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そしてとうとう――夜会がはじまる。
「フン……さすがに鬱陶しいな」
「ジオ様、そのようにお顔を歪めては」
「構わん。見るに堪えない程ではないだろう」
「それは勿論ですが……」
学園の大ホールへと続くこの道に至るまで、ありとあらゆる生徒が私達を見ていた。
今や悪い意味で注目されてしまうことが多いジオ様だったが、私が隣にいることで悪感情より驚愕の視線を向けられるばかりだ。
これはこれでよいのだが、ここまで判を押したように皆同じ反応だと、そんなに意外なペアだったかと首を傾げてしまう。
私とジオ様の交流は確かに図書館ばかりで行われていたが、目撃した人はいるはずだし……いや、だけどそこまで親交があるとも思われていなかったのかもしれない。
ちらりと隣を見上げる。
前髪を半分編み込む形で流し、そのまま長く編んだ洒落たプラチナブロンド。
片耳だけ見えるピアスは、赤みがかった濃い橙の一粒魔石の魔道具。薔薇型にカットされたそれはまるで秋薔薇のフリュイテのよう。
黒を基調とした礼装は彼にしては珍しく華やかさより重厚さを感じさせるもので、常とはまた違った魅力を引き立てる。
私の視線に気づき、口の片端を持ち上げて笑うその様は、彼本来の輝きに溢れていた。
「ジオ様、今宵のあなた様もとても素敵です」
「そうか。お前も周囲が呆ける程に美しいぞ。我が眼に間違いはなかったな、さすが私の秋薔薇」
「おっしゃらないでください……」
私の装いは、ジオ様と対になるよう用意したものだ。
準備する期間が短かったので全てを一から仕立てたものではないが、互いの色を多分に含んだ衣装になっている。
私が身につけているのは、シンプルなビスチェイプのドレスだ。
夜会にしては珍しく、純白に金を垂らしたようなごく淡い色。薄い金糸で薔薇の刺繍が全面に施され、ウエストの片側には共布の白薔薇が。そこから斜めにドレープの効いた濃い青のシルクが垂らされているという、少し変わったデザインである。
腰を越えるまで伸ばした黒髪は片側だけ編み込まれた上でシンプルにまとめられ、彼と同じく片耳だけ見える形に。
そこから覗くのは同じ薔薇のデザインだが、深く澄んだ色合いの青いピアス。どんな意図で選ばれた色なのか、理解してしまうと少々気恥ずかしい。
「急ぎ作らせた甲斐があったものだ。お前の肌と髪なら、大抵の色は似合う」
「そこはあなた様の色が合うと言っていただきたいのですが」
「ハッ……そんな当然のことまで、言わねばならんか?」
組んでいた腕をすっと離され、代わりに腰を抱かれる。
それだけで周囲からの視線が更に強くなり、ジオ様は小さく笑った。
再び自信を取り戻したこの方は、今日もひどく眩しい。
彼の心が完全に折れる前に間に合ってよかった。
そうなってしまっていたら、私は彼女達に同情の一欠片も残すことができなかっただろう。慈愛も慈悲も何もなく、持てる力全てで……
「ライラ」
「……どうか、いたしましたか」
「微笑め。私のために、最も美しく」
いつの間にか強張っていた私の身体をゆるりと撫で、そう言い放つ。
甘やかな声は当然のごとく傲慢な響きを以て、しびれる程に私を支配しようとする。
この方が正しく、私が私欲で力を使ったとしても後悔することはないのだと、安心してよいと力強く伝えてくれるのだ。
身を預けるように少し寄りかかっても、完璧なエスコートは崩れない。
どころか更に密着してしまって、大胆なことをしてしまった自分を恥じながらも抜け出せない。
「私は今、とても調子が良い」
「それは喜ばしいことで」
「お前が私に気概を取り戻させたからだ」
彼の支えとなるのが、私の望み。
最も大切な時にそれを果たすことができて、私もとても嬉しい。
