46 / 236
第二章 魔女とタバコを吸う少年
行き過ぎた反抗期
しおりを挟む
◇◆◇◆
玄関の戸を開ける。いつもなら一直線に自室へ向かうものの、その日の俺の足は六月の暑さ操られ、喉の乾きを潤すべく自室より先にリビングの方へと向かっていった。
ガラリと引き戸式のドアを開くと、リビングと繋がった台所の方から慌てて金属製の何かを落とすような物音が鳴り響いた。思い当たる人物は一人しかいない。この家に、俺の帰宅に怯えて慌てふためく人物は一人しかいない。
「……あ。だ、ダイちゃんおかえり」
夕飯の支度の真っ只中だったお袋が、玉ねぎのみじん切りを止めて俺の方へ視線を送った。
「その……、今日は早かったね」
俺はそんなお袋の世間話に返事はしない。こいつとのやり取りは、大体無視か舌打ちかのどちらかだ。いつの日からか、これが俺たちの日常会話となっていた。
そんなお袋を横切り、冷蔵庫の扉を開ける。何か喉を潤せる物を探ってみると……なるほど。俺の乾きを癒すのに適した飲み物は牛乳、オレンジジュース、麦茶、そしてヨーグルトの四種類か。この四択なら気分的にヨーグルトだな。俺はヨーグルトのパックを取り出し、そのまま口を開けてラッパ飲みで喉の奥へと流し込んだ。酸味と甘味の程よいバランスが喉を流れて……。
「……あの、ダイちゃん」
「……」
「て、テレビで見たんだけどね。その……、口の中のバイ菌には冷蔵庫みたいな気温の低い所でも増える菌がいるんだって」
「……」
「だからその……、飲む時はコップで飲んだ方が」
一通り喉が潤った所で紙パックから口を離す。ついでに大きなゲップも一つ。喉が渇いた時に甘い飲み物はむしろ逆効果って聞くけど、あれって本当なのかな? こうして飲んだ感じ、爽快感こそあれど飲む前以上に喉が渇いた感じは全然しねえのに。まぁ、これ以上このヨーグルトを飲む事はもうなさそうだけど。
俺はまだ中身が半分以上残ったヨーグルトのパックをそのまま流し台へと放り捨てた。
「あ……、だ、ダイちゃん! そんなもったいない事」
「何? 要するに俺の唾がついたヨーグルトなんか汚いって事だろ? だから捨てたんだけど俺何か間違った事した?」
「汚いって……。お母さん、別にそこまで言ったわけじゃ……」
「……っせえなーっ!」
ただでさえ小さいお袋の声を掻き消さんばかりの声量で叫ぶ。また、その叫び声にも負けない勢いで冷蔵庫の扉を荒々しく閉めた。今にも怒りで血管が弾けそうになったものの、俺の変貌に驚き身構えてしまったお袋の無様な姿を見て、少しばかり怒りの波が治る。本当に僅かだけど治る。怒り自体が消え去ったわけではない。
「つうかくだらねえ事で一々話しかけて来んなって何度言えばわかんだよ! ガキ扱いしてんじゃねえぞクソババア!」
「……」
「どけよ! 邪魔だから!」
台所とリビングを繋ぐ通路に立つお袋の肩を押し、少しばかり乱暴にどかした。
「痛……っ!」
するとお袋はわざとらしく、大袈裟に悲鳴なんか漏らしやがった。そんな強く押してねえってのに調子に乗りやがって。マジで腹か顔面に蹴りの一発でもぶちかましてやろうかと思ったが。
「あ……血が」
どうやら俺が思っているほどわざとらしいわけではないようだ。玉ねぎのみじん切りをしていたお袋の右手には、一本の包丁が握られ続けていた。そんなお袋の肩を押したもんだから、ちょっとした拍子に左手の指が包丁と接触してしまったらしい。お袋の左親指の背に、血が滲み出る細い切り傷が浮かんでいる。
「はいはい、被害者アピール乙。どうせなら手首くらい切り落としてみろっての」
「……」
「それとさ、何玉ねぎなんか切ってんの? いやまぁ、別にいいけどさ。俺の分に入れたらぶっ殺すから」
「……」
お袋からの返事はなし。まぁ、返事がねえならねえでそれが一番だ。こいつとの会話なんて少ないに越した事はねえし。俺は大袈裟に左手の傷口を洗うお袋を横目にリビングを後にした。
