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第2.5章 魔女と日常の話
天使の悪魔
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恋愛ドラマなんかを見ているとよく思う。好きになるきっかけという物がイマイチピンと来ないと。
恋愛物の創作物でよくある描写だ。主人公とヒロインが惹かれ合うきっかけとなったエピソード。でも、そういうのって本当に必要なんだろうか? 出会いさえあればそれで十分じゃないのか? 男女が出会い、学校なり職場なりで同じ時間を共有する。そして気が付いた時にはお互いを好きになっている。それが普通の恋愛だと俺は思っている。好きになるきっかけを見てしまうと、まるでそのきっかけが無いとこの二人は結ばれなかったと言われているような気がしてならない。
少なくとも俺の恋愛はそうだった。今の相手も、昔の相手も、好きになるきっかけなんて特になくて、長い時間を共有していたらいつのまにか好きになっていた、そんな恋愛だった。
妻は非日常が好きだった。週末のデートは専ら都会を離れる事。海に行き、山に行き、都会では決して味わえない非日常的な空間に身を置く事が好きなそんな人だ。今日も俺はそんな彼女に付き合って海に来ていた。海水浴客の帰った静かな夜の海を二人で見ていた。
ふと、妻が靴を脱いで砂浜に足をつける。
「あったかい」
砂に埋もれた足の感想を口にした。日中は焼けた鉄板のように燃え盛る砂の熱も、夜になれば静まり返る。妻の足はそんな程よい暖かさに包まれながら、足跡を残して前進して行った。俺はそんな妻の手を掴む。
「危ないだろ。波に攫われたらどうすんだ」
「もー。過保護! そんな大きな波来ないよ」
「急に体調崩して倒れるかもしれないだろ?」
「だから過保護ー。大丈夫だよ。私の体なんだから私が一番わかってる。心配しないで?」
「俺の体じゃないから心配なんだよ。妊婦の体も、女の体も、俺にはわかんないんだから」
それはもしも俺が同性愛者ならば決して抱く事はないであろう不安だった。
生き物の細胞にはDNAが入っている。その生き物はどのような形なのか、どのように動くのか、いつまで生きられるのか。その生き物の在り方を長々と書き記した生命の設計図だ。
人間のDNAの長さは、細胞一つあたりおよそ二メートル。人間の持つ全細胞分のDNAを繋ぎ合わせた場合、その長さは地球から太陽間五百往復分はあると言われている。そんな長い糸の塊をふわふわと細胞の中で泳がすわけにはいかないから、DNAはコンパクトに折り畳まれるのだ。その折り畳まれたDNAの事を染色体と呼ぶ。
男と女とでは染色体が違う。X染色体とY染色体。染色体はDNAの塊で、DNAは生物の設計図なのだから、同じ人間であっても染色体が異なれば別種の生き物も同然だと、俺はそう思う。
人に犬の気持ちはわからない。猫の気持ちも牛の気持ち豚の気持ちもわかるはずがない。だからきっと同じように、男は女がわからない。女だって男がわからないはずだ。男と女は別の生き物なのだから。
でも、異性がわからないからと言って何も出来ないわけではないはずだ。わかろうと努力する事は出来るはずなんだ。努力したところでわからない事が殆どだけど、それでも……。
「ねぇ」
十年前の事を思い出す俺の鼓膜を、妻の声が優しく撫で回した。
「サチって何? 人の名前?」
恨めしそうに撫で回した。
「寝言でたまに言うんだもん。気になるよ」
「……元カノ。もう十年も前の事だよ」
「十年も前の話なのに未だに名前が出るんだ」
「ごめんって。地元が同じで高校の頃からの馴染みなんだ。100%忘れるのは……ちょっと難しい」
妻は俺の隣に腰を下ろし、俺を見上げながら尋問を続ける。
「どんな人?」
「……何? 妊娠した妻に元カノの話しろってか?」
