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第三章 魔女と天使の心臓
九月六日 助けた
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「……」
「……何?」
「いや、だってお前……」
学校帰りなのだろう。通学鞄を背負ったみほりちゃんは病室に入るや否や、驚いたような表情で間抜けにも口を半開きにしていた。彼女が驚く原因はきっとあれとそれとこれだろう。開いた窓、明るい部屋、高めの室温。全部彼女がそうするように言ってきた事だ。
「どうしたんだよ。急に素直になりやがって」
「……何? そっちがやれって言った癖に文句?」
「別にそんな事言ってねえだろ! 意外だっただけだ。どんな心境の変化だ?」
心境の変化か。確かに昨日のあれから私は考えを改める事にした。みほりちゃんは押すと反発してくる。引いたら引いたで別の嫌がらせをしてくる。だから私は押すでも引くでもない、第三の接し方を選ぶ事にした。彼女の言う事を問答無用で全て聞き入れる事にしたのだ。
「……なんでもいいでしょ。……で? 次は何をすればいいの?」
「は?」
「……は? じゃなくて。何をすればいいの? ……なんでも言ってよ。全部みほりちゃんの言う通りにするから。何を言われても黙って従うから。……みほりちゃんが満足するまで。みほりちゃんが満足して、私に飽きるまで。奴隷にでもなんでもなるよ。……ほら」
私は掛け布団を取っ払い、ベッドの上で大の字になった。犬で言う所の服従のポーズだ。
「……好きにしなよ。これでいいんでしょ?」
みほりちゃんとの第三の接し方。それは彼女の全てを受け入れ、全てを許容すると言ったもの。押してもダメ、引いてもダメ。パパもみほりちゃんの肩を持ち気味だし、だったらもう彼女の事を受け入れるしかないと思った。彼女が満足し、そして私に飽きるまで耐えるのが私に出来る唯一の抵抗だと思った。一つの玩具で長期間遊べる子供なんてそうそういない。玩具が毎回違った挙動をすればいつまでも遊べるかもしれないけれど、決まった動きしかしない玩具程飽きやすいものはない。
彼女は酷いエゴイストだ。だから私は彼女のエゴが満たされるまで、ひたすら玩具としてあり続けようと心に決めた。彼女のエゴが私に飽きるまで、いつまでも玩具でい続けようと思った。
「ざけんな馬鹿。最初から言ってんだろ。私はお前を友達にしたいんだよ。奴隷にしたいんじゃねえっつうの」
みほりちゃんはそう言うけれど、どうせそれもただの綺麗事だ。私だったら寧ろ嬉しいんだけどな、自分の言う事を全部聞いてくれる人形とか。あの人間擬きだって黙ってそうしていれば受け入れてあげたのに。それこそ飽きるまで私の側に置いてあげたのに。
「……エゴと綺麗事の塊だね。……信じられるか、そんなの」
「今は信じなくていい。そのうち信じさせる」
「……無理無理。絶対有り得ない。……私の性格の悪さなんて私が一番よく知ってるよ。……私がみほりちゃんの立場だったら、私みたいな面倒な人と仲良くなりたいだなんて絶対思わないから」
「あぁ、同感だね。私もお前と話してて何度も疑問に思うよ。私マジでこいつと友達になろうとしてんの? ヤバくね? ってな」
「……じゃあ来るなよ。同じ事何度も言わせるな」
もはやお馴染みのフレーズと化しそうな一言を突きつけると、みほりちゃんは苦笑いを浮かべながらとあるお話を口にした。
「一昨日さ。お前に泣かれて家に帰った後、ちょっとした知り合いに電話で相談したんだ」
知ったこっちゃない話だった。私は彼女に興味はない。彼女の持つ幽霊にこそ興味はあるものの、彼女への嫌悪感は幽霊への好奇心さえ大きく上回っている。だから当然彼女の関係者にだって興味が湧くはずがないのだ。……しかし。
「そいつ、小さい頃から幽霊みたいな変な物を見続けていてな。人の嘘にも敏感で、そして動物にも懐かれる不思議な奴なんだ。どっかの誰かと似てるだろ?」
「……」
そのどこかで聞き覚えのある特徴を持った一人の人間の話ともなると、流石の私も興味を持たないわけにはいかなくなる。
