大地に落ちる潮の思い出

浅黄幻影

文字の大きさ
上 下
8 / 13

しおりを挟む
「知識に裏付けされた技術」について先生は話していた。優れた技術者は皆、自分の手元で起こることの理論を知り、その上で操作しているのだという。なまじ勘と経験を持って世渡り上手な者もいるが、それだけでは乗り越えられないことがある。知識のないものはより優れた者にはなれはしない、と。

 それで兄と同様、先生は私も高校に行かせてくれた。幼い頃に厳しい道を選んだためもあり、地元の公立でもっともよいところへ通うことが許された。田舎の私立などよりずっといい普通高校だった。工業や商業高校、専門学校への進学も話には出ていたけれど、先生は「即戦力だけではない知識」も大事にするように言った。
「何事も基礎ができていないと、後々遠回りをすることになる。何か一つの技術にだけ特化して三年間を訓練して、さて、それがあまり自分に合っていない、不得意だとなると、これはとんでもない空振りになる。出戻りをして、また別のことを一から勉強しなくてはいけない。特化した技術は強いが、今すぐ無理にそうすることはない。それよりも、高校で習う一般的な語学や数学を幅広く、それほど深くなくとも知っておきなさい。人生は長い、学べるときに学べ」
 その言葉に従い、私は普通科に進学した。毎日一時間半も自転車をこぐことになったけれど、これに不満はなかった。バスを使うとなれば相当なお金がかかる。もちろん先生には高校の授業料を払ってもらっているのだから、私の感謝は尽きなかった。高校での時間は他の誰とも変わらない時間を送り、何人もの友人に恵まれた。

 その頃になると、先生もだいぶお年を召してきていた。元より、私たちの面倒を見るには年をとっていたのだけれど、急に老け込んだ感があった。力強さと静けさを漂わせていた頃とは違った。それでも、枯れつつ細くなる身体からは、ときおり稲妻のように私や子供たちを貫く覇気を持っていた。
 私塾では、もう私のような年の者は一人も学びに来なくなり、私にしてもいつまでも子供の立場ではなかった。それまではだいぶ年長な兄貴分だったが、先生の下でも大人として彼らに接した。そのようにして、平日の夕方からはほとんどを指導と家での家事に費やした。夜になってやっと、手が空いて勉強にかかれるという具合だった。

 休日になると、ときどきは遊びに出ることもあった。新しい友と出会い、あちこちに遊びにも出た。私も実際は一人の子供だったので、この新しい世界との出会いは大人へ向かう大切な機会だった。遊びに行くといってもかわいいもので、たいていは隣街に映画を見にいくか、田舎に入ってきたばかりの珍しい食べ物や飲み物を口にするくらいだった。見たばかりの映画の真似をしてコーヒーを飲み、「お忍びだ」と冗談を言ったこともある。(ローマや銀座とは雲泥の差だった)

 一度、友人と海に行ったことがある。同じようにグループで来ている知らない女の子を引っかけようという話だったが、覚えている限り誰も声をかけたものはいなかった。最初の時点で私は冗談だろう、この連中には無理だなと思っていたし、浜の人混みを眺めているだけでも刺激的だった。しかしこの小さな海への旅は、女の子の水着姿以上に私に大きなものを残した。海の美しさだった。
 私はそれまで生きた本物の海というものを見たことがなかった。写真では見たことがあったけれど、ずっと周囲を山に囲まれた内陸暮らしの私には新鮮であり衝撃だった。
 今でこそ交通の便がよくなり、自家用車も普及して誰でも海を知っている。磯の香りは鼻をつくほどのもので、これを一年中吸って暮らしている人がいること、海と陸との温度差でいつも風が吹いていることなど、内陸の人間には信じられない世界があるのだと言葉にならない思いがこみ上げた。浜辺で波打ち際を歩いたときは、砂混じりの海水が上ってきては足に絡み、ときには膝下まで砂まみれにした。波がこんなに砂まみれだとは、少し考えればわかるだろうに、それさえまったくわかっていなかった。
 海は広いということは知っていたけれど、ただ広いものではなかった。細部に多くの不思議なことと現実とを宿した世界だった。たった一日いただけで、知れば知るほど海は広くて深いものだと思い知らされた。

 そして私は海と世界に恐怖した。海はこれほどまでに広いのに、私がいる世界の小さな部分に過ぎなかった。それから長いこと、波の音が耳の中で響き続けていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

佐寺奥 黒幸
現代文学
 しがない一人ぼっちの公務員。協調性のない人間が淘汰される社会への反抗。ワニの王国。  そしてある日、マルは鰐になった。

天穹は青く

梅林 冬実
現代文学
母親の無理解と叔父の存在に翻弄され、ある日とうとう限界を迎えてしまう。 気付けば傍に幼い男の子がいて、その子は尋ねる。「どうしたの?」と。 普通に生きたい。それだけだった。頼れる人なんて、誰もいなくて。 不意に訪れた現実に戸惑いつつも、自分を見つめ返す。その先に見えるものとは。

〈社会人百合〉アキとハル

みなはらつかさ
恋愛
 女の子拾いました――。  ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?  主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。  しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……? 絵:Novel AI

その男、人の人生を狂わせるので注意が必要

いちごみるく
現代文学
「あいつに関わると、人生が狂わされる」 「密室で二人きりになるのが禁止になった」 「関わった人みんな好きになる…」 こんな伝説を残した男が、ある中学にいた。 見知らぬ小グレ集団、警察官、幼馴染の年上、担任教師、部活の後輩に顧問まで…… 関わる人すべてを夢中にさせ、頭の中を自分のことで支配させてしまう。 無意識に人を惹き込むその少年を、人は魔性の男と呼ぶ。 そんな彼に関わった人たちがどのように人生を壊していくのか…… 地位や年齢、性別は関係ない。 抱える悩みや劣等感を少し刺激されるだけで、人の人生は呆気なく崩れていく。 色んな人物が、ある一人の男によって人生をジワジワと壊していく様子をリアルに描いた物語。 嫉妬、自己顕示欲、愛情不足、孤立、虚言…… 現代に溢れる人間の醜い部分を自覚する者と自覚せずに目を背ける者…。 彼らの運命は、主人公・醍醐隼に翻弄される中で確実に分かれていく。 ※なお、筆者の拙作『あんなに堅物だった俺を、解してくれたお前の腕が』に出てくる人物たちがこの作品でもメインになります。ご興味があれば、そちらも是非! ※長い作品ですが、1話が300〜1500字程度です。少しずつ読んで頂くことも可能です!

イケメンにフラれた憂さ晴らしにおっさん上司とヤっちゃったOLの話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ガラスの世代

大西啓太
ライト文芸
日常生活の中で思うがままに書いていく詩集。ギタリストがギターのリフやギターソロのフレーズやメロディを思いつくように。

処理中です...