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第3章 スライム5兆匹と戦う男編
第37話 つながってる
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第37話 つながってる
ふと、腰に吊るした杖に手が触れて、レンジは我に返った。
「やってみる」
そう言って杖を握ると、魔法言語を詠唱し、宙に向かって振り下ろした。
「ボルトッ」
塔の上にレンジの声だけがむなしく響いた。魔法は発動しなかった。
予想できたことだ。
セトカもライムも落胆した様子はなかった。
魔法、特に攻撃魔法は基本的に対象物があってはじめて発動する。なにもない空中に火を放ったり、雷を走らせたりすることはできない。
そういう魔法もあるにはあるが、それは攻撃魔法ではなく、『火を出現させる』というような別種の魔法なのだ。見世物のようなその手の魔法は、階梯も威力も低い。
今、塔の上に立つレンジの視界のはるか彼方にある、青い海のようなスライムの群れを、レンジは攻撃対象として認識できてない。景色の一部だ。
いくら超範囲魔法とは言え、遠すぎるのだった。
魔法使いならば、それが感覚的にわかる。だからライムもレンジにここで超範囲魔法の一撃を促すことはなかった。
あそこに、宿敵がいるのに、手が出せない。レンジは歯噛みする思いだった。
ライムがポンとその肩を叩く。
「ま、ちゃんと計画立ててやるから。気負わないで」
「……わかった」
レンジは息を吐いて杖を腰に戻した。
「それにしても、この王都の人たちは、どうして逃げないんだ」
レンジには、巨大な街があの青い群れに飲み込まれる未来が、ありありと見えた気がした。
「王都は高い城壁に守られてるから、大丈夫だってみんな思ってる。そう信じたいのねぇ。王都のなか、人でいっぱいだったでしょ。国内のほかの街や村の人が、こぞって王都に逃げ込んできてるの。おかげで人口がパンパン。食糧危機が起きかねない状況なの。とても難民たちを受け入れる余裕はないわ」
ライムの説明に、レンジは疑問をていした。
「実際のところ、どうなんだ。城壁は」
「無理ね。他の国で、レプトティルサと同じくらいの高さの城壁が攻略されてる。攻略って言うか、無数のスライムがただただ押し寄せてきて、仲間の背中を踏みながら壁を乗り越えてくるのよ」
「じゃあ、このレプトティルサの命運も、風前の灯ってことか」
「そうはさせない」
団長がすぐに言った。
「我々が間に合った以上、そうはさせない。……そして、その我々を間に合わせたのは、あの湿地帯なんだ」
団長は、はるかかなたを指さした。
「今スライムたちは、あそこにある湿地帯に足をとられている」
「ジョン王の湿地帯って言ってたやつか」
団長とライムが、夕焼けに染まりつつある青い群れを、複雑な表情で見ていた。
「おととし、ジョン王の失政60周年のお祭りがあったんだ」
団長がふいに、そんな話をしはじめた。レンジは、「へえ」と言った。
「王国で一番大きなお祭りだ。レプトティルサでも、3日間のあいだ、みんな仕事を休んで祭りに繰り出すんだ」
「あんな弔旗なんかじゃなくてぇ、町中に綺麗な旗が掲げられてね。あんたにも見せてあげたかった」
団長とライムが、昔を懐かしむように言った。
「失政だなんて、そんな無礼な祭りがあっていいのかよ。王様だろ」
「そこが、ジョン王の懐の広いところよぉ。今から3代前、60年前の王様、ジョン王がねぇ。隣の国から騙されて、湿地帯を買ったの。なんの役にも立たない土地を、大金で買ってしまったってことで、ジョン湿地王なんて呼ばれてるの」
「そうだな。そうして、王様は国中の笑いものになった。その失政の教訓を忘れないようにって、失政何十周年なんてお祭りが、今に残っている」
団長は、そう言ってから、うつむいたかと思うと、肩を震わせ始めた。
レンジは最初、笑っているのかと思った。けれど、彼女は涙をこぼしていた。
ライムが言った。
「私たちは、そう聞かされて育ったの。でもねぇ。大人になってから調べてみると、史実は、それと少し違っていたことを知ったの」
「違うって?」
