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第2章:胸の奥からクレッシェンド(9)

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「秀翔は、どうして絵を描くのが好きなの?」
 残り少ないチョコファッションを名残惜しそうに頬張りながら、遥奏が尋ねてきた。
「別に好きってわけじゃ……」
「ふーん、そっか。絵を描いてるのは、いつから?」
「さあ、河川敷の風景画を書き始めた時って意味なら、ほんと最近だよ」

 河川敷の風景画に限定しないのなら、ずっとずっと昔からではある。
 記憶上では幼稚園に通っていた頃にもクレヨンでいろいろ描いてはいたのだけど、それは他の幼稚園児だって同じ。
 堂々と胸を張って「幼稚園からずっと絵を描いていました!」と言えるほど、何かを積み重ねてきたわけではない。

「そうなんだー! 短い間でそんなに素敵な絵が描けるようになるって、すごいね!」
 僕の脳内で長々とつけられている脚注のことをもちろん知らない遥奏は、相変わらず全力で僕の絵を褒めてくる。
 初日に比べれば、この感じにも慣れてきた。

「私はさ、四歳の時から歌が好きなんだよね!」
 今度は自分のターン、とばかりに身の上話を始める遥奏。
 質問されるよりは楽なので、僕は黙って聞いていることにした。

「お母さんの友達の結婚式に行ったときにね、余興でプロのオペラ歌手の人が歌ってて。それ聴いて私すっごく感動して」
 両手で作ったグーを振り回しながら話す遥奏。
 あまりの勢いに、そのうち目の前のコーヒーカップをぶん殴るんじゃないかと不安になる。僕は、制服のワイシャツを二着しか持っていない。

「でさ、その人の歌聴いてたら、私も歌いたくなっちゃって、ステージの上に飛び出したの!」
 なんてやつだ……。
「あとでお母さんとお父さんにこっぴどく叱られたけどね。でも、その歌手さん優しくて、式が終わった後にね、自分が出しているCDをくれたんだ!」
 心から楽しそうに、自分の好きなことについて語る遥奏。
「それから毎日そのCDを聴いて部屋で歌っててさ。ときどき大声になりすぎて近所の人から苦情が来て、お母さんにまた叱られたりして」
 目の前の遥奏の人物像と完璧に一致するエピソード。僕にはその光景がありありと想像できた。

「そうなんだ」
 相槌を打ちながら、冷たいグラスを持ち上げる。
「小さい時から、好きなことをずっと続けてるんだね」
 そう言って僕は、オレンジジュースを一口すすった。
 氷が溶け始めていて、さっきより少し味が薄い。
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