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第三章 続 魔女と天使の腎臓

ダウン症

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『……』

 中学生になった私の人生にまた一つ、新しい枷が嵌められた。それもインスリン注射や食事制限とは比較にならない、物理的に長時間の拘束を強要される事になる本当の意味での枷。透析だ。ネフローゼ症候群が進行し、慢性腎不全を発症させた私は全腎機能が停止し、ほんの1ミリ程度のおしっこも作れないようになってしまったのだった。

 人間はおしっこをしないとあっという間に死んでしまう。栄養の摂取や代謝の過程で生まれた老廃物や毒素を排泄出来ず、また、飲食した分の水分も排泄されないまま全て血管の中に蓄積され、致命的な高血圧を引き起こすからである。

 透析の頻度は二日に一回、四時間ずつ。しかし近年の報告では、六時間の透析でより患者の健康状態が向上するといったデータもある事から、私の意見などそっちのけで、お母さんは私の透析時間を四時間から六時間に伸ばした。

 二日に一回、六時間もの間、私は巨大な機器に繋がれてじっとしていないと、生きていく事が出来なくなったのだ。透析をやめれば早ければ五日、どんなに長持ちしても二週間以内に私の体は朽ちてしまう。

『……』

 生きるって何だろう。こんな朽ち果てた体の私が生きて、何になるんだろう。

 やりたい事の為に生きる? じゃあそのやりたい事って何? 美味しい物を食べる事とか? 私は一生美味しい物なんて食べれないのに。

 大人になる為に生きる? こんな私が大人になって何をするの? 健常者の皆んなはいいよ。一日八時間働いて、稼いだお金を自分の為に目一杯使えるんだもん。おしゃれをしたり、旅行に行ったり、好きな物を買ったり、好きな物を食べたり。でも私にはそれをする為の時間がない。二日に一回六時間も拘束される私の人生は、言い換えれば一か月の内の四日間を牢屋で過ごしているも同然だ。皆んなが稼いだお金で楽しい事をしている間、私はお金を使う時間さえも奪われて、牢屋の中で指を咥えながらじっとしているしかないんだ。そんな未来がわかっていて、誰が大人になりたいだなんて思うの?

 そもそも私は生きてなんかない。生かされているんだ。私の意思を尊重しない親のエゴ。生きる事が絶対的な美徳と信じて疑わず、患者の苦痛なんてそっちのけで、令和になった今も安楽死制度を導入しない国のエゴ。そんな親と国が出してくれるお金に支配されたお医者さんが、お金儲けの為に機械を使って私を生かしているんだ。それらのエゴに塗れた世界に、私の意思なんて物は存在しない。

『……』

 死にたい。

『……』

 死にたい……。生きる度に、そう思う。

『イヴ。お疲れ様』

『うん』

『どうだった? 初めての透析は』

『普通』

『少しでも体が楽になった感じはある?』

『普通』

『……そう』

 どんなに願っても体が死ねない中学生の私は、体の代わりに心を殺して生きる事しか出来なかった。

 でも、そんな私にも感情が揺さぶられる出来事は存在していた。どんなに心を殺しても、それに関してだけは殺したはずの心が蘇る。敵意と、殺意と、その二つを凌駕する程の悪意。

『ねー……ちゃ!』

『……』

 お母さんに抱っこされるアスタの手が私に伸びた。

『イヴ!』

『……何?』

 私はその幼い手を暴力で叩き落とし、二人を置いてそそくさと車の停めてある駐車場へと足を伸ばした。




『……』

 車の窓から外の景色を覗き込む。夕方の混雑に巻き込まれ、景色が進む兆しは全くない。折角の車なのに、歩道を行き交う歩行者の方が速く進むとは皮肉な物だ。

 車の速度が遅いせいで、彼らのような歩行者の姿が嫌と言うくらいに目に入ってしまう。東京という街には一千万人を超える人が暮らしていて、その多くは健常者として何不自由のない人生を歩む事が出来ている。それだけ多くの人が行き交うこの街で、どうして私がこんな体の持ち主として選ばれてしまったのだろう。

『……』

 憎い。流行り物のスイーツを食べ歩きする、同い年くらいの女子を見ながら、そう思った。

 ジュニアシートに座るアスタに視線を移すと、アスタはお母さんから手渡された乳児向けのりんごジュースを美味しそうに吸っている。車の外も、車の中も、この世界は私の気分を害する悪意で満たされてばかり。こんな悪魔でもいつか気付く日が来るのだろうか。この世界には、今アスタが当たり前のように飲んでいるそれを、当たり前のように口に出来ない人間がいる事に。その事に気付ける年齢になった時、それでもこの悪魔は平気な顔でジュースを飲むのだろうか。私に見せつけるように飲むのだろうか。数年先に訪れるかも知れない、そんな不愉快な未来像が脳裏に過ぎる。

 そんな思いをする前に、いっそのことこの悪魔を殺せてしまえたらどれだけ気が楽になるだろう。幸運にも私は中一だ。今ならまだ、どんな犯罪を犯した所で、法律は私を裁くどころか許してくれる。……まぁ、どうせそんな日が訪れる事はないのだろうけれど。

 私に人を殺せる度胸がない事くらい、知ってる。人を殺せる力がないのだってよく知ってる。結局私はこの家を出るその日まで、ずっと心の中でアスタを殺す想像だけをしながら惨めに生きて行くんだ。私は弱いから。普通の体を持てなかった私は、普通の人より圧倒的に弱いから。

