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終章:窓の向こうでアンコール(6)

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「ちょっと用事思い出した。また寮で」
 荻野くんの返事を待たずに、降りてきたばかりの階段を駆け上がる。
 四階まで八十段ほど。運動不足の僕には、これだけで一苦労だ。

 肺に鞭を打ちながら階段を三回転し、最上階にたどり着いた。
 影が消えた方向に目をやって、床を蹴る。
 入学早々校則を破り、廊下を走った。

 ——モノクロ。
 ある一色だけで描かれた絵。
 七歳の秋から、僕の世界はモノクロだった。
 そこで使われていた唯一の色彩は、「上手い」。

 あの子は僕より絵が上手。
 僕はあの子より絵が下手。

 たったひとつの味気ない判断軸で、全てを理解していた僕。
 そんな僕の世界に、君が突然入り込んできた。

『私はすっごく好きだよ!』
『きれい!!』
『素敵!』
 加減を知らない君の声色をのせたとき、僕の世界に彩りが蘇った。

 四階の廊下を少し進むと、こじんまりとした中庭にたどり着いた。
 よく磨かれたガラスの向こう側、ベンチに座る後ろ姿が目に止まる。

 掃き出し窓を開けた途端、ソプラノ色の風が僕を包み込んだ。

 息を整えながら、ゆっくりとその背中に歩み寄る。
 両手で楽譜を持ち、清涼なメロディーを口ずさむ君。

 君は、夢中で歌っていた。
 ——だから、気づかなかった。
「何してるの?」
 斜め後ろから近づいてくる人の気配に。
 楽譜に黒い影が落ちたことで、君はすぐ後ろに人が立っていることを悟る。
 振り返ると、そこにはよく知った男の子。

 重力が、君の手から楽譜を奪い取った。
 君は立ち上がり、僕に温もりを伝えた。

 君の心臓が、僕を歌っていた。
 ぎゅっと抱きしめて、腕の中で君を描いた。




<完>
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みんなの感想(1件)

昭島瑛子
2023.05.24 昭島瑛子

自分の「好き」を胸を張って言えない。自分の「好き」は他人に比べると劣っているのではないかと思う。
SNSが普及していろいろな人の「好き」が可視化された今、このような思いを抱える人は決して少なくないのではないかと思います(私もその一人です)。

絵を描く少年が主人公なので、豊かな情景描写が中学生男子の目に映るものとして自然に受け止められます。
異なる境遇にいる少年と少女の心の交流や互いのすれ違い、新たな視点をくれる同性の友人、自分自身や親に向き合う勇気。
これぞ青春と呼べる要素が詰まった小説でした。

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