「でもそいつの性格はお前とは正反対なんだぜ? 素直で、優しくて、嘘臭くない笑顔をいつも見せてくれるいい奴だ。そいつさ、小さい頃にネッシーを見たって言うんだよ。そんな嘘臭い話を話をクラスメイトに堂々と言いふらすもんだから、昔から色んな人に嘘つき呼ばわりされていたらしい。でも、そいつには絶対的な味方がいたんだ。何を言っても全部信じてくれて、一度も自分の事を疑ったりなんかしなくて、最初から最後まで自分の味方でい続けた姉ちゃんがな。そいつ、私にこう言うんだよ。『もしも僕が素直な人間に見えるなら、それは姉ちゃんに嫌われる人間になりたくなかったからだよ。姉ちゃんがいなかったら、多分僕の性格も相当歪んでいたんじゃないかな』って。……それで」
私と似ているけど、私とは正反対の人。素直で、優しくて、嘘臭くない笑顔をいつも浮かべるような、そんな人。そんなどこぞの誰かさんの話をするみほりちゃんの表情も、いつの間にか苦笑いからただの笑顔へと成り果てていた。
「お前の事も見捨てないであげて欲しいって、そう言われた」
「……」
それが私の聖域を穢す蛮行のきっかけになったと言うのなら、むしろ私はその誰かさんを許す事が出来ないと思うけれど。
「お前の父ちゃんはいい奴だ。でも、それ以上に忙しい奴らしいじゃん。介護士ってそう言う仕事なんだろ? だからお前の父ちゃんがいない間は、仕方ねえから私がお前の味方になる事にした」
「……へー。要するに仲の良い人にお願いされて嫌々私の味方をしているわけね」
「そうだな。昨日まではそうだった」
「……昨日までは?」
「おう。今は少しだけど、私の意思でお前と仲良くなりたいって思ってる。お前、そこそこいい奴だったんだな」
彼女の視線が私の手首へ向けられる。まさか彼女はこの程度の行いで私を善人だと判断したのだろうか。だとしたら彼女は救いようのない馬鹿だ。お人好しを超えた、疑う事を知らない偽善者。疑う事を放棄した単細胞。
「……」
「だからそれは見過ごせねえよ」
「あ」
その単細胞の小さな手のひらが私の手首を掴む。それは彼女の手のひらの中で一つの命が潰えた瞬間でもあった。
「……なんで殺すの?」
みほりちゃんが私の手首から手を離す。そこでは数秒前まで一匹の蚊が私の血液を吸っていたのに、今となっては見る影もない。みほりちゃんの拳の中で息絶えてしまったのだろう。
彼女は窓を開けたら入って来た来客だ。とは言え私は彼女にお茶もお茶菓子も出す事が出来ないから、代わりに私の血液を飲ませていたのだけれど。みほりちゃんに対する嫌悪感がますます私の中で積み重なっていく。
「なんでもクソもあるかよ。ニュースくらい見てんだろ? 先月、デング熱とかいう病気を移す蚊がこの辺に出たって」
「……あー、あれね。蚊からしたら傍迷惑な話だよね。同じ蚊なのに命に優劣をつけられて集中的に駆除されるとか」
そのニュースなら私も知っている。けれど殺虫剤の散布による殺虫作業はとっくに終わっているはずだ。本当に酷い話だと思った。殺虫剤に蚊だけを選別して殺す作用はないから、きっとその公園近辺に生息していた多くの虫が巻き添えを食らう羽目になった事だろう。該当する蚊にしたって好きでそんな病気を移しているわけでもないはずなのに。
「……気にしすぎだよ。その蚊はとっくに死んでるはずだし」
「万が一があったらどうすんだよ!」
「……別にいいじゃん。それで私が死んだらその時はその時だ。殺されただなんて思わない。むしろ助けて貰えたって思うもん。……こんな苦しい生活とはさよならして、あの世で天使になるんだ。蚊だって私のおかげで栄養をたっぷり貰えるんだし……公平でいいじゃん?」
「馬鹿言うな。お前と蚊の命が同じだって言いてえのか?」
そんなみほりちゃんの主張を聞いて、私は思い出していた。かつて先生から言われた、命の重さに関する話だ。
「……人間ってすぐ命に差をつけるよね。……例えばYouTubeに野良猫がネズミや雀を狩る動画があるんだけど……、高評価の数が凄く多いんだ。……そこのコメント欄もとても温かかいの。こうやって命は巡っている、生きるという事はこう言う事、命の大切さを教えてくれるいい動画、……とかね」
