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第三章 続 魔女と天使の腎臓

100人中77人が死ぬ

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『イヴ!』

 目を覚ますと、見知った顔と見知らぬ顔が複数混合した光景が私の事を覗き込んでいた。

『イヴ、わかる? あなた、玄関で倒れたのよ……?』

 見知った顔の一つはお母さんだ。青ざめた表情で食い入るように私の顔を凝視していて気持ち悪い。私の手を握るその年相応に干からびた手のひらの感触も、やはり私の不快感を強く刺激して来た。

『赤海さん。自身の身に何が起きたのか覚えていますか?』

 次に私に声をかけて来たのは見知らぬ男性だった。私はその男の人を知らない。今まで一度も会った事がない。けれどその男が身に纏う白衣のおかげで、この場所がどこなのかはすぐにわかった。別に彼でなくても、周りの景色や私の服装などから、ここがどこなのかはすぐに理解する事が出来たが。

『あー……』

 私は答える。白衣を纏った彼からの問いを、彼が望む以上の言葉を用いて答え切ってあげた。

『狭心症で意識を失ったんだね。高血糖が続いたせいで心臓の冠動脈に炎症が起きて、その傷口に悪玉コレステロールが蓄積していってたんだ。それが膨張して血管内部を狭めて、血流が極端に悪くなったのかな。冠動脈は心臓に栄養と酸素を送る大事な血管だから、この血管が詰まった影響は一気に心臓に出てくる。心不全が起きたんだ。でも、狭心症の割に痛みはあまり感じなかった。という事は糖尿病性神経障害も併発してるのかな。だとしたら私、結構危ないのかもね。糖尿病の三大合併症が「糖尿病性神経障害」、「糖尿病性腎症」、そして「糖尿病性網膜症」の三つ。このうちの二つが発症しているって事は、目の中の毛細血管も相当高血糖に破壊し尽くされてるよね。糖尿病性網膜症もかなり進行していそう。発症するのもいよいよかな。そうなったら目の中で大出血が起きてあっという間に失明だ。日本人の失明の原因第一位がこの糖尿病性網膜症なんだっけ? なら私の網膜が光を認識出来るのも今年が最後になるのかも知れないね。ううん、視覚だけじゃない。歩けるのも今年が最後になるのかも。神経障害を自覚した今だからわかるんだけど、なんとなく足の先端や指の先端の感覚が鈍くなっている気がするの。お母さんが握ってくれている手の感覚も、温かいというよりジンジンするって感じ。この痺れも進行したら傷を負っても気付けないくらい感覚が鈍くなって、そのせいで傷を放置しちゃって色んな細菌に感染するんでしょ? その上足は心臓から遠い分、血流が少ないから回復には時間がかかる。そこに糖尿病による狭心症や動脈硬化の影響が加われば、ちょっとした傷でも治るのに相当な時間がかかって壊死して行くんだ。そうなったら四肢切断も選択に入って来るし……、そうだなー……』

 そこまで言って、お医者さん達の方へ目を向ける。異形の物でも見るかのように目を丸めていた医療従事者のみんなが可笑しくて、思わず嘲笑いそうになってしまった。私はそんなお医者さんや看護師さんに向かって。

『透析患者の十年生存率は約40%。10人中6人が十年以内に死ぬ事になる。私の余命もそのくらい?』

 私なりの予想を訊ねてみた。

 それから数秒程沈黙が続く。皆が皆呆気に取られて言葉を失う中で、最初に言葉を発したのはお医者さんの方だった。彼は一旦咳払いを挟んだ後。

『ご自身の病気についてとても熱心に勉強なされているんですね。素晴らしいです』

 自分の動揺を悟られまいと、無理矢理笑顔を取り繕いながら、私なりの余命診断を真っ向から否定して来た。

『安心してください。そもそも透析を導入する平均年齢が大体60代後半ですので、十年後に亡くなると言ってもその時点で患者さんの年齢は70代後半。70代後半でお亡くなりになると言うのなら、それは極めて平均寿命まで生きたと言っても過言ではありません』

 お医者さんの優しい口調が私の鼓膜を撫で回す。そんな彼の言動を見て、私は思わず口角を吊り上げてしまった。そんな私を見て、お医者さんは私が安心してくれたのだと思ったのだろう。次々と私の寿命がまだまだ尽きない根拠を提示してくれた。

