210 / 236
第三章 続 魔女と天使の腎臓
天使を信じる家
しおりを挟む
「ねぇ、ごめんってばー。機嫌直してよー。ね? ね? お願ーい」
そっぽを向き続ける女の子の機嫌を取るべく、猫撫で声やゴマスリなど、ありとあらゆる仲直り術を試してみるも、女の子の機嫌がよくなる様子は見当たらなかった。
「……知らない。嘘つきは嫌い」
「そんな事言わないでさー。目くじらも立てないでよー! うりうりー」
言葉で言っても許してくれないのならと、今度は物理的に彼女を笑わしてやろうとも試みた。眉間の皺を人差し指で解したり、両頬を摘んで無理矢理笑顔を作らせたり。
「よーし。だったらこうだ!」
それでも一向に許してくれる気配がないものだから、私は遂に彼女の体をくすぐると言う最終手段にも手を染めたのだけど。女の子は一瞬体を跳ね上げ、瞬間的な笑みを浮かべたものの。
「ねえ! やめて! やだッ!」
「そんなぁ……」
遂に私は明確な拒絶を受けた事で、渋々部屋の隅っこで体育座りをしてしまうのだった。折角私の事を理解してくれそうな子と出会えたと思っていたんだけどなー……。部屋の壁目掛けて深い溜め息を吐く。
「……天使さんだって思ったのに」
私の背中に、女の子の愚痴が突き刺さった。そんな彼女の一言が気になって、私は思わず振り返る。女の子は大きなぬいぐるみを抱きしめながら、まるで祈るように自分の手を握りしめていた。
「……」
何か、彼女の手と手の隙間から光った物が見えたような気がした。
「ねぇ」
私は懲りもせずに彼女の側まで足を運び、床に膝をつけながら彼女の表情を覗き込んだ。
「どうして私の事を天使だって思ったの?」
「……」
そっぽを向く女の子。私は彼女の視線の先に移動し、再び彼女の顔を覗き込みながら訊ねる。
「教えて? それだけ知りたいな」
「……」
またしてもそっぽを向かれた。私もそれに合わせて彼女の視線の先に移動する。
「ダメ? 教えてくれたらすぐ帰るからさ」
「……」
「ねー、無視しないで? 無視が一番辛い……」
「……」
「お願いだよー……!」
「……」
そんなやり取りを、二度三度繰り返す。しかしそのやり取りが五度目を迎える事はなかった。女の子は観念したように溜め息を吐いて、両手で握り締めていたそれを私に見せてくれたのだ。
「お母さんの手術が成功するようにお祈りしてたから」
「……」
「そしたら羽の生えたお姉ちゃんが入って来たから。神様か天使様かなーって」
「……」
「……そう思った」
「……」
彼女の小さな手のひらに握り締められていたもの。それは彼女の首からぶら下がったアクセサリー。……いや、確かにそれをアクセサリーとして身につける人はいるけれど、きっとこの子はファッションではなく、信仰でそれを身につけているのだろう。その証拠に、この現代的なリビングルームの壁には、現代文明とは僅かにかけ離れた小さな家庭祭壇が飾られている。家庭祭壇の中央には、十字架に磔にされた男性の姿が鎮座していた。そして彼女が大事そうに握り締めていたそのアクセサリーも、やはり十字架だったのだ。
「そうだったんだ」
この子、クリスチャンだ。
「期待させちゃったんだね。それはなんて言うかまぁ……、ごめんなさいでした」
私は女の子に向けて頭を下げた。私は幼い希望を踏み躙ってしまったのだ。私には彼女に謝る責任があるし、義務もある。とは言えこの罪は頭を下げる程度で償い切れるものではないから。
「でも、私が天使なのは本当だよ」
せめて彼女が抱いていたはずの希望の、ほんの数%でも実現出来たらなーと。そう思ったのだ。
「……嘘」
「嘘じゃないよ」
「……絶対嘘。天使さんは嘘つかないもん」
「天使だって嘘くらいつくよ。イタズラって楽しいもん。……それでも信じられないって言うなら」
