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第1.5章 魔女と日常の話

耳掃除

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「んー……」

「どうしたの?」

 お風呂から上がったりいちゃんが、頭を傾けながらトントンとこめかみを叩いていた。

「いえ、なんか耳からお湯が出て来なくて……あ、出た」

 何度も頭を叩いて振動を加えたおかげだろう。耳の奥からじわりとお湯の雫が零れ落ち、満足そう。でも外耳道を雫が這い出る感覚というのはどこかこそばゆいものだ。りいちゃんも例には漏れず、今度は小指を耳に突っ込んでぐりぐりし始めた。

「あーダメダメ! 爪で傷がついちゃうよ!」

「でもなんか痒くて……」

「わかった。おいで? 久しぶりに耳掃除してあげる」

「耳掃除……」

 自分で言ってて、思わず懐かしい気持ちになる。そういえば最後に耳掃除をしてあげたのも二年も前の話。二年前までは当たり前だったスキンシップが、この二年間はすっかりご無沙汰だった。この子と過ごせるはずの六年間のうち、二年もの長い期間を私は手放してしまったんだ。

「はい! お願いします!」

 最後の一年は、手放してしまった二年分を補うような年にしたい。心の底からそう思った。

 リビングのソファに腰を下ろし、太ももの上にりいちゃんの頭を乗せる。ドライヤーで乾かしてもなお微かに残る髪の水分が、私の足に温もりを感じさせた。私はりいちゃんの耳垢を取るのに適した綿棒を構え。

「じゃあ行くねー」

 りいちゃんの耳穴を覗き。

「うわ汚っ⁉︎」

 そして驚いた。

「え……? きた、……え? き、汚い……?」

「あ、ご、ごめん! びっくりしちゃってつい……」

「びっくりする程なんですか……? ていうか仮に汚いにしてももっと間接的な言い方ありませんか……?」

「本当ごめん……。だって本当に汚かったから……」

「だから言い方」

 私は目を見開き、りいちゃんの耳に目を近づける。きっと今見たのは幻だ、私のりいちゃんの耳の中がゴミみたいになっているはずがない。そう自分に言い聞かせながら、真偽を確かめる為に思い切り近づいた。

「うわ臭っ⁉︎」

 りいちゃん、顔真っ赤になってた。

「えー……。何で? 何でこんな汚くて臭いの? どうやったらここまで耳垢が詰まるの?」

「さぁ? 二年間耳掃除して貰わなかったからじゃないですかね?」

 りいちゃんはどこか拗ねたように答える。

「そんな事ないよ。動物の耳って、耳掃除しなくてもある程度耳垢が溜まれば勝手に出てくるんだよ? 野生動物は耳掃除なんかしないでしょ?」

「そんな……。じゃあ尚更おかしいじゃないですか! 私、サチにやって貰わなくても一人で結構頻繁に耳掃除してたのに。お風呂場で」

「ん? お風呂場?」

「はい。シャワーのお湯を鼓膜にぶっかけて洗い流してるんです。耳の中にお湯が溜まる感触、耳の中のお湯が出てこなくて焦るあの感じ、頭をどんどん叩いてなんとか耳からお湯が出てきた時のあのジワーッとした感覚。そのどれもが気持ち良くて……。今日のも最高でしたよ」

 私は頭を抱えた。

「垂れ耳の犬や猫っているよね?」

「ポムポムプリンですね」

「出来れば実在する動物で想像してね。あのね? あーいう耳が垂れた動物って耳の中が湿気ってて、定期的に飼い主が耳の中を乾かしてあげないとバイ菌がすっごい繁殖しちゃうんだよ」

「え」

「バイ菌って水分大好きだから」

「……」

「今そんな感じ」

「じゃあポムポムプリンの耳も」

「出来れば実在する動物で想像してね」

 りいちゃんも頭を抱えた。

「これは最悪耳鼻科も検討しないとか……」

「そんな……私眼科以外の病院嫌だ……っ。眼科以外の病院って基本痛い事してくるじゃないですか! あんまりだこんなの……っ!」

「あんまりなのはこの小汚い耳だよ」

「小汚い……。なんか汚い耳って言われるより傷つくんですけど。小って付いてるのに余計汚く聞こえるのは私だけですか?」

「日本語の不思議だね。とにかくじっとしてて? 取れるだけ取ってみるから」

 私は意を決してこの小汚い耳穴に綿棒を突っ込んだ。

「りいちゃんって耳垢取りやすくていいね」

「そうですか?」

「うん。耳垢って乾いたタイプと湿ったタイプがあるのは知ってる?」

「はい。学校で習いました」

「日本人は乾いたタイプが多いから、硬い耳かきでゴリゴリ削り取る感じなんだよね。でもりいちゃんのは湿ってるから綿棒で簡単に取れるよ」

 りいちゃんは黒髪でこそあるけれど、顔の作りはやっぱりアジア人離れした女の子だ。その顔を見るたびにこの子は私の子供ではないんだと、わかり切っている事なのに不安になってしまったりもする。

「湿っている分臭いけどね」

「だからそれ言う必要あります……?」

 と、その時。りいちゃんの体が瞬間的に揺れ動いたのを見て、私は瞬時に綿棒を耳から遠ざけた。その直後、りいちゃんが二、三回咳をする。危ない危ない、鼓膜まで綿棒が届いちゃう所だった。