「60年前、北の隣国があの湿地帯を開墾しようという計画を立てていたのぉ。大規模な工事をしてね。その動きを知ったジョン王が、大金を出して湿地帯を買い取ったのが真相。いざ自分たちで開墾しようとしたら、とても国庫では賄いきれないほどの大金が必要だとわかってぇ。計画は頓挫。結局湿地帯のまま放置されることになって、王様はみんなの笑い者」
「それが史実か。ほとんど変わらないじゃないか」
「でも、違うのぉ。湿地帯を買った本当の理由は別にあったの。私は、当時の宮廷魔術師が残した記録を読む機会があった。そこには、ある占い師がからんでいたの」
「当時、南の国から来た高名な女性占い師が、賓客としてレプトティルサに滞在していたそうだ」
団長が涙を拭いて、顔をあげた。
「ある時、占い師が、ジョン王に進言した。あの湿地帯を開墾させてはならないと。湿地帯のままにしておかなくてはいけない、と王に迫ったのだそうだ」
「そう。占い師は言ったわ。あの湿地帯が、いつかこの国を守るんだって。王様はその言葉を信じて、湿地帯を買い、開墾せずに捨て置いた。当時の王弟は、大貴族と組んで王様を追い落とすために、その失政を喧伝したの」
「王弟は、人々に王をジョン湿地王と呼ばせ、失政の記念行事だと言って、お祭りを開催した。馬鹿にする目的だったのに、王様は来賓としてお祭りに現れ、国民に深々と頭を下げたそうだ」
「ジョン王は、一言もいいわけしなかったわ。やがて体調を崩して退位し、王位は王弟に禅譲された」
「国中に笑いものにされたジョン王の、その決断が今、スライムの足を遅らせ、我々を間に合わせた」
団長はもう一度涙をぬぐった。
「ジョン王は今でもみんなに笑われている。だれも知らない。自分たちを今、彼のその失政が守っているってことを」
「でもね。失政の周年行事のお祭りは、今でも人々を笑顔にしている。王様の人柄ね。みんな笑いながら、ジョン王のことを慕っていたの。だから、死後何十年経っても、祭りは続いている。そのあと王位に就いた王弟の名前なんて、みんな知らないわ」
「私たちは、間に合ったんだ! あの湿地帯のおかげで! 絶対に、この国を救ってみせる。未来を信じ、一言もいいわけせずに、後世に王国の危機を託して死んでいったジョン王のためにも」
団長がそう言って、レンジの手を取った。レンジはその言葉に込められた熱に、体を突き動かされるような気がした。
「ひとつだけ、訊きたいんだ」
「なんだろうか」
「その、王様に進言した占い師の名前は伝わっているのか?」
団長は、ライムを見た。ライムは額をトントンと指で叩きながら、自信なさそうに言った。
「たしか、クレ……、クレイなんとかだったような」
レンジはうつむいて、つぶやいた。
「クレメンタインだ」
「あ、そうだ。そう。クレメンタインよ。って、どうしてあなたが知ってるの?」
顔を上げたレンジの目尻にも、涙が浮かんでいた。
「だめだ。俺、もう涙腺がどうかしてるわ。こんな泣くやつだったっけ俺……」
そう言いながら、レンジはボロボロと涙をこぼした。
「どうしたのだ、レンジ殿」
「クレッ……、クレメンタインは、俺の家の近所に住んでたんだ。南の国の元宮廷占い師だって言ってた。俺はほとんど記憶がないけど、もうろくした婆さんだったよ。婆さんは、俺のじいさんに言った。俺が、いずれ世界を救う英雄になるって。俺、ボケた婆さんの世迷い事だと思ってた。っでも、じいさんは信じた。信じて、俺にボルトを教えた。いつかきっと、世界を救う助けになるからって。そんで、ギムレットに俺のことを頼んだ。いつかその時がきたら、手助けをしてやってくれって。俺、こんなっ、い、いろんなものに、助けられて、ここで、こうしてる。し、信じらんないよ。全部つながってる。つながって、おれを。おれをいま……」
レンジの手を、団長と、ライムが握った。
3人とも、涙を流していた。
地平線の彼方に、夕日が沈んでゆき、その最後の光が3人の横顔を照らしていた。
その夜のことだった。
レンジは、王宮の奥にある、来賓用の豪奢な部屋のベッドで一人、眠りについていた。
真夜中、その部屋の扉の前で、ひとりの女性が立ち止り、ノックをした。女性は、どこか不釣り合いな、扇情的な下着を身に着けていた。
絡み合った運命の歯車が、かちりとはまり、動き出す瞬間だった。