「自慢にもならんが、今の私は噂を笑って聞き捨てられる程力に満ちている。だからこうして立っているだけでも、周囲に疑問が湧くのだ。〝落伍者のはずの王子がなぜ〟〝あれが本当に弱者の姿なのか〟と」
「……そのように、ご自分を貶めるのはやめてください」
「評価は評価だ。しかしそれは覆る。馬鹿の一つ覚えで声高に叫ぶのではなく、圧倒的に見せつけることによって」
「わたくしがお傍にいることは、その一助となっておりますか?」
「大いに。皆の憧憬であるお前は存在そのものが力だ。今宵は私の花として咲け」
憧憬、などと言っても私に直接話しかけてくる人は少ない。大勢が私に憧れていると噂しながらも、声をかけるのはためらわれると一歩引く。
それが寂しいと思ったことはあったが……今はそれでよかったのだと感じた。
ひとりで過ごすことが多くなければ、ジオ様とこうしているまでの時間を重ねられなかった。
私を最高の淑女と認めてくださるこの方が私を『花』と称するのならば、私は相応に在るべきだ。
この方を〝弱者〟などと二度と呼ばせない。完璧な淑女として。
決意を新たに微笑んだ私を見てから、ジオ様は真っ直ぐ前を向いてホールへ足を踏み入れた。
ざわり、と。空気自体が揺れたのは錯覚ではないだろう。
集まった視線から、不快な程熱く煮詰まった悪意が溢れる。かと思えばそれは瞬く間に様々な形へ分裂した。
ホールの外と同じく驚愕。そして困惑、不審、疑惑、嫉妬……
私は辺境伯令嬢だが、幼い頃から一年の半分は王都の別邸にいる。中央の貴族と接する機会が多ければ、これくらいの感情の読み取りはできた。
私もジオ様も、それらに反応することはない。
「見ろ、ライラ。誰もがお前の美しさに呑まれている」
「あら、違います。ジオ様のご立派なお姿に見惚れているのですよ」
「確かに。誰のエスコートにも応じたことがなかったお前の手を取った男としては、私は充分立派であるか」
腰を折って内緒話をしかけてくるジオ様。
いかにも親密そうな私達を見て、誰もがあっけに取られているという訳ではなかった。
「――ヒメネス様!? 何をしておられるのですか、そんな男と!」
鋭い声が、ホール内の様々な思惑を全て攫って響く。
ゆっくりと視線を向ければ、そこには濃い緑のドレスに身を包んだ見事な赤髪の少女がいた。
無意識に握り込みそうになった手をどうにか留めて、私はことさら丁寧に微笑みを浮かべる。
「ごきげんよう、レイル・アイズ侯爵令嬢」
礼を取っても相手は苛立たしげにこちらを睨み付けるだけで、返礼もない。
こうなるだろうとは想像できていたのであまり気にせず、私は言葉を続けた。
「そのように大きなお声を出されることがありましたか?」
「ありましたか、だと? あなた程の人がそのようなこと……っ! その厚顔で卑怯な男に慎みなく寄り添うなど、恥を知れ!」
いつかの折、幼い頃から親しんだ男性的な口調が直らないと恥ずかしそうにしていた彼女。
あの時とは全く違う形相で詰め寄る彼女の瞳は、自らの正義と憤りに曇っているように見えた。
「アイズ様。あなたはご自分が何をおっしゃっているのか、おわかりですか」
誰かと言い争うことは、したことがない。
今までそのような機会はなかったし、私は誰かに恥と思われる行動を取ったこともなかった。
しかしこの場は違う。彼女達がジオ様を貶め続けるなら、私は声を上げることを厭わない。
私が反論しなければ周囲はそれを肯定だと思い込む。そのようなことを、決して許せるはずがないのだ。
「わかっているから言っている! ヒメネス様には失望……」
「口を閉じなさい」
決して張り上げてはいない。
しかし私の声は波及するかのごとくホールに落ちた。
「わたくしも、あなたに同じ言葉をお返しします」
「…………ぇ」
「〝アイズ家はいかなる時も礼節に悖ることは決してしない〟と、騎士団総長たるあなたの御祖父様がおっしゃっておられましたのに……あなたの言葉はあまりにも礼を欠いています」