 私はいつまで我慢しなきゃいけないんだろう。学校でも、家でも、自分自身の命だってそう。強くなりたいな。私も林田みたいに、自分より弱い相手を甚振りたい。私もアスタみたいに、相手の気持ちなんて考えずに好き勝手したい。誰にも逆らえないような圧倒的な強さが欲しい。私の前にデスノートが落ちて来る妄想、私の元にドラえもんが現れてどくさいスイッチをくれる妄想。それらを使ってムカつく奴らを粛清する妄想を、今までに何度繰り返しただろうか。私を笑う健常者以上に、そんな健常者に立ち向かう事も許されないこの弱い体が、憎くて憎くて仕方がなかった。

 ……まぁ。最悪度胸さえあれば、すぐ側にいるこの小さな悪魔くらい、今の私でも簡単に殺せるんだけどね。不愉快な笑みを浮かべるアスタを見ながら、そう考える。私はこの悪魔を見る度に、言葉に出来ない不快感に心を蝕まれてしまうのだ。その不快感の具体的な正体を私は知らない。でも、感情から来るものでない事は確かだった。

 感情から来る不快感。それは私にちょっかいをかける林田や、私に秘密でアスタを作った両親に抱いている気持ちの事。嫌な思いをした記憶や経験によって生み出される、一個人に対する嫌悪感である。

 けれどアスタに感じるこの嫌悪感は、明らかに記憶や経験によってもたらされる嫌悪ではなかった。確かに私はこいつのせいで嫌な思いをした事は数知れないし、感情による嫌悪だってある程度は感じている。……でも、違う。それだけじゃない。感情による嫌悪を圧倒的に上回る何かを、私はアスタに感じている。この嫌悪は言うならば、虫や汚物を見た時に感じる嫌悪にも近いのだ。本能的な嫌悪。生理的な苦手意識。

 アスタの顔のせいだろうか。父親譲りのそのブサイクな顔に、私は生理的な嫌悪感を抱いているのだろうか。本当にブサイクな顔だ。きっとこいつは整形をするか、もしくは父親同様にエリートコースを突き進むかしない限り、生涯女に愛される事のないまま、一人孤独に死んでいく。そんなアスタの醜い顔に嫌悪を抱くのは人として当然の反応……だとは思うのだけれど。

 でも、本当にそれだけなのかな。なんて言うか、アスタの顔は父親譲りにしても醜過ぎる気がする。醜いとか、ブサイクとか、そんな言葉で言い表せるレベルに収まらない。美しいとか醜いとか以前に、そもそも人間の顔でさえないような、そんな違和感が……。

 そもそも、アスタは二歳児にしては何かがおかしいのだ。施設にいた頃は何度も二歳児の面倒を見たりもしたけれど、同じ二歳児でもアスタと彼らは決定的に違っている。二歳児ってもっとこう……、明確な意思疎通は出来なくとも、ある程度の単語とあやふやな文章を組み合わせた簡単な会話くらいなら成立したはずなんだ。

 それなのにアスタはいつになったら喋るんだろう。アスタの口から漏れるのは、二歳になっても乳児期とほぼ変わらない鳴き声ばかり。単語のような物を口にしようとしている気配はあるものの、それも呂律が回らな過ぎる舌のせいで何を言っているのかは一切わからない。二歳にもなって、未だにパパやママさえまともに発音出来ないなんて、果たしてそんな事……。




『ダウン症……』

 あの時抱いた私の疑問が晴れるまでに、そう時間は掛からなかった。中学生活最初の中間テストが終わりを迎えた五月中旬。私達は来月に控えたとある行事に備え、先生が用意した事前学習用の映像を見せられたのである。

 とある行事。それは特別支援学級に通う生徒との交流学習であった。一年生が行う交流は、知的障害特別支援学校中等部の授業体験。こう言った学校では一般的な授業の他に「仕事」という授業があるらしい。畑で野菜を作る農作業班、食器などを製作する陶芸班、牛乳パックを再利用して名刺入れやタグなどを作る紙班、などなど。私達は彼らの学校で、その「仕事」の授業を体験する事になるとのこと。

 今、私達の目の前には担任の先生の他に、支援学校から派遣された先生も立っていた。私達はこれから出会う事になる知的障害者についての理解を深める為、彼が持参した事前学習用の映像を見せられているのだ。

 映像では今、知的障害者の具体的な例についての解説が流れていた。ダウン症を患った一人の男児が映し出され、彼が過ごす普段の生活風景が流れている。周りの生徒達は、私達とは明らかに違うダウン症児の映像を、神妙な顔つきで食い入るように見ていた。真顔でこの映像を見ている生徒って、もしかして私以外にいないのではないだろうか。

 だって、仕方ないじゃん。私はその映像に新鮮さを覚えなかったんだ。普段から繰り返し見ている物を、もう一度見せられているような物だ。お母さんが料理を作る様子を神妙な顔つきで見つめる人がどこにいる。お父さんが仕事に出掛ける様子を食い入るように見つめる人がどこにいる。

『……』

 私の表情から真顔が消えた。私の真顔は、いつしか嘲笑へと進化を遂げていた。映像の中で無様に生きるダウン症児の姿が、私の弟と重なった。
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