『実際、40代から透析を受け始めた患者さんの場合は、二十年以上も生きていらっしゃる方がとても多いです。赤海さんに至ってはまだ10代。その若さで透析を受け始める患者さんは珍しいですが、それでも前例は山のようにありますよ。そして彼らの多くは三十年後も四十年後も問題なく生き続けていて……』

『へー』

 饒舌に語り続けていた先生の口が、ある瞬間をもって唐突に止まり出した。私の笑顔に違和感を覚えたのだろう。やっと気付いてくれたようだ。私は自分が長生き出来る根拠を聞いて安心したから笑っているのではない。

『先生は患者さんの為に嘘を吐く優しい人なんだね』

 彼らの嘘を看破して嘲笑っているだけなのだ。

 次は私のターンだ。私はお医者さんがそうしたように、今度は私が長生き出来ない根拠を叩きつけるように吐き捨てた。

『ここまでペラペラ自分の症状を喋っている私が知らないわけないじゃん。先生の言うそれは、あくまでただの慢性腎不全を患った透析患者のデータだ。私が発症しているのは糖尿病性腎症。慢性腎不全の症状に加えて糖尿病による健康被害がいくつも併発して多くの合併症を引き起こすから、その生存率はぐーーーーんと下がっていく。糖尿病のリスクは私の若さ程度じゃどうにもならないよね。東京女子医科大学糖尿病センターが発行しているDiabetes Newsによると、糖尿病性腎症を患った透析患者の十年生存率は最低で23.2%にまで下がるそうだけど、その辺はどうなの? 糖尿病性腎症患者が十年後も生きていられるのは、100人中たったの23人しかいないみたいだけど。77人が死んじゃうみたいだけど。しかも私って透析を始めてもう四年目だよ? ……ねぇ、先生』

 もはやお医者さんは口を開こうとはしなかった。私が吐き出す早死にの根拠を、ただただ黙って聞き取るだけだった。

『私、早ければ今年死んでもおかしくないんじゃない?』

 そして私のその問いに、この場の誰もが肯定も否定もしてくれなかった事から、私は自分の余命を思う存分実感する事が出来たのだった。

 こうして健常者のふりが出来なくなった私の高校生活が幕を開ける事になる。私はこの日をもって、心臓の負担やその他合併症などを考慮し、短い期間での入退院を繰り返すようになったのだ。

 これまでは二日に一回、およそ六時間に渡る拘束を透析に捧げていたものの、しかしそれ以外の生活面では、食事の管理やインスリン注射さえ気をつけていれば、他は大して健常者と変わらない日々を送る事が出来ていた。

 けれど、そういう日々はもう終わりだ。今までは健常者の生活が出来ていた障害者だったが、これからは真の障害者として法律に烙印を捺される事になる。

 障害者厚生年金。病や怪我、障害の度合いによって国から支給される公的年金。私の糖尿病は、現時点で障害者厚生年金3級に該当するレベルまで進行している。更に私は糖尿病の合併症である腎症が既に発症しており、神経障害や網膜症などの兆候も見られる事から、近いうちには障害者厚生年金1級相当の障害者として国に認定される事だろう。

 とは言え障害者厚生年金は、二十歳になって国民年金を支払っている事が受給の為の絶対条件である。今私が受けているのは、未成年でも支給される障害基礎年金の方だっけ? ま、どうせ二十歳になる前に死ぬ予定の私には縁のない話だ。そもそもお金なんてザンドのおかげでいくらでも手に入るわけだし。私は病室の窓から空を眺め、これからの自分について考えた。




『やっほー、久しぶりー。いやー、ごめんね? 五日も放ったらかしにしちゃって』

 高校生活一週間目。登校日数は入学式の一日のみ。五日間の入院生活を経て退院した私は、真っ先に005号と私のクローンの様子を見に行った。

 レンタルルームの中に入り、真っ先に感じたのは室内に漂う異臭だった。当然だ。以前は毎日のように災害用組み立て式トイレの処理を行っていたのに、私が入院なんかしたせいで五日分の排泄物が溜まっている。二人には悪い事をしてしまった。お風呂だって五日も入れてあげられなかったわけだし。

 部屋の隅に目を向けると、私のクローン用に買っておいた粉ミルクや離乳食などのゴミが無造作に捨てられていた。食事に関してはこれらを食べる事で凌ぐ事が出来たのだろう。粉ミルクを作るために、電気ケトルと大量の天然水も置いて行った事から、水分摂取に関しても特に大きな問題はなさそうだった。強いて言えば、私を睨みつける005号の形相だけが気になるけれど。

『だからごめんって。そんな怖い顔しないでよ。ほら、これ。お詫びのフリーズドライいっぱい買って来たから。お湯をかけるだけで美味しいご飯が出来上がるから、また私が来なくなった時はこれを食べてね』

 005号は鬼の形相を浮かべながらも、私のクローンを愛おしそうに抱きしめながら授乳させていた。私はそんな005号の前に大量のフリーズドライを差し入れる。真空凍結乾燥によって水分を取り除いた保存食で、軍隊の携帯食や登山食などでも活用されるご馳走だ。その種類も飽きが来ないように各種雑炊、各種スープ、カレー、シチュー、親子丼、リゾット、お粥、フルーツ、中華丼、牛丼、そうめんなど、様々な物を用意しておいた。

 これだけの食料があれば、また私の身に何かあって、しばらく入院する事になっても心配はないだろう。敢えて心配事をあげるなら、005号が私への当てつけにクローンの育児を放棄してしまう可能性だったけれど。

 しかし素直に授乳させている姿を見るに、その心配もなさそうかな。私のクローンは現状005号の唯一の味方のような存在だ。とても愛おしそうに、私という外敵から我が子を守るように抱きしめている。これなら思う存分狭心症の発作で倒れられるよ。

 狭心症。心臓に酸素や栄養を供給する冠動脈が狭まる事で、心臓に十分な酸素が供給出来なくなり、胸の痛みや締め付けられるような圧迫感が発生する病気。私の冠動脈は糖尿病による高血糖に何度も攻撃され、炎症を繰り返した事でズタボロになっていたようだ。

 その際に生まれた傷口に悪玉コレステロールが入り込んで蓄積されると、冠動脈の内部で巨大なこぶを形成する。そのこぶが冠動脈の血流を妨げた事で、私の心臓は酸素不足に陥り、そして私は意識を失った。こうして私は心臓に負担がかからないよう、今後一切の激しい運動をお医者さんから禁じられてしまったわけだ。

 また、これらの現象は何も冠動脈だけに起こる事ではない。全身のあらゆる血管で発生し得る事である。もしも脳で同じような事が起こり、脳血管内部にもこぶが出来た場合。かつて林田がそうなったように、私も脳梗塞を起こして死亡するなり、重度の障害を残す事になるのだろう。初めて殺した相手と同じ死に方をするリスクを背負うとか、皮肉な展開になったものだ。

『いい? 二人とも。私、これからは来れない日も頻繁にあると思うけど、私がいないからって寂しがらないでね?』

 私の顔にフリーズドライが投げられた。ちょっとしたジョークのつもりなのに、手痛いツッコミだな。

『心配しないでよ。三ヶ月以内には005号も解放してあげるつもりだから』

 私は二人の元へ歩み寄り、明確な殺意を向ける005号の顎を引いて、飲み込むように彼女の瞳を見つめた。

『復讐、楽しみにしてる。今まで私にされた事、そっくりそのまま返してよ。ううん、それ以上の事も期待しているから。……私が生きている内に、ちゃんと復讐してよね? ザンド』

 私は005号の顎から手を離し、彼女の殺意を顔に受けながら彼女に魔法をかけた。消音の魔法と拘束の魔法である。私に対する明確な復讐心を抱いた彼女は、もはや私に命を握られようがお構いなしに暴れ回る可能性がある。それだと困るんだ。

『さて。じゃあ五日ぶりのお風呂にしよっか?』

 折角今から五日ぶりに体を綺麗にしてあげようとしているのだから。

 私は五日ぶりのお風呂として、赤ちゃんのお尻拭き用濡れティッシュで005号の体を拭いてあげた。頭から爪先まで、体の隅々まで余す所なく、体の外側も内側も、005号に最大の恥と屈辱感を与える形で、舐め回すように彼女の体を拭いてあげた。その度に猛獣の如く暴れ回る005号を見て、彼女に拘束の魔法をかけて良かったと安堵する。果たして私が生きている内に、彼女は私を犯す事が出来るのだろうか。魔法と体が限界に達しかけている私の楽しみは、もはやそのくらいしか残っていない。
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