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第三章 続 魔女と天使の腎臓

食べて、寝て、セックスして。そうやって私達は生きている

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「……」

「……」

 一般病棟に移った事で、私は一つの事実に確証を持つ事が出来て安堵の息を漏らした。なんだ、やっぱり臓器移植による記憶の転移なんて嘘っぱちだと。一般病棟の個室のベッドでごろ寝する事数十分。十日ぶりにお見舞いにやって来たお母さんを見ながらそう思う。

 実年齢よりかは幾分か若く見えるその顔を見た瞬間、私の脳に十日ぶりの油が注がれた。良かった。私はちゃんとこいつを許せていない。こいつへの殺意はしっかり残っている。その事実が嬉しくて嬉しくて堪らない。

「久しぶり」

 このまま無言でい続けるのも気分が悪い為、私の方から声をかけてみた。

「久しぶり。元気そうね」

「まぁねー。お母さんの顔を見た瞬間、イライラで力が湧いて来ちゃったし」

 淡々と挨拶を返すお母さんに軽口を叩いてみたものの、お母さんの反応は酷く冷めていた。哀れむような目線で私の事を見下している。しかし。

「ちなみに先生から聞いてると思うけど、右目はほぼ失明だってさ。暗いか明るいかくらいしか認識出来ないの。お母さんに殴られたのが決定打になったのかもね」

 そんな嫌味を付け加えると、お母さんの表情に罪悪感のような物が浮かんだのだから笑えてくる。十日前の気迫が嘘のようだ。ていうか、今でもあの日の殴り合いは嘘か幻でも見ていたんじゃないかと思っている。……まぁ、殴り合いって言うには私が一方的に殴られ過ぎている気がしないでもないけれど。

「今日はあのガイジ連れて来てないんだね」

「外で看護師さんに見てもらってるわ。あなた、アスタの事が嫌いみたいだし」

「お、やるなお主。褒めてつかわす。でもそれだとまだ70点かな。お前も来なくなってようやく80点。お前ら一家が全員死んで初めて100点だよ」

「……」

「わかったら帰れ」

「……そうね」

 素直に頷き、扉に足を向けるお母さん。

「二度と来んじゃねえぞー」

 私はそんなお母さんの背中に別れの挨拶を投げたものの。

「それは無理よ。あなたのお母さんなんだから」

 反吐が出そうな答えに鳥肌が立った。だから私は立て続けに彼女に暴言を浴びせる事にした。

「きも。まだ母親ヅラかよ。あんな事の後でよくそんな事言えるよね。私の事大好きかよ。殺してやりたいとか思わないわけ?」

 彼女に対する悪意は、一度吐き出すと拍車がかかって止まらなくなる。

「言っておくけど私は本気だよ。退院して、リハビリも終わったら真っ先にてめえらをぶっ殺す。文句ないでしょ? それをわかった上で私に移植を受けさせたんだから」

 私の宣戦布告にお母さんが返事を返したのは、それから数秒程の沈黙が過ぎた後だった。

「……もう、大好きじゃなくなった」

「……」

「あんな事を言われて、どうやってあなたの事を好きになれって言うの。私は今のあなたを好きになれない。お父さんだってそうよ。殺してやりたいかはともかくとして、あなたを酷い目に合わせてやりたいって思う気持ちが、間違いなく私の中にはある。あなたに仕返しがしたくてたまらない」

「いいじゃん。やれよ」

「……」

 病室の扉に向きかけたお母さんの足が、私の方へと向き直した。すると彼女は何を思ったのだろう。私のベッドに手を伸ばし、折り畳み式のベッドテーブルを組み立てて行く。

「何してるの?」

 彼女の不可解な行動を問いただしてみると、お母さんは冷めた声色で「仕返し」とだけ呟いた。こうして組み立てられたベッドテーブルの上に、お母さんは肩からぶら下げた大きなエコバッグを乗せる。そして。

「ふざけてんのかてめえ」

 お母さんがエコバッグから取り出したそれらを見て、私はお母さんに毒気づいた。お母さんがエコバッグから取り出した物。それはケーキ屋さんの箱と、一目で高価な事が窺える瓶に入ったリンゴジュースだったからだ。

