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第三章 魔女と天使の心臓

昔のプロローグ ③ 障碍者と共犯者

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 二年生の夏。私は二つ目の出会いを果たすことになる。担任の先生が出産と育児の準備で担任を外れる事になり、代わりの先生が赴任して来る事になったのだ。

 新しい先生はこれと言った特徴のない普通のおじさんだった。見た目も普通、挨拶も普通。冗談を良く言ってくれた前の先生との違いは子供心に強く衝撃を与え、クラスメイトの反応はお世話にも良いものとは言えなかった。

 しかし次の瞬間。新しい担任の先生はたった一言を放つだけで、彼のイメージはどこにでもいそうなつまらないおじさんから、とんでもない個性を持った珍しい人へとランクを上げる事になる。

『それでは最後に皆さんに話しておきたい事があります。先生は皆さんと違い、赤い色を見る事が出来ません』

 新しい先生は障碍者だった。




 夏休みに入る。学校へ行く機会が減った事で、私はボランティア活動により一層力を入れるようになっていた。早朝の散歩を終えたら一旦帰宅して朝ごはんを食べ、お父さんが仕事へ行くのを見届けたら、私も拠点に行って夜まで動物達のお世話をした。

 拠点の扉を開けるとたくさんの動物達が私を出迎えた。春に比べて猫の数が大分増えている。というのもこの三ヶ月間、地域猫の証である耳に切れ込みの入っていない猫や、野良で生きて行く事が難しそうな子猫を見つけてはその都度保護していたからだ。

 インターネットの方では随時里親を募集しているものの、譲渡会での引き取りに比べたらその数はスズメの涙のようなもの。しかしボランティア活動している私達の活動資金は殆どが個人が身銭を削ったものである為、譲渡会を開く為の資金もそう易々とはたまらない。譲渡会は何度も気軽に行えるものではないのだ。譲渡会を開けるのは年に二、三回。次の開催予定は秋。

 里親に出される猫より、新しく保護した猫の数の方が増えて来た。特に私は他の団員よりも野良猫の扱いが上手い事もあり、保護猫の数は加速度的に増えていく。そうやってどんどん保護猫が増えて来たからだろう。前までは猫を保護する度に団員の人達が私の事を褒めてくれたのに。

『あの……また子猫、連れてきたんだけど』

『……。わー、本当? ありがとねー? トヨリちゃんが居てくれて助かるよ。私達が猫を保護しようとしたら捕獲器を使わないといけないし』

『……』

 ある日を境に、私から保護猫を受け取る団員さんの声にモヤのような物がかかるようになった。

 私はそのモヤの正体を知っている。動物の気持ちを感じ取った時と似ているのだ。昔はそのモヤの正体がわからなくて怖かったけれど、成長していくうちに、いつの間にか私はそれが嘘の声であると気付くようになった。団員さんは私に嘘をついている。笑顔で私にありがとうと言い放つその言葉が酷く濁っていた。

 私が彼女達の吐く嘘の意味に気付くまでにそう時間はかからなかった。それは夏休みが始まってほんの少し経った日の事。拠点の動物達の遊び相手になって疲れていた私は、いつのまにかうたた寝をしてしまっていた。しかし玄関のドアが開く音と人の会話音が響いて来た事で私は目を覚ます。

『今日も猫ちゃんが増えたわねぇ?』

 けれど私はそのまま寝たふりを続けた。

『増え過ぎですよ……。もうパンク状態じゃないですか。今まではこんなパンク状態になったりしなかったんですか?』

『そうねぇ……。何年か前に動物愛護法が改正されたのは知ってる? そのおかげで保健所も正当な理由がなければ動物の引き取りを拒否出来るようになって、殺処分される数がグーンと減ったのよ』

『それって良い事じゃないんですか?』

『まともな飼い主ばかりだったらね。ペットを飼えなくなった飼い主が保健所にペットを連れて行って引き取りを拒否されたらどうすると思う?』

『……あー。それで捨てちゃうんですね』

『そう。おまけにそう言う無責任な飼い主って中性化もさせないから、捨てられた後にどんどん子供を増やしちゃうの。その結果がこれなのよ。それにトヨリちゃん、動物によく懐かれるでしょう? それでどんどん新しい子を見つけて来ちゃうし』

『困りましたね……。うち、どうなっちゃうんですか? 次の譲渡会の会場確保に相当お金使っちゃって、資金はもう火の車ですよ? 中性化待機中の子もオスが三匹にメスが七匹もいるし……。二、三十万は必要ですよね? どうしたら……』

『前までは近くにいたのよ。保護猫限定で無料で中性化手術をしてくれた獣医さん。でも保護猫の数が増えるに連れてその人も参っちゃって、それで去年からこれ以上はもう無料で引き受けられないって』

『えーっ、無責任過ぎませんか? 私達だって赤字になりながらこんなに頑張ってるのに……。その人何の為に獣医師免許を取ったんですかね? その程度でくじけちゃう信念とか、その人に診察される動物が可哀想。他に無料でしてくれる病院はないんですか?』

