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第三章 魔女と天使の心臓

九月八日 約束を守った

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「え」

 思わず驚いた。私がドアを開けるよりも先に病室のドアが勝手に開いたからだ。けれどここの病室が自動ドアでない事は、何ヶ月も通い続けている私自身がよく知っている。

「あら。トヨリちゃんのお友達?」

 ドアが勝手に開いた理由はすぐに判明する。中からスーツを着こなした一人のおばさんが出てきたのだ。

「え……あぁ、うん」

 いきなり見知らぬ大人が出てきたもんだから、私は動揺してそんな素気ない返事しか出来なかった。しかしおばさんはそんな私にも愛想の良い笑顔を浮かべながら。

「へー、トヨリちゃんにお友達が。仲良くしてあげてね?」

 そう言って静かにこの場を立ち去った。結局私は彼女が何者なのかもわからないままトヨリの部屋へ入室した。別に彼女本人に聞かなくてもトヨリに聞けばいい事だし。

「よぉ、トヨリ。なんか今初めて見るおばさんとすれ違ったんだけど親戚か何かか?」

 部屋に入る。今日のトヨリはボールペンを片手に一枚のカードと睨めっこをしていた。トヨリは私の存在に気がつくと、ペンをベッドテーブルの上に置いてこう答えた。

「……コーディネーターだよ」

 だから私はこう返した。

「コーディネートはこうでねえと」

「……」

「なっはっはっはっ! ……っておい⁉︎ 何でナースコール押そうとしてんだよ⁉︎」

「……いや、なんか心臓止まりそうになったから」

「お前が言うと洒落になんねえだろ!」

 私はトヨリからナースコールを取り上げる。トヨリはそんな私に呆れ混じりの視線を送るも、しかしため息を挟んでほのかに笑う。そしてさっきの来客の正式な身分について教えてくれた。

「臓器移植コーディネーターだよ」

「……え」

 私はその答えに驚きを隠せなかった。

「……嬉しいんだ?」

 トヨリに言われて気がつく。確かに真っ暗なノートパソコンのモニターには、次第に大きな笑顔へと移り変わる私の間抜けな顔が写っていた。けれどそんな私の顔はすぐにまた無表情へと戻るのだ。トヨリが悪戯っ子が浮かべるような憎たらしい笑みを浮かべながら、ベッドテーブルの上に置いた一枚のカードを私に見せてきたから。

「……でも残念。したのは貰う方のお話じゃなくて、あげる方のお話でした」

 そのカードには天使のイラストが描かれていた。赤いハートで心臓が強調された天使のイラストだ。臓器提供意思表示カード。その裏面には四つの項目が記載されている。

 項目その一。≪1、2、3、いずれかの番号を○で囲んでください≫

【1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します。

 2.私は、心臓が停止した死後に限り、移植の為に臓器を提供します。

 3.私は、臓器を提供しません。】

 トヨリは1に○をつけていた。

 項目その二。≪1.または2.を選んだ方で、提供したくない臓器があれば、×をつけてください。≫

【心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸・眼球】

 トヨリはそのいずれにも×をつけなかった。

 項目その三。≪特記欄≫

 トヨリが書いた特記は特に無し。

 項目その四。≪署名欄≫

 そこにはトヨリ本人の名前だけがサインされており、家族の署名だけが白紙の状態だった。

「……そんな顔しないでよ。死にたいって意味じゃないんだから。仮に死んだらこうして欲しいって……お願いしただけ。……ていうかみほりちゃん、さっきから不謹慎。私が移植を受けられるって事は……私じゃないどこかの誰かが死ぬって事だよ?」

「それは……そうだけど」

 トヨリの言っている事は理解出来たけど、しかしだからといって私の表情が晴れるはずがない。トヨリが何て言おうと、それでも私にはトヨリのしたその行動が、まるで自殺をする前の身辺整理にしか見えなかったからだ。

「何で急にこんなもん書こうと思ったんだよ」

「……おかしい? 誰かが死んだらその臓器を貰うかも知れないのに……、私が死んだ時は臓器をあげたくないって……それこそ図々しくない?」

 言い返す言葉は何も思い浮かばなかった。それでも私に些細な抵抗が出来るとすれば……。

「これ、せめて二番だけにチェックする事は出来ねえのか?」

 臓器提供意思表示カードの項目その一。脳死及び心停止した際に臓器提供をするか、心停止した時のみ臓器提供をするかの選択。トヨリは一番にチェックを入れていたけれど。

「脳死って要するに植物人間だろ? テレビとかでもよくやってるじゃねえか。何十年も寝た切りだった人が意識を取り戻したとか。……そりゃあ仮に。仮にだぞ仮に! もしも仮にお前が死ぬとしたら、確率的には心臓が止まる可能性の方が圧倒的に高いのはわかってる。でも、万が一脳死とかになったらさ。ほんの少しでも回復する可能性があるのに、臓器を誰かにあげちゃったりしたら……」

 タロウの言っていた通りだな。この国には脳死を人の死だと認めない風習が染み付いている。そんな国で五年も生きたせいだろうか。私も脳死を人の死だと思う事が出来ない。なんなら海外の方がおかしいとまで思ってしまっている。植物人間が目を覚ましたエピソードなんて無数に存在するんだぞ。万が一でも回復する可能性は確かにあるのに……。

 心臓が完全に止まったのなら、そりゃあもう死だ。絶対的な死だと諦めがつく。でも脳死だったらどんなに低かろうが回復する可能性があるんだぞ。それなのに脳死した家族の臓器を誰かに渡すだなんて……。

「……回復しないよ」

 しかしそんな私の心配は杞憂に終わる。どうやら私は大きな勘違いをしていたらしい。

「……勘違いしている人もいるけど、脳死と植物人間は別物なんだって。……植物人間は脳の一部が生きていて、回復する見込みがある人の事を言うの。……でも、脳死は脳が完全に死んだ人の事を指すんだよ。回復する見込みはゼロ。絶対に意識を取り戻さない。……ただ、たまたま体は生きているから。だからお医者さんと、看護師さんと、そして色んな機械の力を借りて……、心臓と肺を無理矢理動かし続けているだけ。……コーディネーターの人から教えてもらった」

 私は勘違いを正されてしまった。回復する見込みのある植物人間と、回復する見込みのない脳死か。確かにそりゃあ別物だ。全然違う状態だわ。私は理解した。脳死と植物人間の状態を間違いなく理解した。だからこれはその二つを理解した上でも受け入れきれない、単なる私のわがままだ。

「でも、体は生きているんだろ? 大体脳死は絶対に回復しないなんて誰が決めたんだよ。脳死になった人を寿命が来るまで生かし続けたデータとかあんのか? あったとして何件だ? 一件か? 百件か? 一万件か? 百万件くらいデータがあんなら諦めもつくけど、絶対そんなにないだろ。脳死は回復しないって医者が言うからみんなそれを鵜呑みにして生かすのを諦めちゃうんじゃねえのか?」

「……」

「私は嫌だ……。頭が死んでるからって心まで死んだだなんて思えない。私は脳死になっても臓器をあげたいなんて思わねえし、私の知り合いが脳死になったら、何が何でも臓器を明け渡したりなんかしない。そりゃあお前がやろうとしている事はすげえ立派な事だと思うけど……。……でも、出来れば二番にチェックを入れて欲しい。心臓が止まったんなら、私だって諦められるし」

「……やだ」

「なんで……」

「……脳死と心停止だと再利用出来る臓器が変わってくるんだって。脳死の場合はほぼ全ての臓器が健康。……でも、心臓が止まった場合は血の流れも止まるでしょ? だからしばらくの間……、血から栄養や酸素を受け取れなかった不健康な臓器になっちゃうんだよ。その場合提供出来る臓器は……、腎臓と、膵臓と、眼球のたった三つだけなんだって。だから二番にはチェックしてあげなーい」

 トヨリは揶揄うように私を笑った。

「……悲しい?」

「当たり前だ」

「……不愉快?」

「当たり前だ!」

「……そう。じゃあ、大満足」

 そしてトヨリは過去一番の笑みを私に向けたのだ。本当に楽しそうに私に笑いかけた。

「……みほりちゃんには散々イライラさせられたからね。これでおあいこ」

「……」

「……やっと対等になれた。……ざまあみろ」

 トヨリはそう言うとベッドテーブルの上を片し始める。まっさらになったテーブルを見ながらトヨリは私に語りかけた。

「……今日はゲームしないの?」

「え? ゲーム?」

「……なんだ。違うんだ」

「いや、一応持ってきてるけど……」

「……持って来てるんじゃん。ならやろうよ。友達とゲームしに来たんじゃないの?」

 そこで私は一瞬だけ言葉に詰まる。トヨリの口から予想外の言葉が出て来たからだ。

「……また間抜けな顔してる。……言ったじゃん、対等になれたって。友達ってそう言う事でしょ?」

「……」

 まだだ。まだ言葉が出ない。言いたい事は沢山ある。沢山ありすぎて口の中が大渋滞だ。それでも考えて、考えて、考え抜いて。そしてやっと出て来た言葉はというと。

「もっと他にやり方ってもんがあんだろぉー……っ⁉︎」

 そんな泣き言。トヨリは私のそんな無様な様子を見ながら、やはり楽しそうに笑みを溢した。

「……まぁ、安心しなよ。脳死なんてそう滅多になるもんじゃないもん。……それこそ宝くじに当たるようなもんだよ。特に私なんて常に機械で健康状態を……チェックされてるからね。脳死なんて絶対ありえないから」

 Switchの準備をする私を落ち着かせるようにトヨリは呟く。バトル漫画で出てくる「やったか⁉︎」並みのフラグだった。そこで私はふと思ったんだ。今回の一件はあくまでトヨリ自身に関する問題だ。トヨリは自分の命を酷く軽視している。トヨリが堂々と一番にチェックをいれたのは、そう言った要因も関わっているのだろう。なら、別の命ならどうだろう。トヨリが重視している他者の命で同じことがあったら、その時トヨリはどう答えるんだろう。