「ふざけてない。今日から病院食以外も食べられるんでしょ?」

「惚けてんじゃねえよ。これのどこが仕返しだクソババア」

「……」

 と、その時。お母さんの手が唐突に私の顔目掛けて伸びて来た。その瞬間、十日前の映像が私の脳裏を駆け抜け、私は反射的に両手を構えて顔と首を庇ってしまった。しかし両手を構えてから約十秒。私の体に、十日前のような痛みは走らない。顔は叩かれていないし、首だって締められていない。そりゃそうだ。だってお母さんは暴力を振るう為に腕を伸ばしてなんかいなかった。

「……だから、何の真似だよクソババアッ!」

 私は、私の事を優しく抱きしめていたお母さんを突き放した。

 息が上がる。懐かしい気持ちだ。無限に怒りが湧き出る憎悪の塊。家族への殺意がなくなっていない何よりの証明。この場に包丁の一つでも転がっていれば、私は一切の迷いも躊躇いも捨ててこのババアに切り掛かっただろう。

「何の真似って、さっきから何度も言ってるじゃない。仕返しだって」

 私に向かって余裕の表情を浮かべる彼女が、憎くて憎くてたまらない。自分はこんなにも冷静なのに、どうしてあなたはそんなに怒っているの? と、馬鹿にされている気分だ。

 お母さんは私に突き飛ばされた肩を手ではたきながら、説教でもするように口を開いた。

「十代のあなたにはまだわからないかも知れないけどね、人ってどれだけ反抗期が酷くても、思春期が過ぎてホルモンバランスが落ち着いて来ると、昔の自分が嘘のように親の事が嫌いじゃなくなって来るのよ。中高生の頃は、親とお出かけする姿を誰かに見られるのが恥ずかしかったのに、大人になると親と二人でお出かけする事に何の抵抗も持たなくなる。それどころか、ふと反抗期の頃の自分を思い出して胸が痛くなったりもするの。「あー、あの時の私って何でお母さんにあんな酷い事をしちゃったんだろう」って」

 そう語るお母さんの表情に敵意は感じられなかった。私への敵意を失ったと言うよりも、例えるなら序盤の敵と遭遇したレベル99の勇者のような虚しさを醸し出している。レベル1のスライムを見るように、どこまでも空虚な上から目線で話しかけてくる。

「私もね。あなた程じゃないけれど、思春期の頃はそれなりにお母さんに酷い事を言ったものよ。それで、四十を過ぎた今でも反抗期の頃を思い出して、胸が痛くなる。でも、おかげでわかった。これが反抗期の子供に出来る唯一の仕返しなんだって。……イヴ。私は今のあなたが大嫌い。だからこれからのあなたを好きになる事にした。あなたにどれだけ酷い仕打ちを受けても、私は最後まであなたの親として尽くして行くわ。大人になったあなたが結婚して、お母さんになった時。ふとした瞬間に今日の事を思い出して胸を痛めてくれる、そんな優しい女性に育ってくれるように。そうやって大人になったあなたが苦しんでくれれば、それがお母さんの復讐になるから」

 そこまで言って、お母さんは私に背中を向けた。言いたい事は全て言い終えたらしい。

「じゃあね。今日の所は素直に帰ってあげる」

 お母さんはそそくさと部屋を立ち去ろうとするものの、私はまだ彼女を帰すわけにはいかなかった。

「待てよ」

 逃げるように去ろうとする彼女の背中を引き止める。

「この生ゴミ邪魔なんだけど」

 ベッドテーブルに置かれたケーキとリンゴジュースを指差しながら、それらの処分を命令した。……が。

「人様からのお見舞い品にそんな事言うもんじゃないの。いらないなら私がいなくなった後で自分で捨てなさい。それじゃ」

「あ、ちょっと!」

 結局お母さんは私の制止を振り切りながらこの部屋を後にした。

「……誰が食うか」

 私はベットに横になり、スマホを取り出しながら時間が過ぎ去るのを待った。

「……」

 ソシャゲのスタミナを消費しながら一時間が過ぎた。

「……」

 YouTubeを巡回しながら一時間が過ぎた。

「……」

 SNSやネットニュースに目を通しながら一時間が過ぎた。

「……」

 布団を頭まで被って、ただただぼーっとしながら一時間が過ぎた。そして。

「……っ」

 その刺激に耐えきれず、ガバッと勢い良く布団をめくった。

 午後四時を過ぎた部屋の中は、窓から差し込む夕日ですっかりオレンジ色に染まっていた。オレンジ色の淡い光が私に暖かさを感じさせる。……いや、こんな光に惑わされるまでもなく、この部屋は空調のお陰で常に快適な暖かさを維持していた。この部屋は元から暖かいのだ。

 生クリームの主成分である乳脂肪は、10℃から急激に溶け始める。それでも最初の一二時間は保冷剤が持ち堪えてくれたのだろうけれど、時間の経過で保冷剤が効果をなさなくなった今、生クリームは室温程度の暖かさにも耐える事が出来ない。

「ふざけんな……っ」

 空気中に溶け出した甘い匂いが、私の鼻腔に浸入する。そして。

「……」

 私はケーキの箱に手を伸ばした。無論、それは食べる為ではない。両手で挟み、握り潰す為。原形がなくなるまで潰した後は、ベッドの隣に置かれたゴミ箱に投げ捨てる為。そう自分に言い聞かせながら、私はケーキの箱に手を伸ばした。

「……」

 伸ばしたはずなのに、私は両手で掴んだこの箱を潰す事が出来ずにいた。腕力が足りないわけではない。いくら筋力が衰えていると言っても、こんな紙製の箱も潰せない程の非力がどこにある。こんな箱、ほんの少し力を込めるだけで簡単に潰せるはずなのに。

「……」

 なのに何故だろう。何故私はこの箱を潰さない。箱を潰して投げ捨てたい私の理性とは反対に、私の指先はケーキの箱を開いてしまった。

「……」

 ゴクリと、思わず生唾を飲み込んだ。どうって事はない。それはただの反射であり、ただの生理現象に過ぎない。動物は食べ物を認識すると、唾液腺から唾液が分泌されるように出来ている。動物は口の中に液体成分が溜まると、嚥下を誘発されて飲み込むように出来ている。私は食べ物を認識した事で唾液が分泌され、唾液が増えたせいで反射的に飲み込んでしまった、それだけの事なのだ。

 箱の中には五種類のスイーツが入っていた。苺だけではなく、大粒のマスカットや大切りのオレンジなどがふんだんに乗せられた果物のショートケーキ。熊の形にデコレーションが施された、カップ入りのチョコレートケーキ。一口では食べきれない程の巨大なシュークリーム、層と層の間に瑞々しく輝くフルーツソースを塗りたくられたミルククレープ、卵と牛乳の甘味が濃縮されているのが一目でわかる黄金色のプリン。

「……」

 全部。全部私の好きだったケーキだ。糖尿病を発症する前の私がケーキ屋さんの前を通る度に、駄々をこねながらお母さんにねだり続けたケーキ達。数年もの間、決して口にする事が許されなかった甘味の塊。……だからこそ。

「……」

 これを食べてはいけない。誰があの女の思惑になんて乗るものか。私は最後の理性を振り絞り、ケーキの箱を両側から押し潰した。

「……」

 押し潰せた、筈だ。ほんの数センチではあるけれど、確かに私はケーキの箱を押し潰す事が出来た。ほれ見ろ。その衝撃でショートケーキが倒れた。後一息だ。もう少し力を込めるだけでこの箱はぺちゃんこになり、中のケーキはただのゴミになる。……でも。

「……あ」

 倒れたショートケーキのせいで、私の人差し指に生クリームが付着した。私の人差し指が、ぬめりとベタつきを携えた純白の衣に覆われる。

「……」

 やめろ。

「……」

 何を考えている。

「……」

 捨てろ。

「……」

 拭け。

「……」

 さっさと拭け。服でもシーツでも枕でもなんでもいいから、早く拭け。

「……」

 じゃないと。

「……」

 早く拭かないと。

「……」

 私は。

「……」

 私は……。

「……」

 私は…………。

 私は舌を使い、人差し指の生クリームを拭き取った。

「…………」

 唾液に乗って、舌先から食道にかけて広がる甘味の波に、私の思考は一時的に真っ白になった。瞬間的に莫大な負荷がかかる事でコンピューターがダウンしたように、私の脳は数年振りに感じたその瑞々しい味をすぐには理解してくれなかったのだ。その味が甘いと理解出来るようになるまで、十秒はかかった。味の正体を理解した事で、真っ白になった私の脳は再び思考を取り戻した。

「……………………」

 思考を取り戻した瞬間、私の脳は理性を投げ捨てた。

 私は箱の側面にテープで止められたプラスチック製のフォークを剥がし、ショートケーキを掬い取ってしまう。

 拳程の大きさはあるであろうケーキの塊を、大口を開けて一気に口の中へと詰め込んだ。その瞬間、指先に付着した生クリームとは比較にならない莫大な甘味に、私は舌を乗っ取られた。フォークで掬っては口に運び、また掬っては口に運ぶ。その勢いは止まることを知らない。その勢いを止める術を私は知らない。