「……だーっ!」
世界一心が休まる場所である自室に入るや否や、俺は部屋の隅に設置されたベットに顔から飛び込んだ。程よい反発に体が揺れ、枕にしみた自分の匂いに緊張感が解けていく。
数百冊を超える漫画が並んだ本棚。最新ゲームからやや懐かしめのゲームまで取り揃えたゲーム台。少しばかり古いながらも未だ現役で稼働し続けるデスクトップパソコン。他にも季節毎に仕分けされた私服やアクセサリー、ゲーセンで取りまくった景品の数々など、くだらない物からくだらある物まで、とにかく多種多様な物に囲まれた俺の部屋。いや、一層の事俺の城、俺の国とでも言ってしまいたい。
「……よしっ!」
ベットの上で気を取り直した所で、俺は外着を乱雑に投げ捨ててから部屋着に着替える。そして再びベットに横になりながらスマホを取り出した。
写真を開き、そこに保存された最新の動画を再生する。それはつい数時間前にイオンで撮影したのび太の犯行現場だった。最寄り駅から始まったのび太の尾行はとても順調に撮影されている。身銭を切って買った物を万引きしたと言い張るんじゃないかとヨウイチさんは予想していた。だからこうしてわざわざ貴重な休日を返上してまで犯行現場を撮ろうとしたのに……。
「……っち」
動画では、俺がフードコートに差し掛かった所でのび太が画面の外へと抜け出してしまった。余計な物がカメラに映り込んだんだ。ありんこみたいな小さな手が。
動画の主役はいつしかのび太からそのありんこへと切り替わっていた。たくさんのデザートをテーブルに並べたありんこの映像。
『あ、すみま……!』
『あ』
『……げ』
その蟻は手をぶつけた俺に一旦謝ろうとしたものの、相手が俺だと気づくと見るからに不機嫌そうな顔をしやがった。
『おい。痛えんだけど』
『謝れよ』
『……』
『聞いてんのかチビ』
『……っ』
動画の映像はそこで途切れた。あのチビが大の字になって腹を剥き出しにした辺りだ。
『は? 何してんの』
『お前には死んでも謝んねえ。でも一回は一回だ。殴れよ。タロウ。お前は手ぇ出すな。これは私が悪い。一発くらい素直に殴られるよ』
俺はそこでスマホをポケットに入れた。そのチビを渾身の力で叩きのめす為に。だからここから先は映像がなく、ただただ音声が流れるだけだった。とてももったいなく思う。俺に鳩尾を叩かれて気持ちの悪い呻き声はビンビンに流れてくるのに、肝心の映像は黒一色。俺に鳩尾殴られて涙目になってたあのチビの顔、思い出すだけでも笑えてくる。せっかくならあの無様な顔ごと映像に収めたかったのにな。
『カッコつけてんじゃねえよ子豚』
『あ? 子豚は可愛いんだぞヒョロノッポ。……ってか、お前こそその身長に釣り合わない細い手足はなんだ? 自分が細マッチョ』
俺は小さく舌打ちをつき、そこで動画を閉じた。そこから先は俺の気に障るしょうもない音声しか流れてこないのを知っているからだ。
あーあ、最悪だ。のび太が見るからに高そうな酒をカゴに詰めるシーンは撮れたけど、結局それを万引きしたかどうかまではわからないまま。せめてあのチビの悶える顔でも撮れてりゃまだよかったのに。
俺はイライラを晴らすべく、過去の動画を漁ってみた。このスマホには俺を笑顔にしてくれる動画が山のように保存されているんだ。例えば……そう、これとか。
『どもーっ! 五臓六腑ぅ……ですっ!』
再生した動画はちょうど一ヶ月くらい前に撮ったやつだった。五臓六腑というのは俺(ネット名:ファイブ)とヨウイチさん(ネット名:子象)とカイトさん(ネット名:SOX)とタクちゃん(ネット名:プーちゃん)がネットで使っている名前を、俺達なりに捻って組み合わせたもの。要はネット上での俺達のチーム名みたいなもんだ。
一時期、いつもの四人でYouTuberをやってみないかって話になった事があった。これはそんな時に撮った動画だった。
『今日のテーマは……、こちら! チー牛イケメン化計画ぅー!』