「で、ですが私はその男がこの場にいることが……!」
「アイズ様。〝その男〟とは、よもや自国の王族に向けた言葉ではありませんね?」
再び押し黙った侯爵令嬢へ、私はジオ様に寄り添ったまま視線を向ける。
彼女と目が合わないのは、少しは自制心が働いているのだろうか。それともまさか私が微笑んだままだからか。
私が微笑むのは、幼い頃からいつもそうしていたからだ。
他と違う力を持つ者は社会から弾かれる。現当主である父から生きるために常に微笑めと教育されてきた。
だから私はどんな時も微笑む。微笑みは盾であり、矛である。
「この学園内では身分の貴賤で物を語ることが禁じられています。ですがそれは身分を忘れてよいという意味ではありません。わかりますか?」
「……は、い」
「不躾で礼を失した物言いは身分関係なく当人はおろか周囲を不快にさせ、あなたがそのような発言をする人間なのだと思わせます。それもわかりますね?」
「おっしゃる通り、ですが」
「わかっているのならなぜ、アンブロジオ殿下に対してそのような物言いができるのですか? 王位継承権第二位にしてこの場で最も年長者の王族に、非常に無礼な振る舞いをした理由を、聞かせてください」
侯爵令嬢は数度口を開き、また引き結ぶ。
彼女とは直接関わりがないジオ様はこの場は参加するつもりはないのだろう。つまらなそうに鼻を鳴らした。
「その男は……」
「どなたでしょう」
「っ、アンブロジオ殿下はセイに破れたのにも関わらず学園から去ることもなく涼しい顔で居座っています! おかしいでしょう!? 敵前逃亡の上約束を守らないなんて恥の上塗りだ!」
「レイルさんの言うとおりです! おかしいですシェライラ様っ」
問答に割って入ったのは、真っ白な髪の少女。
彼女はドレスのスカートを翻し、侯爵令嬢を守るように私の前に立った。
「……ごきげんよう、ミルリエ様」
「あっ、ごきげんよう……じゃなくて! レイルさんを責めるのは間違ってます! わたし、知ってるんです。あの人はセイくんに意地悪ばっかり言うくせに、勝負もしない卑怯者だって!」
珍しく平民から抜擢された当代聖女、ミルリエ。
入学してすぐ、品格のある振る舞いを教えてほしいと私に直接頼んできて、マナーのレッスンやお茶会を何度も行った。
私を最も慕ってくれた彼女は教えを全て忘れたように、可憐な声でジオ様を貶めるばかり。
あの頃のきらきらと宝石のように輝いていた瞳は、もう見られない。
彼に対する発言への怒りはあっても、同時に悲しみもある。
彼女達はこれほどまでに変わってしまった。変えられて、しまったのだ。
こんな風に真っ直ぐなのに、その方向を違えてしまった。ある種、純粋であるがゆえに。
「あなた方の言い分は理解しました。ところで、その勝負とは何のお話でしょうか」
「知らないんですか? だからシェライラ様……かわいそう」
そして彼女達もまた、私を哀れんでいる。
私が普段あまり人と交流しないから、卑怯な男に騙されこの場にいるのだと。
「まさか、あなた方が言っているのは……定期試験でアンブロジオ殿下とキシュタールさんが勝負をしたという、あり得ないお話のことですか?」
「そうだ! ヒメネス様、知っていてなぜ……」
「質問に質問を返すようで申し訳ないのですが、なぜそれが勝負とまかり通っているのですか? 殿下はその試験期間中、東部の国境にある城塞へ視察に行かれていたのに」
「え……?」
聖女が呆けた声を上げるが、拾う必要もない。
むしろそれを知らずに勝負と言っていたことにこちらが呆けたいくらいだ。
「当然ながら、殿下はそれを公務として学園に申請されていました。そしてあなた方の試験結果が出たずいぶん後に戻られて、後日試験を受けられていますよ。学年が違うからご存知ありませんでしたか?」
「だ、だけどどうせ大した点じゃ」