「え……」
私は女の子の体を抱きしめ、そして。
「天国を見せてあげる。行くよ!」
ベランダを飛び出し、大空の彼方へと飛び立った。
私の耳元で、女の子の絶叫が絶え間なく鼓膜目掛けて降り注いだ。気持ちはわかる。地面から足の離れる感覚、地上の世界が豆粒のように小さくなっていく光景、手が届かないはずの星空に手が届いてしまいそうな錯覚。人は空を飛べない。そんな現実に漬け込まれた自分の常識が根っこの方から覆っていくこの感覚は、麻薬にも匹敵する中毒性がある。実際に麻薬を経験した私だからこそ、そう言い切れる。どうせなら雲を突き抜ける感覚も彼女に味わって欲しかったけれど、生憎今日は雲一つない晴天だったのが残念ポイントではあった。
「どう?」
地上を歩く人間の顔どころか、そこにビルがあるのか森があるのかもわからない高度に到達した辺りで女の子に訊ねてみた。
「私が天使だって信じてくれた? ……って」
しかし、女の子は答えない。彼女の絶叫はいつのまにか鳴りを潜め、代わりに頭を抑えながら俯いていたのだ。
「あー⁉︎ ごめんごめん! ザンド!」
私はすぐに魔法を唱え、女の子の頭にフルフェイスのマスクを被せてあげた。酸素ボンベである。
「本当ごめん! うっかり高山病の事忘れてたよ……。頭、痛かったでしょ?」
「……こうざんびょう?」
げっそりとした表情を浮かべながら訊ねて来る女の子。
「そう。人間は高い山に登ったりすると、酸素が薄くなるせいで気分が悪くなったり頭が痛くなったりしちゃうから」
「……やっぱり天使様じゃない」
苦虫を噛み潰したような女の子の視線がとても痛かった。
「だからごめんってばー……! 本当にうっかりしてたの、わざとじゃないの! それに痛みだってもう引いてるでしょ? 十分な酸素さえあれば高山病はすぐに治るからね」
「え? ……あ。痛くない」
「でしょ?」
数秒前までの青ざめた顔色が嘘のように、女の子の顔には健康的な血行が戻っていた。
「それにこのくらいで挫けるようじゃ将来大変だよ? 女の子は大人になると、何ヶ月もこの痛みを味わう事になるんだから」
「えー……、そうなの?」
「そうだよー。赤ちゃんが出来るとね、お母さんはお腹の赤ちゃんに酸素を奪われちゃって、それで高山病と同じような症状が出て来ちゃうんだ。妊婦さんの体調が悪くなる原因の一つがそれ。こんな痛みに何ヶ月も耐えるんだから凄いよね? お母さんって強いんだよ。……そんな強いお母さんが、交通事故なんかに負けるはずがない」
お母さんの事を思い出しながら、そんな妊婦の豆知識を女の子に披露する。当然私が思い出しているお母さんと言うのは、八年間私を育ててくれたあのババアの事ではない。私のクローンを妊娠中期まで育ててくれた、003号と005号の事を言っている。片方は流産させちゃったし、もう片方は反抗的な態度が気に食わなくて喧嘩別れをしてしまったものの、しかし彼女達は子供を孕んだのだ。一度は自分でクローンを産もうとしつつも、結局妊娠の症状に怖気づいてしまった私だ。003号にも005号にも大した思い入れはないけれど、私に出来なかった事を成し遂げた彼女達の事を尊敬する気持ちは、確かにこの胸に存在している。妊娠した事も子供を産んだ事もないくせに、母親ヅラだけは一丁前なあの女とは大違いだ。
「お姉ちゃんは本当に天使さん?」
「そうだよ。何度もそう言ってるじゃん。あ、じゃあこれなら流石に信じてくれるよね? ザンド!」
私は大空目掛け、一つの魔法を唱えた。それは上級の力を手に入れてから今日に至るまでの中で、最も規模の大きい魔法と言っても過言ではないだろう。空中に浮遊する広大な楽園に目を向けた女の子の瞳が、月明かりさえも跳ね除けんばかりに輝いている。