なんなら今からでもその動画を見せようとも思ったけれど、しかし一々こいつの為にパソコンを操作するのも面倒だからやめた。
「……でもね。中にはより強い動物に猫が食べられちゃう動画なんかもあるの。……低評価の数が表示されていた頃は凄い数の低評価がついてたなー。面白いよね? ……猫の狩りは沢山の人から高評価を貰える尊い行為なのに、……猫が狩られるのは絶対に許せない最低な行為みたい。……人間ってそう言うもんだよ。人を見た目で判断しちゃいけないって……綺麗事を言いながら、自分達だって気持ちの悪い虫や……両生類、爬虫類なんかを差別して。……そして可愛い哺乳類にだけ優しくするんだ。私も昔はそうだった」
先生は猫とゴキブリに例えてこのお話をしてくれた。あの時は私も先生の言葉に少しつっかかってしまったけど、でも今の私にならわかる。こんな体になってしまった私だからわかったのだ。
この世には差別しても良い命というのが間違いなく存在する。でもそれは虫じゃない。魚類でも両生類でも爬虫類でも鳥類でも、ましてや哺乳類でもない。
「……だけどもう、そう言うのはやめた。そんな人間らしい事、……私はもうしたくない。そもそも私は命を差別出来る立場じゃないもん。……私の命は虫よりも軽いの。虫は凄いんだよ? 花粉を運んだり土を耕したりして……植物を育ててくれる。自分自身が餌になる事で……沢山の動物も育ててくれる。……生きているだけで沢山の生命を救ってくれる、命の神様だ」
差別されるべき命は、私のような使い道のない命だけなのだ。
「……それに比べて私はなんだろう。……私が生きたところで誰を助けられるの? 私は自分が生きる為に……沢山の命を使っている。ご飯も、お薬も、この服も。誰の役にも立てない私の為に、……沢山の命を殺して……作られてるんだ。……私が適当な野生動物なら、……最悪死ねば誰かのご飯になってあげる事も……出来たのかも知れないけど。……人間に生まれた私にはそんな事さえ出来やしない。他の命を一方的に食べて、……命の無駄遣いをしているだけだよ。……私なんかより、蚊の方がよっぽど何かの役に立って……」
そして。
「わかる!」
「……」
私はみほりちゃんに心の底から同意されてしまったわけだ。
「後半は何言ってんのかわかんなかったけど、でもめっちゃわかる! 人間ってマジで差別するよな? マジでやべえよ人間。例えばほら、うちの近くに野良猫の親子がいんだけど、親猫の顔がアホみたいにブサイクなんだよ。それでも子猫がいるって事は結婚してるって事だろ? やっぱ結婚するかどうかの基準に顔の審査を入れる人間ってクソだなーってめっちゃ思った」
やはり彼女は馬鹿なんだと改めて理解した瞬間だ。人って確かIQが20違うと全く話が通じないと言うらしいけれど、もはや彼女に至ってはIQという概念そのものが存在しない別世界の化け物のように思えてしまってならない。
「で、私もそんな人間の一人だ」
……ならないと、そう思ったのだけれど。
「お前には私がどう見えているのかわかんねえけど、私なんてそこいらの人間と大して変わんねえよ。私も差別が大好きだ」
でも、そんな事はなかった。別世界の化け物と評したのは撤回しよう。彼女はやはり人間だ。人間以上に人間らしい存在なのだと思い知らされる。
「私にとっちゃお前の命は蚊の何兆億倍も重い。蚊だけじゃねえぞ? 地球の人口全部合わせてもお前の命の重さは間違いなくトップ100に入ってる。私の知らない何十億人の命より、私が知っているお前の命の方が何億倍も上だ。だから変な病気を移すかもしれないこいつにお前の血を吸わせる事は出来ねえんだよ」
そしてみほりちゃんは私に拳を突き出した。ついさっき私の手首を掴み、そして蚊を握り潰したであろうその拳を突き出して。
「吸うなら私の血を吸えばいいんだ」
その握り拳を静かに開いた。その中ではてっきり握りつぶされていたと思っていたさっきの蚊が、彼女の手のひらに針を突き刺しながらたんまりとお腹を膨らませていた。