『あるにはあるけど、どこも地方ばかりなのよ。それにみーんな予約でいっぱいだから次に受けられるのは何年先か……』

『そんな……。ならせめて何匹か譲渡先が決まるまでは新しい子の保護は控えるべきです。トヨリちゃんにもこれからは連れて来ないように言わないと。このままじゃ本当に私達……』

『何言ってるの? それはダメよ。私達がどう言う団体なのか忘れないで。わけのわからない団体や適当な団体に連れて行かれたらどうするつもり? 全部うちで引き取るのよ。保護活動は今後も辞めるつもりはないから』

 そこで私は寝たフリをやめる。

『あら、トヨリちゃん起きたの? お留守番してくれてありがとねー?』

『……』

 さっきまでの会話の雰囲気とは打って変わって、子供や動物に見せる笑顔を浮かべながら話しかけて来た団員さん達の姿を見た時。私の胸の中で何かが動くのを感じた。




 夏休み中旬の事。私は駐車場の車の下を覗き見ながら思い悩んでいた。そこでは三匹の猫が車の影で直射日光を避けている。体の大きさからして、母猫が一匹と子猫が二匹。猫は一度の出産で大体五匹の子供を産むと団員の人から聞いた事がある。きっとこの場にいない子猫は夏の暑さに耐えきれずに力尽きてしまったのだろう。それに今生き残っているあの二匹だって、こんな暑さの中じゃいずれ……。

 私は家からダンボールを持って来てもう一度駐車場に戻った。車の下で未だ涼む猫の姿に安心しつつ彼らに手を伸ばすと。

『いっ……⁉︎』

 母猫の爪が私の手のひらを引き裂いた。ボランティア活動をしているとよく思う。猫の体って犬の体の何倍も攻撃的に作られていると。刃物のような爪、針のような歯、そして骨から肉を削ぎ取る為のギザギザな舌。雑食寄りの肉食動物が犬なら、猫は完全な肉食動物だ。体のあらゆる構造が命を奪う形に特化している。子猫を守る手前母猫はとても気が立っているし、向こうから寄ってくる気配も感じられない。拠点から捕獲器を持ってくるのも手だけど、ここまで警戒されては戻って来る間に彼女達はこの場を立ち去ってしまうだろう。今しかないんだ。彼女達を保護出来るチャンスは、今しか。

『……ごめんね』

 私は手のひらに無数の引っ掻き傷と切り傷、そして咬み傷を負いながらも三匹の猫をダンボールへ移す事に成功した。

 ダンボールの蓋を閉ざし、目的地目掛けて一気に走る。この炎天下だ。いつまでもダンボールに閉じ込めておくわけにもいかない。私は血の滲む右手の痛みさえ忘れる勢いで走り飛ばし、そして目的地である学校の体育館裏にやってきた。

 そこは木々が織りなす木陰に支配された、真夏でも過ごしやすい環境である事を私はよく知っている。ここは友達のいない一年生時代、教室で一人ぽつんと座り続ける姿をクラスメイトに見られたくないと思い何度も逃げ込んだ私の避難地なのだ。七月や九月の炎天下でも、木の隙間を縫って吹いてきた風がとても心地よかったのをよく覚えている。

 私は茂みの真ん中にダンボールを置いて蓋を開けた。

『痛いっ!』

 その瞬間を待ち構えていた母猫に、今度は頬を引っ掻かれてしまった。私は慌てて母猫から距離を取る。今まで人に慣れた猫ばかり相手にしていただけに、ここまで頑なに警戒心を解こうとしない猫と接するのは始めての経験だった。

 一瞬、こんな暴力的な動物を私が匿う必要があるのか疑問に思ってしまう。けれど私に敵意を向ける一方で、我が子に対して愛情を込めながら顔を舐め回す母猫の様子を見て、この疑問も夏に照らされた水滴のようにあっという間に蒸発してしまった。

『外よりは安全だから。ここで大人しくしててね?』

 私は彼女達にそう言い残し、この場を後にした。夏休みの中旬から終わりにかけて私のボランティア活動時間が減った理由がこれだった。

 それから私は彼女達に餌と水をやる為に毎日学校に通うようになった。パンク状態の愛護団体にこの猫達は連れていけない。だからと言って気が立っている母猫を我が家に連れ込めば、体の小さいポンタや臆病なティッチがどうなるかわかった物じゃない。これが今の私に出来る精一杯だった。

 一日、また一日と彼女達にご飯を与える日々が過ぎて行く。彼女達もここの環境の安全さに気づいたのか、それとも単に慣れただけなのかはわからないけれど、この場所を生活拠点に定めたらしい。学校に来れば必ずと言って良いほど彼女達に会う事が出来た。