「一緒に遊ぼ?」
私は女の子を抱っこしながら、その空中テーマパークの敷地へと足を踏み入れた。そして私達は、二人で夜の天空遊園地を独占するのだ。
ジェットコースター、メリーゴーランド、コーヒーカップ、ゴーカート。どこの遊園地にでもあるような、ありふれた遊具の数々。けれど視界の端で光り輝く地上の都市灯りが眩しくて、地上のテーマパークでは決して目にする事の出来ないその景観が、ありふれた遊具に独自性というスパイスを付け加えてくれた。面白い。楽しい。私ももう四捨五入すれば二十歳になってしまう年齢なのに、年甲斐もなくはしゃいでしまう。
女の子は女の子で、生まれて初めて経験する奇跡の数々に年相応のはしゃぎっぷりを見せていた。もう彼女の中に、私に対する不信感は残っていない。さっきまでの彼女からは考えられない満面の笑みが、私にその事を教えてくれた。そんな彼女を見ながら私は気付いたのだ。私が年甲斐もなく、こんなテーマパークの遊具ごときにはしゃいでしまった理由について。
私は大空の遊園地にはしゃいでいたのではない。確かにそれも私のテンションを上げる要因の一つではあるのだろうけれど、でも本当は。
「天使さん!」
「なーにー?」
「楽しい!」
「いひー。そりゃあよかった」
一緒に楽しんでくれる誰かがいるから、私はこんなにもはしゃいでしまったんだ。林田のせいで小中学は、共にいじられキャラポジションを確立した私だ。高校生になってからは、自分の意思で同級生を跳ね除けた私だ。そんな私が誰かと遊園地で遊んだのなんて、いつ以来だろう。
児童養護施設にいた頃は、長期休暇の度に幼稚園児組と小学生組にわかれて、山遊びや川遊びに連れて行って貰った記憶がある。また、年に二、三回は施設の職員さんと二人きりのお出かけに連れて行って貰ったりもした。赤海家に引き取られたばかりの頃も、お父さんやお母さんと一緒に頻繁に旅行や遊びに連れて行って貰えてはいたけれど、でも……。
「……」
懐かしいな。この感覚。
「天使さん?」
一通りテーマパークで遊び終えた私達。遊園地のシメとしてお馴染みの観覧車の中で、女の子が私の顔を心配そうに覗き込んだ。
「どこか痛いの?」
「……。ううん。なんでもない。ちょっとボーッとしてただけ」
観覧車というのは純粋な高さを楽しむ為のものである。既に上空数千メートルに達しているこの場所で観覧車になんか乗る意味はあるのかと言われればその通りだけど、まぁ野暮な事は聞かないで欲しい。
「それよりやっと私の事、天使って信じてくれたんだね」
私は体を倒しながら、隣に座る女の子に膝枕をしてもらった。子供特有の高い体温が、太ももを通じて直に私の頭を包み込んでくれる。実際、子供というのは体温を司る甲状腺ホルモンが活発だから、本当に体温が高いのだ。とても暖かくて、心地よい。思わず抱きしめてしまいたくなる。でも。
「嬉しい。私、色んな人からずっと悪魔だって言われ続けて来たんだもん。……本当に嬉しい」
本当に心地よいと思ってしまった理由は、やはりそれだ。
「嬉しすぎるから」
私は私の事を天使と認めてくれた彼女に感謝を示し。
「きみのお母さんも治してあげる」
女の子にそんな約束を取り付けた。
「……本当に?」
みるみると明るさを取り戻して行く女の子の瞳。遊園地ではしゃいでいた瞳とは、また違った輝きを放っている。この世の汚れを何一つ知らない、純真無垢な宝石。
「うん。本当。私の魔法見たでしょ? 私が魔法を使えば、お母さんの手術は100%成功するもん」
私はもっとその宝石に輝いて欲しいと願ったのだ。