「だって気になるし。臭いから嗅ぐなって言われたら、逆に嗅ぎたくなるでしょ? こんな不安抱えたままお母さんになるとかそれこそ勘弁だよ。……それに、話すなら今が一番だと思うんだけどなー」
「どうして?」
「女は子供を産んだら豹変するって言うじゃん。豹変する前の私と豹変してからの私。バレるならどっちが良いと思う?」
「……」
俺は観念し、苦笑いを浮かべながら昔話を垂れ流した。彼女は同じ高校の後輩であった事。東京に進学する俺を追って自分も東京の大学に進学した事。東京では御茶ノ水のアパートを借りて半同棲状態で過ごしていた事。大学を卒業してからも交際は続いていた事。きっと近いうちに結婚するんだろうなと、そう思いながら社会人になった事。そして。
「疲れたって。そう言われた」
子供を産めなくなった彼女に拒絶された事。それ以来彼女とはたったの一度も会ったりせず、連絡も取り合っていない事。妻の逆鱗と不安を刺激しないよう、十二分に言葉を選びながら、今まで隠し通した過去の出来事を包み隠さず全部話した。
「何それ酷い。それで好きだった人を捨てて他の人と結婚するんだ?」
俺の足元から聞こえて来たその反応は、俺の知る妻の声とは遠くかけ離れた少女の声だった。
足元に視線を落とす。俺の隣には二人の人間が座っていた。妻と、そしてもう一人……。
人間。自分で言っておいてなんだけど、果たして本当にそれを人間と呼んでいいのだろうか。それは空中に停滞しながら、妻を背後から抱き抱えている。背後から回した腕で妻の口元を押さえつけ、妻が声を漏らさないようにしていた。
それが女である事は理解出来た。声のトーンが女のそれで間違いないし、それに病院の入院着から浮き出る体の凹凸具合も人間の女そのもの。けど、それだけだ。それが女だと理解出来る要素はそれしかない。
それは人というよりロボットに近い形状をしていた。手足がメカニカルな装甲に包まれていて、背中……というより腰だろうか。それの腰からは天使の翼を象りつつも、どこか飛行機や戦闘機のジェットエンジンを模したような金属の翼も生えている。極め付けはその頭部だ。
それの頭部には楕円形の黒い球体がポツンと存在していた。無機質で機械的なヘルメットのような、そんな形態。そもそもそれがヘルメットだというのが俺の勘違いなのかもしれない。その頭部の装甲を引き剥がしても、中にあるのは人間の頭ではなく機械の塊だと、そう言われても全く違和感がないのだから。
「そもそも子宮頚癌の原因になるHPVってセックスで感染するんだよ? もしその元カノさんがおじさんとしかセックスをしていないなら、元カノさんを癌にしたのはおじさんだ。じゃあおじさんはどこからこのウイルスを貰って来たのかな? 浮気とかしてた?」
クスクスと、ヘルメットの中で笑い声が反響する。あいつと別れて十年近く経った今となってはもはやこの弁明に価値などはないだろう。しかしそれでも弁明する機会を与えてもらえるのなら、俺は神に誓ってあいつとの交際中に他の女と体を交えた経験はない。体を交えたのは、あいつとの交際前と別れた後で……。まぁ。
「最低」
そんな俺の事情なんか知る由もないそれは、俺をからかうような声色でそう呟いたけれど。イタズラ好きな子供が大人をからかうようにそう呟いたけれど。
「元カノさんが言ってた疲れたって言葉もきっと強がりなんだろうなー。元カノを癌にして、子供も産めなくさせて。おまけに体のいい理由引っ提げて他の女に乗り換えて。奥さんも本当にこんな人を選ぶ気? いざとなったら奥さんと子供を捨てて逃げ出すと思うよ? この人」
それの頭部が俺を見上げた。
「おじさん、悪い人だ」
もしもヘルメットの奥に人の顔があるのなら。それは間違いなく俺に笑いかけているような、そんな気がした。
「……何だお前。お前、何言って」
「試してみる? ザンド」