「あ、すみません。なんか耳掃除されると咳が出そうになって。やっぱり私って病気なんですか?」

「それは大丈夫。耳穴の近くには迷走神経って言う体中に広がる大きな神経があるの。耳掃除でここを刺激しちゃうと、他の臓器にも刺激が伝わってムズムズしちゃうんだよ」

「そう言う事だったんですか。言われてみると、うんこ出したらお腹が空いてムズムズするあの感覚に近いものを感じます」

「私その感覚わからないかな……」

 そんなやり取りも交えつつ、耳掃除はまだまだ続いていく。

「何で耳掃除って気持ちいいんですかね?」

 反対側の耳に取り掛かった所で、ふとりいちゃんがそんな疑問を投げかけた。

「部屋の掃除はクソなのにこっちの掃除は癖になりそう……」

「部屋の掃除も癖になって欲しいな……。耳掃除が気持ち良いのは、さっき言った迷走神経への刺激が快感として脳に伝わっているからだって何かで見た事があったかも。でも、私はそれよりもスキンシップの方に原因があると思う」

「スキンシップ?」

「うん。要するにリラックスだよ。人は好きな人と触れ合うだけで幸せな気分になれるホルモンが脳から出るんだって。だからかな? 私はしてあげてる側なのに、こうしてりいちゃんと触れ合ってるから私まで気持ちよくなってる」

「あぁ、なら納得です」

「ん? 何が?」

「なんか今、サチと一緒の布団で寝てる時と同じ感じなんですよ。なるほど、そう言う事でしたか」

「……」

 りいちゃんにそう言われ、思わず口角が上がってしまった。それは言い換えれば、りいちゃんにとって私は触れ合う事でリラックス出来る存在だと言ってるも同然だ。人は孤独だと早死にするって話をよく聞くけれど、この子と一緒にいるとその話の信憑性をこれでもかとばかりに実感してしまう。

 彼と別れてからりいちゃんのお母さんに出会うまでの間、私はどうやって孤独に生きていたっけ。りいちゃんと生きる事を知ってしまった私には、孤独の生き方が思い出せない。

「はい、終わり。わー、綺麗になったね? 炎症起こしてる感じもないしこれなら病院は大丈夫かな?」

 それからも耳掃除を続ける事十数分。視認出来る耳垢を取り除き切る事で瑞々しい肌色を取り戻したりいちゃんの耳穴に思わず満足してしまう。……まぁ、ティッシュの上に乗った耳垢の山を見るとついつい苦笑いが浮かんじゃうけれど。

「りいちゃん? 終わったよ?」

 私は膝枕の体勢から上体を起こそうとしないりいちゃんの体を揺すった。一体どうしてしまったんだろう?

「名残惜しい……。めちゃくちゃ気持ちよかっただけに、とても名残惜しい……」

 りいちゃんはとてもだらけきっていた。人をダメにするクッションを初めて触った人を見ている気分だ。ここまで骨抜きという言葉がぴったりなだらけっぷりも中々ないだろう。

「でもこれ以上はダメだよ? 耳掃除ってやり過ぎると傷がついちゃうし」

「……はい。だから」

 だからと言っていつまでも膝枕をしているわけにもいかず、りいちゃんは潔く諦めて上体を起こす。そして私から綿棒を奪い取り、言葉を続けた。

「今度は私がやります。耳掃除って、やってあげる側も気持ちよくなれるんですよね?」

「……」

 あぁ、本当によかった。この子と過ごせる時間が一年延びてくれて、本当に……。

「うん。じゃあお願いしようかな?」

 りいちゃんに膝枕をされながら、私はこれまでに受けた様々なハグを思い出していた。幼い頃に両親から受けたハグ、昔飼っていたゴールデンレトリバーにしてあげたハグ、少し成長してから産まれてきた歳の離れた弟にしてあげたハグ、そして一時期は結婚まで考えていた元彼とのハグ。

 この気持ちは恋とは違うかも知れないけれど、女の恋は上書き保存という言葉がある。新しい恋をすれば過去の恋は忘れてしまうとかなんとか。こうしていると思い当たる節が多いものだ。両親とハグした時も、犬とハグした時も、弟とハグした時も、彼とハグした時も、私はその度に今が人生で一番幸せなんじゃないかと思ってきた。

 今だってそうだ。過去に何度も今が人生で一番幸せだと思ってきたのに、今もまた私は人生で一番幸せなひと時を過ごしている気がしてならない。この気持ちもまた、将来の私が愛する人にハグをされたら過去の気持ちとして処理されてしまうのだろうか。そう思うと、とても怖いや。

「じゃあ行きますよ」

 でも、深く考えるのはやめた。将来の恐怖に怯えて今の幸せを素直に受け止められないのは本末転倒だと思う。私はりいちゃんの好意を存分に楽しみたい。……なんて思ってたその時。

 ぶえっくしょん、と。とても十歳にも満たない年齢の子から出てきたものとは思えない、それこそ中年おじさんのような盛大なくしゃみがりいちゃんの口から飛び出す。

 次に私の耳が感じ取ったのは、りいちゃんの腕から零れ落ちた綿棒と私の鼓膜がぶつかり合う、そんな音だった。
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