「アンブロジオ殿下、総合点はいくつでいらっしゃいましたか?」
「そうだな、世界史の年号をひとつ間違えたが……それ以外は全て正解している。確か598点だな」
「そんな……嘘だ! 後日の試験なら誰かに正解を教えてもらったに決まって……」
「学園の試験問題は常に試験用と予備用で二種作られている。教師にでも聞けばすぐわかることだ」
さらりとそう告げたジオ様を、今度は侯爵令嬢も揃って呆然と見上げる。
一般科目は百点満点で六教科。それは一年から三年まで全て変わらない。そこに騎士や魔術士などの専攻科目が加わり成績が評価されるのだ。全生徒の前に掲示されるのは、一般科目のみ。
確か彼女達が喜んでいたキシュタールの点数は、数十点は低かったと記憶している。
「ちなみに殿下の専攻である騎士科と副専攻の魔術士科の成績もトップです。これも別で試験を受けられていますが」
更に何か言いつのられることがないように付け足すと、ジオ様は楽しそうに低く喉を鳴らした。
おそらくその時ジオ様は〝弱者の考え〟に支配されていたのだろう。
自ら弁明することもなく、彼の評価は大きな声に呑まれて消えていった。
全ての評価をこのような点数だけで表するのは不充分だが、試験の勝負に関してはこれでよい。
私の眩しい方が、再び正しく認められる機会がやってきたのだから。
「そも、私はその〝勝負〟とやらを申し込まれたことはない。それすら疑いの声を上げるのなら、いっそ影に問うてもよいが」
「かげ……?」
「直系王族には必ず影がつく。あれらは真に危険が迫った時にしか姿を現さんが、昼夜問わず常に近くに控えている」
リディシオン王国フォルトス王家の影。
その存在は王家最後の盾であり、対象がその地位に相応しいか見極める監視者でもあるとされている。
それなりに長く続いている貴族家であれば、噂程度でも聞いたことがあるだろう。
影がいるならば、王族は道を踏み外さない。逆に言えば、踏み外した王族は影により王族でいる価値なしと国王に報告される。
そうして愚者に権力を与えないシステムを作ったからこそ、フォルトス王家は興国から変わらず続いているのだ。
「影は王族に決して嘘をつけない誓約の呪術を施されている。どのように些末で滑稽な問いにも真摯に答えるだろう。ただし、影の言を疑うことは誓約の神に泥をかける行為ゆえ、もし聞きたいのであれば心しろ」
聖女は影を知らなかったようで戸惑っているが、侯爵令嬢は顔色を無くし立ちすくんでいる。
まさか影まで使って反論してくるとは思わなかったのだろう。今までの彼は、何を言われても苦い顔をするだけだったから。
どれだけ侮辱しても誇りを汚しても、キシュタールに負けた弱者なら構わない。そう考えていたのだろうか。
「真に〝勝負〟をしたいのであれば、まず了承を得よとお前達が担ぐ者に伝えろ。私は正当な申し出から逃げたりしない」
ジオ様は淡々と、自らの持つものを行使して理性的に言葉を滑らせている。
全てただの事実を述べるだけ。しかしその堂々とした様に、周囲が少しずつ視線の種類を変えていく。胡乱げなそれから、どこか納得するようなものへと。
輝きを取り戻したジオ様本来の力に、皆が引き寄せられていく。
今までがおかしかったのだ。学園のトップにいたジオ様にあれほど悪意ある噂が立ち、それが広まっても誰も擁護しないなど。
もしやそこまでキシュタールが操作して……いや、さすがに穿ち過ぎか。いくらキシュタールの魔力量が学園で一二を争うと言われていても、学園内全ての生徒に術を施すなんて……
当のキシュタールはどこにいるのだろう。常ならば彼女達と共にいて、自らを抜きにしてジオ様と対峙させるなんて場面は覚えている限りなかったが。
護身用の魔道具は発動すれば所持者に伝わる。私の感覚では、まだ私に対して何の術も行使されていない。
「さて……良い月夜に、無粋な真似をしたな。ひどい余興であった。皆に詫びよう」