「おぉぅ……、お前めちゃくちゃ飲みやがったな。そんだけ飲んだらもう十分だろ? ほら帰った帰った」
みほりちゃんは彼女を窓の外へと追いやり、そして網戸を閉める。
「トヨリ。今回は見逃すけど今度は網戸もしっかり閉めろよな? 毎回害虫に入られたらたまったもんじゃねえぞ」
そして網戸ごと窓を開けてしまった私に対して不満を述べたのだけれど、すぐに彼女の表情に変化が訪れた。まるで珍しい物でも見るような、そんな気の抜けた表情だった。驚いたように私の顔を覗き込むみほりちゃんの表情が、どこか間抜けで笑えてくる。私はそんな彼女に一つの質問を投げかけた。
「……蚊ってどうして血を吸うか知ってる?」
「え? ……あー、あれだろ? 血を吸う蚊はみんなメスで、子供の為に沢山の栄養が必要だから血を吸うってやつ」
「……そうだね。そして生まれて来た子供は水を綺麗にしたり……、魚や鳥の餌になって自然を豊かにしてくれるんだ。……そうやって巡り回った命がいつかはみほりちゃんにも届いて……遠回りな恩返しになったりするのかもね」
「お、おう……。よくわかんねえけど褒めてくれてるって事でいいのか?」
困ったように問いかけるみほりちゃん。彼女が口を開く度に私はこう思わずにはいられない。やはり彼女は頭が悪い、と。
「……そんなわけないじゃん」
私が彼女を褒めるなんて、そんなの天地がひっくり返ってもあり得ない事くらい良い加減わかって欲しいものだ。だから当然次に私が発した言葉も、決して彼女を褒めたわけではない。私はただ事実を述べた、それだけの事なのだ。
「……ただ、少しはいいとこあるじゃんって思った」
「……」
「……それだけ」
それから数秒の沈黙を挟んだ後、みほりちゃんは満面の笑みを浮かべながらこう呟いた。
「だろ!」
真っ暗なノートパソコンに移る私の口角も、ほんの僅かに上がっているような気がしたけれど。それに関しては単なる気のせいだと思う事にした。
「……何?」
「いや、だってお前……」
学校帰りなのだろう。通学鞄を背負ったみほりちゃんは病室に入るや否や、驚いたような表情で間抜けにも口を半開きにしていた。彼女が驚く原因はきっとあれとそれとこれだろう。開いた窓、明るい部屋、高めの室温。全部彼女がそうするように言ってきた事だ。
「どうしたんだよ。急に素直になりやがって」
「……何? そっちがやれって言った癖に文句?」
「別にそんな事言ってねえだろ! 意外だっただけだ。どんな心境の変化だ?」
心境の変化か。確かに昨日のあれから私は考えを改める事にした。みほりちゃんは押すと反発してくる。引いたら引いたで別の嫌がらせをしてくる。だから私は押すでも引くでもない、第三の接し方を選ぶ事にした。彼女の言う事を問答無用で全て聞き入れる事にしたのだ。
「……なんでもいいでしょ。……で? 次は何をすればいいの?」
「は?」
「……は? じゃなくて。何をすればいいの? ……なんでも言ってよ。全部みほりちゃんの言う通りにするから。何を言われても黙って従うから。……みほりちゃんが満足するまで。みほりちゃんが満足して、私に飽きるまで。奴隷にでもなんでもなるよ。……ほら」
私は掛け布団を取っ払い、ベッドの上で大の字になった。犬で言う所の服従のポーズだ。
「……好きにしなよ。これでいいんでしょ?」
みほりちゃんとの第三の接し方。それは彼女の全てを受け入れ、全てを許容すると言ったもの。押してもダメ、引いてもダメ。パパもみほりちゃんの肩を持ち気味だし、だったらもう彼女の事を受け入れるしかないと思った。彼女が満足し、そして私に飽きるまで耐えるのが私に出来る唯一の抵抗だと思った。一つの玩具で長期間遊べる子供なんてそうそういない。玩具が毎回違った挙動をすればいつまでも遊べるかもしれないけれど、決まった動きしかしない玩具程飽きやすいものはない。
彼女は酷いエゴイストだ。だから私は彼女のエゴが満たされるまで、ひたすら玩具としてあり続けようと心に決めた。彼女のエゴが私に飽きるまで、いつまでも玩具でい続けようと思った。
「ざけんな馬鹿。最初から言ってんだろ。私はお前を友達にしたいんだよ。奴隷にしたいんじゃねえっつうの」
