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第4章:三月のディスコード(2)

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 七年前の夏。冷房の効いた「年長さんのお部屋」。

 半数以上の「おともだち」は外へ出かけてしまっている中、チカちゃんと僕は室内に残って、クレヨンで色とりどりの絵を描いていた。
「ねえねえ、チカちゃん! つぎはあのきのえかこうよ!」
 パンダの絵を描き終えて所在無げにしているチカちゃんの肩を叩いて、窓の外を指差す。

「きれいだね。いこっか」
 室内の喧騒にかき消されてしまいそうな、か細い声。
 けれど、僕にはチカちゃんが乗り気だということがはっきりわかった。

「わーい!」
 僕は踊り出しそうな勢いで立ち上がり、チカちゃんの手を引く。
 チカちゃんは、困ったように「ちょっとまってよ」なんて言いながら腰を上げ、僕についてきた。

 ※ ※ ※

 五歳になる年の春から幼稚園に入った僕。
 初めの頃は気の合う友達の外遊びについていきつつも、徐々に、自分は画用紙の上にクレヨンを走らせているほうが心地よいのだと気がつき始めた。
 七月に入る頃には、友達が外に行ってもひとり室内に残って絵を描いている時間のほうが長くなっていた。

 チカちゃんが途中入園してきたのは、その頃だった。
 極度の人見知りらしく、自己紹介の時にみんなの前に出ることもできなかった。
 自由時間にはひとりぽつんと教室の隅で体育座りをしていた。
 そんなチカちゃんに、僕から声をかけた。
「ねえ、いっしょにおえかきしてあそばない?」

 それからの日々、チカちゃんと僕は二人で絵を描いて過ごすようになった。
 チカちゃんが外に行くのを怖がったから、初めの頃は室内で絵本のキャラクターやお互いの似顔絵を描くことが多かった。
 そのうち、チカちゃんは僕と一緒なら外に出てくれるようになって、中庭で草木や虫を描いて過ごした。

 入園初日、みんなの前で話せなくて、先生が代わりに自己紹介を行ったチカちゃん。
 そんなチカちゃんも、僕の前では少しずつ表情を見せてくれるようになった。

「いつも千佳ちかと遊んでくれてありがとう。千佳がね、シュウくんのおかげで幼稚園楽しいって」
 初めて会った時、チカちゃんのお母さんはそう言って僕にラムネをくれた。
 筒状のケースからコロコロと音を立てて飛び出す白い粒。
 コリっとした歯ごたえと程よい酸味に感動して、何度も「おいしい!」と叫んだ。
 僕の喜ぶ顔を見て柔らかく微笑んだおばさんは、それから僕に会うたびにラムネをくれるようになった。

 ランドセルを背負うようになっても、チカちゃんと過ごす日々は変わらなかった。
 ラッキーなことに、チカちゃんと僕は同じクラスで一年生になった。
 チカちゃんは、成長するにつれて少しずつ僕以外のクラスメートとも話せるようになっていたけれど、一番の仲良しが僕であることには変わりなかった。

 毎日の休み時間、僕らは飛ぶような勢いでクーピーをすり減らしては、お互いの作品を褒め称え合った。

 そんな僕らを見て担任の先生は、「二人とも将来はガハクだね」と言ってくれた。「ガハクってなんですか?」と聞くと、ガハクとは絵がとてもうまい人のことを指すのだと教えてくれた。それを聞いた僕らはハイタッチして喜んだ。

 休み時間だけじゃない。
 図工の時間、初めて描く水彩画に、僕ら二人は興奮していた。
 絵の具をたくさん組み合わせて、僕らは次々と新しい色を作り出した。
 チカちゃんが初めて優美な藤紫色を生み出した時、僕は感動して目が釘付けになった。
 ほんとうは一人一作なのに、先生に頼み込んで合作にさせてもらったこともあった。

 僕らは一心同体だった。
 チカちゃんと絵を描く日々が続いてほしかった。
 それ以外、何も要らなかった。

 ——だけど、その日は突然来た。
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