何も言えなくなってしまった侯爵令嬢と聖女を一瞥してから、ジオ様が周囲にそう声をかける。
まるでキシュタールでおかしくなってしまった前の学園が戻ってきたような空気に、私は思わずため息を漏らした。
だが、まだ無粋な余興は終わらないらしい。
「フン……さすがに鬱陶しいな」
「ジオ様、そのようにお顔を歪めては」
「構わん。見るに堪えない程ではないだろう」
「それは勿論ですが……」
学園の大ホールへと続くこの道に至るまで、ありとあらゆる生徒が私達を見ていた。
今や悪い意味で注目されてしまうことが多いジオ様だったが、私が隣にいることで悪感情より驚愕の視線を向けられるばかりだ。
これはこれでよいのだが、ここまで判を押したように皆同じ反応だと、そんなに意外なペアだったかと首を傾げてしまう。
私とジオ様の交流は確かに図書館ばかりで行われていたが、目撃した人はいるはずだし……いや、だけどそこまで親交があるとも思われていなかったのかもしれない。
ちらりと隣を見上げる。
前髪を半分編み込む形で流し、そのまま長く編んだ洒落たプラチナブロンド。
片耳だけ見えるピアスは、赤みがかった濃い橙の一粒魔石の魔道具。薔薇型にカットされたそれはまるで秋薔薇のフリュイテのよう。
黒を基調とした礼装は彼にしては珍しく華やかさより重厚さを感じさせるもので、常とはまた違った魅力を引き立てる。
私の視線に気づき、口の片端を持ち上げて笑うその様は、彼本来の輝きに溢れていた。
「ジオ様、今宵のあなた様もとても素敵です」
「そうか。お前も周囲が呆ける程に美しいぞ。我が眼に間違いはなかったな、さすが私の秋薔薇」
「おっしゃらないでください……」
私の装いは、ジオ様と対になるよう用意したものだ。
準備する期間が短かったので全てを一から仕立てたものではないが、互いの色を多分に含んだ衣装になっている。
私が身につけているのは、シンプルなビスチェイプのドレスだ。
夜会にしては珍しく、純白に金を垂らしたようなごく淡い色。薄い金糸で薔薇の刺繍が全面に施され、ウエストの片側には共布の白薔薇が。そこから斜めにドレープの効いた濃い青のシルクが垂らされているという、少し変わったデザインである。
腰を越えるまで伸ばした黒髪は片側だけ編み込まれた上でシンプルにまとめられ、彼と同じく片耳だけ見える形に。
そこから覗くのは同じ薔薇のデザインだが、深く澄んだ色合いの青いピアス。どんな意図で選ばれた色なのか、理解してしまうと少々気恥ずかしい。
「急ぎ作らせた甲斐があったものだ。お前の肌と髪なら、大抵の色は似合う」
「そこはあなた様の色が合うと言っていただきたいのですが」
「ハッ……そんな当然のことまで、言わねばならんか?」
組んでいた腕をすっと離され、代わりに腰を抱かれる。
それだけで周囲からの視線が更に強くなり、ジオ様は小さく笑った。
再び自信を取り戻したこの方は、今日もひどく眩しい。
彼の心が完全に折れる前に間に合ってよかった。
そうなってしまっていたら、私は彼女達に同情の一欠片も残すことができなかっただろう。慈愛も慈悲も何もなく、持てる力全てで……
「ライラ」
「……どうか、いたしましたか」
「微笑め。私のために、最も美しく」
いつの間にか強張っていた私の身体をゆるりと撫で、そう言い放つ。
甘やかな声は当然のごとく傲慢な響きを以て、しびれる程に私を支配しようとする。
この方が正しく、私が私欲で力を使ったとしても後悔することはないのだと、安心してよいと力強く伝えてくれるのだ。
身を預けるように少し寄りかかっても、完璧なエスコートは崩れない。
どころか更に密着してしまって、大胆なことをしてしまった自分を恥じながらも抜け出せない。
「私は今、とても調子が良い」
「それは喜ばしいことで」
「お前が私に気概を取り戻させたからだ」
彼の支えとなるのが、私の望み。
最も大切な時にそれを果たすことができて、私もとても嬉しい。
「自慢にもならんが、今の私は噂を笑って聞き捨てられる程力に満ちている。だからこうして立っているだけでも、周囲に疑問が湧くのだ。〝落伍者のはずの王子がなぜ〟〝あれが本当に弱者の姿なのか〟と」
「……そのように、ご自分を貶めるのはやめてください」
「評価は評価だ。しかしそれは覆る。馬鹿の一つ覚えで声高に叫ぶのではなく、圧倒的に見せつけることによって」
「わたくしがお傍にいることは、その一助となっておりますか?」
「大いに。皆の憧憬であるお前は存在そのものが力だ。今宵は私の花として咲け」
憧憬、などと言っても私に直接話しかけてくる人は少ない。大勢が私に憧れていると噂しながらも、声をかけるのはためらわれると一歩引く。
それが寂しいと思ったことはあったが……今はそれでよかったのだと感じた。
ひとりで過ごすことが多くなければ、ジオ様とこうしているまでの時間を重ねられなかった。
私を最高の淑女と認めてくださるこの方が私を『花』と称するのならば、私は相応に在るべきだ。
この方を〝弱者〟などと二度と呼ばせない。完璧な淑女として。
決意を新たに微笑んだ私を見てから、ジオ様は真っ直ぐ前を向いてホールへ足を踏み入れた。
ざわり、と。空気自体が揺れたのは錯覚ではないだろう。
集まった視線から、不快な程熱く煮詰まった悪意が溢れる。かと思えばそれは瞬く間に様々な形へ分裂した。
ホールの外と同じく驚愕。そして困惑、不審、疑惑、嫉妬……
私は辺境伯令嬢だが、幼い頃から一年の半分は王都の別邸にいる。中央の貴族と接する機会が多ければ、これくらいの感情の読み取りはできた。
私もジオ様も、それらに反応することはない。
「見ろ、ライラ。誰もがお前の美しさに呑まれている」
「あら、違います。ジオ様のご立派なお姿に見惚れているのですよ」
「確かに。誰のエスコートにも応じたことがなかったお前の手を取った男としては、私は充分立派であるか」
腰を折って内緒話をしかけてくるジオ様。
いかにも親密そうな私達を見て、誰もがあっけに取られているという訳ではなかった。
「――ヒメネス様!? 何をしておられるのですか、そんな男と!」
鋭い声が、ホール内の様々な思惑を全て攫って響く。
ゆっくりと視線を向ければ、そこには濃い緑のドレスに身を包んだ見事な赤髪の少女がいた。
無意識に握り込みそうになった手をどうにか留めて、私はことさら丁寧に微笑みを浮かべる。
「ごきげんよう、レイル・アイズ侯爵令嬢」
礼を取っても相手は苛立たしげにこちらを睨み付けるだけで、返礼もない。
こうなるだろうとは想像できていたのであまり気にせず、私は言葉を続けた。
「そのように大きなお声を出されることがありましたか?」
「ありましたか、だと? あなた程の人がそのようなこと……っ! その厚顔で卑怯な男に慎みなく寄り添うなど、恥を知れ!」
いつかの折、幼い頃から親しんだ男性的な口調が直らないと恥ずかしそうにしていた彼女。
あの時とは全く違う形相で詰め寄る彼女の瞳は、自らの正義と憤りに曇っているように見えた。
「アイズ様。あなたはご自分が何をおっしゃっているのか、おわかりですか」
誰かと言い争うことは、したことがない。
今までそのような機会はなかったし、私は誰かに恥と思われる行動を取ったこともなかった。
しかしこの場は違う。彼女達がジオ様を貶め続けるなら、私は声を上げることを厭わない。
私が反論しなければ周囲はそれを肯定だと思い込む。そのようなことを、決して許せるはずがないのだ。
「わかっているから言っている! ヒメネス様には失望……」
「口を閉じなさい」
決して張り上げてはいない。
しかし私の声は波及するかのごとくホールに落ちた。
「わたくしも、あなたに同じ言葉をお返しします」
「…………ぇ」