夢を見て眠るレンジは、まだ知らない。
このたった一夜で、すべてが終わるということを。
ふと、腰に吊るした杖に手が触れて、レンジは我に返った。
「やってみる」
そう言って杖を握ると、魔法言語を詠唱し、宙に向かって振り下ろした。
「ボルトッ」
塔の上にレンジの声だけがむなしく響いた。魔法は発動しなかった。
予想できたことだ。
セトカもライムも落胆した様子はなかった。
魔法、特に攻撃魔法は基本的に対象物があってはじめて発動する。なにもない空中に火を放ったり、雷を走らせたりすることはできない。
そういう魔法もあるにはあるが、それは攻撃魔法ではなく、『火を出現させる』というような別種の魔法なのだ。見世物のようなその手の魔法は、階梯も威力も低い。
今、塔の上に立つレンジの視界のはるか彼方にある、青い海のようなスライムの群れを、レンジは攻撃対象として認識できてない。景色の一部だ。
いくら超範囲魔法とは言え、遠すぎるのだった。
魔法使いならば、それが感覚的にわかる。だからライムもレンジにここで超範囲魔法の一撃を促すことはなかった。
あそこに、宿敵がいるのに、手が出せない。レンジは歯噛みする思いだった。
ライムがポンとその肩を叩く。
「ま、ちゃんと計画立ててやるから。気負わないで」
「……わかった」
レンジは息を吐いて杖を腰に戻した。
「それにしても、この王都の人たちは、どうして逃げないんだ」
レンジには、巨大な街があの青い群れに飲み込まれる未来が、ありありと見えた気がした。
「王都は高い城壁に守られてるから、大丈夫だってみんな思ってる。そう信じたいのねぇ。王都のなか、人でいっぱいだったでしょ。国内のほかの街や村の人が、こぞって王都に逃げ込んできてるの。おかげで人口がパンパン。食糧危機が起きかねない状況なの。とても難民たちを受け入れる余裕はないわ」
ライムの説明に、レンジは疑問をていした。
「実際のところ、どうなんだ。城壁は」
「無理ね。他の国で、レプトティルサと同じくらいの高さの城壁が攻略されてる。攻略って言うか、無数のスライムがただただ押し寄せてきて、仲間の背中を踏みながら壁を乗り越えてくるのよ」
「じゃあ、このレプトティルサの命運も、風前の灯ってことか」
「そうはさせない」
団長がすぐに言った。
「我々が間に合った以上、そうはさせない。……そして、その我々を間に合わせたのは、あの湿地帯なんだ」
団長は、はるかかなたを指さした。
「今スライムたちは、あそこにある湿地帯に足をとられている」
「ジョン王の湿地帯って言ってたやつか」
団長とライムが、夕焼けに染まりつつある青い群れを、複雑な表情で見ていた。
「おととし、ジョン王の失政60周年のお祭りがあったんだ」
団長がふいに、そんな話をしはじめた。レンジは、「へえ」と言った。
「王国で一番大きなお祭りだ。レプトティルサでも、3日間のあいだ、みんな仕事を休んで祭りに繰り出すんだ」
「あんな弔旗なんかじゃなくてぇ、町中に綺麗な旗が掲げられてね。あんたにも見せてあげたかった」
団長とライムが、昔を懐かしむように言った。
「失政だなんて、そんな無礼な祭りがあっていいのかよ。王様だろ」
「そこが、ジョン王の懐の広いところよぉ。今から3代前、60年前の王様、ジョン王がねぇ。隣の国から騙されて、湿地帯を買ったの。なんの役にも立たない土地を、大金で買ってしまったってことで、ジョン湿地王なんて呼ばれてるの」
「そうだな。そうして、王様は国中の笑いものになった。その失政の教訓を忘れないようにって、失政何十周年なんてお祭りが、今に残っている」
団長は、そう言ってから、うつむいたかと思うと、肩を震わせ始めた。
レンジは最初、笑っているのかと思った。けれど、彼女は涙をこぼしていた。
ライムが言った。
「私たちは、そう聞かされて育ったの。でもねぇ。大人になってから調べてみると、史実は、それと少し違っていたことを知ったの」
「違うって?」
「60年前、北の隣国があの湿地帯を開墾しようという計画を立てていたのぉ。大規模な工事をしてね。その動きを知ったジョン王が、大金を出して湿地帯を買い取ったのが真相。いざ自分たちで開墾しようとしたら、とても国庫では賄いきれないほどの大金が必要だとわかってぇ。計画は頓挫。結局湿地帯のまま放置されることになって、王様はみんなの笑い者」
