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第三章 魔女と天使の心臓

九月四日 泣いてみた

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 日曜日。学校がないという事で、また昨日のように面会時間開始直後からみほりちゃんが来ると思い身構えていたものの、しかし実際に彼女がやって来たのは午後三時になってからだった。だから私は肩を落とす。このタイミングで来られるくらいなら午前中に来て欲しかったからだ。

「ちーっす! ……ってあれ。おっさんじゃん」

「や」

 みほりちゃんの来訪に気付き、軽い挨拶を交わすパパ。世界で一番好きな人間と、現状世界で一番嫌いな人間が同じ空間に存在している。なんだこの地獄は。私は自分の不機嫌さをほんの少しも隠そうとはせず、堂々とみほりちゃん目掛けてため息をついた。

「なんだよ来てやって早々ため息とか。感じの悪い奴だな。知ってたけど」

「……そりゃあ大好きな人と話している時に大嫌いな人が割り込んで来たからね。おかげで気分はどん底だよ」

「なーにがどん底だ。せいぜいプラスマイナスゼロだろ? 嫌味な誇張しやがって」

「……ケーキにうんこがくっつくくらいならうんこ単体の方がまだマシでしょ」

「てめえ自分の親をうんこ扱いしてんじゃねえよ!」

「うんこはお前だよ!」

 と、その時。本当ならここから立て続けに毒を吐き散らかしてやりたかったものの、しかし私の口から漏れ出たのは毒ではなく咳だった。

「トヨリ!」

 すぐにパパが私の背中を摩ってくれる。よくある事だ。拡張型心筋症は心臓が風船のように膨らむ病気。心臓の筋肉が伸びたゴムのように薄くなるせいで血液を送り出す力が極端に弱くなる、そんな病気だ。

 心臓が血液を送り出せないと、体を一周した血液も中々心臓の中に入って来れなくなる。それでも血液は無理矢理心臓に入り込もうとするから、血管は血液によって内側から圧迫され、そして水分だけが血管の外へ漏れて行く。私の胸の中にはそうやって肺や血管から漏れ出た水分が入っていて、それが気道に刺激を加えて咳が出る。また、拡張した心臓そのものも気道を圧迫するから、やはりそれも咳を誘発させる原因の一つとなっていた。拡張型心筋症の初期症状が風邪だと勘違いされやすい所以である。

「あれ……えっと……もしかして私のせいか?」

 気まずそうに表情を引き攣らせるみほりちゃん。

「……そうだよ。わかったら帰れ」

 咳が落ち着いた所で彼女を責め立てるように事実を突きつけてやった。……なのに。

「大丈夫。気にしないで。本当に危ないと思ったらその時は止めるから」

「……パパ。なんでこいつの肩持つの?」

 一番の味方だと思っていた相手に裏切られてしまったのだから大変だ。

「そりゃあ今の咳は少し演技臭かったからね」

「……」

「ちょっと盛ったでしょ?」

 私はパパから目を逸らした。パパは私のように人の嘘に敏感だったりはしないはずだけど、それでも私の次に私の病気と長く連れ添い見守った身だ。私の体調に関しても私の次によく理解しているらしい。

「あ? てめえ騙したのかこの野郎!」

 パパがいなければこいつも騙せたはずなんだけどな。本当に今日はついてないや。

「……うるさい。少しだろうと咳が出たのは本当だから」

「咳じゃなくて元気を出せよ!」

「お前のせいで咳が出たんだよ!」

 そして私は更にもう一つ、自分がパパの前で過ちを犯してしまった事を理解する。私とこいつのやり取りを見ながらパパが小さく微笑んで来たのだ。

「何年ぶりだろうな。トヨリのそんな顔を見たのって」

「え? ……あ」

 パパに言われて気がついた。パパの前で不機嫌な顔を見せるだけならまだしも、怒鳴り声まであげてしまった自分の愚かさに。そもそも私、パパの前で誰かを怒鳴った事なんてあったっけ。一度もないんじゃないだろうか。こんな体になってからは尚更だ。