みほりちゃんはそう言うけれど、どうせそれもただの綺麗事だ。私だったら寧ろ嬉しいんだけどな、自分の言う事を全部聞いてくれる人形とか。あの人間擬きだって黙ってそうしていれば受け入れてあげたのに。それこそ飽きるまで私の側に置いてあげたのに。
「……エゴと綺麗事の塊だね。……信じられるか、そんなの」
「今は信じなくていい。そのうち信じさせる」
「……無理無理。絶対有り得ない。……私の性格の悪さなんて私が一番よく知ってるよ。……私がみほりちゃんの立場だったら、私みたいな面倒な人と仲良くなりたいだなんて絶対思わないから」
「あぁ、同感だね。私もお前と話してて何度も疑問に思うよ。私マジでこいつと友達になろうとしてんの? ヤバくね? ってな」
「……じゃあ来るなよ。同じ事何度も言わせるな」
もはやお馴染みのフレーズと化しそうな一言を突きつけると、みほりちゃんは苦笑いを浮かべながらとあるお話を口にした。
「一昨日さ。お前に泣かれて家に帰った後、ちょっとした知り合いに電話で相談したんだ」
知ったこっちゃない話だった。私は彼女に興味はない。彼女の持つ幽霊にこそ興味はあるものの、彼女への嫌悪感は幽霊への好奇心さえ大きく上回っている。だから当然彼女の関係者にだって興味が湧くはずがないのだ。……しかし。
「そいつ、小さい頃から幽霊みたいな変な物を見続けていてな。人の嘘にも敏感で、そして動物にも懐かれる不思議な奴なんだ。どっかの誰かと似てるだろ?」
「……」
そのどこかで聞き覚えのある特徴を持った一人の人間の話ともなると、流石の私も興味を持たないわけにはいかなくなる。
「でもそいつの性格はお前とは正反対なんだぜ? 素直で、優しくて、嘘臭くない笑顔をいつも見せてくれるいい奴だ。そいつさ、小さい頃にネッシーを見たって言うんだよ。そんな嘘臭い話を話をクラスメイトに堂々と言いふらすもんだから、昔から色んな人に嘘つき呼ばわりされていたらしい。でも、そいつには絶対的な味方がいたんだ。何を言っても全部信じてくれて、一度も自分の事を疑ったりなんかしなくて、最初から最後まで自分の味方でい続けた姉ちゃんがな。そいつ、私にこう言うんだよ。『もしも僕が素直な人間に見えるなら、それは姉ちゃんに嫌われる人間になりたくなかったからだよ。姉ちゃんがいなかったら、多分僕の性格も相当歪んでいたんじゃないかな』って。……それで」
私と似ているけど、私とは正反対の人。素直で、優しくて、嘘臭くない笑顔をいつも浮かべるような、そんな人。そんなどこぞの誰かさんの話をするみほりちゃんの表情も、いつの間にか苦笑いからただの笑顔へと成り果てていた。
「お前の事も見捨てないであげて欲しいって、そう言われた」
「……」
それが私の聖域を穢す蛮行のきっかけになったと言うのなら、むしろ私はその誰かさんを許す事が出来ないと思うけれど。
「お前の父ちゃんはいい奴だ。でも、それ以上に忙しい奴らしいじゃん。介護士ってそう言う仕事なんだろ? だからお前の父ちゃんがいない間は、仕方ねえから私がお前の味方になる事にした」
「……へー。要するに仲の良い人にお願いされて嫌々私の味方をしているわけね」
「そうだな。昨日まではそうだった」
「……昨日までは?」
「おう。今は少しだけど、私の意思でお前と仲良くなりたいって思ってる。お前、そこそこいい奴だったんだな」
彼女の視線が私の手首へ向けられる。まさか彼女はこの程度の行いで私を善人だと判断したのだろうか。だとしたら彼女は救いようのない馬鹿だ。お人好しを超えた、疑う事を知らない偽善者。疑う事を放棄した単細胞。
「……」
「だからそれは見過ごせねえよ」
「あ」
その単細胞の小さな手のひらが私の手首を掴む。それは彼女の手のひらの中で一つの命が潰えた瞬間でもあった。
「……なんで殺すの?」
みほりちゃんが私の手首から手を離す。そこでは数秒前まで一匹の蚊が私の血液を吸っていたのに、今となっては見る影もない。みほりちゃんの拳の中で息絶えてしまったのだろう。