「それが史実か。ほとんど変わらないじゃないか」
「でも、違うのぉ。湿地帯を買った本当の理由は別にあったの。私は、当時の宮廷魔術師が残した記録を読む機会があった。そこには、ある占い師がからんでいたの」
「当時、南の国から来た高名な女性占い師が、賓客としてレプトティルサに滞在していたそうだ」
団長が涙を拭いて、顔をあげた。
「ある時、占い師が、ジョン王に進言した。あの湿地帯を開墾させてはならないと。湿地帯のままにしておかなくてはいけない、と王に迫ったのだそうだ」
「そう。占い師は言ったわ。あの湿地帯が、いつかこの国を守るんだって。王様はその言葉を信じて、湿地帯を買い、開墾せずに捨て置いた。当時の王弟は、大貴族と組んで王様を追い落とすために、その失政を喧伝したの」
「王弟は、人々に王をジョン湿地王と呼ばせ、失政の記念行事だと言って、お祭りを開催した。馬鹿にする目的だったのに、王様は来賓としてお祭りに現れ、国民に深々と頭を下げたそうだ」
「ジョン王は、一言もいいわけしなかったわ。やがて体調を崩して退位し、王位は王弟に禅譲された」
「国中に笑いものにされたジョン王の、その決断が今、スライムの足を遅らせ、我々を間に合わせた」
団長はもう一度涙をぬぐった。
「ジョン王は今でもみんなに笑われている。だれも知らない。自分たちを今、彼のその失政が守っているってことを」
「でもね。失政の周年行事のお祭りは、今でも人々を笑顔にしている。王様の人柄ね。みんな笑いながら、ジョン王のことを慕っていたの。だから、死後何十年経っても、祭りは続いている。そのあと王位に就いた王弟の名前なんて、みんな知らないわ」
「私たちは、間に合ったんだ! あの湿地帯のおかげで! 絶対に、この国を救ってみせる。未来を信じ、一言もいいわけせずに、後世に王国の危機を託して死んでいったジョン王のためにも」
団長がそう言って、レンジの手を取った。レンジはその言葉に込められた熱に、体を突き動かされるような気がした。
「ひとつだけ、訊きたいんだ」
「なんだろうか」
「その、王様に進言した占い師の名前は伝わっているのか?」
団長は、ライムを見た。ライムは額をトントンと指で叩きながら、自信なさそうに言った。
「たしか、クレ……、クレイなんとかだったような」
レンジはうつむいて、つぶやいた。
「クレメンタインだ」
「あ、そうだ。そう。クレメンタインよ。って、どうしてあなたが知ってるの?」
顔を上げたレンジの目尻にも、涙が浮かんでいた。
「だめだ。俺、もう涙腺がどうかしてるわ。こんな泣くやつだったっけ俺……」
そう言いながら、レンジはボロボロと涙をこぼした。
「どうしたのだ、レンジ殿」
「クレッ……、クレメンタインは、俺の家の近所に住んでたんだ。南の国の元宮廷占い師だって言ってた。俺はほとんど記憶がないけど、もうろくした婆さんだったよ。婆さんは、俺のじいさんに言った。俺が、いずれ世界を救う英雄になるって。俺、ボケた婆さんの世迷い事だと思ってた。っでも、じいさんは信じた。信じて、俺にボルトを教えた。いつかきっと、世界を救う助けになるからって。そんで、ギムレットに俺のことを頼んだ。いつかその時がきたら、手助けをしてやってくれって。俺、こんなっ、い、いろんなものに、助けられて、ここで、こうしてる。し、信じらんないよ。全部つながってる。つながって、おれを。おれをいま……」
レンジの手を、団長と、ライムが握った。
3人とも、涙を流していた。
地平線の彼方に、夕日が沈んでゆき、その最後の光が3人の横顔を照らしていた。
その夜のことだった。
レンジは、王宮の奥にある、来賓用の豪奢な部屋のベッドで一人、眠りについていた。
真夜中、その部屋の扉の前で、ひとりの女性が立ち止り、ノックをした。女性は、どこか不釣り合いな、扇情的な下着を身に着けていた。
絡み合った運命の歯車が、かちりとはまり、動き出す瞬間だった。
夢を見て眠るレンジは、まだ知らない。
このたった一夜で、すべてが終わるということを。
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