別に難しい事なんかじゃない。なんせ彼女のお母さんは、事故に遭ってから三ヶ月もの間、大きな問題を起こす事もなく療養を続けているそうではないか。その上明日行うと言われている手術の内容は、骨の固定に用いたネジを取り外すだけの抜釘術。骨の回復が十分なレベルに達したからからこそ実施する手術だ。ならば彼女のお母さんが近いうちに全快するであろう事は、もはや言うまでもない。
でも、彼女はまだ幼い。お母さんの容態がどれだけ安定しているのかを医学的根拠を用いて説明した所で、知識の足りない彼女にはその事が理解出来ない。心配する程の事でもないのに、知識不足から来る無数の不安に包み込まれてしまうのだ。だったら話は早い。私がその不安を取り除いてあげればいい。
知識の足りないかつての人類は、さまざまな災害や流行病を神のせいだと決めつけ、恐れ慄いた。科学を知らないかつての人類は、全ての事象を神と結びつける以外に出来る事がなかった。
彼女も同じだ。知識の足りない彼女にとって、理解も出来ない医学的根拠は何の助けにもならない。でも、知識のない幼い彼女でも、天使と言う絶対的な存在なら理解する事が出来る。ならば簡単だ。彼女が絶対的な信頼を置く天使そのものが励ましてあげれば、それだけで全てが解決する。
お母さんは死なない。お母さんは治る。天使の私が彼女にそう言うだけで、彼女の顔からは不安がみるみると取り除かれて行った。
「……お母さん、死なないの?」
「死なないよ」
「本当に?」
「ほんとほんと」
「また嘘ついてない?」
「根に持つなー……。こんな大事な話に嘘はつかないって。いい?」
それでも彼女は一度私に嘘をつかれ身だからか、完全な信用までは得られそうになかった。だから私は彼女の目の前で両手を叩き、そして。
「はい。たった今、きみのお母さんの怪我は私に移りました」
私の四肢を覆う四つの義装を全て解除した。
「……」
「これでお母さんの腕は治ったはずだよ?」
膝から下を失った私の左足が、女の子の前にその姿を晒す。
そっぽを向き続ける女の子の機嫌を取るべく、猫撫で声やゴマスリなど、ありとあらゆる仲直り術を試してみるも、女の子の機嫌がよくなる様子は見当たらなかった。
「……知らない。嘘つきは嫌い」
「そんな事言わないでさー。目くじらも立てないでよー! うりうりー」
言葉で言っても許してくれないのならと、今度は物理的に彼女を笑わしてやろうとも試みた。眉間の皺を人差し指で解したり、両頬を摘んで無理矢理笑顔を作らせたり。
「よーし。だったらこうだ!」
それでも一向に許してくれる気配がないものだから、私は遂に彼女の体をくすぐると言う最終手段にも手を染めたのだけど。女の子は一瞬体を跳ね上げ、瞬間的な笑みを浮かべたものの。
「ねえ! やめて! やだッ!」
「そんなぁ……」
遂に私は明確な拒絶を受けた事で、渋々部屋の隅っこで体育座りをしてしまうのだった。折角私の事を理解してくれそうな子と出会えたと思っていたんだけどなー……。部屋の壁目掛けて深い溜め息を吐く。
「……天使さんだって思ったのに」
私の背中に、女の子の愚痴が突き刺さった。そんな彼女の一言が気になって、私は思わず振り返る。女の子は大きなぬいぐるみを抱きしめながら、まるで祈るように自分の手を握りしめていた。
「……」
何か、彼女の手と手の隙間から光った物が見えたような気がした。
「ねぇ」
私は懲りもせずに彼女の側まで足を運び、床に膝をつけながら彼女の表情を覗き込んだ。
「どうして私の事を天使だって思ったの?」
「……」
そっぽを向く女の子。私は彼女の視線の先に移動し、再び彼女の顔を覗き込みながら訊ねる。
「教えて? それだけ知りたいな」
「……」
またしてもそっぽを向かれた。私もそれに合わせて彼女の視線の先に移動する。
「ダメ? 教えてくれたらすぐ帰るからさ」
「……」
「ねー、無視しないで? 無視が一番辛い……」
「……」
「お願いだよー……!」
「……」