彼女は窓を開けたら入って来た来客だ。とは言え私は彼女にお茶もお茶菓子も出す事が出来ないから、代わりに私の血液を飲ませていたのだけれど。みほりちゃんに対する嫌悪感がますます私の中で積み重なっていく。
「なんでもクソもあるかよ。ニュースくらい見てんだろ? 先月、デング熱とかいう病気を移す蚊がこの辺に出たって」
「……あー、あれね。蚊からしたら傍迷惑な話だよね。同じ蚊なのに命に優劣をつけられて集中的に駆除されるとか」
そのニュースなら私も知っている。けれど殺虫剤の散布による殺虫作業はとっくに終わっているはずだ。本当に酷い話だと思った。殺虫剤に蚊だけを選別して殺す作用はないから、きっとその公園近辺に生息していた多くの虫が巻き添えを食らう羽目になった事だろう。該当する蚊にしたって好きでそんな病気を移しているわけでもないはずなのに。
「……気にしすぎだよ。その蚊はとっくに死んでるはずだし」
「万が一があったらどうすんだよ!」
「……別にいいじゃん。それで私が死んだらその時はその時だ。殺されただなんて思わない。むしろ助けて貰えたって思うもん。……こんな苦しい生活とはさよならして、あの世で天使になるんだ。蚊だって私のおかげで栄養をたっぷり貰えるんだし……公平でいいじゃん?」
「馬鹿言うな。お前と蚊の命が同じだって言いてえのか?」
そんなみほりちゃんの主張を聞いて、私は思い出していた。かつて先生から言われた、命の重さに関する話だ。
「……人間ってすぐ命に差をつけるよね。……例えばYouTubeに野良猫がネズミや雀を狩る動画があるんだけど……、高評価の数が凄く多いんだ。……そこのコメント欄もとても温かかいの。こうやって命は巡っている、生きるという事はこう言う事、命の大切さを教えてくれるいい動画、……とかね」
なんなら今からでもその動画を見せようとも思ったけれど、しかし一々こいつの為にパソコンを操作するのも面倒だからやめた。
「……でもね。中にはより強い動物に猫が食べられちゃう動画なんかもあるの。……低評価の数が表示されていた頃は凄い数の低評価がついてたなー。面白いよね? ……猫の狩りは沢山の人から高評価を貰える尊い行為なのに、……猫が狩られるのは絶対に許せない最低な行為みたい。……人間ってそう言うもんだよ。人を見た目で判断しちゃいけないって……綺麗事を言いながら、自分達だって気持ちの悪い虫や……両生類、爬虫類なんかを差別して。……そして可愛い哺乳類にだけ優しくするんだ。私も昔はそうだった」
先生は猫とゴキブリに例えてこのお話をしてくれた。あの時は私も先生の言葉に少しつっかかってしまったけど、でも今の私にならわかる。こんな体になってしまった私だからわかったのだ。
この世には差別しても良い命というのが間違いなく存在する。でもそれは虫じゃない。魚類でも両生類でも爬虫類でも鳥類でも、ましてや哺乳類でもない。
「……だけどもう、そう言うのはやめた。そんな人間らしい事、……私はもうしたくない。そもそも私は命を差別出来る立場じゃないもん。……私の命は虫よりも軽いの。虫は凄いんだよ? 花粉を運んだり土を耕したりして……植物を育ててくれる。自分自身が餌になる事で……沢山の動物も育ててくれる。……生きているだけで沢山の生命を救ってくれる、命の神様だ」
差別されるべき命は、私のような使い道のない命だけなのだ。
「……それに比べて私はなんだろう。……私が生きたところで誰を助けられるの? 私は自分が生きる為に……沢山の命を使っている。ご飯も、お薬も、この服も。誰の役にも立てない私の為に、……沢山の命を殺して……作られてるんだ。……私が適当な野生動物なら、……最悪死ねば誰かのご飯になってあげる事も……出来たのかも知れないけど。……人間に生まれた私にはそんな事さえ出来やしない。他の命を一方的に食べて、……命の無駄遣いをしているだけだよ。……私なんかより、蚊の方がよっぽど何かの役に立って……」
そして。
「わかる!」
「……」
私はみほりちゃんに心の底から同意されてしまったわけだ。
「後半は何言ってんのかわかんなかったけど、でもめっちゃわかる! 人間ってマジで差別するよな? マジでやべえよ人間。例えばほら、うちの近くに野良猫の親子がいんだけど、親猫の顔がアホみたいにブサイクなんだよ。それでも子猫がいるって事は結婚してるって事だろ? やっぱ結婚するかどうかの基準に顔の審査を入れる人間ってクソだなーってめっちゃ思った」
やはり彼女は馬鹿なんだと改めて理解した瞬間だ。人って確かIQが20違うと全く話が通じないと言うらしいけれど、もはや彼女に至ってはIQという概念そのものが存在しない別世界の化け物のように思えてしまってならない。
「で、私もそんな人間の一人だ」
……ならないと、そう思ったのだけれど。
「お前には私がどう見えているのかわかんねえけど、私なんてそこいらの人間と大して変わんねえよ。私も差別が大好きだ」
でも、そんな事はなかった。別世界の化け物と評したのは撤回しよう。彼女はやはり人間だ。人間以上に人間らしい存在なのだと思い知らされる。
「私にとっちゃお前の命は蚊の何兆億倍も重い。蚊だけじゃねえぞ? 地球の人口全部合わせてもお前の命の重さは間違いなくトップ100に入ってる。私の知らない何十億人の命より、私が知っているお前の命の方が何億倍も上だ。だから変な病気を移すかもしれないこいつにお前の血を吸わせる事は出来ねえんだよ」
そしてみほりちゃんは私に拳を突き出した。ついさっき私の手首を掴み、そして蚊を握り潰したであろうその拳を突き出して。
「吸うなら私の血を吸えばいいんだ」
その握り拳を静かに開いた。その中ではてっきり握りつぶされていたと思っていたさっきの蚊が、彼女の手のひらに針を突き刺しながらたんまりとお腹を膨らませていた。
「おぉぅ……、お前めちゃくちゃ飲みやがったな。そんだけ飲んだらもう十分だろ? ほら帰った帰った」
みほりちゃんは彼女を窓の外へと追いやり、そして網戸を閉める。
「トヨリ。今回は見逃すけど今度は網戸もしっかり閉めろよな? 毎回害虫に入られたらたまったもんじゃねえぞ」
そして網戸ごと窓を開けてしまった私に対して不満を述べたのだけれど、すぐに彼女の表情に変化が訪れた。まるで珍しい物でも見るような、そんな気の抜けた表情だった。驚いたように私の顔を覗き込むみほりちゃんの表情が、どこか間抜けで笑えてくる。私はそんな彼女に一つの質問を投げかけた。
「……蚊ってどうして血を吸うか知ってる?」
「え? ……あー、あれだろ? 血を吸う蚊はみんなメスで、子供の為に沢山の栄養が必要だから血を吸うってやつ」
「……そうだね。そして生まれて来た子供は水を綺麗にしたり……、魚や鳥の餌になって自然を豊かにしてくれるんだ。……そうやって巡り回った命がいつかはみほりちゃんにも届いて……遠回りな恩返しになったりするのかもね」
「お、おう……。よくわかんねえけど褒めてくれてるって事でいいのか?」
困ったように問いかけるみほりちゃん。彼女が口を開く度に私はこう思わずにはいられない。やはり彼女は頭が悪い、と。
「……そんなわけないじゃん」
私が彼女を褒めるなんて、そんなの天地がひっくり返ってもあり得ない事くらい良い加減わかって欲しいものだ。だから当然次に私が発した言葉も、決して彼女を褒めたわけではない。私はただ事実を述べた、それだけの事なのだ。
「……ただ、少しはいいとこあるじゃんって思った」
「……」
「……それだけ」
それから数秒の沈黙を挟んだ後、みほりちゃんは満面の笑みを浮かべながらこう呟いた。
「だろ!」
真っ暗なノートパソコンに移る私の口角も、ほんの僅かに上がっているような気がしたけれど。それに関しては単なる気のせいだと思う事にした。
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生まれた瞬間から愛され続けてきた七沢直人は、その愛を周りの女性に返そうと思った。
デートしたり、手料理を振る舞ったり、一緒に趣味を楽しんだりする。その他にも、色々と。
本作品は、男女比の異なる世界の女性たちと積極的に触れ合っていく様子を描く物語です。
※カクヨムにも掲載中の作品です。
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