずの服が見当たらない。そもそも僕は、いつ家に帰ってきたんだ?)
「……サマ、わか……ば」
(バイトが終わって、雨の中を歩いていた。そこまでは覚えている。だけど、その後はいったい?)
「お~い、………すか~?」
(寝ている間に見たおかしな夢。万が一にもありえないけど、もしあれが本当のことだったとしたら……いや、それならもう死んで――)
「若サマッ、焦げてるよ!」
「ん? 焦げるって何が……うわぁっ!」
気付いた時には既に遅し。フライパンに敷いたベーコンが消し炭となって黒煙を上げていた。
「……作り直すよ」
それから更に数分後。二人はテーブル越しに向かい合い、朝食をとり始めた。
トーストにマーガリンを塗りながら、雅人は言いにくそうに口を開いた。
「な……なぁ、夏華。僕は昨日、何時ごろに帰ってきたかな?」
コーヒーの入ったマグカップにミルクを注ぎながら夏華が答えた。
「はぁ? 自分のことなのに覚えてないの?」
「あぁ……えっと、バイトの先輩に無理やり飲みに連れてかれてさ、何も覚えてないんだ」
「あ~ダメなんだ、未成年のクセに。パパに言いつけちゃうぞ」
「それだけは勘弁してくれ。磐田の場合は怒るどころか、特級酒持って駆けつけるはず」
「あはは、それもそうだね。う~ん、そうだなぁ。アタシも寝ちゃってたんで詳しくは覚えてないけど、夜遅くにドアを開け閉めする音は聞こえたよ。たしか……三時か四時、ぐらいだったかな?」
(三時か四時? バイトが終わったのは十時ごろだったはず。それからそんな時間まで、僕は何をやっていたんだ?)
「にしてもさ、そのまま裸で寝ちゃうなんて、そ~と~酔っ払ってたんだね」
「あ? あぁうん、そうなんだ。なにせ記憶がなくなるまで飲まされたからね」
(やっぱりおかしい。それに琢磨って男。まったく見覚えがない人物が、名前つきで夢に出てくるものなのか?)
色々と納得のいかない事柄が多すぎる。雅人は早々と朝食を済ませると、ダメ元でスマートフォンを取り出し、琢磨という名を検索してみた。しかし有名人でもない一個人、それも苗字しか知らない人物を探し当てることは難しく、早々に打つ手がなくなってしまう。
(いや、待てよ。半グレだか何だか知らないけど、奴らはそれなりに大きな集団だった。もし実在するなら、組の連中に知られていてもおかしくないのでは)
夏華も既に自室へ戻っている。雅人は意を決し、古巣の鬼頭組本部へ行ってみることにした。
【午前十時三十分 鬼頭組本部前】
ここへ戻ってきたのは何ヶ月ぶりだろう。敷地面積三百坪を超える和風豪邸は四方を高い塀に覆われ、これぞ極道ものの屋敷といわんばかりの威圧感を醸し出していた。
もっとも、雅人にとっては先日まで暮らした古巣でしかない。だから何食わぬ顔で、正門の隣にある小さな入り口から中へと入ろうとした。だが……。
「おいテメェ、ここがどこだか知ってんのか?」
脱色した髪に派手な柄のシャツを着た、いかにも下っ端といった風貌の男が、ドアに手をかけた雅人の手首を掴んだ。雅人を知らないということは、最近入ったばかりの新人だろうか。
「あぁすみません。僕は昔ここの関係者だった者で、挨拶がてらちょっと寄らせてもらおうと……」
しかし男は敵意むき出しで、
「テメェみてぇなガキが関係者なワケねぇだろ。ちょっとこっち来い」
「いや、だから……うわっ、手を引っ張らないで」
「うるせぇ! いまからオレが、社会の常識ってモンを教えてやるよ」
男が左の拳を振り上げる。
殴られる! 雅人は咄嗟に頭を両手で覆い隠した。
「ガフッ!」
男が呻き声をあげて膝をついた。その背後には、浅黒い肌に紫のスーツを着込んだ別の男が。どうやら彼が雅人を助けてくれたようだ。
「金本、さん?」
横浜周辺で幅を利かせる諫早組。元は源二の代で傘下に加わった、言わば外様のような位置づけだった。しかし汚れ仕事を率先して買って出ることによって一目を置かれ、いまや鬼頭組随一と呼ばれるほどになった武闘派集団である。
そこの組長にして、実力で鬼頭組次期組長候補の一人にまで名を連ねた男、それがこの金本だ。
金本は膝をついた男の前髪を掴んで強引に立たせた。それから相手の額と自分の額を合わせ、グリグリとこすりつけた。
「カタギに因縁付けんなって言ったろ。だいたいこのお方はなぁ、先代のご子息だぞ? ウジ虫が軽々しく声かけてんじゃねぇ」
「す、すいません。知らなかったもので……」
どうやら彼らは親と子の関係らしい。見ると子分の足は震えていた。雅人を前にした時の高圧的な態度はどこへやら。
「あん? 知らなかったら何でも許されると思ってんのか。誰かれ構わず噛み付きやがるから、テメェはいつまで経ってもドサンピンなんだよ」
金本は掴んだ子分の頭を地面に叩きつけた。それからうつ伏せに倒れる子分を見下ろし、憎々しげに腹部を蹴り上げた。
「テメェみてぇな馬鹿がいるとよ、親である俺の評判も下がるんだ。いくら躾けても学習しねぇな、おい」
「ヒ、ヒィィィ! すいません! すいません!」
子分は亀のように丸まって、金本に必死に謝り続けた。しかし金本の怒りはおさまらない。いや、怒りというよりは、相手を痛みつける行為そのものを楽しんでいるようだ。
見かねた雅人は金本を止めに入った。
「もうこの辺で。僕は別に気にしてませんし、外でこんなことやったら近所の評判が……」
雅人の説得を聞いて、金本はようやく落ち着きを取り戻した。
「若がそう仰るなら、まぁ良しとしましょうか。おい、いつまでも縮こまってねぇで、サッサと車を持ってこい」
子分は恐怖で半泣きになりながら雅人と金本に一礼し、駐車場へと駆け去っていった。
その姿を見送りながら、金本は胸元から出した煙草に火をつけた。それからフゥ~と紫煙を吹き出すと、雅人の方に顔を向けた。
「改めて、ご無沙汰しております、若。お元気そうで何よりですな」
「あぁ、はい。お久しぶりです」
正直言って雅人は彼のことが苦手だった。いまの暴力的な行動もそうだが、どこか雅人を小馬鹿にしたような態度が以前から度々見られたからだ。そもそも源二の下についていた頃も、その人望に惹かれたというよりは、力で敵わない相手に渋々従っているような感があった。家族同然の磐田や西原とは、まったくの正反対だ。だからというわけでもないが、雅人は彼に対しては、年上相手の丁寧な言葉遣いをしていた。
「でももう若は止めてくださいよ。組とはもう無関係になったんですから」
「そうですか。では雅人さん、お言葉を返すようで何ですが、カタギの世界に行かれたのでしたら、軽々しく組に足を運ぶのはお控えになられた方がよろしいかと」
何故かはわからないが、普通に諭しているようなその言葉の節々に、どこか侮蔑に近い感情が込められている気がした。
「そ、そうですよね。すみません。ちょっと組の人に話したいことがあったもので」
「ほう、それはどんな?」
「いえ、ちょっとした昔話みたいなものです。ですから磐田か西原……あ、いまは組長でしたね、そのどちらかに会えればと思いまして」
金本に心を開くつもりがない雅人は、適当に話をはぐらかした。それに実を言うと、雅人は今回の件を磐田たちに尋ねるつもりはなかった。仮に琢磨が実在するとしても、そんな輩を彼らが知るはずはないだろうし、何より余計な心配をかけたくなかったのだ。
「そうでしたか。しかし残念ですが、お二人ともいまは外出中ですよ」
「ありゃ、無駄足になっちゃったかな。でもまぁせっかくなんで、手土産だけでも渡して帰ります」
こんな話をしているうちに、先ほどの子分が車に乗って戻ってきた。
「お、来ましたね。それでは雅人さん、もうお会いすることはないでしょうが、どうかお元気で」
「はい、ありがとうございます」
金本の車が去っていくのを見送り、雅人はほっとため息をついた。強面の男たちは見慣れている雅人だが、金本だけは何度会っても慣れないし、緊張してしまう。
「さて、誰かいるかな」
雅人は今度こそ入り口のドアを開けた。
【午後一時 新大久保 駅周辺】
組の本部で顔見知りに声をかけてみたところ、なんと琢磨という人物は実在した。それも十代から二十代の若者を率い、夜な夜な歌舞伎町周辺に現れては、暴行や強盗などといった犯行を繰り返しているのだという。これには警察だけでなく、店からみかじめ料を徴収するヤクザたちも頭を抱えているとのこと。だが相手はいまや外国人街と化している新大久保を根城としているため、なかなか思うように手が出せないらしい。
ちなみに質問の意図については、『その琢磨という男の噂を友達から聞いたから』と適当な嘘で誤魔化しておいた。まさか夢の中で出会ったとは言えない。
「真珠貝、ここか」
地域さえ分かれば、店の特定は存外楽だった。寂れた三階建ての建物。明かりの消えたネオン看板。入り口脇の割れたショウケースには、営業当時の踊り子のポスターが、半分以上破れた状態でまだ残っている。壁にはサラ金やいかがわしい仕事を斡旋するチラシがビッシリ。入り口のドアガラスは割られ、誰でも入れるようになっているが、外から見た限りでは人の気配は感じられない。琢磨が言っていた『潰れたストリップ小屋』はここで間違いなさそうだ。
(本当にあるなんて。でもそれならそれで、どうして僕は生きているのだろう。間違いなく殺されたはずなのに)
そんなことを考えながら、辺りをキョロキョロと見回してみる。幸か不幸か、誰もいない。それから深呼吸をひとつ。
(僕はこんなところで何をする気だ。もしこの先に琢磨がいたら、本当に夢の通りになってしまうじゃないか)
いつになく緊張した面持ちで、割れたドアを慎重に潜り抜ける。やはり人の気配はまったくしない。
(確認だけしてサッサと帰ろう。そして夢で見たことも全部忘れよう)
入ってすぐに、地下へと続く階段を発見。その先には重そうな観音開きの防音ドアが。どうやらここがステージへの入り口らしい。
(もしこのドアが開かなかったら帰ろう。仮に開いたとしても、中に誰かいたら、全速力で逃げよう)
すぐに帰る。そう何度も心の中で繰り返すが、まるで怖いもの見たさのように緊張と興奮が高まり、身体が勝手に動いてしまう。
防音ドア特有の、重い鉄製のノブに手をかけ、力いっぱい下へ倒す。鍵はかかっておらず、ガチャリとフックが外れる音。いとも容易く開いたことに驚く雅人だったが、しかしその感情は、ドアの隙間から漏れ出た悪臭によってかき消された。
「うっ!」
生ごみに血と酢を混ぜたような強烈な臭い。趣味で料理をたしなむ雅人には、これが腐った臓物が放つものだとすぐにわかった。しかもどうやら糞尿も混ざっているらしい。鼻だけでなく目にもくる悪臭だ。雅人は少し嗅いだだけで気分が悪くなり、ズボンのポケットに入れておいたハンカチで、慌てて鼻と口を覆った。
(なんでこんな臭いが?)
理由を調べようにも、ドアの向こうは灯りの消えた地下室。真っ暗で何も見えない。雅人はスマートフォンを取り出し、そのバックライトを懐中電灯代わりに中の様子を伺ってみた。すると……。
「なっ!?」
劇場の床は、赤黒い血液と薄桃色の肉片で埋め尽くされていた。具体的には人体のパーツ。それも一人や二人のものではなく、軽く見ただけでも十人は超えている。そのどれもが、割れた頭蓋骨から脳が漏れ出ていたり、手足をもがれて頭と胴体だけになっていたり、逆に胴体部分だけがミンチ状に潰されていたりと凄惨な有様。作業を終えたばかりの堵殺場よりも酷い惨状だ。
「うぐっ」
雅人は不快感に耐えきれず、いきなりその場で嘔吐した。またそれと同時に、脳の奥底に眠っていた記憶がフラッシュバックした。
「……これをやったのは……僕だ」
それはいまから、ほんの十二時間ほど前の記憶。雅人は確かにこの劇場、このステージの上で晒し者にされていた。殴られ、踏みつけられ、罵倒され、最後には燃やされた。だがその結果、雅人一人では辿り着けなかった境地、感情の極限に達することができた。源二が危惧した通り、雅人には鬼の血が受け継がれていたのだ。
鬼の生命力は凄まじく、無残に焼け爛れた肉体を瞬時に回復させた。さらに両手を拘束していた手錠を、まるで紙でできた輪のようにたやすく引きちぎった。それからゆっくりと立ち上がり、突然の事態に驚く琢磨たちを一望すると、野獣の如き素早さで、入り口のドアの前へと飛んだ。逃げるためではない。この場にいる全員を逃がさないためだ。
その後の惨劇は、殺人などというレベルを超えていた。鋭く尖った爪と牙で肉を削ぎ、強靭な拳で骨を砕く。逃げ惑う者は頭を握り潰し、武器を手に向かってくる者は胴体に風穴を開け、腰を抜かして泣き叫ぶ者は踏みつける。相手が動かない物体と化すまで、強引に、執拗に。
鬼の身体が殺戮を続ける間、雅人の意識ははっきり目覚めていた。しかしいくら頭で殺戮を止めろと命じても、身体はその命令を拒み、勝手に動き続けた。殴る拳に痛みはなく、まるで撮影者視点のドキュメンタリー映像を見ているような気分だった。
数十分後、劇場から一切の音が消えた。鬼は視界から動くものがなくなったことを確認すると、入り口のドアを開け、劇場を後にした。そこから先の記憶はない。おそらく泥酔者さながら、無意識のうちに自宅へと帰ったのだろう。
「これが、鬼……」
雅人は再び嘔吐した。思い出した記憶のせいで頭の中がゴチャゴチャになり、額からはドロリとした脂汗が止まらない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
死に直面した恐怖、自分の正体に対する驚き、グロテスクな死体への嫌悪感、正当防衛ながら人を殺してしまった罪悪感、それらが混ぜこぜになった最悪の気分だった。
(もういい。ここで起きたことは一通り思い出したんだ。人目につかないうちに早く帰ろう)
まずは外に出て口をすすぎたかった。そうすれば、この最悪な気分も少しは晴れるかもしれない。
落ち着きを取り戻した雅人。それと同時に、劇場の奥から響く異音にも気が付いた。
ピチャピチャ、ズズズと、何かを舐め啜るような音。十中八九良くないことの前触れ。何も考えず、一目散に逃げるべきである。
しかし雅人は状況を確認せずにはいられなかった。見えない何かに怯えるより、少しでも現実を見て安心感を得たかったのだ。そこで思わずスマートフォンの光を音のする方へと向けてしまう。
「な……なんだ?」
それは、人らしき形をした肉の塊だった。大きさは雅人を一回り大きくした程度。顔の器官らしきものは一通り揃っているが、赤ん坊の頭ぐらいのブヨブヨした水ぶくれが、身体のいたるところにできている。しかもそれらは時折破裂し、黄ばんだ体液を垂れ流しては、再び新たな水ぶくれを生みだしていた。
雅人が聞いたのは、この化け物が、床一面に広がる血を啜る音だった。犬が水を飲む時のような姿勢で、一心不乱に顔を床に擦りつけていたのだが、下手に雅人が光を当ててしまったため、自分以外の存在がいることに気がついたらしい。顔を上げ、じっと雅人の方を凝視した。
「テメェは、鬼頭」
化け物は人の言葉を発した。
「鬼頭、鬼頭……あぁ、鬼頭の野郎だ」
「誰だ?」
「オレだよ、琢磨だよ。忘れたとは言わせねぇぞ」
既に雅人は昨夜の夢のことを現実の出来事として認め、しっかりと記憶している。その中で琢磨は、確かに首を引きちぎって殺したはずだった。
「アンタは死んだはずじゃ?」
「目が覚めたらこのザマだった。テメェ、オレに何しや――」
話の途中で、琢磨の口元にある水ぶくれが大きく膨らんだ。琢磨は煩わしそうに水ぶくれを掴み、強引に握り潰した。
「……クソが。無性にのどが渇く。どんだけ飲んでも落ち着かねぇ」
そう言って琢磨は再び、床の血に舌を伸ばし始めた。ビチャビチャと耳障りな音が暗闇に響く。
「身体中痛い、身体中かゆい。なんでオレがこんな目に。全部テメェのせいだ」
「僕は抵抗しただけだ。その姿のことは知らない」
「許せねぇ、許せねぇ、ゆるせねぇゆるせねぇゆるせねぇゆるせゆるゆるゆるユユユるユユルユゆユユ……」
琢磨は壊れた機械のように、言葉にならない声を繰り返した。明らかに様子がおかしい。襲われる前に逃げなければ。雅人は一歩、二歩と慎重に後ずさった。
「ニゲンナ!」
気付かれた。琢磨はその見た目からは想像もつかない速さで雅人に飛び掛かった。
「なっ!?」
雅人は避けられず、あっけなく琢磨に押し倒された。両手で両肩を押さえつけられ、まともにもがくことすらできなかった。
「お、オマ……ころコロこここ殺すころろコロス殺殺殺殺ろろろ」
琢磨の口内から、赤いひも状の物体が飛び出した。長さにして一メートル超。常人とは比較にならないサイズだが、それは間違いなく舌だった。おそらく化け物になった影響なのだろう。左右に揺れ動き、雅人の頸動脈を探る姿は、まるで頭をもたげる蛇のようだ。
「ぐあっ!」
狙いを定めた舌が、雅人の首筋に突き刺さった。刺された痛みはそれほどでもなかったが、舌が頸動脈に吸いついて離れない。しかもそこから血を吸っているらしい。雅人は急激な体温の低下と脱力感を感じた。
(このままでは殺される。変解……鬼にならないと。だけど、できるのか?)
昨日は気を失い、一種の防衛本能が働いたおかげで変解できた。今回も状況的にはさほど変わりないはず。強い感情。いまであれば、死にたくないという思い。意識を集中させ、ただひたすらにそれを願えば……。
「変解!」
ほんの一瞬、視界が強い光に包まれた。その光の中で雅人は、全身に力が漲っていくのを感じた。そして開放感。窮屈な檻の中から、繋がれた鎖から解き放たれたような心地良さ。『荒神から人の姿に化けた』と源二のノートには書かれていたが、雅人もいまならそれが信じられた。身長こそ人の姿と変わらず百七十センチ程度。なれど全身を覆う鋼鉄のごとき筋肉。硬く鋭く尖った爪と二本の角。この姿こそが本当の自分だったのだ。
鬼に変解した雅人はまず、肩を押さえ込んでいた琢磨の腕を振りほどいた。続いて自由になった右手で頚動脈に突き刺さっていた舌を掴み、そのまま強引に引きちぎった。
「グギャァァァァァー!」
琢磨は仰け反り、苦痛にもだえて叫んだ。
「このばケモんがぁぁぁー!」
再び生えてきた舌で、どうにか聞き取れる言葉を吐き捨てる。どちらが真の化け物なのやら。
雅人は上体を起こす勢いで琢磨を跳ね飛ばし、今度は自分が馬乗りに。それから間髪入れず、垂直に、鉄杭のごとき拳を琢磨の顔面に打ち込んだ。
グシャリ
骨の砕ける乾いた音と、血管が弾ける音の二重奏。琢磨の顔に、雅人の拳と同じサイズの穴が開く。勝敗はこの一撃で完全についた。舌が再生した時は不死身かと若干危惧したが、頭までは治しようがないらしい。
「……ッ!」
危機が去って緊張が解けたのだろう、雅人は急な脱力感に襲われ、うつぶせに倒れた。変解も自然に解け、人の姿に戻った。血塗れの床に衣服が汚れてしまうが、そんなことを気にかける余裕もなかった。
「はぁ……はぁ……」
昨夜からここまで、衝撃的な事態が山積みだった。並みの高校生には刺激が強すぎた。前もって知らされていた鬼の存在はともかく、自分が襲われた理由と化け物になった琢磨、これらはいったい何だったのだろうか。しかし当然のことながら、こんな悪臭漂う場所では頭は回らなかった。
(考えるのは後だ。とにかく帰ろう)
雅人は疲れた身体に鞭を打ち、立ち上がって劇場のドアを開けた。
「ひぃぃーっ!」
ドアの向こうから甲高い男の悲鳴が。見るとそこには、趣味の悪い柄シャツを着た若い男が腰を抜かしていた。いまの戦いを覗いていたらしい。
男は雅人と一瞬だけ目を合わせると、腰を抜かしたまま数歩後退。それから慌てて立ち上がり、一目散に逃げ去った。
「まずい、追いかけないと」
しかし追いついたところで何もできない。まさか口封じに殺すわけにもいかないだろう。それより急いでこの場から立ち去るべきではないか。
迷っている暇はない。雅人は逃げた男に負けない速さで劇場から離れた。その時になって初めて服が血だらけであることに気づいたが、運よく公園のトイレを発見。そこの洗面所で最低限の血を洗い流し、電話でタクシーを呼んだ。
運転手は雅人の様子を訝しんだが、特に何かを聞くわけでもなく、無事に自宅アパートまで運んでくれた。
【午後十一時十五分 雅人のアパート】
雅人が自宅に到着したのは午後の四時前だった。幸い夏華は出かけていた。この隙に服を洗い直し、シャワーを浴び、夕飯の仕度。本当は食欲がなく、いますぐにでも眠りたかったが、夏華に不審に思われたくなかった。
やがて夏華が帰宅。友人と遊びに行っていたそうで、特に雅人の様子を気にかける素振りはなかった。
そんな彼女が自分の部屋に戻ったのは八時十分。それから雅人はベッドに倒れ、三時間ほど死んだように眠った。
(とりあえずの疲れは取れたか)
日をまたぐ前に目覚め、暗がりの中で体調を確認する。どうやら身体の方は問題なさそうだ。琢磨にやられた傷も、最初からなかったかのように綺麗になっていた。
ただし心のダメージは、いまだに癒えていなかった。化け物になった琢磨、同じく化け物になった自分。思い出すだけでも頭がおかしくなりそうだ。
何より、昼間は感じた殺人の罪悪感を、いまは微塵も感じていないことが恐ろしかった。殺した者たちこそ狂人ばかりで、無残な最期も自業自得。雅人が責められる謂れはない。が、そんな理屈を抜きにしても、蚊を叩き潰した程度の感情しか湧かないのだ。これが鬼になった証、人間に同族意識を持たなくなったことの表れだとしたら、ただひたすらに不気味で、恐ろしい。自分はこの先どうなってしまうのだろうか。
(そうだ、親父のノート。あれを読み返してみよう)
半信半疑だった以前と違い、いまは自分の身で思い知らされている。だからノートを読み返せば、必ず役に立つ発見があるはずだ。
しかし、すがれる藁があることに安心したのか、身体を動かすよりも先に意識が遠のき、今日のところは再び眠りについてしまうのだった。
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【八月十五日 午後十時四十分 高架下】
アスファルトを覆う鮮血、折れた骨が突き出た肉塊、高架の柱に貼り付いた腸とその内容物。まるで爆発四散したかのような有様である。今回の相手は再生能力が極めて高く、完全に息の根を止めるにはミンチにするしかなかったのだ。
「くっ……」
雅人は変解を解き、足早に現場から立ち去った。
先日の一件から数日、雅人はなおも謎の襲撃を受けていた。相手は初老の浮浪者、みすぼらしい東洋人、手足の震えを酒で抑える中年男性など。誰もが金に困っていそうな怪しい人物ばかり。雅人の姿を見た途端、化け物となって襲いかかってきた。幸い狙われるのは決まって人気のない場所で、いままで鬼の姿を他人に見られたことはなかった。しかし化け物たちはまともに言葉が通じず、持ち物は例の殺害依頼メールが入った携帯電話のみ。雅人はメールの差出人も襲われる理由もはっきりしないまま、場当たり的な戦いを余儀なくされていた。このままでは肉体はともかく、精神が悲鳴をあげそうだ。
【八月十九日 午前八時 雅人のアパート】
「若サマ、最近家から一歩も出てないけど、何かあったの?」
いよいよ雅人の精神は限界寸前まで追い詰められていた。いつ襲われるかわからない恐怖。もう三日は引きこもっているが、化け物が家まで押しかけてこないという保証はなく、少しも気が休まらない。
「何でもない」
「でもさ、あからさまに変だよ? 目も何だか濁ってるし」
こんな気遣いですらも、疲れ切ったいまの雅人には煩わしかった。一人にさせて欲しい。しかし一人になったところで眠れない。余計な不安感が増し、無駄に神経ばかりが過敏になる。興奮しているわけではないのに鼻息が荒くなる。
「あっ、ひょっとしてかなり特殊な一人遊びを――」
「うるさいな!」
「ひゃっ!」
苛立ちからついあげてしまった大声は、夏華だけでなく、雅人本人をも驚かせた。
「ごめん。その……ホントに何でもないんだ。ただちょっと疲れてるだけで……」
雅人は失言を謝罪し、ばつが悪そうに目を逸らした。
そんな雅人を夏華はまじまじと見つめた。特に怒っているようには見えないが、彼女にしては珍しく真剣な眼差しで、何を考えているのかわからない。
それからややあって、夏華は、
「ふむ……よし、わかった」
と一人で納得し、
「若サマ、アタシとデートしようぜい」
唐突に雅人を誘った。
「ヒトの話を聞いてた? 疲れてるって言ったろ?」
「そんな時は糖分補給がイチバン。だから目的は、有名スイーツ店巡りでどうよ?」
相手の気持ちを知ってか知らずか、夏華は一方的にこの後の予定を決め、雅人を強引に外へと連れ出した。
「よし、とりあえず近場から攻めてこう」
【午後一時 銀座のカフェ】
飲食店を中心に、昼休み客で慌ただしい銀座の町並み。二人は昼食を抜いて、早くも二軒目のカフェに到着。窓際の席で看板スイーツとアイスティーを注文した。
「んん~、これはイケる! ほら見て若サマ、中心はバニラアイスになってんだよ」
「あ、うん……」
夏華が嬉しそうに声をかけても、雅人の反応は薄い。窓の外を警戒しつつ、作業的にケーキを口に運んでいた。
「はぁ……心ここにあらず、だね」
アパートを出た時からずっとこの調子だった。夏華がいくら関心を引こうとしても、雅人は何も反応しないのだ。
「ねぇ若サマ、ひょっとして、なんだけどさ……」
上目遣いに夏華が尋ねる。
「うん?」
うわの空で答える雅人。
「ひょっとしてぇ~……鬼になった?」
まるで髪を切ったか尋ねる程度の軽い一言。これまで何を話しても無反応だった雅人が、『鬼』の一言で急に目を見開いた。同時に席を立ち、いまにも噛み付かんばかりの勢いで夏華を詰問した。
「何でお前がそれを知ってる!」
この急変にはマイペースな夏華も仰天した。
「ちょっ、若サマ、落ち着いて」
「どの口がそんなことを。こっちは殺されかけたんだぞ!」
「ここ外だから。知ってることは全部話すから。ね、落ち着いて」
ほかの客や店員、全員がこちらを見ている。雅人は落ち着きを取り戻し、そそくさと再び席に座った。
「わかった、話してくれ」
流石は都会の一角。静まり返ったのは一瞬だけで、雅人が席に着くと、二人に関心を持つ者はいなくなっていた。
「単刀直入に言うよ。アタシが若サマの隣に越してきたのは、パパから二つのことを頼まれたからなの」
「二つ?」
「ひとつめ。どんなエロい手を使ってでも若サマを落として、ウチの家族にする」
困ったことに、夏華の目は真剣だった。こんな冴えない自分になぜそこまで執着するのか。疑問に思いながらも、雅人はこの目的を聞き流した。
「……まぁそれはいいや。二つめは?」
「ふたつめは、若サマが鬼になったとしても、いままで通りに接してあげる」
「ちょっと待った。そもそもお前が鬼のことを知ってるのはどうしてだ?」
「ウチはずっと前から鬼頭の家と付き合いがあるんだよ? 中には嫁入りだか婿入りだかしたご先祖様もいるそうだし。だから知らないワケないじゃん」
言われてみれば当然のことだった。磐田家は先祖の代から鬼頭組に、鬼頭家に尽くしてきたのだ。その中で鬼の存在を知り、子孫に伝えた者がいても不思議ではない。
「まぁアタシは直接見たことないけどね、その鬼ってヤツを。やっぱアレなの? 虎柄のパンツ履いてウクレレ弾いたり?」
「それは雷様だろ。質問はもうひとつある。僕を襲った理由は?」
「そう、それ! さっき殺されかけたとか言ってたけど、何があったの?」
夏華は本気で心配している。とても嘘を吐いているようには見えない。
「お前じゃないのか?」
「夜這いならともかく、アタシが若サマ殺して何の得があんのさ」
「いや、夜這いも勘弁してくれ」
夏華は身内だから鬼を知っていた。雅人を襲った黒幕も、意外と近しい人物なのではなかろうか。可能性としてはかなりあり得るが、正直その線で探りを入れたくはなかった。もし身内に裏切られていたのだとしたら精神的に辛い。疑うだけでも胃が気持ち悪くなる。
「ねぇ、パパにも相談してみない?」
「磐田に?」
「パパならそれなりに顔が広いし、おじさまとの付き合いも長かったからさ。力になってくれるハズだよ」
そもそも夏華は、父親である磐田から鬼の話を聞いたという。意外と鬼になりたての雅人より事情に詳しいかもしれない。少なくとも一人で抱え込んでいるよりずっと前向きだ。
さっそく磐田に連絡すると、すぐアパートに向かうとの返事をもらえた。
【午後二時三十分 雅人のアパート】
「若、一日だけ我慢してくだせぇ!」
雅人たちの帰宅とほぼ同じタイミングで、磐田はアパートに駆け付けた。なぜかやたらと鼻息荒く、いまにもゴリラのように胸を叩きそうな勢いだ。その傍らには、いまや鬼頭組三十二代組長の西原がいた。興奮する磐田を放っておけず同行したとのこと。
「ひとまず明日の朝までに兵隊二千を揃えやす。それで足りなけりゃさらに――」
「ちょっと待った! いきなり兵隊とか勘弁してよ」
「若を殺ろうなんてナメた野郎にゃ、これでも足りねぇぐらいですぜ」
黒幕を探す相談で呼んだのに、どうやら早合点して戦争を始めるつもりらしい。
「そもそも相手が誰だかわからないんだっての」
「それこそ兵隊使って虱潰しに探せば、どうとでもなりまさぁ」
「落ち着いてください。そんなことをすれば警察沙汰ですよ」
雅人と西原がどれだけ宥めようとしても、磐田の耳には入らなかった。これでは相談どころではない。
「若をお守りするためなら、あっしは軍隊とも――」
スパーン!