そんなやり取りを、二度三度繰り返す。しかしそのやり取りが五度目を迎える事はなかった。女の子は観念したように溜め息を吐いて、両手で握り締めていたそれを私に見せてくれたのだ。
「お母さんの手術が成功するようにお祈りしてたから」
「……」
「そしたら羽の生えたお姉ちゃんが入って来たから。神様か天使様かなーって」
「……」
「……そう思った」
「……」
彼女の小さな手のひらに握り締められていたもの。それは彼女の首からぶら下がったアクセサリー。……いや、確かにそれをアクセサリーとして身につける人はいるけれど、きっとこの子はファッションではなく、信仰でそれを身につけているのだろう。その証拠に、この現代的なリビングルームの壁には、現代文明とは僅かにかけ離れた小さな家庭祭壇が飾られている。家庭祭壇の中央には、十字架に磔にされた男性の姿が鎮座していた。そして彼女が大事そうに握り締めていたそのアクセサリーも、やはり十字架だったのだ。
「そうだったんだ」
この子、クリスチャンだ。
「期待させちゃったんだね。それはなんて言うかまぁ……、ごめんなさいでした」
私は女の子に向けて頭を下げた。私は幼い希望を踏み躙ってしまったのだ。私には彼女に謝る責任があるし、義務もある。とは言えこの罪は頭を下げる程度で償い切れるものではないから。
「でも、私が天使なのは本当だよ」
せめて彼女が抱いていたはずの希望の、ほんの数%でも実現出来たらなーと。そう思ったのだ。
「……嘘」
「嘘じゃないよ」
「……絶対嘘。天使さんは嘘つかないもん」
「天使だって嘘くらいつくよ。イタズラって楽しいもん。……それでも信じられないって言うなら」
「え……」
私は女の子の体を抱きしめ、そして。
「天国を見せてあげる。行くよ!」
ベランダを飛び出し、大空の彼方へと飛び立った。
私の耳元で、女の子の絶叫が絶え間なく鼓膜目掛けて降り注いだ。気持ちはわかる。地面から足の離れる感覚、地上の世界が豆粒のように小さくなっていく光景、手が届かないはずの星空に手が届いてしまいそうな錯覚。人は空を飛べない。そんな現実に漬け込まれた自分の常識が根っこの方から覆っていくこの感覚は、麻薬にも匹敵する中毒性がある。実際に麻薬を経験した私だからこそ、そう言い切れる。どうせなら雲を突き抜ける感覚も彼女に味わって欲しかったけれど、生憎今日は雲一つない晴天だったのが残念ポイントではあった。
「どう?」
地上を歩く人間の顔どころか、そこにビルがあるのか森があるのかもわからない高度に到達した辺りで女の子に訊ねてみた。
「私が天使だって信じてくれた? ……って」
しかし、女の子は答えない。彼女の絶叫はいつのまにか鳴りを潜め、代わりに頭を抑えながら俯いていたのだ。
「あー⁉︎ ごめんごめん! ザンド!」
私はすぐに魔法を唱え、女の子の頭にフルフェイスのマスクを被せてあげた。酸素ボンベである。
「本当ごめん! うっかり高山病の事忘れてたよ……。頭、痛かったでしょ?」
「……こうざんびょう?」
げっそりとした表情を浮かべながら訊ねて来る女の子。
「そう。人間は高い山に登ったりすると、酸素が薄くなるせいで気分が悪くなったり頭が痛くなったりしちゃうから」
「……やっぱり天使様じゃない」
苦虫を噛み潰したような女の子の視線がとても痛かった。
「だからごめんってばー……! 本当にうっかりしてたの、わざとじゃないの! それに痛みだってもう引いてるでしょ? 十分な酸素さえあれば高山病はすぐに治るからね」
「え? ……あ。痛くない」
「でしょ?」
数秒前までの青ざめた顔色が嘘のように、女の子の顔には健康的な血行が戻っていた。
「それにこのくらいで挫けるようじゃ将来大変だよ? 女の子は大人になると、何ヶ月もこの痛みを味わう事になるんだから」