「……っ」

 走馬灯のように、これまで食べて来た療養食の数々が、瞬きをする度に瞼の裏側に写し出されていく。脂身のない魚、味の薄い汁物、ボソボソとした食べ応えのない麦飯。生きる為の食事ではなく、生かされる為の食事。美味しい物を笑顔で食べる健常者を妬みながら、羨みながら、指を咥えながら、そういった味気のない療養食だけを食べて来た。そんな五年間の食事が次々と脳裏にフラッシュバックされ、今現在卓上に並んでいるケーキの姿と、交互に頭の中に流れ込む。

 甘い。美味しい。美味しい。甘い。壊れた玩具のように、同じ感情ばかりが脳内で繰り返される。美味しい。ただただ美味しい。顎を動かす度に、そう思った。

「……うっ……、うっ……、うぅっ……」

 食べる勢いは加速度的に上昇して行ったかに思われたが、しかしそれもショートケーキとチョコレートケーキを食べ終えた辺りから、急激に鈍りが生じ始める。口を開く度に意図しない声が喉から漏れ出て、食べ辛いったらありゃしないのだ。

 視界もそうだ。私は右目を失明した事で、世界を立体視する事が出来なくなった。ただでさえ左目だけではケーキとの距離感が計りづらいのに、その左目の視力までもがボヤけてしまっている。水を垂らしたレンズを覗くように、世界が歪んで見える。

 目頭が熱い。左目だけでなく、感覚器としての役目を終えた右目の目頭も熱い。光を認識出来る左目からも、光しか認識出来ない右目からも、雨粒程の涙がぼろぼろと止まらない。涙を大量に吸い取った眼帯が気持ち悪くて、思わず眼帯を外してしまった程だ。眼帯によって堰き止められた大量の涙が、頬を伝い、物理の法則に従って流れ落ちる。

「……ふぅっ、ふぅっ……、ぐっ……、うぅっ……」

 そんな状態でも無我夢中でケーキを頬張ったせいだろう。私は遂に呼吸もし辛くなって、まともに飲み込む事さえ困難になった。しかし、それでも私は手を止める事が出来なかった。すぐさま隣にあった、瓶入りのリンゴジュースに手を伸ばす。お母さんは紙コップの用意もしてくれたものの、私は人の目がないのを良い事に、俗に言うラッパ飲みでリンゴジュースを流し込んだ。意図せず漏れ出る泣き声も、目から鼻へ、鼻から喉へ流れる涙や鼻水も、全て巻き込みながら胃の奥まで流し込んだ。リンゴジュースの味も、やっぱり甘くて、適度な酸味がしつこい甘さを中和してくれて、美味しい。こんなにも美味しい飲み物で涙と鼻水と泣き声を飲み込んだのだ。

「はぁっ……、はぁっ……、ぐっ……、あぁっ……!」

 その筈なのに、止まらない。泣き声も、涙も、鼻水も。全部飲み込んだ筈なのに、飲み込んだ量と同じか、或いはその倍の量で溢れ出て来る。

 私は堪らず両の手のひらで顔を覆ってしまった。涙も、鼻水も、泣き声も。この五年間ですっかり痩せこけてしまった頼りない手のひらで、そっと受け止めた。それでもそれらは指の隙間を掻い潜りながら絶え間なく溢れてしまうのだ。我慢しようと思えば思う程、勢いを増して押し寄せて来るのだ。

 だから私は我慢するのを止めた。生クリーム塗れの顔を布団に埋め、せめてもの抵抗としてなんとか声だけは押し殺しながらも、布団の中では大口を開けて啜り泣いた。

 けれど、そんな私の静かな絶叫もそう長くは続かない。大声で泣き叫べば気付かなかったのかも知れないけれど、静かに啜り泣く私の耳には、何者かが窓を叩く音が確かに聞こえてしまったからだ。

 私は布団から顔を離し、異音の鳴る方へと視線を向ける。左目の涙を服で拭い取り、窓の外を凝視する。そこでは小さな私が窓にへばり付きながら、一冊の本を私に向けていた。

【よっす!】

「……」

【新宿(ここ)にいたかー。急にいなくなったからびっくりしたよ。東京中の病院探し回っちゃったじゃん】

「……」

【つうか何? その酷い顔。折角の可愛い顔が台無し】

「……」

【どしたん? 話聞こうか?】

「……ザンドぉ……っ」

 ザンドとポチが、私の病室に足を踏み入れた。
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