ふと、それの口から謎の単語が出てきた。するとそれの体からは、何らかの部品のような物が飛び出し、俺に向かって飛んでくる。反射的にそれを掴み取ってみると、その部品は何かのスイッチような形状をしていた。
「新しい魔法を覚えたんだ。事故死ばっかも芸がないし、今日からは色々な殺し方を試してみようと思うの。おじさんは記念すべきモルモットくん一号」
それの両手から円筒状の、例えるなら銃身のような物が二本生えて来た。その銃口が妻のこめかみと腹部に向けられる。
「なんとなく分かると思うけど、これ銃ね? それじゃあ私、三秒後に奥さんの頭とお腹を撃ちまーす。身代わりになりたくなったらそのスイッチを押して? そしたら標的がおじさんに移り変わるから。じゃあ行くよ?」
それがカウントダウンを始めるよりも前に、俺の体は行動に移っていた。
「三」
抵抗だ。それ目掛けて殴る蹴るを繰り返し、なんとか妻から引き剥がそうと試みた。
「二」
しかし、びくともしない。まるで岩でも殴っている気分だった。俺はそれの関節を曲げる事は愚か、それをほんの一ミリ動かす事も出来ない。装甲に覆われていない胸部と腹部を殴っても結果は変わらなかった。殴った感触はまごう事なく女の柔肌そのもののはずなのに。……だから。
「一」
俺はスイッチを押した。
「やるぅー」
スイッチを押した事で気がついた事がある。人は頭を射抜かれても即死する事はなく、絶命するまで意識の猶予が残されているのだと。現に頭を射抜かれたはずの俺の耳にはそれの言葉が届いている。頭と腹部に狙撃を受けた事で宙を舞う自分の体も認識出来ている。
「なんだ。おじさん凄いね? 偉いじゃん」
宙を舞った俺の体は、やがて物理の法則に従って砂浜へと落下した。そんな俺の視界はまだ辛うじて機能しているらしい。妻を解放したそれがこっちへ歩み寄って来ている。
「その勇気に乾杯。特別に治してあげる」
いつの間に取り出したんだろう。それの右手には何らかの本のような物が握られていた。それは俺の前でしゃがみ込むと、片手を俺の体にかざす。……しかし。
「……あ、そうだ。ごめんねおじさん。私、今日からそう言う魔法は使えなくなったんだ」
それはすぐにかざした手のひらを下げ、そしての妻の方へと振り向くのだ。
「奥さんもごめんなさい。悪いけど、お腹の赤ちゃんは頑張って一人で育てて……」
背中を向けて逃げ出す妻の方へと振り向くのだ。
「……」
それは俺にかざした手のひらを妻の背中へ向けた。
「いや、お前が逃げるんかーい」
そして真っ赤な液体を撒き散らしながらその場に倒れる妻を見ながら、ケラケラと楽しそうに笑い転げていた。
「……うん。いい。凄くいいよこの体。死ぬまでの暇つぶしに最適。ありがとう、ザンド」
なんだろう。それは何を呟いているのだろう。まるで誰かと会話でもするような、そんな独り言をそれは漏らす。すると次の瞬間、それの手足と頭部に装着されていた装甲が一瞬で消え去った。
「……ふぅ。……でも、魔法を解いた瞬間……。一気に苦しくなるね。……ねぇ? ザンド」
ヘルメットの中から出てきたのは、間違いなく人の顔だった。あどけなさの残る少女の顔。俺は心のどこかでそれの正体が機械である事を望んでいた。人類に反旗を翻す殺戮マシンか何かだと思いたかった。
「……でもね。私、案外こっちの体も好きかも。一歩一歩死に近づいているのが……よくわかるから。……あぁ。私今、天使に近づいてるんだなーって……実感できる」
だって、あれの中身が生き物だなんて。あれの中身が心を持った人間だなんて。そんなの。
「……あれが完成するのと私が天使になるの……。どっちが先かな?」
そんなの悪魔じゃないか。
「……今日も天使になれなかったなー」
少女は入院着だけを纏った姿で砂浜を歩いて行く。そして。
「……明日は天使になれるかなー」
それが俺がこの世で見た最後の光景となった。
◇◆◇◆
「チーズケーキ美味そう……」
私はケーキ屋のショーケースに顔面を貼り付けながら思わず声を漏らしてしまった。
「ミルククレープ美味そう……」
チーズケーキを目で堪能したら隣のミルククレープ。ミルククレープを目で堪能したら隣のショートケーキ。一歩ずつ隣に移動しながら何度でもそれらの姿を目に焼き付ける。
「りいちゃん、ちゃんと買ってあげるからやめて……恥ずかしい……」
そして私はサチに腕を掴まれショーケースから引き剥がされたのだった。
有生家のバースデーパーティーにサプライズは存在しない。絶対に祝って貰えるとわかっている以上、サプライズもクソもないからだ。それに私的にもサプライズはそこまで好きじゃない。だってそうだろ? サプライズをされたら誕生日ケーキの種類はサチの一存で決まる事になる。でもサプライズがなければ、こうして明日のケーキを私の意思で決める事が出来るのだから。
「……サチ。ちなみに買ってあげるというのは何ホールまでですか?」
「一ホールだよ。カットケーキならまぁ三百六十度分買ってあげてもいいけどホールケーキは流石に一ホールだよ」
「でも前はお店のケーキ全部買い占めてくれたじゃないですか」
「あの時はりいちゃんと和解前だったからね。私、釣った魚には餌はあげない主義なの」
「サチ、この前の喧嘩以来結構ズケズケ言って来ますよね……」
と、その時。サチのスマホに着信が入る。サチに電話をかけてくる人って大抵はお店関連の人だ。……まさか急遽仕事が入るとかそう言うのじゃないだろうな?
「あ、もしもし? どうしたのお母さん」
しかし、そんな私の不安は杞憂に終わる。よかった、プレゼントもケーキも貰えないまま仕事が入るとか冗談じゃないもんな。
「今? ちょっと出掛けてるとこ。でもすぐ帰るよ。うん」
それはそれとしてサチのお母さんか。珍しいな。放任主義なのかどうかはわからないけど、サチの家族から電話がかかって来ることって滅多にない。なんならサチ自身、説明のし難い私の存在をはぐらかす為に家族と距離を置いている所があるしな。私はそんな久々の親子の会話に水を差さないよう、ゆっくりサチから離れてケーキ選びを再開しようと思ったのだけれど。
「……え」
サチの声のトーンが急激に下がったその返事が妙に気になった。それだけならいざ知らず、そこから先の会話全てのトーンが下がっていく。それを知らんぷり出来る程、私はサチの事が嫌いじゃない。知らんぷり出来ない程私はサチの事が好きだから。
「……わかった」
サチが電話を切って、すぐに声をかけた。
「どうかしたんですか?」
そして次にサチから発せられた言葉を聞いた事で、私はサチの精神が正常でない事を知る。いつものサチなら、きっとそう言う話題は私の前では出さないはずだから。
「地元の友達……ていうか。まぁ、元カレなんだけど。なんか……撃たれたって」
恋愛物の創作物でよくある描写だ。主人公とヒロインが惹かれ合うきっかけとなったエピソード。でも、そういうのって本当に必要なんだろうか? 出会いさえあればそれで十分じゃないのか? 男女が出会い、学校なり職場なりで同じ時間を共有する。そして気が付いた時にはお互いを好きになっている。それが普通の恋愛だと俺は思っている。好きになるきっかけを見てしまうと、まるでそのきっかけが無いとこの二人は結ばれなかったと言われているような気がしてならない。
少なくとも俺の恋愛はそうだった。今の相手も、昔の相手も、好きになるきっかけなんて特になくて、長い時間を共有していたらいつのまにか好きになっていた、そんな恋愛だった。
妻は非日常が好きだった。週末のデートは専ら都会を離れる事。海に行き、山に行き、都会では決して味わえない非日常的な空間に身を置く事が好きなそんな人だ。今日も俺はそんな彼女に付き合って海に来ていた。海水浴客の帰った静かな夜の海を二人で見ていた。
ふと、妻が靴を脱いで砂浜に足をつける。
「あったかい」
砂に埋もれた足の感想を口にした。日中は焼けた鉄板のように燃え盛る砂の熱も、夜になれば静まり返る。妻の足はそんな程よい暖かさに包まれながら、足跡を残して前進して行った。俺はそんな妻の手を掴む。
「危ないだろ。波に攫われたらどうすんだ」
「もー。過保護! そんな大きな波来ないよ」
「急に体調崩して倒れるかもしれないだろ?」
「だから過保護ー。大丈夫だよ。私の体なんだから私が一番わかってる。心配しないで?」
「俺の体じゃないから心配なんだよ。妊婦の体も、女の体も、俺にはわかんないんだから」
それはもしも俺が同性愛者ならば決して抱く事はないであろう不安だった。
生き物の細胞にはDNAが入っている。その生き物はどのような形なのか、どのように動くのか、いつまで生きられるのか。その生き物の在り方を長々と書き記した生命の設計図だ。
人間のDNAの長さは、細胞一つあたりおよそ二メートル。人間の持つ全細胞分のDNAを繋ぎ合わせた場合、その長さは地球から太陽間五百往復分はあると言われている。そんな長い糸の塊をふわふわと細胞の中で泳がすわけにはいかないから、DNAはコンパクトに折り畳まれるのだ。その折り畳まれたDNAの事を染色体と呼ぶ。
男と女とでは染色体が違う。X染色体とY染色体。染色体はDNAの塊で、DNAは生物の設計図なのだから、同じ人間であっても染色体が異なれば別種の生き物も同然だと、俺はそう思う。
人に犬の気持ちはわからない。猫の気持ちも牛の気持ち豚の気持ちもわかるはずがない。だからきっと同じように、男は女がわからない。女だって男がわからないはずだ。男と女は別の生き物なのだから。
でも、異性がわからないからと言って何も出来ないわけではないはずだ。わかろうと努力する事は出来るはずなんだ。努力したところでわからない事が殆どだけど、それでも……。
「ねぇ」
十年前の事を思い出す俺の鼓膜を、妻の声が優しく撫で回した。
「サチって何? 人の名前?」
恨めしそうに撫で回した。
「寝言でたまに言うんだもん。気になるよ」
「……元カノ。もう十年も前の事だよ」
「十年も前の話なのに未だに名前が出るんだ」
「ごめんって。地元が同じで高校の頃からの馴染みなんだ。100%忘れるのは……ちょっと難しい」
妻は俺の隣に腰を下ろし、俺を見上げながら尋問を続ける。
「どんな人?」
「……何? 妊娠した妻に元カノの話しろってか?」
「だって気になるし。臭いから嗅ぐなって言われたら、逆に嗅ぎたくなるでしょ? こんな不安抱えたままお母さんになるとかそれこそ勘弁だよ。……それに、話すなら今が一番だと思うんだけどなー」
「どうして?」
「女は子供を産んだら豹変するって言うじゃん。豹変する前の私と豹変してからの私。バレるならどっちが良いと思う?」
「……」
俺は観念し、苦笑いを浮かべながら昔話を垂れ流した。彼女は同じ高校の後輩であった事。東京に進学する俺を追って自分も東京の大学に進学した事。東京では御茶ノ水のアパートを借りて半同棲状態で過ごしていた事。大学を卒業してからも交際は続いていた事。きっと近いうちに結婚するんだろうなと、そう思いながら社会人になった事。そして。
「疲れたって。そう言われた」
子供を産めなくなった彼女に拒絶された事。それ以来彼女とはたったの一度も会ったりせず、連絡も取り合っていない事。妻の逆鱗と不安を刺激しないよう、十二分に言葉を選びながら、今まで隠し通した過去の出来事を包み隠さず全部話した。
「何それ酷い。それで好きだった人を捨てて他の人と結婚するんだ?」
俺の足元から聞こえて来たその反応は、俺の知る妻の声とは遠くかけ離れた少女の声だった。
足元に視線を落とす。俺の隣には二人の人間が座っていた。妻と、そしてもう一人……。
人間。自分で言っておいてなんだけど、果たして本当にそれを人間と呼んでいいのだろうか。それは空中に停滞しながら、妻を背後から抱き抱えている。背後から回した腕で妻の口元を押さえつけ、妻が声を漏らさないようにしていた。
それが女である事は理解出来た。声のトーンが女のそれで間違いないし、それに病院の入院着から浮き出る体の凹凸具合も人間の女そのもの。けど、それだけだ。それが女だと理解出来る要素はそれしかない。
それは人というよりロボットに近い形状をしていた。手足がメカニカルな装甲に包まれていて、背中……というより腰だろうか。それの腰からは天使の翼を象りつつも、どこか飛行機や戦闘機のジェットエンジンを模したような金属の翼も生えている。極め付けはその頭部だ。
それの頭部には楕円形の黒い球体がポツンと存在していた。無機質で機械的なヘルメットのような、そんな形態。そもそもそれがヘルメットだというのが俺の勘違いなのかもしれない。その頭部の装甲を引き剥がしても、中にあるのは人間の頭ではなく機械の塊だと、そう言われても全く違和感がないのだから。
「そもそも子宮頚癌の原因になるHPVってセックスで感染するんだよ? もしその元カノさんがおじさんとしかセックスをしていないなら、元カノさんを癌にしたのはおじさんだ。じゃあおじさんはどこからこのウイルスを貰って来たのかな? 浮気とかしてた?」
クスクスと、ヘルメットの中で笑い声が反響する。あいつと別れて十年近く経った今となってはもはやこの弁明に価値などはないだろう。しかしそれでも弁明する機会を与えてもらえるのなら、俺は神に誓ってあいつとの交際中に他の女と体を交えた経験はない。体を交えたのは、あいつとの交際前と別れた後で……。まぁ。
「最低」
そんな俺の事情なんか知る由もないそれは、俺をからかうような声色でそう呟いたけれど。イタズラ好きな子供が大人をからかうようにそう呟いたけれど。
「元カノさんが言ってた疲れたって言葉もきっと強がりなんだろうなー。元カノを癌にして、子供も産めなくさせて。おまけに体のいい理由引っ提げて他の女に乗り換えて。奥さんも本当にこんな人を選ぶ気? いざとなったら奥さんと子供を捨てて逃げ出すと思うよ? この人」
それの頭部が俺を見上げた。
「おじさん、悪い人だ」
もしもヘルメットの奥に人の顔があるのなら。それは間違いなく俺に笑いかけているような、そんな気がした。
「……何だお前。お前、何言って」
「試してみる? ザンド」
ふと、それの口から謎の単語が出てきた。するとそれの体からは、何らかの部品のような物が飛び出し、俺に向かって飛んでくる。反射的にそれを掴み取ってみると、その部品は何かのスイッチような形状をしていた。
「新しい魔法を覚えたんだ。事故死ばっかも芸がないし、今日からは色々な殺し方を試してみようと思うの。おじさんは記念すべきモルモットくん一号」
それの両手から円筒状の、例えるなら銃身のような物が二本生えて来た。その銃口が妻のこめかみと腹部に向けられる。
「なんとなく分かると思うけど、これ銃ね? それじゃあ私、三秒後に奥さんの頭とお腹を撃ちまーす。身代わりになりたくなったらそのスイッチを押して? そしたら標的がおじさんに移り変わるから。じゃあ行くよ?」
それがカウントダウンを始めるよりも前に、俺の体は行動に移っていた。
「三」
抵抗だ。それ目掛けて殴る蹴るを繰り返し、なんとか妻から引き剥がそうと試みた。
「二」
しかし、びくともしない。まるで岩でも殴っている気分だった。俺はそれの関節を曲げる事は愚か、それをほんの一ミリ動かす事も出来ない。装甲に覆われていない胸部と腹部を殴っても結果は変わらなかった。殴った感触はまごう事なく女の柔肌そのもののはずなのに。……だから。
「一」
俺はスイッチを押した。
「やるぅー」
スイッチを押した事で気がついた事がある。人は頭を射抜かれても即死する事はなく、絶命するまで意識の猶予が残されているのだと。現に頭を射抜かれたはずの俺の耳にはそれの言葉が届いている。頭と腹部に狙撃を受けた事で宙を舞う自分の体も認識出来ている。
「なんだ。おじさん凄いね? 偉いじゃん」
宙を舞った俺の体は、やがて物理の法則に従って砂浜へと落下した。そんな俺の視界はまだ辛うじて機能しているらしい。妻を解放したそれがこっちへ歩み寄って来ている。
「その勇気に乾杯。特別に治してあげる」
いつの間に取り出したんだろう。それの右手には何らかの本のような物が握られていた。それは俺の前でしゃがみ込むと、片手を俺の体にかざす。……しかし。
「……あ、そうだ。ごめんねおじさん。私、今日からそう言う魔法は使えなくなったんだ」
それはすぐにかざした手のひらを下げ、そしての妻の方へと振り向くのだ。
「奥さんもごめんなさい。悪いけど、お腹の赤ちゃんは頑張って一人で育てて……」
背中を向けて逃げ出す妻の方へと振り向くのだ。
「……」
それは俺にかざした手のひらを妻の背中へ向けた。
「いや、お前が逃げるんかーい」
そして真っ赤な液体を撒き散らしながらその場に倒れる妻を見ながら、ケラケラと楽しそうに笑い転げていた。
「……うん。いい。凄くいいよこの体。死ぬまでの暇つぶしに最適。ありがとう、ザンド」
なんだろう。それは何を呟いているのだろう。まるで誰かと会話でもするような、そんな独り言をそれは漏らす。すると次の瞬間、それの手足と頭部に装着されていた装甲が一瞬で消え去った。
「……ふぅ。……でも、魔法を解いた瞬間……。一気に苦しくなるね。……ねぇ? ザンド」
ヘルメットの中から出てきたのは、間違いなく人の顔だった。あどけなさの残る少女の顔。俺は心のどこかでそれの正体が機械である事を望んでいた。人類に反旗を翻す殺戮マシンか何かだと思いたかった。
「……でもね。私、案外こっちの体も好きかも。一歩一歩死に近づいているのが……よくわかるから。……あぁ。私今、天使に近づいてるんだなーって……実感できる」
だって、あれの中身が生き物だなんて。あれの中身が心を持った人間だなんて。そんなの。
「……あれが完成するのと私が天使になるの……。どっちが先かな?」
そんなの悪魔じゃないか。
「……今日も天使になれなかったなー」
少女は入院着だけを纏った姿で砂浜を歩いて行く。そして。
「……明日は天使になれるかなー」
それが俺がこの世で見た最後の光景となった。
◇◆◇◆
「チーズケーキ美味そう……」
私はケーキ屋のショーケースに顔面を貼り付けながら思わず声を漏らしてしまった。
「ミルククレープ美味そう……」
チーズケーキを目で堪能したら隣のミルククレープ。ミルククレープを目で堪能したら隣のショートケーキ。一歩ずつ隣に移動しながら何度でもそれらの姿を目に焼き付ける。
「りいちゃん、ちゃんと買ってあげるからやめて……恥ずかしい……」
そして私はサチに腕を掴まれショーケースから引き剥がされたのだった。
有生家のバースデーパーティーにサプライズは存在しない。絶対に祝って貰えるとわかっている以上、サプライズもクソもないからだ。それに私的にもサプライズはそこまで好きじゃない。だってそうだろ? サプライズをされたら誕生日ケーキの種類はサチの一存で決まる事になる。でもサプライズがなければ、こうして明日のケーキを私の意思で決める事が出来るのだから。
「……サチ。ちなみに買ってあげるというのは何ホールまでですか?」
「一ホールだよ。カットケーキならまぁ三百六十度分買ってあげてもいいけどホールケーキは流石に一ホールだよ」
「でも前はお店のケーキ全部買い占めてくれたじゃないですか」
「あの時はりいちゃんと和解前だったからね。私、釣った魚には餌はあげない主義なの」
「サチ、この前の喧嘩以来結構ズケズケ言って来ますよね……」
と、その時。サチのスマホに着信が入る。サチに電話をかけてくる人って大抵はお店関連の人だ。……まさか急遽仕事が入るとかそう言うのじゃないだろうな?
「あ、もしもし? どうしたのお母さん」
しかし、そんな私の不安は杞憂に終わる。よかった、プレゼントもケーキも貰えないまま仕事が入るとか冗談じゃないもんな。
「今? ちょっと出掛けてるとこ。でもすぐ帰るよ。うん」
それはそれとしてサチのお母さんか。珍しいな。放任主義なのかどうかはわからないけど、サチの家族から電話がかかって来ることって滅多にない。なんならサチ自身、説明のし難い私の存在をはぐらかす為に家族と距離を置いている所があるしな。私はそんな久々の親子の会話に水を差さないよう、ゆっくりサチから離れてケーキ選びを再開しようと思ったのだけれど。
「……え」
サチの声のトーンが急激に下がったその返事が妙に気になった。それだけならいざ知らず、そこから先の会話全てのトーンが下がっていく。それを知らんぷり出来る程、私はサチの事が嫌いじゃない。知らんぷり出来ない程私はサチの事が好きだから。
「……わかった」
サチが電話を切って、すぐに声をかけた。
「どうかしたんですか?」
そして次にサチから発せられた言葉を聞いた事で、私はサチの精神が正常でない事を知る。いつものサチなら、きっとそう言う話題は私の前では出さないはずだから。
「地元の友達……ていうか。まぁ、元カレなんだけど。なんか……撃たれたって」
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基本は面白くですが、シリアスも顔を覗かせます。猫ミミ、孤児院、幼女など定番物が登場します。
○○○「これは私とのラブストーリーなの!」
主人公「いや、それは違うな」
異世界辺境村スモーレルでスローライフ
滝川 海老郎
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ブランダン10歳。やっぱり石につまずいて異世界転生を思い出す。エルフと猫耳族の美少女二人と一緒に裏街道にある峠村の〈スモーレル〉地区でスローライフ!ユニークスキル「器用貧乏」に目覚めて蜂蜜ジャムを作ったり、カタバミやタンポポを食べる。ニワトリを飼ったり、地球知識の遊び「三並べ」「竹馬」などを販売したり、そんなのんびり生活。
#2024/9/28 0時 男性向けHOTランキング 1位 ありがとうございます!!
異世界をスキルブックと共に生きていく
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神様に頼まれてユニークスキル「スキルブック」と「神の幸運」を持ち異世界に転移したのだが転移した先は海辺だった。見渡しても海と森しかない。「最初からサバイバルなんて難易度高すぎだろ・・今着てる服以外何も持ってないし絶対幸運働いてないよこれ、これからどうしよう・・・」これは地球で平凡に暮らしていた佐藤 健吾が死後神様の依頼により異世界に転生し神より授かったユニークスキル「スキルブック」を駆使し、仲間を増やしながら気ままに異世界で暮らしていく話です。神様に貰った幸運は相変わらず仕事をしません。のんびり書いていきます。読んで頂けると幸いです。
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