「えー……、そうなの?」
「そうだよー。赤ちゃんが出来るとね、お母さんはお腹の赤ちゃんに酸素を奪われちゃって、それで高山病と同じような症状が出て来ちゃうんだ。妊婦さんの体調が悪くなる原因の一つがそれ。こんな痛みに何ヶ月も耐えるんだから凄いよね? お母さんって強いんだよ。……そんな強いお母さんが、交通事故なんかに負けるはずがない」
お母さんの事を思い出しながら、そんな妊婦の豆知識を女の子に披露する。当然私が思い出しているお母さんと言うのは、八年間私を育ててくれたあのババアの事ではない。私のクローンを妊娠中期まで育ててくれた、003号と005号の事を言っている。片方は流産させちゃったし、もう片方は反抗的な態度が気に食わなくて喧嘩別れをしてしまったものの、しかし彼女達は子供を孕んだのだ。一度は自分でクローンを産もうとしつつも、結局妊娠の症状に怖気づいてしまった私だ。003号にも005号にも大した思い入れはないけれど、私に出来なかった事を成し遂げた彼女達の事を尊敬する気持ちは、確かにこの胸に存在している。妊娠した事も子供を産んだ事もないくせに、母親ヅラだけは一丁前なあの女とは大違いだ。
「お姉ちゃんは本当に天使さん?」
「そうだよ。何度もそう言ってるじゃん。あ、じゃあこれなら流石に信じてくれるよね? ザンド!」
私は大空目掛け、一つの魔法を唱えた。それは上級の力を手に入れてから今日に至るまでの中で、最も規模の大きい魔法と言っても過言ではないだろう。空中に浮遊する広大な楽園に目を向けた女の子の瞳が、月明かりさえも跳ね除けんばかりに輝いている。
「一緒に遊ぼ?」
私は女の子を抱っこしながら、その空中テーマパークの敷地へと足を踏み入れた。そして私達は、二人で夜の天空遊園地を独占するのだ。
ジェットコースター、メリーゴーランド、コーヒーカップ、ゴーカート。どこの遊園地にでもあるような、ありふれた遊具の数々。けれど視界の端で光り輝く地上の都市灯りが眩しくて、地上のテーマパークでは決して目にする事の出来ないその景観が、ありふれた遊具に独自性というスパイスを付け加えてくれた。面白い。楽しい。私ももう四捨五入すれば二十歳になってしまう年齢なのに、年甲斐もなくはしゃいでしまう。
女の子は女の子で、生まれて初めて経験する奇跡の数々に年相応のはしゃぎっぷりを見せていた。もう彼女の中に、私に対する不信感は残っていない。さっきまでの彼女からは考えられない満面の笑みが、私にその事を教えてくれた。そんな彼女を見ながら私は気付いたのだ。私が年甲斐もなく、こんなテーマパークの遊具ごときにはしゃいでしまった理由について。
私は大空の遊園地にはしゃいでいたのではない。確かにそれも私のテンションを上げる要因の一つではあるのだろうけれど、でも本当は。
「天使さん!」
「なーにー?」
「楽しい!」
「いひー。そりゃあよかった」
一緒に楽しんでくれる誰かがいるから、私はこんなにもはしゃいでしまったんだ。林田のせいで小中学は、共にいじられキャラポジションを確立した私だ。高校生になってからは、自分の意思で同級生を跳ね除けた私だ。そんな私が誰かと遊園地で遊んだのなんて、いつ以来だろう。
児童養護施設にいた頃は、長期休暇の度に幼稚園児組と小学生組にわかれて、山遊びや川遊びに連れて行って貰った記憶がある。また、年に二、三回は施設の職員さんと二人きりのお出かけに連れて行って貰ったりもした。赤海家に引き取られたばかりの頃も、お父さんやお母さんと一緒に頻繁に旅行や遊びに連れて行って貰えてはいたけれど、でも……。
「……」
懐かしいな。この感覚。
「天使さん?」
一通りテーマパークで遊び終えた私達。遊園地のシメとしてお馴染みの観覧車の中で、女の子が私の顔を心配そうに覗き込んだ。