「なぁ、トヨリ。もし私もそのカードにサインするって言ったらどう思う?」

「……良いと思う」

「一番にチェックしてもか?」

「それはダメ」

「……」

 私はトヨリにコントローラーを投げ渡した。

「言ってる事めちゃくちゃじゃねえか」

 どちらかと言えば鬱憤を晴らす為に投げつけたと言った方がいいのかもしれない。Switchの準備を終えた所で私はトヨリの隣に腰を下ろす。ゲームが起動するまでしばしの雑談タイムだ。

「……それとこれとは話が別。みほりちゃんは生きているもん」

 私の太ももに適度な重さと暖かさが宿った。トヨリがゴロンと寝転がり、無許可で私の太ももを膝枕に利用している。

「その姿勢だと見にくくね?」

「……嫌なの?」

「別にどっちでも」

「……じゃあこれでいい」

 その際、トヨリの掛け布団が僅かにはだけてトヨリの体が大気に露出したから、私は掛け布団に手を伸ばし、もう一度トヨリの体にかけてやった。

「……生きている人はね。同じく生きている人を幸せにしてあげられるんだよ」

 私の太ももから声が響く。私は構わずゲームの操作を続けた。

「……死にかけの私は生きている人を幸せにしてあげられない。……でも、同じ死にかけている人なら幸せに出来るんだって気がついた」

「それが臓器提供か」

「……そう」

「でもお前が死んじまうじゃねえか。それじゃあ私にとってもおっさんにとっても意味がねえよ」

「……私にとっては意味があるの」

 トヨリが一度頭を上げ、再びポスンと私の太ももに頭を落とした。頭突きでもしているつもりなのだろう。

「……みほりちゃんは生きてるんだから。臓器提供とか、そんな死んだ後の事なんて考えないでいいの。……生きながら誰かを幸せにしてあげられるんだから」

 だから私はお返しとばかりにトヨリの頬を摘んだ。頬を摘んで引っ張ってやった。

「お前だって生きてるだろ」

「……」

「明日、それを証明してやる」

「……へ?」

 見上げるトヨリ。私はそんなトヨリの顔を見下ろしながら、満面の笑みを浮かべて教えてやった。

「約束したろ? 明日、ポテチとプリンを死ぬほど食わせてやる」




 ◇◆◇◆

 237日。僕の主人によって蘇生されたトヨリの残りの寿命。勿論237日後ちょうどに絶命するのかと言うと、そうでもない。何らかの事故や感染症にかかればそれより早く死亡する可能性もあるし、逆により適した治療を施せたのならそれより長く生きる可能性だって十分ある。仮に心臓移植を受けさせられたなら、人間本来の平均寿命を全うする事だって出来るだろう。

 けれどお父さんはトヨリの体を一年分しか若返らせていない。心臓移植を前向きに検討するなら、拡張型心筋症が発症したばかりの頃まで若返らせてもよかったはずだ。

 理由は色々あるのだろう。僕の主人が扱える魔法は死者を蘇らせる魔法。死体さえ残っていれば、例えそれが燃え尽きた後の遺骨の一部であろうが蘇生させる事が出来る。けれど原理で言えばそれは死者を蘇らせると言うより、体の時間を戻しているだけに過ぎない。当然脳細胞の時間も戻るのだから、若返った分だけ海馬に蓄積された記憶も失われる。お父さんがトヨリをあまり若返らせたくない理由の一つだ。……でも、お父さんにはそれよりも大事な理由があったようで。

『トヨリの泣き喚いた姿を見た事があるかい?』

『ううん。一度もない』

『だろうね。あの子は人前で涙を見せたがらない。今でこそ病気の苦しさで涙を流したりもするけど、感情的な涙は本当に見せてくれないんだ。僕だって一度しか見た事がないよ。あの子が泣き喚いた姿なんて。……そして、二度と見たくないとも思った』

 僕は泣き喚くトヨリを見た事がない。病気を発症して暫く経った頃に、死を恐れて泣き喚いたという話は聞いているけど、それも俄には信じられない。彼女は普通の人間でもなければ普通の子供でもないのだ。

 彼女は人外のふりをする人間だ。彼女はお父さんの前でだけ猫を被る、子供のふりをした子供だ。死と隣り合わせの生活を続けているせいか、それとも死を受け入れているからなのか、彼女の精神年齢は同年代を凌駕している。それが僕がトヨリに抱く印象なのだけれど。

「……」

 トヨリの病室に足を踏み入れて、思わず言葉を失う。そこには僕の知るトヨリの姿がなかったのだ。そこにいたのは僕の印象を真っ向から否定するトヨリだった。

 遊び疲れたのだろうか。ベッドテーブルの上ではつけっぱなしのSwitchが電池切れ寸前で耐えており、その両脇にはコントローラーも転がっている。そして肝心のベッドの上では二人の女の子が揃って寝息を立てていた。

 みほりちゃんの腕枕に自分の頭を預けるトヨリの姿は酷く年相応で、このトヨリなら感情に任せて泣き喚く姿も容易に想像出来ると、そう思った。
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