磐田の言葉を遮る軽快な打撃音。夏華は父親の頭をスリッパで思いっきりはたいた。
「いい加減にして! 何のために呼んだと思ってんの?」
この一撃で磐田はケロっと大人しくなった。まるで猛獣使いの鞭である。
「あ、すまん」
この親子と長年付き合いのある雅人ですら初めて目にした光景だった。西原にしてもそれは同じで、思わず二人揃って目を丸くしてしまった。
「いつものことだから気にしないで。それよか早く本題に入ろ」
磐田と夏華は仲が良い。こういう親子の形もあるのだと雅人は妙に納得した。
「じゃあ本題に入らせてもらうけど、その……」
磐田の問題が片付くと、次は西原のことが気になった。西原がすぐにそれを察する。
「ご安心ください、鬼の件は私も知っています」
西原の意外な発言に、雅人は再び驚いた。今度は磐田が察し、いまの発言に補足を入れた。
「組長はガキの頃に先代に助けられたって話をしたでやしょ。そん時に鬼の姿を見てるんでさぁ」
二回り近く歳の差があるためか、磐田は西原を組長と呼び、西原も磐田のことを『さん』付けで呼んでいる。
「なるほどね。二人が力になってくれるなら心強いよ」
雅人はテーブルの上座に年上の二人を座らせ、自分は下座に。夏華も四人分の冷茶を用意すると、雅人の隣に腰を下ろした。
「まず、ここ数日の出来事を一通り報告するよ」
半グレ集団に拉致されたこと。鬼の力に目覚めて返り討ちにしたこと。ストリップ小屋で琢磨が化け物になって蘇ったこと。その後も出かける度に化け物に襲われていること。雅人は全てを包み隠さず三人に語った。
三人は黙って話を聞いていたが、夏華はただただ驚き、磐田は腕を組んで小声で唸り、西原は事細かくメモを取りと、三者三様の反応を示した。
「若サマ……アタシが見てないトコで、そんなハードな生活してたんだ」
「もっと早く気付いてりゃ良かったんでやすが。すいやせん」
「いや、隠していたのは僕の方だし」
誰にも相談できない、自分の素性を知られるわけにはいかない。雅人はそう考えていたので、現状を打ち明けられただけでも気持ちがだいぶ軽くなった。
西原がメモを取る手をいったん止め、雅人に顔を向けた。
「ひとつ気になることがあります。若はこれまでに何度も襲われたんですよね?」
「うん」
「その場所は?」
「最初はいま話したストリップ小屋。それ以外だと、グラウンド脇の路地とか空家の前とか、人通りの少ない場所ばかりだね」
「なぜ、ニュースになっていないのでしょうか?」
「…………あっ!」
いくら人通りが少ないとはいえ、都内の街中である。ましてや夏場の血肉は強烈な悪臭を放つもの。誰かが通りかかり、通報してもおかしくないはずだ。にもかかわらず、ニュースどころか地域住民の噂ひとつ聞いたためしがない。むろん、雅人の体験は現実のものである。が、それを裏付ける証拠が一切発見されていないのはどういうことか。
「敵を倒すことばかり考えて、そこまで注意がいってなかった」
「試しに確認してみませんか。ここから近い現場だけでも」
【午後三時五十分 高架下】
自宅アパートから徒歩でおよそ十分。先日襲われたばかりの高架下。ここで雅人は確かに敵を惨殺し、地面や柱を血で塗りたくったはずだった。ところが数日経ったいま改めて来てみると、血痕どころか一滴の染みすら見当たらなかった。
「こんなはずない。僕は間違いなくここで返り討ちにしたんだ」
戸惑う雅人に夏華が尋ねる。
「夢だった可能性は? 最近暑くて寝苦しかったし、寝不足で夢と現実がごっちゃになったとか」
「中二病の妄想じゃあるまいし。何だったらこの場で変解してみせようか?」
「その必要はありやせん。若は間違ってませんぜ」
場慣れしている大人二人は何かに気付いたようだ。コンクリート製の柱を注意深く観察し、それからお互いの顔を見て頷いた。
「柱が綺麗すぎます。最近掃除を、それも業務用の洗剤まで使って洗浄していますね」
そう言って西原は、洗浄された箇所所とされていない箇所の境目を指さした。指摘されなければ気付かないほどの違いではあるが、確かに柱の色にはムラがあった。
「でもこんなの、素人目にわかる違いじゃないよね? 証拠にしては曖昧すぎない?」
なぜ洗剤を使ったなどとわかるのか。話を信じてもらいたい雅人の方が、西原の推理に否定的になってしまった。
磐田が若干気まずそうに答える。
「まぁ職業柄と言うかですね……専門の掃除屋に伝手があるんでさあ」
「職業柄? ……あー」
源二の代で東日本を手中に収め、余計な抗争や不法なシノギを減らす努力はしてきたが、鬼頭組は反社会的勢力である。表立って公表できない問題は必ず起こり、その際に出た『厄介なもの』を片付ける掃除屋の世話になることも少なくなかった。
「蛇の道は蛇とは言いますが、掃除屋を使ったということは、若を襲った首謀者は裏社会の者に間違いないでしょう」
普通の生活ではまず聞くことがない単語がチラホラと。それだけ一般社会から外れた事件であるわけだが、夏華は異常事態である点を考慮に入れても、西原の推理にいささかの疑問を感じた。
「う~ん、それもどうなんだろう」
「と、仰いますと?」
「相手は本気で殺しに来てるんだよね? 律儀にお掃除していくもんかな」
「相手も話を大きくしたくないのでしょう。なりふり構わないのであれば、若の正体をマスコミにでも流せば一発ですから」
それがたとえ三流ゴシップ誌だったとしても、記事にさえなってしまえば、興味を持つ人間が必ず現れる。恐らく他人の人権など平気で無視して、プライベートの暴露に躍起になるだろう。そうなれば雅人は終わりだ。噂が消えるまで雲隠れを強いられる程度ならまだ良い。変解を見られでもしたら、化け物として処分されるか、はたまた珍獣として監禁されるか。しかし相手はなぜかそれをしてこない。ならば雅人にも、まだ企みを阻止するチャンスがあるということだ。
「襲撃や掃除のタイミングを計る見張りが、必ずどこかにいるはずです。組の者を使って洗い出しましょう」
「それはできれば遠慮したいかな。騒ぎを大きくしたくないし、組員たちが襲われる危険だってある」
さらに言えば、仮に鬼の存在が組員たちから世間に広まりでもすれば本末転倒である。
「では私と磐田さんで」
西原は雅人のこととなると冷静さを失うようだ。
「気持ちは嬉しいけど、組長と若頭が高校生一人について回るとかおかしいでしょ」
「父親が息子を守るのは当然でさぁ」
磐田は平常運転だ。
「色々と間違ってるから。いいこと言った風にドヤ顔しない」
空気が緩んだところで四人は頭を切り替え、現場の一帯を事細かに調べた。見張り役ないし掃除屋を特定できる証拠の発見に期待したのだ。しかし残念ながら、洗剤のキャップひとつ見つからなかった。
「まぁ掃除のプロがゴミを残していくはずないか」
「ゲームならこういう時、鍵とか拾うんだけどね」
夏華がわざとらしく両手を挙げて首を振った。
「だけど相手を見つけるヒントがわかった。それだけでも大きな収穫だよ」
時計は午後五時を過ぎていた。真夏とはいえ暗くなり始めている。これ以上ここにいても時間の無駄だろう。雅人は探索の打ち切りを指示した。
「長々とつき合わせて悪いね。トップ二人が不在で、組の方は混乱してるんじゃない?」
雅人は相談に乗ってもらえただけで十分に満足していた。焦りや警戒心はまだあるが、一人で悩み続けていた時より気持ちが楽になっていた。
「がはは、そこまでヤワじゃありやせんて」
磐田が豪快に笑い飛ばした。
「それよりもうすぐ夜ですね。たまには外食なんていかがです?」
西原は話し足りない様子だった。内容こそ緊急の相談事だったが、久々に雅人との再会である。新組長として激務に追われる中で、よい息抜きになったのだろう。
それは雅人も同じだった。数ヶ月ぶりに会った身内ともっと話したかった。
「そうだね。いまからご飯を作るのもダルいし、おいしいものでも食べて気分転換したいよ」
「はいはーい! アタシはお寿司を所望したい」
夏華が我先にと希望を述べた。残りの三人も同意し、磐田の行きつけの店へ行くことに決まった。
「では車を呼びます」
車はアパートの裏に止めてあった。西原は運転手に連絡しようと、懐からスマートフォンを取り出した。
「待った。何かいる」
雅人は身構えた。何度も襲われるうちに身に付いた感覚。前後左右から複数人の気配。自分たちを取り囲んでいる。
「いままでは一人の時しか襲ってこなかったのに」
夢遊病者のようにゆっくりと、足を引きずりながら現れたのは六人。伸ばし放題の髭と、黒ずんだボロ布を纏った姿から、一目で浮浪者の集団だとわかる。しかも口の周りや身体の一部を血で汚し、クチャクチャと生肉らしきものを咀嚼していた。
「な、なに、コイツら……」
あまりのおぞましさに夏華がおののいた。無理もない。まだ会話が可能だった琢磨とは違い、目の前にいる六人は、白痴のような奇声を上げるだけ。まさにB級映画のゾンビそのものだったのだ。
「ゴェッ!」
浮浪者の一人がいきなり嘔吐した。反射的に吐瀉物を目で追うと、それは濁った色の生肉と、茶色がかった毛髪の塊だった。どうやら飲み込めず、喉に引っかかっていたらしい。さらに毛髪には安物のネックレスが絡まっていた。西原はそのネックレスに見覚えがあった。
「残念ですが、運転手は食われたようです」
雅人たち四人の顔が引きつった。ただひたすらに気持ちの悪い光景。全身水ぶくれの琢磨も大概だったが、今回はそれに輪をかけて不快だった。
加えて、雅人には懸念があった。これまでの襲撃と違い、今回はそばに夏華たちがいる。浮浪者たちを倒すのは困難ではなさそうだが、勢い余って彼女たちも巻き込んでしまうかもしれない。
「僕が何とかする。みんなは下がって」
狙われているのは自分だけのはず。ほかの者は見逃してもらえるのではないか。雅人はその可能性に賭けたかった。少なくとも自分といるよりは安全だと思った。
しかし三人とも、特に磐田は、頑としてその提案を聞き入れなかった。
「冗談じゃないですぜ。若を見殺しにできやすかい」
「力の加減ができそうにないから言ってるんだ」
「ですが……」
雅人は浮浪者たちを警戒していたが、一瞬だけ、磐田の方へ注意を集中させてしまった。その一瞬をついたか、単なる偶然か、浮浪者の一人が雅人の首筋に飛びかかった。お互いの距離は五メートル以上。しかし化け物の脚力は尋常ではなかった。大砲の弾のごとき突進。瞬きする間もなく距離を詰められる。避けられない。
「若!」
西原が叫び、雅人の後方から体当たりをかました。おかげで雅人は敵の攻撃から逃れられたが……。
「くはっ!」
身代わりとなった西原の左肩に、浮浪者が強く噛みついた。頑丈なはずの肩肉に歯が深々と食い込み、シャツが鮮血に染まる。このまま骨ごと噛み砕くつもりらしい。ほかの浮浪者たちもいまが好機と捉えたか、大きく口を開いて西原に殺到する。
「西原!」
身内を傷つけられた怒りと殺意。単なる自衛ではなく、心から敵を引き裂きたいという衝動。それらは雅人にとって、まったく未体験の感情だった。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁー!」
わざわざ意識する必要はない。激しい怒りが、既に鬼の肉体を呼び寄せている。全身がみるみる膨張し、反対に筋繊維の一本一本が引き締まっていくのを感じた。
雅人はまず、西原に噛みつく浮浪者の頭部を鷲掴みにした。人の姿ならいざ知らず、いまは筋骨たくましい鬼である。指先からはみ出る大きさであろうと、力強く掴んで離さない。そして、握りしめる。固いはずの頭蓋骨が、いまの雅人には生卵のよう。パキッという乾いた音とともに砕け、柔らかくも粘つく脳と、硬さの中に弾力を含んだ目玉の触感が掌に伝わった。それから、倒した浮浪者を早々に投げ捨て、次の獲物の接近に備えた。
浮浪者の二人目と三人目が、同時に雅人に噛みついた。二人目は右足の脛に、三人目は左腕の手首に。さらに四人目が首筋の頸動脈に迫る。
雅人は嬉しそうに口元を吊り上げると、まず三人目ごと左腕を持ち上げた。それを首筋に迫る四人目に振り下ろし、そのまま足にまとわりつく二人目の上へ。重ねられた身体は衝撃に耐えられず、破裂して臓物をまき散らした。
これで四人が終わった。残るは二人だが、僅かながら考える頭が残っていたか、それとも本能で危険を察知したか。圧倒的暴力を披露した雅人を前に、一歩、また一歩と、恐る恐る後退を始めた。
雅人は一足飛びで二人の背後へと回った。それから両手を、それぞれの背中へ一刺し。胸まで突き抜けた手刀を持ち上げ、上半身を縦に両断した。
ここまででおよそ三分。戦いとはとても呼べない、一方的な虐殺劇だった。しかも殺意に酔った雅人は完全に正気を失っていた。先ほど頭部を握り潰した遺体を拾い上げ、赤ん坊が手にしたものを振り回すかの如く、何度も地面に叩きつけた。まだまだ遊び足りないらしい。
「わ、若サマ……」
残された三人は雅人の凶行に驚愕し、ただ呆然と成り行きを見守っていた。戦いは終わった、敵はもういない。雅人にそう伝え、守ってくれた礼を言いたいのだが、暴走を続ける彼は危険すぎて、声をかける隙がなかった。
破壊衝動のはけ口となっていた遺体が完全に壊れた。雅人は手元の感覚がなくなったことを確認すると、周囲をゆっくりと見回した。次のおもちゃを探しているのだ。そして、夏華を目に留めた。
「……マジ?」
夏華は動けなかった。雅人に見られた時点で足がすくんでいた。
一歩一歩、ゆっくりと近づく雅人。もし夏華が逃げ出す素振りを見せていたら、反射的に彼女を追って仕留めていただろう。
結果論ながら最悪の流れだけは回避できた。しかし雅人を正気に戻せなければ行きつく先は同じだ。夏華はこの場を切り抜けるべく頭を捻ったが、返り血で顔を赤く染めた雅人の迫力に圧倒され、少しも考えがまとまらなかった。
「若!」
「夏華!」
西原と磐田が雅人に飛びついた。力尽くでも止めなければならない。大柄な磐田はもちろんのこと、西原もそれなりに体を鍛えている。普段の雅人であればどちらか一人でも楽に押さえつけられるのだが、しかし鬼相手には全くの無力だった。
雅人は煩わし気に腕を振り回した。これだけで磐田と西原は引き離され、五メートルほど宙を舞った。浮浪者たちのように殺されはしなかったが、単に後回しにされただけの模様。どうやら雅人は三人の中で最も『食いで』がなさそうな夏華から片付けるつもりのようだ。
雅人が夏華の前に到着。彼女の喉元に右手を伸ばす。
「こ、こうなったら!」
夏華は迫る右手を避け、逆に自分から手を伸ばして、雅人の頭部を抱きしめた。
「若サマ、もう終わったよ」
優しい抱擁。抵抗するのではなく、受け入れる。腕の中の赤子を寝かしつけるように、丁寧に何度も頭をなでる。
「若サマのおかげでみんな無事。だからもう、落ち着いて……」
余裕と慈愛に満ちた姿を装っているが、しかし声は若干震えていた。いまの雅人は飢えた大型肉食獣さながらの危険な状態。それを胸に抱き、大人しくさせようとしているのだから当然である。一か八かの賭けだった。
夏華の突拍子もない行動に雅人は虚を突かれ、誘われるまま彼女の胸元に頭を預けた。振りほどくことは容易。むしろ相手から急所をさらけ出してきている。だからこのまま心臓を一突きにでもすればいいのに、なぜかそれができない。暖かくも柔らかい感触に包まれ、興奮で強張っていた全身から力が抜けていく。
「落ち着いて。落ち着いて……」
夏華の囁きが子持り歌のように頭に流れ込む。それに洗い流されるように闘争心が遠のき、入れ替わりで雅人本来の意識が戻ってきた。
「僕………は……?」
姿はいまも鬼のままだが、口調は頼りないお坊ちゃん然としたいつもの雅人だ。
「若サマ? 正気に戻ったんだね」
言われたところで雅人は自分が夏華の胸の中にいることに気付き、慌ててそこから脱出した。
「ごご、ごめん! もう大丈夫!」
「ありゃ残念、このまま堕としたかったのに」
軽口の割に夏華の膝は笑っていた。
「つつっ……」
雅人に飛ばされた大人たちも起き上がってくる。
「夏華、守ってやれずにすまん。若も申し訳ございやせんでした」
磐田は親としての不甲斐なさから頭を下げた。
「謝るのは僕の方だよ。夏華が機転を利かせなかったら本当にマズかった」
鬼になるということは甘いものではない。雅人はいま初めて源二の言葉を実感した。浮浪者に傷つけられた西原を見て逆上。ここまでは至極人間的な感情による行動だった。だが変解した後は嬉々として弱い者いじめを楽しんでいた。倒すべき浮浪者たちは元より、守るべき夏華たちでさえも、鬼となった雅人には動く粘土細工のように見えた。握り潰して遊びたいという衝動を抑えきれなかった。夏華の博打が成功しなかった場合を想像すると、浮浪者などより自分の方が何倍も恐ろしい。心をしっかり持たねば、鬼の残虐性に流されては駄目だと、今更ながら肝に銘じた。
「今回は本気で感謝してる。よくあんな方法を思いついたもんだ」
「ドーテーくんは女の子の匂いに弱いからね。まぁキョドって暴れられたらヤバかったけど」
「ド……それは関係ないだろ!」
「声が裏返ってる。そんな見た目でカッコ悪いよ?」
「うるさい!」
二人のやり取りを磐田が満面の笑みで見守っている。恐らく娘夫婦の痴話喧嘩にでも見えるのだろう。夏華の生意気な物言いは安堵の裏返しということで我慢できるが、磐田の態度には若干腹が立つ雅人だった。
「お話し中のところすみません、若」
西原が話に割って入った。
「西原、怪我は?」
肩の傷はかなり深いようで、シャツの袖から血が滴り落ちていた。
「はは、若を止めるのに必死で、痛みなど忘れていましたよ」
命の危険はなさそうだが、早くきちんとした治療を受けさせるべきだ。
「私のことよりも若、まだ見張りがどこかにいるはずです。野次馬が来る前に、早く」
急なトラブルのせいで忘れていた。ここまでの大騒ぎをしながら誰も様子を見に来ないということは、どこかに見張りがいて、人払いをしつつ雅人たちを監視している可能性が高い。
雅人は鬼の姿のまま跳躍。軽々と高架の防音壁に飛びついた。そして多少なりとも高い場所から周辺を見回すと、ここから二十メートルと離れていない脇道に、趣味の悪い柄シャツを着た若い男を発見した。
男はビデオカメラを構えていたが、雅人に見つかったことを自覚したのだろう。慌てふためき、後ろに停めたワゴン車に乗り込もうとしていた。
これ以上ないほどあからさまな見張り役だ。むしろこんな、いかにも見つけてくださいと言わんばかりの存在に、なぜいままで気付かなかったのか。敵の対処で手一杯だったとはいえ、雅人は己の不甲斐なさに落胆した。
「後悔は後回しだ」
防音壁から飛び降りて男の目の前へ。有無を言わさず襟首を掴み、来た時と同じく跳躍して西原たちの前へ。皆で囲んで男の退路を断ったところで変解を解いた。
「如何にもって感じの人がいたよ。でもこの人、どっかで見たような?」
男は『ひぃぃーっ!』と悲鳴をあげつつその場にへたり込んだ。どこかで聞いた悲鳴だ。
「そうだこの人、ストリップ劇場でも僕を見張ってた」
「なんだお前、木田じゃねぇか」
磐田はこの男を知っているらしい。
「知り合い?」
「知り合いも何も、金本んトコの使いっぱしりでやすよ」
「金本って、諫早組の?」
ここまで言われて、ようやく雅人は思い出した。鬼頭組本部前で雅人に食ってかかり、金本からきつい躾を受けた男だ。
「ということは、今回の件は金本さんが黒幕ってこと? でもどうして?」
木田は声を裏返らせながら命乞いをした。
「オ、オレは何も知らねぇッス。おや、おや……親父の命令で……」
嘘ではなさそうだ。というより、仮に金本以外が主人だとしても、見るからに下っ端であるこの男に、命令の意図を説明する者はいないだろう。
「落ち着け。とにかく、お前は何をやってたんだ?」
怯える木田を宥めながら、磐田がゆっくりと尋ねた。
「ああああ、あいつら……あのバケモンをはこ、運んで……雅人……さんを襲うところを撮って………終わったら……おや、親父と、そ、掃除屋に……連絡、を……」
見張り役と掃除役、全て西原の仮定通りだ。
「見張りはお前一人か?」
「オ、オレだけです」
「ではとりあえず、掃除屋を呼んでもらった方がいいでしょう」
西原が次にとるべき行動を提案した。痛む肩口は、夏華にハンカチで血止めをしてもらっている。
いまのところ部外者に目撃されていないようだが、ここが夕暮れ時の住宅街である以上は時間の問題だ。金本の考えはともかく、一刻も早く片付けてしまった方が双方にとって都合がいい。
雅人たちは震える木田をどうにか落ち着かせ、掃除役に連絡させた。既に近くで待機していたらしく、五分以内に到着するとのこと。
これで目の前の問題は何とかなりそうだ。雅人は次いで、本題ともいえる質問を木田に投げた。
「金本さんはいまどこに?」
「まだ事務所にいると思います。でも夜は大抵、馴染みのキャバに行っちまうんで……」
できるだけ人目を避け、確実に金本を問い詰めるには、諫早組の事務所まで乗り込んで話をつけるべきだ。モタモタしていれば金本が現状を察知し、シラを切るための準備を済ませてしまうかもしれない。
「いまから木田さんと一緒に諫早組に行ってくる」
「では車はアッシが。夏華は組長を病院に連れて行ってくれ」
「いや、ついてこなくていいよ」
鬼の力は一応使いこなせるようになったが、まだ何が起こるかわからない。それでなくとも相手の居場所はヤクザの事務所。武器には事欠かず、追い詰められれば若頭の磐田にさえ牙をむく可能性があるだろう。
「でも若は車の運転なんてできやせんよね? 木田はまだビクついてやすし、電車ってわけにもいかんでしょう」
「なら――」
磐田は滅多に見せない深刻な顔で、雅人の言葉をさえぎった。
「子供のピンチを放っといて、親代わりもねぇですよ。何と言われようが、アッシはついて行きやすぜ」
こう言われては雅人も邪険にはできなかった。そこで渋々、荒事になりそうな時は下がること、とだけ約束させた。
「私こそご一緒したいところですが、残念です。どうかお気をつけて」
傷ついた西原のことは夏華に任せ、雅人、磐田、木田の三人は一路、横浜の諫早組へ。
5
【午後九時 横浜市末広町】
繁華街から僅かに離れ、地味なマンションと、二昔前のこぢんまりした事務所ビルが立ち並ぶ。新宿歌舞伎町のようなどぎつい喧騒もなく、ファッションホテルが申し訳程度に目に入る。神奈川県横浜市末広町。その一角、川沿いの、カビか何かで白い壁が若干黒ずんだ、四階建てのビル。それが諫早組の事務所だった。
「着きやした。まだいるんでしょうかね」
一階こそ真っ暗だが、最上階は残業続きの一般企業よろしく、まだまだ明るい。
「行けばわかるさ」
雅人は磐田というより、若干緊張する自分にそう言い聞かせた。それから木田にパスワード式のオートロックを開けさせ、エレベーターで最上階に向かった。
最上階に到着し、エレベーターのドアが開いた。見た目には中小企業の事務所と変わらず、いくつかの事務机とOA機器が並んでいた。
「これはこれは。磐田のカシラに雅人さんじゃありませんか。こんな時間になぜウチに? しかも木田まで一緒だなんて」
金本は急の来客に動じた素振りもなく、自ら入り口まで駆け寄って三人を出迎えた。
「白々しいぞ、金本! テメェが若を――」
雅人は喧嘩腰の磐田を制し、努めて冷静に金本と対峙した。
「いまさら惚ける必要もないでしょう。大まかな話は木田さんから聞きました」
「はぁ。何を聞いたか知りませんが、どうやら長い話になりそうですね。生憎といまは俺一人しかおりませんが、それでもよろしければ、どうぞおくつろぎください」
金本は二人の感情を無視してそ知らぬ顔。経営者然とした態度で、応接ブースのソファーを勧めた。
「実は先日、焼酎のいい物が手に入りましてね。ぜひカシラにも一杯飲んでいただきたい。あぁ、未成年の雅人さんはお茶で勘弁してくださいね」
妙に愛想の良い態度が逆に鼻につく。三下の木田が本気で怯えながら、親である金本の差し金だと白状したのだ。彼が今回の件に絡んでいることは、もはや疑いようがないはずなのに。
「それより本題に入りましょう。どうして僕を襲ったんですか?」
「襲った? 誰が?」
金本には演技の才能がないらしい。愛想笑いから真剣な眼差しへ。本人は自然を装っているつもりだろうが、最初から目が笑っていなかった。
「あなたの命令だと、木田さんがはっきり言いました」
「ふむ、つまり俺が木田を使って、雅人さんを襲ったと?」
「そうです」
「何のために?」
「それを聞いてるんですよ」
「おっと、そうでしたね。ははは、これは失礼」
くどくどと確認するのは雅人たちを苛立たせるためか。事実、磐田は回りくどい受け答えに早くも痺れを切らし、小刻みに貧乏ゆすりを始めていた。金本はそれに気付いてなお、悠長な態度を崩さなかった。
「すみません、煙草いいですかね?」
「いい加減にしやがれ! 時間稼ぎのつもりか!」
磐田が吠えた。ソファーから立ち上がり、金本の首根っこに手を伸ばす。しかし寸前のところで雅人に止められ、渋々再び腰を下ろした。金本の煮え切らない態度には雅人も爆発寸前だったが、磐田が先走ってくれたおかげで自分を失わずにいられた。
「金本さん、あなたが何をしようと、僕は聞きたいことを全部聞くまで帰りません」
雅人は金本を見つめた。睨み付けるような真似はしない。路傍の石を視界に納めるように、一切の感情を込めなかった。
しかし少年が精いっぱい捻り出した凄みなど、海千山千の中年男には全く効果がなかった。
「はは、そんな冷たい顔しないでくださいよ、一応は顔見知りなんですから。わかってます、ちゃんと小細工抜きで答えますって」
そう言って金本は木田を呼んだ。木田はビクビクしながら、金本が座るソファーの横に立った。
「おい木田。お前、雅人さんを襲ったんだって?」
金本は作り笑顔のまま木田に尋ねた。
「えっ? いや、それは親父の――」
「襲ったんだって?」
語気を強め、木田の発言を上から押し潰す。
「は、はい!」
笑顔の下の凄みに圧倒され、木田は『はい』としか答えようがなかった。
「そうかそうか」
金本は意味深に相づちを打った。それから、パンッと乾いた破裂音。胸元に忍ばせていた銃で、木田の眉間を打ち抜いた。
「なっ?」
これには雅人も磐田も驚いた。悲鳴こそ上げなかったものの、身体が瞬時に強ばった。撃った理由を尋ねようにも言葉が出なかった。雅人は金本に目を奪われ、磐田は倒れた木田を凝視する。ただ一人金本だけが、この場で平然としていた。
「こいつは前々から、雅人さんのことが気に食わなかったようですわ。だから金で人を雇って、コッソリ殺そうとしたんでしょうな」
小細工はやめると言ったそばから手の込んだ小細工。雅人と磐田が言葉を失っているのをいいことに、金本は至極自分勝手なシナリオを語り始めた。
「子の不始末は親の責任ということで、カタをつけさせてもらいました。もちろんこの程度で許されるとは思っていません。雅人さんにも本部にも、改めて詫び金持参でお伺いいたします」
深々と頭を下げる金本。だが見えなくなったその顔は、得意気に舌を出しているに違いない。
「これで手打ちにしろってか。舐めるのも大概にしやがれ」
「いえいえ、そんなつもりはありませんよ。ご納得いただけないのでしたら、エンコでも詰めましょうか?」
演技の出来不出来はともかく、役者としての経験は金本の方が上だった。異常な修羅場を経験したとはいえ、雅人は所詮ぬるま湯で育った高校生。単純な腕っ節とはまた違う、社会のいやらしい駆け引きができるわけではないのだ。またそれは、ヤクザの割に愚直すぎる磐田も同様だった。このままでは金本のペースで、全てがうやむやにされてしまう。
「さて、早いとこ仏を片付けねぇとな。てなわけで、今日のところはお引き取りください」
「……い、いや…………」
雅人はまだ言葉を失っていた。引き下がるわけにはいかないのに、咄嗟に見せられた処刑行為に動揺していた。決して死体や銃に怯えたわけではないのに、声が上手く出せなかった。
察した磐田が代弁する。
「詫び金だのエンコだの、いつまで茶番を続けるつもりだ」
「おいおい待ってくださいよ。茶番で子を殺す親がいますかい」
「まさしくテメェがそうだろうが。正直に全部ぶちまけるまで帰らねぇぞ」
「だからぶちまけるも何も俺は……困ったなぁ」
このような問答を繰り返すこと数分。直情型の磐田では金本の口を割れそうにない。しかし雅人が自分を取り戻すための時間は稼いでくれた。
「答える気がないならもういいです。金本さん、いますぐ警察を呼んで、木田さん殺しの件で逮捕してもらいます。この件は僕らが目撃者ですから、言い逃れはできませんよ?」
「おや、それはちょっと薄情すぎやしませんかねぇ。俺はあなたのために泣く泣くやったってのに」
「そういう訳のわからない理屈も結構です。捕まって懲役刑にでもなってくれれば、僕も襲われたことを忘れます」
こんな脅しが金本に通じるとは雅人も思っていなかった。だがこうして釘を刺しておけば、今後はむやみやたらと襲ってこなくなるだろう。それだけでも幾分かマシと妥協するしかないようだ。
最大限の譲歩を示す雅人に、金本は『はぁぁ~』と長くわざとらしい溜息で応えた。
「思った以上に強気なお方だ……まぁいい。わざわざ東京からお越しくださった礼ってことで、話せることは話しましょう」
金本の目つきが尚も芝居がかっているのが気になるが、雅人たちはひとまず話を聞くことにした。
金本は居住まいを正し、コホンと軽く咳払い。それから組んだ両手を腹の上に乗せ、淡々と語り始めた。
「磐田さん、それに雅人さん。俺はねぇ、初めてお会いした時から、あなた方が嫌いだったんですよ。いや、お二人だけじゃないな。先代の源二組長からして大嫌いでした」
聞き手の二人は若干眉をひそめたが、そのまま黙って独白の続きを待った。
「俺ら諫早組は元々鬼頭組の傘下じゃねぇ。横浜界隈で幅を利かせた独立組織だ。まぁ世間からは半グレとか呼ばれてましたがね。それが二十年ほど前、鬼頭組に目を付けられ、無理やり下に入れられちまったんですわ」
源二が一代で成し遂げた東日本制覇。その話は大まかながら雅人も聞かされていたし、磐田に至っては直接の関係者だった。
「とはいえ最初はムカつく反面、期待もしてたんですよ。外様ながらデカイ組織の幹部になれるんだ、いいシノギができるに違いないってね」
ここまで話して金本は、胸元から煙草を取り出した。火を点け、口に含み、ゆっくりと紫煙を吐き終えると、口調に苦々しさを含めつつ話を続けた。
「ところが実際はどうですか。カタギには手を出すな、クスリは売るな、まっとうに生きろと組長様は仰る。これには正直困りましたよ。こちとら楽に儲けたいからヤクザやってんだ、テメェは力任せに従わせといて寝言言ってんじゃねぇと思いましたね」
源二は仁侠映画さながらの極道組織を理想に掲げ、本人もその映画の主役のような人格者だった。それゆえ部下や世間から大いに慕われたが、彼が仕切っていたのはあくまで反社会的勢力であり、善良な市民の集まりではない。だから金本のように、裏で憎々しく思う者も少なくなかった。
「他人の涙でメシ食うのがヤクザでしょう。正義面したいなら一人でボランティアでもすりゃあいいのに、なんで俺らまで巻き込みますかねぇ」
この言葉は金本の本心で、よほど腹に据えかねていたらしい。話しながら、火を点けたばかりの煙草を卓上の灰皿にこすり付け、苛立ちを紛らわした。
磐田は似たような内容を、金本と同じく外様の幹部から聞いた覚えがあった。とはいえそれは酒の席での愚痴であり、磐田も次の言葉で聞き流していた。
「組織のアタマってのは、誰よりも世間体を気にしなきゃならねぇ。てめぇも組を仕切ってんだからわかんだろ」
「だから仲良しごっこをしろと? はは、ヤクザが聞いて呆れまさぁ」
金本は二本目の煙草に火を点けた。
「俺はねぇ磐田さん、あなたと先代のそういうところが嫌いなんですよ。いまも言いましたが、先に戦争吹っ掛けてきたのは鬼頭組だったでしょうが。終わった途端に手のひら返すんじゃねぇよ」
「そうじゃねぇ、組同士の小競り合いを終わらせるためにデカイの一発吹っ掛けたんだ。無理やりにでも押さえつけねぇと、てめぇらヒトの話聞かねぇだろが」
二人の言葉に熱がこもる。が、根本的に主義主張が違う口論である。何を言っても平行線でしかなかった。
完全に蚊帳の外になる雅人。ひとまず様子を見守るつもりであったが、その姿に気付いた金本から声をかけられた。
「おっと雅人さん、この話はあなたにも他人事じゃありませんぜ」
「……わかってます。続きを」
金本は煙草を大きく吸い、それから下を向いて、肺まで流し込んだ煙を吐き出した。
磐田は右の親指を額に当て、にじみ出た汗を拭った。
「雅人さんあなた、ご自分がこれまでどうやって生きてきたかご存知で? 生活費や学費はどこから出たんでしょうね」
「えっ? それは親父が……」
「ええ、先代のポケットマネーです。ならその金はどうやって作ったか。むろん、俺らのアガリからですよ」
下位組織が上に利益を差し出し、代わりに円滑な事業展開を保証してもらう。それは反社会的勢力のみならず、一般企業でも当たり前の仕組みだ。
「なのにあなたは組から抜けてしまった。親の遺産という名目で俺らの稼ぎをごっそり持って。ご自分の手は一切汚さずに」
「それで恨まれるぐらいなら、お金は組に返します。元から分不相応な額だと思ってましたし」
「いや、誤解しないでください。一度払っちまったモンを上が何に使おうが知ったことじゃありません。ただ、俺らが他人から恨まれて稼いだ金で、あなたが平々凡々と暮らしてるのがムカつくってだけでさぁ」
恨みや妬みではなく、単に虫が好かないから襲わせたというのか。幸い雅人は鬼の力で難を逃れたが、金本の話が全て本音であれば常軌を逸している。
「ムカつくっててめぇ、仮にも先代のご子息に対して失礼だぞ」
磐田は再び激昂するが、雅人本人は元から金本のことが苦手だったせいもあり、特に何とも思わなかった。むしろこれまでの自分を小馬鹿にしたような態度の理由がわかり、胸のつかえが少し取れた気すらした。
「殺意を抱かれるほど近しい間柄じゃないとか、色々と不可解な点はありますが、とりあえず動機はわかりました。でもこの話よりもっと聞きたいことがあります」
「俺に答えられることでしたら何なりと」
金本は余裕の笑みで返した。雅人だけでなく、組織では上の立場にある磐田ですら小馬鹿にした態度だ。
「襲わせた化け物たちのことです。特に琢磨とかいう半グレは、元はただの人間でした。あれはいったい何なんですか?」
「はっはっは、そう仰るあなただって人間じゃないでしょ」
「だからこそです。僕みたいなのがどこにでもいるとは思えない」
金本の視線がわずかに横に動いた。雅人も同じように目だけ動かし、その先を追ったが、仰向けに倒れた木田の遺体があるだけだった。
「まぁわかりやすく言えば、クスリの影響ですよ。身体能力向上と精神高揚といったところですか。今後のシノギになるかと思いまして」
「金本てめぇ、ヤクは先代から禁止されてただろうが」
雅人は磐田を制して、
「化け物になるような薬が売れますか?」
「もちろんそこらのジャンキーには売りません。クソどものケツの毛を毟ったところで大した儲けにはなりませんから。でも世の中には特殊な需要がありましてね」
販路や儲けのことなどどうでもいい。ここまでの金本の話をまとめると、以前から気に入らなかった雅人を殺そうとするついでに、新薬の実用試験をしていたということになる。
「話は理解しました。商売の良し悪しは組が決めることで、僕に口を出す権利はありません。でも襲撃はもうやめてください」
「断ったら?」
「殺します」
警察に突き出すなどといった回りくどい交渉は諦め、率直に事実だけを述べた。
「おーこわ。軽々しく殺すだなんて言っちゃあいけませんぜ、お坊ちゃま」
金本は再び視線を木田に移した。自分で殺しておいて、いったい何を気にしているのか。
「さて、お話はここまでにしましょう。時間は十分に稼げました」
まるで商談でもしていたかのような態度だが、その口角が僅かに上向きになったのを雅人は見逃さなかった。やはりただのネタ晴らしではなく、何か企みがあって対話に持ち込んだようだ。
「ふざけんな。こっちはまだ聞きてぇことだらけだ」
吠える磐田を金本は相手にしなかった。
「一から十まで全部話す気はありませんよ。俺も暇じゃないんでね、後はこいつに任せますわ」
そう言って金本が指さしたのは木田の遺体だった。それとほぼ同時に、異常な現象が始まった。遺体の手足が激しく痙攣し、腹部が風船のように膨れ上がったのだ。
「な、なんだこりゃ……」
遺体の腹部は限界まで膨らむと、今度は急激に萎み始めた。そして再び膨張と収縮を繰り返す。
「金本さん、木田さんに何を?」
「すぐにわかりますから少々お待ちを」
雅人たちは腹部の異変にばかり気を取られていたが、それ以外の部分にも異常が見られた。四肢や指が倍近くまで長く伸び、口が耳のそばまで裂けた。金本に撃たれた眉間は肉が波打ち、やがて奥に詰まっていた弾丸を吐き出した。
「お待たせしました。ようやくクスリの効果が出ましたわ」
裂けた隙間から唾液を滴らせる口。餓鬼さながらに突き出た腹。異様な長さを持て余し、四つん這いで床につけた手足。数分前まで人の遺体だったそれは、完全な化け物となって目を覚ました。
「こいつには特注品を与えましたからね。いままでの雑魚とは勝手が違いますぜ。悪いがお二人にはここで――」
死んでもらいます、そう言いかけた金本の首筋に木田が噛みついた。
「グェッ!」
金本は言葉にならない叫びをあげた。
「き……木田、てめぇ………」
木田は何も答えない。それどころかますます金本に歯を突き立て、その血肉を貪り始めた。高架下で戦った食人鬼たちと同じように、他者を食うことしか頭にないようだ。しかもかなり力が強いようで、抵抗しようと暴れる金本を長い手足で拘束し、体重を乗せて押し倒してしまった。
呆気にとられた雅人と磐田は動けなかった。
「クソッ……はな…………ちが……」
木田の歯が金本の頸動脈を噛みちぎった。事務所の天井スレスレまで、噴水の如く噴き出る鮮血。金本はもう助からない。
「西原ぁぁぁーっ!」
恨みがましく叫んだ断末魔、それはなぜか現組長の名前だった。
「西原?」
問い質そうにも金本は既に息絶え、なおも木田に食われ続けている。
「若、ひとまずは」
「うん、木田さんをどうにかする。危ないから磐田は下がって」
磐田が事務所の隅まで避難する。それを見届けてから雅人は木田に声をかけた。
「木田さん、僕の言葉がわかりますか? わかるならこっちを向いてください」
木田は答えなかった。金本が特注品を与えたと言っていたが、その効果で人語を解さないのだろうか。もしくは金本を食らうのに夢中で、雅人の呼びかけに気付かないのか。どちらにせよ、食人鬼となった彼をこのまま放っておくわけにはいかない。
「変解!」
流れるように自然な動作で、雅人は鬼に変解した。この短期間に何度も繰り返したおかげで、いまや凝った衣装に着替えるよりも容易く変われるようになってしまった。争いを嫌う本人としては望まざる成長であったが。
「さて……」
夏華に襲いかかった時の高揚感はない。敵に襲われた時の危機感もない。冷静に、事務的に、自分の役目として木田を止める。恐らく殺すことになるだろうが、大事の前の小事。早く終わらせて、金本と西原の関係を調べなければならない。
雅人は殺気を放ってはいなかったが、鬼という存在そのものに強烈な威圧感があるのだろう。木田はビクンと肩を震え上がらせ、警戒心むき出しの眼光を雅人に向けた。それから頭を低く、長い四肢を床に付け、肉食獣のような威嚇体勢を取った。
「…………」
互いに微動だにせず、にらみ合いが一分ほど続いた。先に動いたのは木田だった。高速で床を這い、雅人に急接近。目で追う雅人が右の拳を打ち下ろして迎撃しようとするも、木田は斜め上方向に跳躍し、紙一重で回避した。跳んだ先は天井。なんと床にいた時と同じ、しかしながら上下逆さまの姿で天井に貼り付いた。
床から天井までの高さが四メートル強。雅人は源二と違い、鬼になっても身長は百七十センチ程度。跳躍すれば木田に届くが、正面から向き合うよりもずっと戦いにくい。対する木田は、床にいた時と同じように動ける様子。攻撃が届きにくい位置からけん制し、隙あらば上から全体重をかけて降下するつもりらしい。ゾンビと大差なかった高架下の連中と比べ、かなり頭が働く。
天井から剥がそうと、雅人が木田に手を伸ばした。木田はそれを横にずれて回避。さらにカウンターで、口から黄ばんだ液体を吐き出した。今度は雅人が回避するが、床に落ちた液体はジュワジュワとカーペットを溶かして白い煙を上げた。かすかに残るすえた臭いから察するに、恐らくは濃縮した胃液だろう。いまの木田は雅人以上に人間離れした化け物だ。
「若、お気を付けくだせぇ」
木田の動体視力と瞬発力は雅人を上回った。高低差のせいで単調な攻撃しか出せない雅人にも問題はあったが、それを見てから避け、さらにカウンターまで当てる余裕を木田は持っていた。軽くひっかく程度、薄皮一枚すらも引き裂けない小技ながら、相手を苛立たせるには十分。手を出すほどに隙が増えていく雅人を軽くあしらい、大技の機会を伺いだした。
雅人からすれば全く想定外の展開だ。向かってくるところを返り討ちにして終わりと考えていただけに、化け物らしくない消極的な動きに翻弄され、相手の術中にまんまとはまってしまった。
知的に考えて張った罠なのか、本能的な行動なのか、言葉を発しない木田からは伺い知れない。わかっているのは完全に彼のペースで戦いが展開しているということ。どこかで反撃のチャンスを掴まない限り、雅人は負ける。
業を煮やした雅人が跳躍した。掴んでしまえば速さなど関係ない。しかし木田の反応は雅人の一歩先を行っていた。横に回避。上に伸ばした雅人の手が空を切る。跳躍から一瞬生まれる降下の隙。木田の長い右手が雅人の左脇に突き刺さった。ダメージは小さい。が、今度は木田が天井を蹴って跳躍。刺さった右手を軸にして雅人に急接近。勢いを付けて首筋に食いつく算段だ。
「若!」
磐田が叫ぶ。やはり雅人の負けか。否、これこそが反撃のチャンスだった。
雅人は筋肉を引き締め、木田の右腕が抜けないように固定した。木田は回避行動が取れない。それどころか自分から無防備な顔面を雅人に差し出している。一足先に床に着地した雅人は、右の拳を突き上げた。
ネチャ……ドスッ
粘り気のある不快な音が室内に響いた。上から下へとかかる木田の力と、下から上へとかかる雅人の力が衝突。その結果、木田の身体は壁や天井に飛ぶことなく、顔面から股間まで左右真っ二つに両断された。
勝負はついた。木田の半身はどちらもピクリとも動かない。雅人は変解を解いた。
「若、お疲れさまでした!」
すぐに磐田が駆け寄る。だが事はこれで終わりではない。
「ねぇ……磐田、まさかとは思うけどさ、今回の件は西原が関わってるのかな?」
たったいま荒々しい戦いを終えたばかりとは思えない弱々しい声で雅人は尋ねた。
「ひょっとして磐田も? だって磐田は若頭で、西原と一緒にいることが多いよね?」
磐田はきっぱりと断言した。
「組長のことはあっしにもわかりやせん。ですがあっしは無関係です。それだけは先代にも誓えまさぁ」
まっすぐ雅人を見つめる目に嘘はなかった。
「ごめん、疑うなんてどうかしてた」
仮に一人で事務所に来て、金本の独白と断末魔を聞いていたら、疑心暗鬼と孤独感で頭がおかしくなっていただろう。雅人は磐田に救われた気がした。
「お気持ちお察ししやす。金本の野郎、なんで最期に組長の名前を」
「金本さんの持ち物を調べてみよう。それと、諫早組の組員たちはいまどこにいるんだろう?」
事務所には金本しかいなかった。夜とはいえ、組長一人残して全員出払った状態だったのは不用心かつ不自然すぎる。
「少々お待ちを。本部にいるヤツに探させやす」
磐田が連絡を入れている間に、雅人は金本の遺体を漁り、ジャケットからスマートフォンを取り出した。指紋認証でロックがかかっていたが、登録者は目の前にいるので難なくこれを解除。次いで手早く通話やメールの履歴などを調べた。
「これは!」
送信済みメールのフォルダに見覚えのあるメールが一件。
『殺処分。鬼頭雅人。前金五十万。成功報酬二百万。』
忘れもしない、琢磨から自慢げに見せられた殺害依頼だ。金本はあの時から雅人を殺す気だったのか。しかしどうにも腑に落ちない。単に気に入らないだけの少年を、大金を使ってまで殺そうとするだろうか。
「若、こっちは何とかなりそうです」
諫早組組員は拍子抜けするほどすぐに捕まった。総勢二十名足らず、みな馴染みの店や自宅にいたようで、招集をかけてから一時間とかからず事務所に集合した。彼らは事務所の惨状に驚き、金本の死について雅人たちを問い詰めた。しかし雅人と磐田が事のあらましを説明すると(むろん鬼の部分は伏せた)、怒るでも悲しむでもなく、静かに事実を受け入れた。
「やけにしおらしいな、てめぇらの親父が死んだってのに」
組員たちはポツポツと呟くように答えた。
「親父が何かをやってたのは知ってました。でも『新しいシノギだ』って言うだけで、詳しいことは何も教えてくれませんでした」
「だからこんな姿になっても諦めるしかないというか、実感がわかないというか……」
金本は人を化け物に変える薬で商売をしようといていた。ものがものだけに、できるだけ秘密裏に進めたかったのだろうか。
「今日も夜になったら急に帰れと言われて、訳がわかりませんでした。もちろん若たちがいらっしゃるなんてことも聞いてません」
嘘を吐いている様子はない。これ以上探っても有益な情報は得られないだろう。
ならばと雅人は金本のパソコンについて尋ねた。組員たちの集合を待つ間、雅人はスマートフォンに加えて金本の机の周りも調べた。しかしめぼしい情報は何ひとつ得られず、最も気になるパソコンはパスワードのせいで開けなかったのだ。
幸い諫早組のパソコンは担当者が管理しており、この問題はすぐに事なきを得た。雅人は中を覗き、間もなく目当てのフォルダを発見した。
「見て、磐田。薬の資料だ」
資料には薬物の詳細や投与前後の被験者の観察状況などがびっしりと書き込まれていた。まるで研究機関のレポートのようで、これを作ったのが金本だとすれば、彼は間違いなく就く職業を間違えた。
「むぅぅ、専門用語のせいで肝心なところがサッパリでさぁ。結局このヤクは何なんでやすかね」
「麻薬の類とは違うと思う。金本さんもジャンキーには売らないと言ってたし」
いまは薬の成分より、この資料を誰に見せていたのかが重要だ。
「大した進展なし。金本さんが全ての元凶とはとても思えないけど、このままじゃ八方塞がりだ」
「となりゃあ、やっぱり組長に直接聞くしかありやせんぜ」
それが最善の策なのは雅人にもわかっていた。だが彼にとって西原は兄同然の存在。できることなら疑いたくなかった。
「そ、そうだ、掃除屋。木田さんが雇った掃除屋がいたよね? その人たちなら何か知ってるんじゃないかな」
磐田は雅人の気持ちを理解しつつも、その提案を否定した。
「詳しいことは何も伝えねぇ、調べさせねぇってのがヤツらとの付き合い方ですぜ。まぁ必ずしも組長が黒幕ってわけじゃねぇんだ。ひとまず話だけでも聞いてみましょうや」
このまま黙って不安を募らせるぐらいなら、西原を信じて確認するべきである。雅人は頭を切り替え、西原に連絡しようと自分のスマートフォンを取り出した。するとそのタイミングを狙っていたかのように着信音が。西原からだった。
「お疲れさまです、若。そちらは片付きましたか?」
「うん、一応は。西原の方はどう? 怪我は大丈夫?」
「かすり傷ですからお気遣いなく」
お互いの無事を確かめ合ったところで雅人は本題に入った。
「……西原、ちょっと聞きたいことがあるんだ。金本さんが亡くなったんだけど、死ぬ間際に西原の――」
西原は強引に割り込み、話の腰を折った。
「すみませんが、私からも若にお話がございます」
「えっ?」
「ですが今日はもうお疲れでしょう。よろしければ明日、いまから申し上げる場所までご足労願えませんか」
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【八月二十日 午前十時 青山霊園】
盆を過ぎて間もない八月、平日。早朝の散歩客も消えたこの時間、青山霊園は都内の一角とは思えない程ひっそりと、静かな佇まいを見せていた。セミの鳴き声もなく、季節の割には過ごしやすい。
駐車場に車を止め、降車する三人。雅人と磐田と夏華である。この墓地には源二が眠っている。西原がここを指定してきた理由は不明だが、場所が場所だけに三人とも、それなりに小綺麗な恰好で臨むことにした。大した話でなければ後で源二の墓標を見舞い、それから先日やり損ねた会食にでも行きたいところだ。そんな楽観的な展開は恐らく期待できないだろうが。
「磐田はともかく、夏華まで来る必要ないのに」
「ここまで巻き込んどいて仲間外れはないっしょ」
「自分から首を突っ込んだの間違いだろ」
「まぁまぁ。男だけじゃムサ苦しいですし、こんなヤツでも一応は花ってことでひとつ」
口では迷惑がましく言う雅人だったが、本音は夏華がいてくれて助かっていた。今回の件に西原が関わっている、彼が自分を殺そうとしている、そう考えると胸が苦しい。昨夜は連戦でかなり疲れたはずなのに、この件が気がかりでほとんど眠れなかった。夏華の能天気な話で気を紛らわせていないと、自分の意思に反して身体が動かなくなりそうだ。
「さて、肝心の組長は………おっ、いやしたぜ。親っさんの墓に手を合わせてまさぁ」
三人は足早に源二の墓前へと向かった。西原の方もその来訪に気付き、挨拶で迎えた。
「おはようございます。わざわざご足労いただきまして、ありがとうございます」
いつも通りの丁寧な態度。組長になっても全く変わらない。
「おはよう。早速で悪いけど、話を聞かせて」
「ええ。立ち話で恐縮ですが、どうかご容赦ください」
西原は護衛を付けていなかった。先日と違い、運転手すらもいない様子。昔からヤクザらしからぬ腰の低さが目につく男ではあったが、大組織の長という立場上、弾除けぐらいはそばに置いて然るべきなのに。
「まずは皆さんが最も知りたがっていることから話しましょう。今回の騒動は、全て私が仕組みました」
勿体つけるでも興奮するでもなく、まるで他人事のように西原は言った。
雅人の頭に鈍器で強打されたような、芯まで響く重い衝撃が走った。昨夜から覚悟していた真実。されど直に本人の口から聞かされると、そんな覚悟など一瞬で明後日の方向に吹き飛んでしまった。
「な……」
ショックが大きすぎて思うように声が出せない。磐田親子も驚きで言葉を失っている。
西原にとっては予想通りの反応だったのだろう。三人の様子を伺いつつも話を続けた。
「なぜこんなことをしたのか、ですよね? 事の発端は……古いですが、孤児院の火事から親父に救われた一件です」
その表情は暗く、口調も淡々としたもの。決して悪企みを暴露する時のしたり顔ではなかった。
西原孝弘は捨て子だった。三歳ぐらいの頃、孤児院の前に置き去りにされた。その前から父親はおらず、母親も朝から夕方にかけて寝姿を見かけた程度。恐らく水商売をしていたのだろうが、ほとんど構ってもらった記憶がなく、もはや顔すらも覚えていない。一言で言えば育児放棄の末に捨てられたのだ。
名前は母親から『たかひろ』と呼ばれていたからで、正しい漢字も苗字も不明(現在の氏名は里親からもらったもの)。幼いながらも捨てられたことを理解しており、他人への不信感から孤児院では誰とも打ち解けず、常に死んだ目をしていた。
孤児院暮らし二年目の秋、院内で火災が発生。周囲との接触を避けていた西原は逃げ遅れ、火の海に呑み込まれる事態に。そこへ颯爽と現れたのは、鬼に変解した源二だった。
「火事の原因は覚えていません。ですが炎を掻い潜って現れ、私を抱え上げてくれた親父の逞しい腕の感触だけは、二十年以上経ったいまでも身体に残っています」
話しながら西原は、視線を目の前の三人から源二の墓標へと移した。どことなく遠い目。事件当時を懐かしんでいるのだろう。
「捨て子の私が死んだところで誰も悲しみません。それなのに親父は命がけで現場に飛び込み、私の無事を喜んでくれました。こんなに嬉しいことが他にありますか?」
両親ともに健在の夏華。これまで家族同然の組員が常にそばにいた雅人。二人からすれば西原の境遇は、あまりにも自分と違いすぎた。そもそも自分の死や悲しむ者について深く考えたことすらなかった。だからいま言葉を返したところで上っ面な慰めしか言えそうになく、黙って話の続きを待つことにした。
「私にとって親父は唯一無二のヒーローでした。この人ならいつ、いかなる時でも私を守ってくれると。それで無理を言って組に置いてもらい、西原家の養子になったんです」
このくだりは雅人の新居を決める時にも聞いた。周囲の反対を押し切ってまで組に入ったという。
「そして若は親父の後を継ぐべきお方でした。ところがあなたはそれを拒んだ。大きな素質を秘めながら、凡人の道を選んだ。私はショックで頭がおかしくなりそうでしたよ」
病院からの帰り道、車の中で話した内容だ。源二の血がどうとか。雅人はいまになってようやく、あの時西原が激昂した理由を理解した。
「当時は鬼のことなんて知らなかったんだ。だけどもし知っていたとしても、結果は同じだったよ」
腕っぷしが現代社会でどれほど役に立つというのか。せいぜい組同士の抗争でもあれば使える程度。それも変解しても世間から騒がれないという前提があってのことである。
「こんな力、いまの世の中には必要のないものだ」
「世間は関係ありません。憧れのヒーローが私のそばにいる、それが重要なんです」
雅人は言葉を交わしながら困惑していた。西原の意外な一面。ヒーロー依存症とでもいうのだろうか。
「ならどうして僕を殺そうとしたんだ?」
せめて抱えていた想いをもっと早く伝えてくれれば。仮に鬼の素質がなかったとしても、何かしら力になれることがあったはず。
雅人は西原に命を狙われてなお、彼を恨む気持ちにはなれなかった。なにせ生まれてからずっと面倒を見てくれた恩人であり、実の兄も同然だったのだ。嘘でも『冗談でした』と言ってくれれば、いままでのことを全て水に流したいとすら思った。しかしそんな願いは西原に全く伝わらなかった。
「重要な話はここからです。忘れもしません、あれは親父が亡くなった日の夜でした……」
源二の通夜は死亡した翌日の夜に行われた。それまで遺体は斎場の霊安室に置かれたわけだが、西原は人払いをして、誰の入室も許さなかった。無粋な輩に遺体を汚されたくないとか、跡を継ぐ者として先代と二人きりで向かい合いたいとか、最初はそういった理由だった。例外として雅人の入室は認めるつもりだったが、この時の彼は父親の死に己を見失い、自室に引きこもっていた。
正確な時間は覚えていない。恐らく日付が替わる前だったと思われる。西原は盃に日本酒を注いだ。それから懐に忍ばせていたドスを抜き、源二の指先に小さな傷をつけ、流れ出た血を盃に。義兄弟の契りというわけではないが、新組長就任式とはまた別の、あくまで個人的な儀式のつもりだった。源二の血を体内に取り込むことで、組長としての意思を引き継ごうと考えたのだ。またそれは同時に、心の支えとの決別という意味合いもあった。幼い頃に出会ったヒーローはもういない、これからは自分が組員たちを支えていかねばならぬのだと。
盃を空にした数秒後、異変は突如起こった。身体が熱い。全身の血が沸騰し、血管や内臓が焼けただれてしまいそうな感覚だった。それから肉と骨が痛痒い。手も足も腹も心臓さながらにバクバクと脈動し、その度に太く硬くなっていったのだ。
「待った! 西原、それってもしかして……?」
「そうです。変解したんです、私も」