「〝アイズ家はいかなる時も礼節に悖ることは決してしない〟と、騎士団総長たるあなたの御祖父様がおっしゃっておられましたのに……あなたの言葉はあまりにも礼を欠いています」
「で、ですが私はその男がこの場にいることが……!」
「アイズ様。〝その男〟とは、よもや自国の王族に向けた言葉ではありませんね?」
再び押し黙った侯爵令嬢へ、私はジオ様に寄り添ったまま視線を向ける。
彼女と目が合わないのは、少しは自制心が働いているのだろうか。それともまさか私が微笑んだままだからか。
私が微笑むのは、幼い頃からいつもそうしていたからだ。
他と違う力を持つ者は社会から弾かれる。現当主である父から生きるために常に微笑めと教育されてきた。
だから私はどんな時も微笑む。微笑みは盾であり、矛である。
「この学園内では身分の貴賤で物を語ることが禁じられています。ですがそれは身分を忘れてよいという意味ではありません。わかりますか?」
「……は、い」
「不躾で礼を失した物言いは身分関係なく当人はおろか周囲を不快にさせ、あなたがそのような発言をする人間なのだと思わせます。それもわかりますね?」
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「わかっているのならなぜ、アンブロジオ殿下に対してそのような物言いができるのですか? 王位継承権第二位にしてこの場で最も年長者の王族に、非常に無礼な振る舞いをした理由を、聞かせてください」
侯爵令嬢は数度口を開き、また引き結ぶ。
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「その男は……」
「どなたでしょう」
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問答に割って入ったのは、真っ白な髪の少女。
彼女はドレスのスカートを翻し、侯爵令嬢を守るように私の前に立った。
「……ごきげんよう、ミルリエ様」
「あっ、ごきげんよう……じゃなくて! レイルさんを責めるのは間違ってます! わたし、知ってるんです。あの人はセイくんに意地悪ばっかり言うくせに、勝負もしない卑怯者だって!」
珍しく平民から抜擢された当代聖女、ミルリエ。
入学してすぐ、品格のある振る舞いを教えてほしいと私に直接頼んできて、マナーのレッスンやお茶会を何度も行った。
私を最も慕ってくれた彼女は教えを全て忘れたように、可憐な声でジオ様を貶めるばかり。
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彼女達はこれほどまでに変わってしまった。変えられて、しまったのだ。
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「知らないんですか? だからシェライラ様……かわいそう」
そして彼女達もまた、私を哀れんでいる。
私が普段あまり人と交流しないから、卑怯な男に騙されこの場にいるのだと。
「まさか、あなた方が言っているのは……定期試験でアンブロジオ殿下とキシュタールさんが勝負をしたという、あり得ないお話のことですか?」
「そうだ! ヒメネス様、知っていてなぜ……」
「質問に質問を返すようで申し訳ないのですが、なぜそれが勝負とまかり通っているのですか? 殿下はその試験期間中、東部の国境にある城塞へ視察に行かれていたのに」
「え……?」
聖女が呆けた声を上げるが、拾う必要もない。
むしろそれを知らずに勝負と言っていたことにこちらが呆けたいくらいだ。
「当然ながら、殿下はそれを公務として学園に申請されていました。そしてあなた方の試験結果が出たずいぶん後に戻られて、後日試験を受けられていますよ。学年が違うからご存知ありませんでしたか?」