『……そろそろちょっとくらい触らせてよ』

 彼女は相変わらず私に警戒心を剥き出しにしていたけれど。

 しかしそんな日々も長くは続かない。彼女達をここに匿ってから一週間以上が経ったある日、私と彼女達だけのこの空間に一人の侵入者が訪れる。

『……佐藤さん?』

 夏休みが始まる少し前に赴任して来た担任の先生だった。大人に見つかった事実に動揺しているのか、私の額には暑さによる汗とは違った種類の汗が滲み出た。

『佐藤さんですよね?』

『……』

『何をして……』

 一歩一歩私に近づく先生の視線が、私の背後にいる三匹の猫の存在を捉えた。私は阻むように彼らの間に立ち、そして先生に一つの質問を投げた。

『保健所に連れてくの?』

『……』

『連れて行っても今は引き取ってもらえないよ。そしたらどうするの? 捨てるの?』

 先生は私と猫を交互に見比べる。私がここで何をしていたのか察したのだろう。先生は一度止めた足を再び進め彼女達に接近した。……いや。

『先生も昔、猫を飼っていました』

 先生が近づいたのは彼女達ではなく私だった。先生は私の前で立ち止まると、地面に膝をつけて視線の高さを合わせてくる。

『それでペットを飼うとなると、かかりつけの獣医さんも見つける必要があるじゃないですか。でも最近は動物病院なんてあちこちにありますし、ネットで調べても評判はどこも似たり寄ったり。それで僕なりにどういう獣医さんが一番信頼出来るのか考えた事がありまして』

 そして未だに傷の癒えない私の右手を掴み、カサブタだらけの腕を見ながらこう言葉を続けた。

『腕に引っ掻き傷や咬み傷がたくさんついている獣医さんがいいなーって。そう思いました』

『……』

 先生は全てを口にしてはくれなかったものの、しかしこの子達を保健所に連れて行く意思がない事だけはハッキリと伝わった。

『左側ちんちん……何?』

『肥大型心筋症です』

 先生は苦笑いを浮かべながら私の間違いを正した。

 同じ動物好きである事がわかった安心感からだろうか。私達は二人して地べたに座り込み、猫の母子を見ながら先生の昔話に洒落込んでいた。

『心臓の筋肉が厚くなる病気で、猫でよく見られるそうです。心臓の筋肉が厚くなるとどうなると思いますか?』

『強く動く?』

『そうですね。でもそれ以上に問題なのが、心臓が厚くなるせいで心臓の中に入る血液の量が減る事です。心臓の血液の量が減ってしまうと、その分送り出せる血液の量も減ってしまいますからね。とても怖い病気なんですよ』

『それでどうしたの? 治ったの?』

 私がそう質問をすると、先生は困ったように言葉を続けた。

『……五年間、よく生きてくれたと思っています』

 先生は死んだという直接的な表現は使わなかったものの、しかしそれは二年生の私でさえ猫の結末がわかる言い方だ。私は先生を問い詰めた。

『そのまま病気で死んじゃったの?』

 先生は気まずそうに、それ以上に慎重に。私の顔色を伺いながら、それでいてどこか怯えるような雰囲気で質問に答えた。

『いいえ。獣医さんにお願いして、二度と目が覚めないようにしていただきました』

 それが殺した事を意味する言葉である事は、十分過ぎるくらいに理解出来た。

『……何で?』

『この病気は本当に怖い病気なんです。血の流れが悪くなると血が固まる。その固まった血があちこちの血管を詰まらせては激痛を引き起こすし、その部位の神経が死ぬ事で麻痺も起こる。苦しみ続けるだけの猫を見ながらふと思いました。例えば先生はどんな病気にかかっても安楽死をしたいだなんて思いません。死ぬのが怖いですからね。ですがもし死を理解していなかったら、きっと私は一刻も早く楽になりたいと願うんじゃないでしょうか。佐藤さんは猫が死を理解する動物だと思いますか?』

『……』

『先生は思いませんでした。それだけです』

 そこで先生の昔話は終わりを告げた。

 病気の動物が殺された話を聞いた割に、不思議とあの時の私の気持ちは澄んでいた。理由は明白だった。先生の声にはモヤがかかっていないのだ。ほんの僅かな、埃ほどのモヤさえかかっていない。正直な人と話していて不快な気持ちになるほど、あの頃の私は腐ってはいない。……いや。

『新しい子を飼いたいって思わないの?』

 猫を亡くした人に対してそんな質問をする辺り、デリカシーの面で言えばある程度は腐っていたような気もする。

『先生なら幸せにしてくれる気がする』

 でも、あの頃の私は心の底からそう思っていた。だからその気持ちを素直に出してしまったのだ。

『……ごめんなさい。ペットを飼うのがどうしてもきつくなって。それでペット禁止のマンションに引っ越してしまいました』

 しかし先生の答えは私の望む答えにはなり得なかった。

『ですが、先生の方でも里親になってくれる人はいないか探してみましょう。だからそれまでは……うーん……本当はこう言う事を言ったらいけないんですけど』

 でも、希望にはなり得た。私一人だけで世話をするつもりだったのに大人の協力者を得る事が出来たのだ。しかも大人なら私の知らないやり方で色んな里親候補の人も見つけてくれるだろうという淡い期待さえ持つ事が出来た。

『こっそりお世話しましょうか?』

 私と先生は共犯者になった。
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