何という奇跡! 何という僥倖! 鏡に映った西原は、彼が幼い頃に見た鬼そのものだった。しかし喜びは、ほんの一瞬しか続かなかった。抗いようのない強烈な吐き気。食中毒の症状がそうであるように、体内から異物を排除しようと、肉体が強制的に機能する。それは胃の内容物はもちろんのこと、胃液しか出ない状態になってもまだ続き、食道から漏れた血を吐くようになってようやく治まった。その頃には姿も人に戻っていた。
「さすが、荒神と崇められていただけはありますね。人間ごときが鬼の血をそのまま飲もうだなんて傲慢が過ぎました。でもヒーローになるチャンスを諦めきれなかった私は、それから血の研究を始めたんです」
「研究? どうやって?」
「知り合いに製薬会社の研究員がいましてね。通夜の前に呼んで、血を全て抜き取ってもらいました」
葬儀では源二の顔を拝むことができなかった。本人からの遺言と聞いていたが、真相は血を抜いた事実を隠ぺいするためだったらしい。平時であれば誰かしらがその遺言に疑いを持っただろう。しかし組全体が葬儀の準備で慌ただしかったことや、伝言役が新組長であったことなど様々な要因が重なり、当時は口をはさむ者がいなかった。
「さ、西原てめぇ、親っさんに何てことを……」
磐田は激昂のあまり、西原が上司であることも忘れて嚙みついた。
「仕方ないじゃないですか、若には跡を継ぐ気がなかったんですから。親父の尊厳を汚してでも、私はヒーローにならないと駄目だったんです」
西原の返答に罪の意識はなかった。謎の義務感。鬼頭組の組長は鬼でなければ務まらないとでも考えているのか。
「私の身体でも鬼の力を操れるよう、知り合いに血と薬の調合を頼ました。そうしてできた試作品は、金本さんに実験してもらいました。紛争地に売るとか、適当な理由をでっち上げてね」
つまり琢磨や食人鬼たちは、源二の血によって生み出されたということだ。
「彼はよく働いてくれましたよ、若の暗殺も二つ返事で引き受けてくれましたし。ですが親父のことを悪く言うので、薬の完成を待って始末しました」
金本は諫早組の事務所で木田に殺された。その木田は雅人が片付けた。襲撃現場を監視する存在についてアドバイスをくれた点から考えて、昨日の出来事は全て西原の筋書き通りだったのだろう。
「親父の名を汚す者は許せません。若、あなたもその一人です」
「僕が親父の名を?」
西原は目を血走らせながら怒りをぶつけた。
「息子でありながら組を継がず、鬼にもなれなかったあなたに、私がどれだけ失望したかわかりますか? だからその両方を受け継いだ私は、失敗作であるあなたを始末したかったんです」
これは彼の勝手な思い込みだった。源二は雅人を跡継ぎにする気はなく、何より身体も生活も平凡な人間のまま過ごしてくれることを望んでいたのだ。しかし雅人は浴びせられた罵声に憤るどころか、期待に応えられなかったことに罪悪感すら感じていた。
「ちょっとちょっと! 失望とか失敗作とかさ、いくら何でも失礼すぎない?」
うな垂れる雅人に代わり、夏華が話に割って入った。
「アタシも西原さんのこと、イトコの兄ちゃんみたいに思ってた。でもまさかこんな嫌な奴だったなんてさ。なんか裏切られた気分だよ」
「非礼はお詫びします。ですがこれは私と若の問題です。口を挟まないでください」
「むっか! 黙って見てらんないから言ってるんでしょ」
しかし磐田父娘は、西原に飛びかかる寸前でぐっと堪えた。ここで感情任せに殴ったところで何の意味もない。全ては当事者である雅人が決めるべきことなのだ。
「若サマも言ってやんなよ、『オレのタマ取ろうなんざ十年はえー』とかさ」
三人が雅人に注目する。雅人は三十秒程度の沈黙の後、重々しく口を開いた。
「西原には申し訳ないと思ってる。でもだからって、僕に死ぬ気はない」
「その気があろうがなかろうが、私はあなたを殺します」
「だったら抵抗するよ」
「つまり私と戦うと? わかりました」
西原は満面の笑みで両手を広げた。
「どちらが後継者に相応しいか、親父の目の前で決めようじゃありませんか」
芝居がかった言動。最初から源二の墓前で雅人と戦う気だったようだ。
二人の戦いは止められない。それどころか、下手な場所にいては雅人の邪魔になる。磐田父娘は数メートル離れた木陰まで下がった。
「人払いはしてあります。墓地の被害もご心配なく。私が責任もって弁償しますので。では始めましょう」
雅人と西原は五メートルほど間を空けて対峙した。しばらく目を合わせ、やがてどちらからともなく声を張り上げた。
「変解!」
現れた鬼と鬼。西原の方が若干身体が大きく、手足も太い。
「改めて比べると違いがはっきりしますね。では能力は?」
西原はいきなり距離を詰め、左、右とジャブを一発ずつ、それから胸元から腹部に向けて左の前蹴りを放った。
かろうじてジャブを回避する雅人。だが意識を頭部に集中させてしまい、胸元が留守に。前蹴りの直撃を受け、後ろの墓石を巻き込みながら吹き飛んだ。
「力の増加量が同じであれば、より鍛えている方が強い。若もそれなりに場数を踏みましたが、まだまだ足りません」
西原は頭脳派とはいえ職業柄、荒事にもそこそこ精通している。対する雅人はこの半月でかなりの経験値を稼いだものの、元は非力な高校生である。これまでの相手は試作薬による不完全な状態だったため、どうにか切り抜けてこられたに過ぎない。同等の相手との戦いは今回が初めてだ。
「くっ……まだやれる」
雅人は起き上がった。派手に飛ばされた割にダメージはなかった。
「当然です、いまのは小手調べですから。そうだ、実験ついでに面白い芸を見せましょう」
西原は右手を胸の辺りまで上げ、手のひらを空に向けた。するとそこから、紫色に燃える炎が上がった。
「これは鬼火。文字通り鬼の能力で生み出した炎です」
「そんな手品ができたからって何だっていうんだ」
江戸時代ならともかく、現代なら使い捨てライターで事足りる。西原の告白で散々衝撃を受けた雅人からすれば、いまさらこんな芸を見せられたところで驚きようがなかった。むしろ西原の方が、雅人の反応に若干の驚きと呆れを見せた。
「ただの炎ではありません。自在に操ることができるのです。あなたが譲り受けた文献にも書いてある技ですが、まさかご存知ないとは」
古い言葉で書かれた原典は早々に読むことを諦めた。源二が書き直してくれたノートの方も、細かく目を通したのは変解のやり方などの基礎的な内容だけだった。だがこれは仕方のないことだ。初めて変解した夜から今日まで気の休まらない日々が続き、技について考える余裕などなかったのだから。
「そ、それより西原がどうして文献を?」
「子供の頃から知っていましたよ。親父の部屋を掃除した時に閲覧許可をいただきましたから」
憧れの存在について書かれていると知り、恐らく熱心に解読したのだろう。源二のノートも案外、西原の研究を基にしたのかもしれない。
「何をどう焼き尽くすかも自由自在。その気になれば、あなたを灰にすることだって容易い」
そう豪語する西原だったが、言葉とは裏腹にすぐさま炎を消した。
「無粋な小細工は使いません。正面から力の差を思い知ってください」
西原が再び雅人に迫る。先ほどよりも速いステップで距離を詰め、左を主軸にジャブを連発。ボクシング教本に載りそうなほど正確で無駄のない攻撃だ。むろん格闘技経験のない雅人に避けられるわけがなく、ろくな防御もできずに全て被弾してしまう。
「あなたの抵抗は口だけですか? 正直期待外れです」
西原は右腕を後ろに引いた。重いストレートで早々に勝負を決めるつもりらしい。
「来た!」
雅人は姿勢を低くして攻撃を掻い潜り、そのまま身体を前に乗り出して西原に飛びかかった。しかし渾身のタックルは簡単に見切られる。
「大振り狙いとは恐れ入りました。失言をお詫びします」
「ヤマを張っただけだよ。さっきみたいに釣られたら勝てないから」
ジャブは避けられないまでも耐えられる。多少のダメージは覚悟し、少しでも反撃のチャンスがある方に賭ける。これが雅人なりに考えて出した作戦だった。
「悪くない判断です。人間だった頃のあなたなら考えもしなかったでしょうね」
西原は軽く微笑んだ。その笑顔はかつての弟分の成長を喜ぶものか。見方によっては、倒しがいのある相手に興奮しているようにも見える。会話内容だけなら組手を楽しむ師弟なのだが、西原の心の内は如何に。
「小技でチマチマ攻めても時間の無駄です。本腰を入れますよ」
三たび西原から攻撃を仕掛けた。振りこそ大きいが、速さはジャブにも劣らない。重く鋭い拳が、強靭な蹴りが、容赦なく雅人を襲った。
雅人は防戦一方。反撃のチャンスを掴めずにいた。
勝負の行末を見守る磐田父娘。だがひたすら雅人の安否を気遣う夏華とは違い、磐田は得心がいかないといった顔つきで唸り声を漏らした。
「むぅぅ……妙だな」
「何がよ?」
夏華は緊迫した場面で水を差されたように思い、若干苛つきながら父親に尋ねた。
「諫早組の木田は人間離れした動きで若を攻めた。その前に見たヤツらも、いかにも化け物といった動きだった。だが組長にはそれがねぇ」
「完成した薬を使ってるからでしょ。それにさっき言ってたじゃん、小細工は使わないとか何とかさ」
「にしたってどの攻撃も素直すぎる。明らかに倒せる場面で深追いしねぇし」
「とっておきの必殺技でもあるんじゃないの。それ使ってかっこよく勝ちたいんだよ、きっと」
「ヒーローがどうたら言ってたから有り得る話ではあるが、むぅぅ……」
そんな磐田の疑問を跳ね除けるかのように、西原の攻撃が勢いを増した。アスファルトの地面を穿つ踏み込み。そこから放たれる蹴りの破壊力は、解体クレーン車の鉄球にも劣らない。かろうじて防御した雅人だったが衝撃は殺しきれず、周囲の墓石ごと数メートル吹き飛ばされた。
経験の差は歴然。頑丈な身体のおかげで雅人に現状大きなダメージはないが、反撃できなければそれも無意味である。気力が尽きたところで一気に追い込まれるだろう。
「また何かを狙っているのなら、急いだ方が良いですよ」
西原の左拳が雅人の顔面に迫る。
「言われなくとも!」
雅人は西原の左腕が伸びきる前に掴み、逃げられないよう脇で固定した。それから上半身を後ろへ反らし、西原の顔面に頭突きを食らわせた。
「カハッ」
予想外のラフな反撃に西原が怯んだ。雅人にとっては好機到来。勢いに乗じて西原を押し倒そうとする。が、組んだ両手を背中に打ち下ろされ、逆にうつ伏せに倒れることに。
再び攻守逆転。西原の踏みつけが容赦なく雅人の後頭部を狙う。察した雅人は横に転がってこれを回避。立ち上がり体勢を立て直した。
いまだ西原の方が上という状況。しかし防御一辺倒だった先ほどまでとは違い、ほぼ五分にまで持ち込めている。雅人はこの機を逃すまいと、今度は自分から攻撃を仕掛けた。
雅人の右ストレート。西原は首の動きだけで回避しつつ左を放つ。雅人は直撃を受けるも、お構いなしとばかりに左のボディブロー。さしもの西原もこれは避けられず、身体をくの字に曲げて息を詰まらせた。
そこから先は至極シンプルな殴り合いだった。互いに相手の拳を受け止め、応酬する。力と力、意地の張り合い。雅人はもちろんのこと、西原にもおよそ似つかわしくない泥臭い攻防だが、だからこそ相手を確実に倒そうとする凄みがあった。
「うっ」
先に根負けしたのはやはり雅人だった。ふいに出された右ハイキックがこめかみにヒット。意識を刈り取られ、グラリと膝を曲げてしまう。
「取った」
西原はこの隙を見逃さなかった。打ち下ろし気味の右拳で、雅人の息の根を止めにかかる。
「若サマ!」
悲鳴にも似た夏華の叫び。雅人の身体はこれに反応。絶妙のタイミングでカウンターを繰り出した。
「なっ……」
西原は膝から崩れ落ちた。そのまま両手も地面につけ、四つん這いの姿勢ではぁはぁと息を切らした。相打ちかと思いきや、ほんのわずかではあるが雅人の拳の方が先に届いたのだ。
「若!」
「やった! 若サマ勝ったよ」
リング下で選手を見守るセコンドよろしく、磐田親子は歓喜の声を上げた。
その騒ぎに誘われ、雅人の意識がようやく回復。拳に残る感触と膝をつく西原から状況を理解した。
「ラ、ラッキーパンチに救われた」
雅人は安堵の息を漏らした。これで勝敗は決した……と思いきや。
ドスンッ
辺りが一瞬、縦に揺れた。悔し紛れか、西原が全力で地面を殴ったのだ。
「まだ終わりませんよ」
言うが早いか、西原は立ち上がりながら雅人に急接近。目まぐるしいラッシュで襲いかかった。
対する雅人は全く動じなかった。先ほどの一撃こそ無意識に放ったラッキーパンチだったが、身体は既に西原の攻撃パターンとタイミングを記憶していた。回避と防御と巧みに使い分け、時には捌いて反撃まで行う。考えるよりも先に身体が、荒々しい鬼の本能が反応した。
「無駄だよ、西原。お前の攻撃はもう通用しない」
「らしくない口ぶりですね。勝てると思った途端に気が強くなりましたか」
「違う。自分でも信じられないけど、身体が勝手に動くんだ」
雅人の足刀蹴りが西原の顎を捉えた。むろん雅人に空手の経験などない。これも鬼の本能によって成しえた技だ。
「ゴフッ」
もんどり打って吹き飛ぶ西原。開幕と真逆の状況だが、ダメージは比較にならない。派手に後頭部から落下するだけでは飽き足らず、水の石切りさながら二回、三回と地面を跳ねた。
「終わりにしよう。これ以上は取り返しがつかなくなる」
成り行きで戦うことになったが、雅人に殺し合いをする気はなかった。
「……紛い物はどれだけ磨いても本物には敵わない、そういうことですか」
西原は若干ふらつきながら立ち上がった。その顔は怒りとも喜びともとれる複雑な表情をしていた。
「もはや無粋だ何だと気取る余裕もなくなりました。どんな手を使ってでも若、あなたを倒します」
西原は両の手のひらを重ね、雅人の方に向けた。最初に見せた鬼火を使う気だ。
「燃えてください」
手のひらから噴き出た炎が雅人を襲う。
「ぐぁぁぁー!」
操られた炎は目で見て避けられるものではなく、一瞬にして雅人を火だるまに変えた。
「若サマ!」
「危ねぇ!」
急展開に夏華が思わず飛び出すも、磐田に腕を掴まれて引き戻された。そばへ行くには炎の勢いが強すぎるのだ。火あぶりから鬼の力に目覚めた雅人。再び火あぶりにされ、今度こそ死んでしまうのか?
「勉強不足でしたね。ちゃんと扱い方を学んでいれば、私から鬼火を奪えたかもしれないのに」
熱さと痛みに我を失いそうな雅人だったが、不思議といまの西原の言葉だけははっきりと聞き取れた。そして多少なりとも頭を使えるほどには冷静さを取り戻した。
(鬼火を奪う? そんなことができるのか? でもどうやって?)
変解のスイッチは強い闘争心だった。精神を研ぎ澄ませ、力を振るうことに集中する。西原が特に道具を使っていない点から考えて、鬼火も変解と同じように心で操るのでは?
悠長に考えている暇はなかった。いくら強靭な鬼の身体でも、業火の中では長くはもたない。雅人は意を決し、身体にまとわりつく炎に全神経を集中させた。
「……いける」
徐々に苦痛が和らぎ、いつしか薄絹に触れたかのような心地よさすら感じるように。焼かれた肌も早くも回復し始めている。鬼火はいまや完全に雅人のものだ。
「…………」
西原が無言で跳躍。全体重を乗せた飛び蹴りで雅人に迫った。
雅人は手のひらを西原に向けた。そして先ほどの動きに倣って炎を放った。炎の渦、あるいは炎を纏った竜巻とでも言おうか。雅人が放ったそれは、西原のものよりはるかに巨大だった。
「これは!」
西原は跳躍中に攻撃から防御に切り替えた。だがその判断も空しく、炎に包まれて十メートルほど空に打ち上げられた。それから、一呼吸おいて落下。肩や腰を地面に打ち付けた。
「今度こそ終わりだ」
雅人は西原の全身にまとわりつく鬼火を消した。西原は落下と火傷でかなりのダメージを負ったが、命に別状はなかった。
「なぜとどめを刺さないのです?」
「僕にその気はない」
言いながら雅人は変解を解き、これ以上戦う意思がないことをアピールした。
「甘すぎます。私はあなたを裏切ったんですよ?」
「裏切られたとは思えなかった。口では上手く説明できないけど、その……」
磐田が助け舟に入る。
「横から失礼しやす。組長アンタ、若を鍛えるつもりで戦ったんじゃありやせんか?」
「は? 磐田さん、急に何を言い出すんです」
「アンタにその気がありゃあ、開幕の時点で勝負はついてたはずだ。なのにご丁寧に技を見せたり、殴り合いに付き合ったり、まるで組手みたいでしたぜ」
磐田の的確な指摘に、雅人はウンウンと繰り返しうなづいた。
「殺すだ何だって暴言も、若にやる気を出させるめに言ったんでしょ。あっしらみんな短くない付き合いだ。一思いに全部ぶちまけてくれやせんか?」
厳つい外見とは正反対の優しい説得。これに心を動かされたというわけでもなさそうだが、西原は妙に晴れ晴れとした顔で口角を上げた。
「買い被らないでください。私は本気で若を殺すつもりでしたよ。でなきゃ金本さんや化け物なんて使いません」
拉致からのリンチ、そして火あぶり。最初の騒動は殺意に満ち溢れていた。その後の襲撃も、精神に支障をきたすほど執拗で苛烈なものだった。
「いまの戦いだってそうです。最初の宣言通り、親父の名を汚す若を倒す気でいました。ですが同時に、私を倒して新たなヒーローになってほしいという願いもありました」
本気の殺意で襲っておきながら、雅人の勝利に期待する。いびつな愛情。少なからず死傷者も出ており、どう贔屓目に見ても美談には程遠い。
夏華は今回の一件に巻き込まれた一人として、はぁぁ~と長い溜め息をついた。それから西原に尋ねた。
「そんで、西原さんの願いは叶ったの?」
「ええ。感無量です」
西原は声を弾ませて答えた。興奮を抑えきれないようだ。
雅人は西原の意外な一面に困惑しつつも、ある意味自分のために憎まれ役になってくれたのだと解釈し、全てを水に流すことにした。
「じゃあこの件は終わりでいいよね?」
寝不足と戦闘疲れで身体が悲鳴を上げている。問題が片付いた以上、早く帰って眠りたかった。
「西原も早いとこ変解を解きなよ。適当に後始末して帰ろう」
「いいえ、まだ終わりではありません。不義理のけじめを取らせてもらいます」
そう言い終えた次の瞬間、西原の身体が消えた。新たに作り出した鬼火で、自身を焼き尽くしたのだ。
「なっ?」
あまりに唐突すぎて、三人は反応すらできなかった。状況を把握した時にはもう、足元に灰の山が積まれていた。
「えっ……西原さん、いまここに………えぇー?」
先代の亡骸を利用したうえ、その息子の命を狙った。確かにいくら組の長とはいえ、下の者に示しがつかない不義理ではあったが。
「身勝手が過ぎる。ワビ入れりゃあいいってモンじゃねぇだろ」
磐田は怒りの矛先に迷い、手のひらに拳を打ち付けた。
雅人には怒りも憎しみもなかった。ただ、身内を亡くした喪失感と、少しの罪悪感が胸を苦しめた。
「そもそも僕がもっとしっかりしていれば良かったんだ。そうすれば西原は組長になることも、鬼になることもなかったはず」
雅人の嘆きに磐田も怒りを鎮め、己の過去を悔やんだ。
「それで言ったらあっしこそ、二番手に拘るべきじゃありやせんでした。無理くり組長役を押し付けて、プレッシャーかけちまいやしたね」
二人は言葉を失い、ただじっと西原の遺灰を眺め続けた。どちらも心の中で、二十年近い西原との思い出を反芻していた。
夏華も二人の気持ちを汲んでしばらくは黙っていたが、やがて周囲を見回して沈黙を破った。
「はい、感傷に浸るのはここまで。早いトコ片付けないと、誰かにケーサツ呼ばれるよ」
墓石はへし折れ、地面は穴だらけ。嵐が過ぎた後よりも酷い有様だった。それでいて源二の墓だけは無傷なのが余計に性質が悪い。恐らく西原が細心の注意を払ったのだろうが、このままでは鬼頭組の悪評が広まりかねない。
「お、おう。じゃあ人を呼んできますんで、若たちはひとまずゴミ拾いでも」
磐田は巨体に似合わぬ猫背でそそくさと走り去った。
「我が親ながら、墓場から蘇ったフランケンみたいだね。見た人が気絶したらどうしよう」
夏華の軽口が聞こえていないのか、雅人はなおも下を向いたままだった。
「若サマ、気持ちはわかるけどさ、あんま考えすぎない方が良いよ。ぶっちゃけ西原さんは死にたがってたと思うし」
「え?」
雅人はビクリと反応した。
「あの人には鬼頭のおじ様が全てだったっていうか、若サマでも代わりにはならなかったっていうかさ。今日の話を聞いた限りだとそんな感じがしたんだ」
「そう……なのかな」
「勝負の最後に若サマが必殺技出したじゃない? 西原さんあの時、妙に嬉しそうな顔したんだよね」
夏華の推察が正しいとすれば、それは鬼火を操る雅人の成長を喜んでのことか、死んで源二のもとへ行けるためか、あるいはその両方か。
「だから死んだのは若サマのせいじゃないよ。西原さんだってきっとそう言うはず」
慰めの言葉が傷ついた心に染みる。
「……ありがとう。なんか吹っ切れた気がする」
モヤモヤと胸を締め付ける想いはまだ残るものの、会話ができる程度には回復した。
夏華は雅人の様子に内心では安堵しながら、したり顔で胸を張った。
「ふふん、連れてきて正解だったっしょ」
「素直に認めておく」
「それよかこの先が大変だよ。組長が突然いなくなったんだからさ」
結果のみを一言で言えば、組長の焼身自殺である。しかし鬼の存在を世間から隠すため、そこに至った経緯は迂闊に口外できない。また次の組長も早く決めねばならない。モタモタすれば組内外の混乱を招き、さらに警察やメディアにも目を付けられてしまうだろう。
「わかってる」
雅人は源二の墓を見つめ、強く答えた。
7
【九月五日 午前九時三十五分 鬼頭組本部 雅人の自室】
何の前触れもなく起きた組長の自殺というトラブルは、関連組織である諫早組の組長が前日に死亡したこともあり、三流ゴシップ誌が嬉々として陰謀説などをでっち上げた。しかし予想したほどの騒ぎにはならず、大衆は既に本件とは全く関係ない話題で盛り上がっていた。危惧していた組内部の混乱も、磐田と雅人の尽力により大事には至らなかった。
あの日、墓地の片付けを終えた雅人は、磐田経由で鬼頭組幹部に招集をかけた。そして西原の死と、自分が組を継ぐという意思を皆に伝えた。すると幹部たちは一様に驚き、雅人の決意を一笑に付した。源二が倒れた直後ならともかく、いまさら何の実績もない子供に用はないというのだ。だが磐田の強い推薦と、何よりかつての弱々しさが消えた雅人の相貌にただならぬものを感じ、一人、また一人と膝をついていった。いまや組の誰もが雅人を新組長と認めている。本日これから執り行う就任式も、万事問題なく進行するだろう。
「むぅ、馬子にも衣裳って言葉は嘘だね。服が立派すぎて、若サマの薄っぺらさが逆に目立っちゃってるよ」
姿見の前に立つ雅人を見て、夏華が残念そうに呟いた。
「……言われなくてもわかってる」
一世一代の大事な式典であるため、高級ブランドのスーツ一式が急ぎ用意された。しかし雅人がこれを着こなすには、社会人経験が圧倒的に足りていなかった。組織の長としての貫禄が皆無で、せいぜい紋付き袴を着るよりはマシといった程度の見栄えである。
「まるで七五三だね。千歳飴買ってこよっか?」
「うるさい」
余談だが、新組長就任に伴い、住居もアパートから再び組の本部へと移した。雅人の一人暮らしは結局半年も続かなかったことになる。幸い磐田が管理するアパートなので家賃や契約周りの面倒はなかったが、なぜか夏華まで一緒に引っ越してきた。理由は前回と同じく通学時間の問題らしい。アパート住まいの頃より五分ほど長くなるが、通学時間の問題らしい。
「でもさ、ホントに良かったの? 若サマが無理して組長にならなくても、パパがどうにかしたんじゃない?」
「うん、その方が組も上手く回るとは思う。だけど……」
雅人はネクタイを直しながら、いまの気持ちに最適な言葉を探した。
「だけど?」
夏華がオウム返しで発言を促す。
「西原への罪滅ぼし、なんて言うと格好つけすぎかな。でも僕が跡を継いでいたら今回みたいな展開にはならなかった。そう思うと、なんだか気が晴れないんだ」
今回の一件において雅人は被害者であり、倒した相手に責任や罪悪感を感じる必要はない。しかし兄同然だった西原の最期を思い返すと、どうしても後悔を伴う割り切れなさを感じてしまうのだった。
「それに親父の血の行方が気になる。もしまだ残ってるなら根こそぎ片付けないと」
源二の血はどこかの製薬会社に渡った可能性が高い。であれば一介の高校生に回収は不可能だ。この問題に関しては、反社とはいえ鬼頭組の組織力と権力が役に立つだろう。
「あとは自分のルーツに興味を持ったってのもある。荒神が鬼だけ、ましてや僕だけとは思えない。ほかにもいるなら会ってみたいし、種族としての歴史とか、色々なことを知りたい」
鬼頭組の基礎は室町時代から続く組織である。ほかにも似たような組織や古い歴史を知る人物などがいれば、向こうから組を尋ねてくるかもしれない。少なくともただの学生でいるよりかはずっと目立ち、荒神の情報も得やすいはずだ。
「ふ~ん、思ったよりちゃんとした理由があるんだ」
「最後のはついでみたいなものだけどね」
「まぁアタシ的には、ご飯作ってくれるなら組長でも何でもお好きにーって感じかな」
「まだ作らせる気か」
本部には家政婦も若手の組員もいるのに、なぜか食事の大半はいまも雅人が作ることになっていた。料理自体は趣味なので不満はない。だがそれがお前の役目だと言わんばかりに催促されると若干苛つく。
「だって若サマのご飯がイチバンおいしいんだもん」
唯一の特技を褒められて悪い気はしない雅人だったが、アパートでの暮らしを思い出して身構えた。
「その一言に乗せられて、お前の世話をやらされたからな。もう騙されないぞ」
「いやいや、ガチの感想よ? 別にチョロいとか思ってないかんね」
とりとめのない会話が続く。鬼となって死線を潜り抜け、組のトップになる覚悟も決めたが、雅人自身は冴えない高校生のまま。普段の態度や性格が変わるわけではなさそうだ。
「組長、そろそろお時間です」
廊下越しに若手組員の声が。どうやら就任式の準備が整ったらしい。
「よし、行くか」
「がんばってね、新組ちょー」
雅人は雑談で緩んだ顔を引き締め、部屋のドアを開けた。
『桃太郎は鬼を倒して幸せになりました』
『一寸法師も鬼を倒して幸せになりました』
僕のおとぎ話に夢はなかった。一攫千金を狙う英雄は登場せず、倒されて悪夢になることもなかった。
現実なんてこんなものだ。時代は二十一世紀。世界中に情報が溢れ、神秘の謎はモニター越しに丸裸にされる。
だけど世間がどれだけ否定しても、神や化け物は実在する。先入観を捨てて周りを見渡せば、意外とすぐそばにいるのかもしれない。ただの高校生だった僕がそうであるように。
僕は鬼頭雅人。情報だらけの社会に隠れ住む、現代の鬼。
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