熊のマスクを被ったタクちゃんの声に合わせ、チー牛イケメン化計画のテロップが流れる。それと同時にヒーローのお面を被った俺、サングラスとマスクをかけたカイトさん、そして象の被り物をしたヨウイチさんが一斉に拍手。一斉の拍手が終わると、タクちゃんは再び語り部に戻って動画本題の前置きを語り始めた。
『いやー、皆さん。お洒落してますか? 皆さんの中にはどうせ自分はモテないって決めつけて、お洒落を諦めてる人とかいませんかね? 彼女いない歴=年齢のファイブくんはどう思う?』
『おいてめえプーちゃんこの野郎、今いらん事言ったな? 今いらん事言ったなてめえ!』
いじりを受けた俺がタクちゃんに掴みかかった。それから数秒程続く、俺とタクちゃんのふざけ半分のじゃれ合い。そう、ふざけ半分のじゃれ合いだ。タクちゃんはふざけているつもりなんだろうが、この時彼女無しをいじられた俺は悔しさのあまり結構本気で掴みかかっていたからな……。ふざけているタクちゃんと本気の俺のじゃれ合いだから、ふざけ半分って言い方はあながち間違っていないだろう。
『はいはいはい! ここまで! 前置きはここまでー! という事で、今日は自分の容姿に自信がない人を励まそうと思ったわけですね。それでは今日のゲストはこちらー!』
じゃれ合いが終わった事でいよいよタクちゃんが話の本題に切り替えた。タクちゃんの合図に合わせ、画面の方も切り替わる。顔にモザイクのかかった男が、ヨウイチさんとカイトさんに挟まれながら座る場面に。まぁ、顔にモザイクのかかった男っていうのはのび太の事だけど。
『これ、俺達の友達の通称のび太君。見てくださいよ皆さん、こいつの髪。男のくせにめっちゃ綺麗でしょ? お前、ワックスとか全然使ってないもんな』
『あ……、まぁ……』
タクちゃんの質問に苦笑いでのび太が返事をする。モザイクがかかっているとは言え、声のトーンで苦笑いを浮かべているのは明らかだ。
『そういう訳でですね。今回はこの普段からダサいのび太君を、俺達がワックスとヘアスプレーで最低限のイメージチェンジしてあげようと思うんですよ。まぁ、顔にはモザイクかけちゃいますけど、でもワックス一つで髪型はここまで変えられるんだってのをお見せ出来るわけですから。なので視聴者さんの中にヘアセット未経験の人がいれば、是非この動画を参考にしてみてください。あんま難しいセットはしないんで。それでは……!』
そして。
「……」
そしてここからも映像は続くわけだけど。
「……っ、くふっ……!」
ダメだこれ。今見ても面白過ぎて直視なんか出来やしない。のび太をイケメン化やらワックス未経験の人の為の参考動画やら謳った割に、動画の後半は基本悪ふざけ中心のグダグダパートだ。
イケメンとは程遠いヘンテコな髪型にいじってみたり、ワックスでべたついた髪を乱雑に扱ってぶちぶち引っこ抜いてみたり、挙げ句の果てにヘアスプレーをのび太の目に噴射したり。あー、面白え。スプレーを目に噴射されて痛みに悶えるのび太の姿と、殺虫剤をかけられて悶える虫の姿が被って見える。
こんなにも面白いのに、この動画が日の目を見る事はないんだから世の中ってのはクソだよな。一応五臓六腑の動画第一弾として投稿したはいいんだけど、あっという間にバッド数が五十を超えてさ。コメント欄にもくだらない正義マンが湧いていて、警戒したヨウイチさんの命令ですぐに動画は削除する事になった。幸運にも火消しが早かったおかげで、この動画が第三者に保存されるような事態には陥らなかったけど、今思えば結構危ない綱渡りだったかもしれない。
のび太のやつ、眼鏡越しにヘアスプレーをかけられたから無事だったっぽいけど、もしも眼鏡抜きにヘアスプレーをかけたらどうなってたんだろうな。まさか失明とか? だとしたらマジでウケるわ。
そんな楽しい過去動画漁りの時間が暫く続いた。