「どこか痛いの?」
「……。ううん。なんでもない。ちょっとボーッとしてただけ」
観覧車というのは純粋な高さを楽しむ為のものである。既に上空数千メートルに達しているこの場所で観覧車になんか乗る意味はあるのかと言われればその通りだけど、まぁ野暮な事は聞かないで欲しい。
「それよりやっと私の事、天使って信じてくれたんだね」
私は体を倒しながら、隣に座る女の子に膝枕をしてもらった。子供特有の高い体温が、太ももを通じて直に私の頭を包み込んでくれる。実際、子供というのは体温を司る甲状腺ホルモンが活発だから、本当に体温が高いのだ。とても暖かくて、心地よい。思わず抱きしめてしまいたくなる。でも。
「嬉しい。私、色んな人からずっと悪魔だって言われ続けて来たんだもん。……本当に嬉しい」
本当に心地よいと思ってしまった理由は、やはりそれだ。
「嬉しすぎるから」
私は私の事を天使と認めてくれた彼女に感謝を示し。
「きみのお母さんも治してあげる」
女の子にそんな約束を取り付けた。
「……本当に?」
みるみると明るさを取り戻して行く女の子の瞳。遊園地ではしゃいでいた瞳とは、また違った輝きを放っている。この世の汚れを何一つ知らない、純真無垢な宝石。
「うん。本当。私の魔法見たでしょ? 私が魔法を使えば、お母さんの手術は100%成功するもん」
私はもっとその宝石に輝いて欲しいと願ったのだ。
別に難しい事なんかじゃない。なんせ彼女のお母さんは、事故に遭ってから三ヶ月もの間、大きな問題を起こす事もなく療養を続けているそうではないか。その上明日行うと言われている手術の内容は、骨の固定に用いたネジを取り外すだけの抜釘術。骨の回復が十分なレベルに達したからからこそ実施する手術だ。ならば彼女のお母さんが近いうちに全快するであろう事は、もはや言うまでもない。
でも、彼女はまだ幼い。お母さんの容態がどれだけ安定しているのかを医学的根拠を用いて説明した所で、知識の足りない彼女にはその事が理解出来ない。心配する程の事でもないのに、知識不足から来る無数の不安に包み込まれてしまうのだ。だったら話は早い。私がその不安を取り除いてあげればいい。
知識の足りないかつての人類は、さまざまな災害や流行病を神のせいだと決めつけ、恐れ慄いた。科学を知らないかつての人類は、全ての事象を神と結びつける以外に出来る事がなかった。
彼女も同じだ。知識の足りない彼女にとって、理解も出来ない医学的根拠は何の助けにもならない。でも、知識のない幼い彼女でも、天使と言う絶対的な存在なら理解する事が出来る。ならば簡単だ。彼女が絶対的な信頼を置く天使そのものが励ましてあげれば、それだけで全てが解決する。
お母さんは死なない。お母さんは治る。天使の私が彼女にそう言うだけで、彼女の顔からは不安がみるみると取り除かれて行った。
「……お母さん、死なないの?」
「死なないよ」
「本当に?」
「ほんとほんと」
「また嘘ついてない?」
「根に持つなー……。こんな大事な話に嘘はつかないって。いい?」
それでも彼女は一度私に嘘をつかれ身だからか、完全な信用までは得られそうになかった。だから私は彼女の目の前で両手を叩き、そして。
「はい。たった今、きみのお母さんの怪我は私に移りました」
私の四肢を覆う四つの義装を全て解除した。
「……」
「これでお母さんの腕は治ったはずだよ?」
膝から下を失った私の左足が、女の子の前にその姿を晒す。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
32
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる