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第2章:胸の奥からクレッシェンド(12)

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 ※ ※ ※

 一月半ばのその日、僕が河川敷に到着して二十分ほど経っても、遥奏は来なかった。 
 いい加減僕の隣で歌っても何にもならないことに気がついたのか、音楽の先生が放課後も練習に付き合ってくれることになったのか。
 そんなことをぼんやり考えながら、僕はいつも通り河川敷の風景を観察し、デッサンを描き始めた。

 遥奏が現れたのは、僕が向こう岸に見える木の色を塗っていた時だ。
 いつものように、後ろからスケッチブックを覗き込まれた。
「やっほー、秀翔! 何描いてるの……うわー! 素敵!」
 絵を見た遥奏が、甲高い声を上げる。
 ポンポンポン、とリズミカルな音。両手をグーにして叩いているんだろう。

「うん、ありがとう」
 色遣いがいい感じに乗っていた僕は、スケッチブックから目を離さずに返事した。
「ねえねえ、私今日もここで歌うね!」
「どうぞ」
「やった! それと……」

 嫌な予感がして、視線を画用紙から遥奏に移動させる。
 そこで僕は、遥奏が大きな荷物を持っていることに気がついた。
 黒くて細長いメッシュのケースに包まれた何か。
「今日はひとつ秀翔にお願いがあるんだ!」
「ん?」

 えっとね、と言って、満面の笑みを讃える遥奏。黒いメッシュの物体をそっと芝生に降ろし、立てる。そして、ケースのファスナーを下ろし始めた。
「じゃっじゃーん!」
 大げさな効果音とともに遥奏が取り出したのは、
「電子ピアノ!?」
「そう!」
 で、お願い、というのは……。
「今日は秀翔に伴奏してほしいの!!」
 僕がノリノリで賛成する以外のリアクションを想定していないかのような口ぶりで、遥奏がピアノを僕に差し出した。

 ……いや、あの、
「僕、ピアノ、弾いたことないんだけど」
 ピアノを特別習っていなくても、小学校の頃に音楽室で先生がいない間に適当に弾いたことくらいはある人が多いだろう。
 一緒にふざけるような友達のいない僕には、そんな経験すらない。
「いいでしょ! ちょっとくらいさ!」
「だから、いいかどうかじゃなくて、弾けないんだって」
 仮に弾けたところで、弾きたいかどうかは別だけど。

「そんなお固いこと言わずに! 電子ピアノにはね、音源が登録されているの!」
 遥奏が僕の隣に座り、ピアノを膝の上に置いて操作し始めた。
「電源オンっと!」
 無意味な掛け声とともにスイッチを入れる遥奏。
 トランペット風の音色で短いファンファーレが鳴り、ピアノのあちこちが赤や青、黄色にチカチカと点灯した。

「えーっと、これだ!」
 遥奏が数字の書かれたボタンをいくつか押すと、伴奏が始まった。
 鳴るメロディに合わせて、鍵盤に赤い光が灯っては消えていく。
「機械が伴奏してくれるんだから、僕が弾く必要ないじゃん」
「もう、つれないこと言わないで!」
 そう言って、遥奏は僕に電子ピアノを押し付けてきた。

「今、色塗りの調子がいいんだよ。今日じゃなくてまた今度にしてくれない?」
 明日には忘れてくれることを期待してそう言ってみたけど、ダメだった。
「ううん! 絶対に今日がいいの!」
 絶対にって、どうしていきなり……。
 そう思ったけれども、こういう場面では僕が遥奏に流されるのがお決まりだ。
 今回も僕は諦めた。
  
 僕の返事を待たずに、いつも通り川の方へ歩いていく遥奏。
 そして、発声練習を終えると、振り返ってこう言った。
「じゃ、さっき私が押した曲で! 秀翔のタイミングで始めてね!」
 僕は仕方なく曲をスタートさせ、次々と現れては消える赤い光を目で追って、モグラ叩き気分で鍵盤を押した。
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