玄関の戸を開ける。いつもなら一直線に自室へ向かうものの、その日の俺の足は六月の暑さ操られ、喉の乾きを潤すべく自室より先にリビングの方へと向かっていった。
ガラリと引き戸式のドアを開くと、リビングと繋がった台所の方から慌てて金属製の何かを落とすような物音が鳴り響いた。思い当たる人物は一人しかいない。この家に、俺の帰宅に怯えて慌てふためく人物は一人しかいない。
「……あ。だ、ダイちゃんおかえり」
夕飯の支度の真っ只中だったお袋が、玉ねぎのみじん切りを止めて俺の方へ視線を送った。
「その……、今日は早かったね」
俺はそんなお袋の世間話に返事はしない。こいつとのやり取りは、大体無視か舌打ちかのどちらかだ。いつの日からか、これが俺たちの日常会話となっていた。
そんなお袋を横切り、冷蔵庫の扉を開ける。何か喉を潤せる物を探ってみると……なるほど。俺の乾きを癒すのに適した飲み物は牛乳、オレンジジュース、麦茶、そしてヨーグルトの四種類か。この四択なら気分的にヨーグルトだな。俺はヨーグルトのパックを取り出し、そのまま口を開けてラッパ飲みで喉の奥へと流し込んだ。酸味と甘味の程よいバランスが喉を流れて……。
「……あの、ダイちゃん」
「……」
「て、テレビで見たんだけどね。その……、口の中のバイ菌には冷蔵庫みたいな気温の低い所でも増える菌がいるんだって」
「……」
「だからその……、飲む時はコップで飲んだ方が」
一通り喉が潤った所で紙パックから口を離す。ついでに大きなゲップも一つ。喉が渇いた時に甘い飲み物はむしろ逆効果って聞くけど、あれって本当なのかな? こうして飲んだ感じ、爽快感こそあれど飲む前以上に喉が渇いた感じは全然しねえのに。まぁ、これ以上このヨーグルトを飲む事はもうなさそうだけど。
俺はまだ中身が半分以上残ったヨーグルトのパックをそのまま流し台へと放り捨てた。
「あ……、だ、ダイちゃん! そんなもったいない事」
「何? 要するに俺の唾がついたヨーグルトなんか汚いって事だろ? だから捨てたんだけど俺何か間違った事した?」
「汚いって……。お母さん、別にそこまで言ったわけじゃ……」
「……っせえなーっ!」
ただでさえ小さいお袋の声を掻き消さんばかりの声量で叫ぶ。また、その叫び声にも負けない勢いで冷蔵庫の扉を荒々しく閉めた。今にも怒りで血管が弾けそうになったものの、俺の変貌に驚き身構えてしまったお袋の無様な姿を見て、少しばかり怒りの波が治る。本当に僅かだけど治る。怒り自体が消え去ったわけではない。
「つうかくだらねえ事で一々話しかけて来んなって何度言えばわかんだよ! ガキ扱いしてんじゃねえぞクソババア!」
「……」
「どけよ! 邪魔だから!」
台所とリビングを繋ぐ通路に立つお袋の肩を押し、少しばかり乱暴にどかした。
「痛……っ!」
するとお袋はわざとらしく、大袈裟に悲鳴なんか漏らしやがった。そんな強く押してねえってのに調子に乗りやがって。マジで腹か顔面に蹴りの一発でもぶちかましてやろうかと思ったが。
「あ……血が」
どうやら俺が思っているほどわざとらしいわけではないようだ。玉ねぎのみじん切りをしていたお袋の右手には、一本の包丁が握られ続けていた。そんなお袋の肩を押したもんだから、ちょっとした拍子に左手の指が包丁と接触してしまったらしい。お袋の左親指の背に、血が滲み出る細い切り傷が浮かんでいる。
「はいはい、被害者アピール乙。どうせなら手首くらい切り落としてみろっての」
「……」
「それとさ、何玉ねぎなんか切ってんの? いやまぁ、別にいいけどさ。俺の分に入れたらぶっ殺すから」
「……」
お袋からの返事はなし。まぁ、返事がねえならねえでそれが一番だ。こいつとの会話なんて少ないに越した事はねえし。俺は大袈裟に左手の傷口を洗うお袋を横目にリビングを後にした。
「……だーっ!」
世界一心が休まる場所である自室に入るや否や、俺は部屋の隅に設置されたベットに顔から飛び込んだ。程よい反発に体が揺れ、枕にしみた自分の匂いに緊張感が解けていく。