「だ、だけどどうせ大した点じゃ」
「アンブロジオ殿下、総合点はいくつでいらっしゃいましたか?」
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「そんな……嘘だ! 後日の試験なら誰かに正解を教えてもらったに決まって……」
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更に何か言いつのられることがないように付け足すと、ジオ様は楽しそうに低く喉を鳴らした。
おそらくその時ジオ様は〝弱者の考え〟に支配されていたのだろう。
自ら弁明することもなく、彼の評価は大きな声に呑まれて消えていった。
全ての評価をこのような点数だけで表するのは不充分だが、試験の勝負に関してはこれでよい。
私の眩しい方が、再び正しく認められる機会がやってきたのだから。
「そも、私はその〝勝負〟とやらを申し込まれたことはない。それすら疑いの声を上げるのなら、いっそ影に問うてもよいが」
「かげ……?」
「直系王族には必ず影がつく。あれらは真に危険が迫った時にしか姿を現さんが、昼夜問わず常に近くに控えている」
リディシオン王国フォルトス王家の影。
その存在は王家最後の盾であり、対象がその地位に相応しいか見極める監視者でもあるとされている。
それなりに長く続いている貴族家であれば、噂程度でも聞いたことがあるだろう。
影がいるならば、王族は道を踏み外さない。逆に言えば、踏み外した王族は影により王族でいる価値なしと国王に報告される。
そうして愚者に権力を与えないシステムを作ったからこそ、フォルトス王家は興国から変わらず続いているのだ。
「影は王族に決して嘘をつけない誓約の呪術を施されている。どのように些末で滑稽な問いにも真摯に答えるだろう。ただし、影の言を疑うことは誓約の神に泥をかける行為ゆえ、もし聞きたいのであれば心しろ」
聖女は影を知らなかったようで戸惑っているが、侯爵令嬢は顔色を無くし立ちすくんでいる。
まさか影まで使って反論してくるとは思わなかったのだろう。今までの彼は、何を言われても苦い顔をするだけだったから。
どれだけ侮辱しても誇りを汚しても、キシュタールに負けた弱者なら構わない。そう考えていたのだろうか。
「真に〝勝負〟をしたいのであれば、まず了承を得よとお前達が担ぐ者に伝えろ。私は正当な申し出から逃げたりしない」
ジオ様は淡々と、自らの持つものを行使して理性的に言葉を滑らせている。
全てただの事実を述べるだけ。しかしその堂々とした様に、周囲が少しずつ視線の種類を変えていく。胡乱げなそれから、どこか納得するようなものへと。
輝きを取り戻したジオ様本来の力に、皆が引き寄せられていく。
今までがおかしかったのだ。学園のトップにいたジオ様にあれほど悪意ある噂が立ち、それが広まっても誰も擁護しないなど。
もしやそこまでキシュタールが操作して……いや、さすがに穿ち過ぎか。いくらキシュタールの魔力量が学園で一二を争うと言われていても、学園内全ての生徒に術を施すなんて……
当のキシュタールはどこにいるのだろう。常ならば彼女達と共にいて、自らを抜きにしてジオ様と対峙させるなんて場面は覚えている限りなかったが。
護身用の魔道具は発動すれば所持者に伝わる。私の感覚では、まだ私に対して何の術も行使されていない。
「さて……良い月夜に、無粋な真似をしたな。ひどい余興であった。皆に詫びよう」
何も言えなくなってしまった侯爵令嬢と聖女を一瞥してから、ジオ様が周囲にそう声をかける。
まるでキシュタールでおかしくなってしまった前の学園が戻ってきたような空気に、私は思わずため息を漏らした。
だが、まだ無粋な余興は終わらないらしい。
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