「パパがいない時は言葉遣いもそんな風になるの?」

「……いや、違くて」

「いいと思うよ。子供らしくて。久しぶりに年相応のトヨリを見れた気がする」

「……」

 そういうのじゃない。そういうのじゃないんだ、私がパパに求めているのって。こんな大人目線での優しさではなく、同じ目線での優しさが欲しい。

 別に子供扱いされるのが嫌なんじゃない。私が子供なのは事実だし、子供扱いされるのも当然の事だと思う。でも、子供に対する優しさだけは絶対に嫌だ。対等な立場から向けられる優しさが一番心地良いんだ。大人目線で優しくされると、まるで大人の義務として子供の私に優しく接してくれているような、そんな不安に駆られて怖くなるから。

 あーあ。全部こいつのせいだ。イライラする。嫌がらせしてやろう。

「……パパ。こいつって人間なの?」

 私は私の知る中で最もみほりちゃんが嫌がるであろう質問をパパに投げかけた。

「お、おおおおま、おまおまおまおまお前……っ⁉︎ なななな、なにな、ななに何言ってんだばばばばば馬鹿野郎……⁉︎」

 みほりちゃんには効果抜群だった。……が。

「トヨリに見えている通りだよ」

 パパには効果がないようだ。とても落ち着いた口調で、何食わぬ顔で、そして嘘に敏感な私への対処も怠らない言い方で私の質問にそう返した。

「……パパにはみほりちゃんが人間に見えるの?」

「トヨリには見えないの?」

「……質問で返さないでよ」

「ごめん。でも、急に変な質問をするから気になって」

「……」

 みほりちゃんの方へと視線を移してみた。壁に背中を押しつけ、キョロキョロと視線を泳がしまくっている。冷房の効いた部屋であるにも関わらず脂汗も凄い。絶対に何かを隠しているはずなんだけどな……。

「……見えるよ。ちゃんと人間に見える。でも、普通の人間には見えない」

「ん? どういうこと?」

「……お腹の中に幽霊がいるんだよ、みほりちゃんって」

「幽霊?」

 みほりちゃんに視線を送るパパ。

「それは……よくわからないな」

 しかしパパから私の求める答えが返ってくる事はなかった。嘘をついている気配もない。パパは本当にみほりちゃんの幽霊を知らない。

「……じゃあそれ以外の事は知っているんだね」

 けれどその言い方は幽霊以外のみほりちゃんの秘密なら知っていると、そう言っているも同然だった。

「……教えてよ。みほりちゃんの秘密」

「それは出来ないよ」

「……なんで?」

「プライバシーだからね」

「……私のお願いでも?」

「誰のお願いでもだ」

「……私を仲間外れにするんだ」

 そこでパパは小さくクスクスと笑い出した。

「……何?」

「あぁ、いや。まさかトヨリからこんな意地悪を言われるとは思ってもなかったから」

「……」

「あまり虐めないであげてよ。みほりちゃんの事も、パパの事も」

「……別にいじめてるわけじゃ」

 ふとみほりちゃんの方へ視線を送ると、怒られてやんのざまぁ見ろとでも言いたげないやらしい目付きで、パパに咎められる私の事をニヤニヤと見ていた。

「怒られてやんの! ざまあみろ!」

 実際に言われた。私は枕を掴んでみほりちゃんへ投げつけたものの。

「へっ、当たるかバーカ!」

 病人の腕力で投げられた枕を避ける事など、健康な体を持った彼女には造作もない事だった。でも。

「……パパ。私一昨日こいつに思い切り顔を殴られた」

 物理攻撃が効かないなら精神攻撃に切り替えるまでだ。

「え」

 驚いたように振り返るパパ。

「いや! あの! その! ち、違くて! たたた、確かに殴ったけどででででもそそそ、その、ちゃんとわけが! わけがあって!」

「わけって?」

 そこでみほりちゃんは咳払いを一つつき、私を殴ったわけを口にした。

「トヨリに体中を弄られた……、それはもう服の中までねっとりと」

「それ三日前の話だろ!」

 みほりちゃんはパパと向き合っていた事もあり、二度目の枕投げはしっかりと彼女の頭部へ命中した。枕が激突した所で大したダメージにならないのは百も承知だけど。……なんだったら。

「いい加減にしろよ! パパに変な事吹き込むな!」

「でも事実だろ⁉︎ あん時めっちゃ怖かったんだぞ⁉︎」

「私を殴ったわけとは関係ないだろ! この野郎、お前それ絶対私への当てつけで言っ……」

 なんだったら、私の方が遥かにダメージは大きかったみたいだけど。

「言っ……、言っ……た……」

 私の罵詈雑言がそこで止まる。私の喉が言葉の代わりに咳を漏らし始めた。いつもの症状。よくある出来事。ほんの数分前にも経験した事だ。

 でも、なんだろう。この咳はさっきの咳とはちょっと違う。さっきの咳は前半こそ本物だったけど、後半はみほりちゃんを脅す為の演技だったはず。

 ちょっと長いな、今回の咳。既に十回は咳き込んでいるのにまだ喉のムズムズが取れない。喉の中をミミズが這い回っているようだ。

「お、おい! お前それやめろよ! 体調不良で騙すのはずりいぞ!」

 どうしよう。息が出来ない。息を吸い込む量より咳で吐き出す量の方が多い。酸素が足りない。視界がボヤけて……。

「トヨリ⁉︎」

 それはほぼ同時だった。パパの声と同じタイミングで私の咳は止まった。咳だけが止まった。私の喉は咳が止まってもなお、何かを口から吐き出さずにはいられないようだった。

 異臭が漂う。喉には痺れるような衝撃が宿り、そして真っ白なシーツは私の吐瀉物で黄金色に染まっていた。喉の痺れは逆流した胃酸によるものである事は明白だ。お昼に食べた薄味のピラフだけど、ここまで液状化していても辛うじて原型は留めているものなんだね。まぁ原型があるとは言え、これを再び口に入れたいかと言われたら首を大きく横に振るけれど。

「先生! 看護師さん!」

 パパはすぐにナースコールを押し、そして病室の出入り口から半身だけ外に出してお医者さんや看護師さんを呼びに出た。パパとの距離は目測でしかないけれど、およそ三、四メートルと言った所だろうか。それくらい距離があるのなら。

「あの……トヨリ。ごめん。私また嘘だと思って……」

「……帰れ」

 小さな声で話せば、この悪意がパパの耳に届く事もないだろう。

「……帰れよ。お前なんか出禁だこの馬鹿。……全部お前のせいだ」

「……」

「……お前、責任取れるのかよ……? いい加減放っておいてよ。……一人にさせてよ。……もう勘弁してよ」

「……」

「お願いだから……っ」

 彼女を無視したらくすぐられた。彼女を適当にあしらったら口の中に指を突っ込まれた。彼女の嫌がる事や彼女に殴られた事をパパに言いつけても無駄だった。

「……わかった。ごめん」

 だけど泣いて頼むと、彼女は面白いくらいあっさり身を引いてくれた。私は思わず呆気に取られる。なんだ。こんな簡単だったんだ。それならそうともっと早くこうしておけば良かった。

 もちろんこの涙もただの演技でしかない。連続した咳による息苦しさと、嘔吐による涙腺の緩みが相乗した事で溢れた涙なのであって、彼女への不満によって溢れ出た涙などでは決してない。そもそもみほりちゃんへの不満で泣いてたまるかという話だ。そしたらまるで私がこいつに泣かされたみたいじゃないか。

 それからすぐに二人の看護師さんが私の元へ駆けつける。それと入れ替わるようにみほりちゃんはとぼとぼと病室の外へと足を運んだ。肩を落としながら静かに私の元から離れて行くその背中目掛けて、私は心の中でざまあみろと言い返した。
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