数百冊を超える漫画が並んだ本棚。最新ゲームからやや懐かしめのゲームまで取り揃えたゲーム台。少しばかり古いながらも未だ現役で稼働し続けるデスクトップパソコン。他にも季節毎に仕分けされた私服やアクセサリー、ゲーセンで取りまくった景品の数々など、くだらない物からくだらある物まで、とにかく多種多様な物に囲まれた俺の部屋。いや、一層の事俺の城、俺の国とでも言ってしまいたい。
「……よしっ!」
ベットの上で気を取り直した所で、俺は外着を乱雑に投げ捨ててから部屋着に着替える。そして再びベットに横になりながらスマホを取り出した。
写真を開き、そこに保存された最新の動画を再生する。それはつい数時間前にイオンで撮影したのび太の犯行現場だった。最寄り駅から始まったのび太の尾行はとても順調に撮影されている。身銭を切って買った物を万引きしたと言い張るんじゃないかとヨウイチさんは予想していた。だからこうしてわざわざ貴重な休日を返上してまで犯行現場を撮ろうとしたのに……。
「……っち」
動画では、俺がフードコートに差し掛かった所でのび太が画面の外へと抜け出してしまった。余計な物がカメラに映り込んだんだ。ありんこみたいな小さな手が。
動画の主役はいつしかのび太からそのありんこへと切り替わっていた。たくさんのデザートをテーブルに並べたありんこの映像。
『あ、すみま……!』
『あ』
『……げ』
その蟻は手をぶつけた俺に一旦謝ろうとしたものの、相手が俺だと気づくと見るからに不機嫌そうな顔をしやがった。
『おい。痛えんだけど』
『謝れよ』
『……』
『聞いてんのかチビ』
『……っ』
動画の映像はそこで途切れた。あのチビが大の字になって腹を剥き出しにした辺りだ。
『は? 何してんの』
『お前には死んでも謝んねえ。でも一回は一回だ。殴れよ。タロウ。お前は手ぇ出すな。これは私が悪い。一発くらい素直に殴られるよ』
俺はそこでスマホをポケットに入れた。そのチビを渾身の力で叩きのめす為に。だからここから先は映像がなく、ただただ音声が流れるだけだった。とてももったいなく思う。俺に鳩尾を叩かれて気持ちの悪い呻き声はビンビンに流れてくるのに、肝心の映像は黒一色。俺に鳩尾殴られて涙目になってたあのチビの顔、思い出すだけでも笑えてくる。せっかくならあの無様な顔ごと映像に収めたかったのにな。
『カッコつけてんじゃねえよ子豚』
『あ? 子豚は可愛いんだぞヒョロノッポ。……ってか、お前こそその身長に釣り合わない細い手足はなんだ? 自分が細マッチョ』
俺は小さく舌打ちをつき、そこで動画を閉じた。そこから先は俺の気に障るしょうもない音声しか流れてこないのを知っているからだ。
あーあ、最悪だ。のび太が見るからに高そうな酒をカゴに詰めるシーンは撮れたけど、結局それを万引きしたかどうかまではわからないまま。せめてあのチビの悶える顔でも撮れてりゃまだよかったのに。
俺はイライラを晴らすべく、過去の動画を漁ってみた。このスマホには俺を笑顔にしてくれる動画が山のように保存されているんだ。例えば……そう、これとか。
『どもーっ! 五臓六腑ぅ……ですっ!』
再生した動画はちょうど一ヶ月くらい前に撮ったやつだった。五臓六腑というのは俺(ネット名:ファイブ)とヨウイチさん(ネット名:子象)とカイトさん(ネット名:SOX)とタクちゃん(ネット名:プーちゃん)がネットで使っている名前を、俺達なりに捻って組み合わせたもの。要はネット上での俺達のチーム名みたいなもんだ。
一時期、いつもの四人でYouTuberをやってみないかって話になった事があった。これはそんな時に撮った動画だった。
『今日のテーマは……、こちら! チー牛イケメン化計画ぅー!』
熊のマスクを被ったタクちゃんの声に合わせ、チー牛イケメン化計画のテロップが流れる。それと同時にヒーローのお面を被った俺、サングラスとマスクをかけたカイトさん、そして象の被り物をしたヨウイチさんが一斉に拍手。一斉の拍手が終わると、タクちゃんは再び語り部に戻って動画本題の前置きを語り始めた。
『いやー、皆さん。お洒落してますか? 皆さんの中にはどうせ自分はモテないって決めつけて、お洒落を諦めてる人とかいませんかね? 彼女いない歴=年齢のファイブくんはどう思う?』
『おいてめえプーちゃんこの野郎、今いらん事言ったな? 今いらん事言ったなてめえ!』
いじりを受けた俺がタクちゃんに掴みかかった。それから数秒程続く、俺とタクちゃんのふざけ半分のじゃれ合い。そう、ふざけ半分のじゃれ合いだ。タクちゃんはふざけているつもりなんだろうが、この時彼女無しをいじられた俺は悔しさのあまり結構本気で掴みかかっていたからな……。ふざけているタクちゃんと本気の俺のじゃれ合いだから、ふざけ半分って言い方はあながち間違っていないだろう。
『はいはいはい! ここまで! 前置きはここまでー! という事で、今日は自分の容姿に自信がない人を励まそうと思ったわけですね。それでは今日のゲストはこちらー!』
じゃれ合いが終わった事でいよいよタクちゃんが話の本題に切り替えた。タクちゃんの合図に合わせ、画面の方も切り替わる。顔にモザイクのかかった男が、ヨウイチさんとカイトさんに挟まれながら座る場面に。まぁ、顔にモザイクのかかった男っていうのはのび太の事だけど。
『これ、俺達の友達の通称のび太君。見てくださいよ皆さん、こいつの髪。男のくせにめっちゃ綺麗でしょ? お前、ワックスとか全然使ってないもんな』
『あ……、まぁ……』
タクちゃんの質問に苦笑いでのび太が返事をする。モザイクがかかっているとは言え、声のトーンで苦笑いを浮かべているのは明らかだ。
『そういう訳でですね。今回はこの普段からダサいのび太君を、俺達がワックスとヘアスプレーで最低限のイメージチェンジしてあげようと思うんですよ。まぁ、顔にはモザイクかけちゃいますけど、でもワックス一つで髪型はここまで変えられるんだってのをお見せ出来るわけですから。なので視聴者さんの中にヘアセット未経験の人がいれば、是非この動画を参考にしてみてください。あんま難しいセットはしないんで。それでは……!』
そして。
「……」
そしてここからも映像は続くわけだけど。
「……っ、くふっ……!」
ダメだこれ。今見ても面白過ぎて直視なんか出来やしない。のび太をイケメン化やらワックス未経験の人の為の参考動画やら謳った割に、動画の後半は基本悪ふざけ中心のグダグダパートだ。
イケメンとは程遠いヘンテコな髪型にいじってみたり、ワックスでべたついた髪を乱雑に扱ってぶちぶち引っこ抜いてみたり、挙げ句の果てにヘアスプレーをのび太の目に噴射したり。あー、面白え。スプレーを目に噴射されて痛みに悶えるのび太の姿と、殺虫剤をかけられて悶える虫の姿が被って見える。
こんなにも面白いのに、この動画が日の目を見る事はないんだから世の中ってのはクソだよな。一応五臓六腑の動画第一弾として投稿したはいいんだけど、あっという間にバッド数が五十を超えてさ。コメント欄にもくだらない正義マンが湧いていて、警戒したヨウイチさんの命令ですぐに動画は削除する事になった。幸運にも火消しが早かったおかげで、この動画が第三者に保存されるような事態には陥らなかったけど、今思えば結構危ない綱渡りだったかもしれない。
のび太のやつ、眼鏡越しにヘアスプレーをかけられたから無事だったっぽいけど、もしも眼鏡抜きにヘアスプレーをかけたらどうなってたんだろうな。まさか失明とか? だとしたらマジでウケるわ。
そんな楽しい過去動画漁りの時間が暫く続いた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
32
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる