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第一章 魔女と子宮を失った彼女
本当に欲しい物
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チラッとサチを見上げる。サチは今朝の私のように俯きながら黙々とミシンでの作業に取り掛かっていた。その手はミシンの振動とは別の震えをしているように見える。……といっても、そんな手の震えなんか見なくても、サチの恐怖は魔法によって私の心に流れ続けているけれど。
ひどい事をしてごめんなさい。ひどい事を言ってごめんなさい。傷つけてごめんなさい。嘘をついてごめんなさい。許して欲しいけどきっと許してもらえない。このままお別れなんかしたくない。こんな最後は嫌だ。せめて最後の一日くらい昔の関係に戻りたい。
やまびこのように反復される謝罪や不安、そして恐怖。中でも強いのは恐怖の感情だ。そりゃそうだろう。サチの心が私に流れて来るように、私の心もサチへと流れ込んでいるんだ。サチの真意を知ってなお、サチへの恨みが拭いされない私の気持ちが流れこんでいるんだ。
心が狭いと言われれば返す言葉もない。けれど私は覚えている。サチに拒絶された不安、サチに突き放された恐怖。
『私も。両想いだね? 私たち』
この世界で一番信頼していた人から告げられた最悪な両思い。今もこうして怯えているサチを見ているだけで清々しいと思ってしまっている。
「……」
サチは黙々と作業を続ける。まるでサチの冷ややかな目線に気づかないフリをして、朝食の準備をする今朝の私のようだった。
「……」
私も私で黙々と自分の作業を再開した。まるで朝食作りに勤しむ私を無視して、自分の朝食を作り始める今朝のサチのようだった。
朝の仕返しとでも言わんばかりに立場が逆転していて、とても気分が良い。サチの恐怖や不安が魔法を通じて伝ってくる度に心が晴れ渡った。思い知れ。私がどんな気分を味わったか、今ここで思い知れ。私の中でサチへの憎悪が深まる。深まった憎悪が全てサチへと明け渡される。その度にサチの嘆きが鳴り止まない。
ごめんなさい。許して。私をそんな風に見ないで。そんな怖い顔をしないで。怖い。ミシンに集中出来ない。逃げ出したい。嫌だ。助けて。ここにいるのが怖い。りいちゃんが怖い。
サチの嘆きを知る度に、私の憎悪も鳴り止まない。
絶対に許さない。お前なんか嫌いだ。お前の怯える姿が楽しい。お前の悲しむ姿が楽しい。お前が全部悪いんだ。泣けよ。見窄らしく涙をボロボロ流せよ。何があったって絶対にお前の事は許さない。
「……っ」
そこで遂にサチの手は動きを止めた。ミシンから手を離し、顔も俯き、両手で口元を覆い隠した。フゥーッ……、フゥーッ……と。激しく荒れるサチの呼吸音。瞳から垂れ落ちた数粒の涙が机に落ちたのを私は見逃さなかった。
(ざまあみろ)
私はそんなサチの姿にほくそ笑みながら、渾身の悪意をぶつけてやった。
何がごめんなさいだ。何が許してだ。もうサチの本心なんてどうでもいい。私の為の嘘とか、演技とか、そんなの知らない。サチの本心がどうであれ、私の脳はサチから受けた仕打ちを忘れてはくれなかった。
忘れられない。頭にこびりついて離れてくれない。どれだけ泣かれようと。どれだけ謝られようと。サチのあの顔が、サチのあの言葉が。一つ一つが今目の前で起きているかのように再生される。これだけサチの本音を受け止めているのに、その全てが嘘のように思えてしまう。サチが願いの為に嫌々私と暮らしていたように思えてしまっ……
(違う‼︎)
……。
突如逆流して来たサチの悲鳴に、私の悪意が行き場を失った。そして私はすぐに後悔する事になる。どうして余計な事を考えてしまったんだろうって。あのまま悪意だけを垂れ流せばよかったのに。壊れた機械のように、ただただ呪いの言葉だけを選んでいればよかったのに。
私は考えてしまった。自分の願いの為に、仕方なく私と暮らしていたと主張するサチの姿を思い浮かべてしまった。サチの願いを思い出してしまった。何度も消しゴムで修正したような汚らしい痕跡が残った、例の冊子を思い出してしまった。
サチは何度も何度も願いを書き直したのだろう。私が留学生活を全うすれば、サチはこの世界の技術をもってしても実現出来ない、どんな願いをも叶えられる権利が得られるはずだ。それなのに一体どれだけの欲に塗れれば、あんな風に何度も願いを修正するハメになるんだろう。修正する前のサチの願いは、どれだけ業の深い願いだったのだろう。
サチは服で涙まみれの顔を拭い、再びミシンを動かした。これだけ無様に泣いて大人の威厳なんてとっくに失効していると言うのに、それでも大人としての役割を果たそうとしているのだろうか。母としての役割を果たそうとしているのだろうか。
そんな私の考えがサチに届いてしまうように、サチの記憶もまた私の中へとなだれ込んでいく……。
それがいつの出来事なのかはわからない。ただ、視界に映る細かな家具の配置が最近のものと殆ど変わっていない事からして、比較的最近の出来事であるのは容易に想像が出来た。
時計の針が深夜の零時を回った頃、サチが私の部屋の扉を三回叩く。それだけではまだ不安だったのか『りいちゃん、起きてる?』と呟いて、私が確実に眠っている事を確認した。数秒しても私の反応がないとわかるや、サチはホッと一息ついて自分の部屋へと赴いた。そこで机の上に置かれたその冊子と睨み合った。
サチが開いたページは、例の願いを書くページだった。サチは空欄と睨めっこをしながら悩んでいる。悩んで、悩んで、悩みぬいて。そして願いの欄にこう記入した。
『ホリーちゃんの事を忘れたくないです』
冊子にはすぐにその審査結果が反映される。
[その願いは受理出来ません]
それは言い換えると、魔法の記憶を維持したまま魔法の存在しない世界で生きたいという魔界最大の禁忌に触れる願いだった。サチは小さくため息を吐き、消しゴムで願いを白紙に戻した。
『魔法の事を口外したら死ぬ呪いをかけてもいいので、ホリーちゃんの事を忘れたくないです』
次にサチが託した希望は、そんな願い。
[その願いは受理出来ません]
しかし無情にも魔界の審査はその願いも拒絶する。サチは筆を投げ捨てて大きなため息をついた。
そこから何もしない、天井をぼーっと見つめるだけの時間がしばらく過ぎる。数分が数十分かもわからない程の時間が過ぎ去った所でサチは再び筆を取った。その目に絶対に諦めないと言わんばかりの闘志を宿らせて。
『記憶はなくしてもいいので、留学が終わった後もホリーちゃんと暮らしたいです』
『留学が終わった後もホリーちゃんとの接点を持ち続けたいです』
『留学が終わった後もホリーちゃんが元気に過ごせているか、近況を知りたいです』
サチを何度も願いを書き記した。言葉を変え、内容を変え、何度でも筆を動かし続けた。
『魔界に移住したいです』
『私の人生でたったの一度でいいのでホリーちゃんとお話がしたいです』
『私の人生でたったの一度でいいのでホリーちゃんと手紙のやり取りをさせてください』
これがダメならあれ。あれがダメならそれ。願いを書いては白紙に戻し、願いを書いてはまた白紙に戻っていく。譲歩に譲歩を重ねる事で願いの質は確実に落ちて行くが、それでも構わないとばかりにサチは筆を休めようとはしない。
『ホリーちゃんの動画を一つだけ残させてください』
『一枚でいいのでホリーちゃんの写真を残させてください』
『ホリーちゃんの部屋をあのままにしてください』
しかし、そんな事がいつまで続くはずがなかった。どんなに言葉を変えようと、どんなに内容を変えようと、サチの願いは間接的にではあるものの、全てが魔界において最大のタブーとなる魔法情報の漏洩に繋がるものばかり。次第に語彙も使い果たし、譲歩出来るラインにも限界が迫ってくる。
『私がこの世を去る前の一分間で構わないのでホリーちゃんと会わせてください』
どんなに書いても、どれだけ書いても、魔界はサチの願いを受理してはくれなかった。掟に例外はありえない。いつしかサチの願いは、誰が見ても魔法情報の漏洩が不可能だと判断出来るまでに質が落ちていた。
『私がこの世を去る前の一分間で構わないのでホリーちゃんの声を聞かせてください』
それでも魔界はサチの願いを許してはくれない。自分の願いが却下される度に、冊子にはサチの大粒の涙が落ちていった。
『私がこの世を去る前の一分間で構わないのでホリーちゃんの事を思い出させてください』
それでも諦めずに何度書き直しただろう。それでも挫けずに何度やり直しただろう。深夜零時から始まったその挑戦だけど、いつしかその部屋には朝日が差し込んでいて。
『赤ちゃんを産める体に戻してください』
そこまで譲渡を重ねた願いを、果たして願いと呼んでいいのだろうか。それはもはや白紙と呼ぶべき代物ではないのだろうか。朝日に照らされたそんな白紙を、サチは全てを諦めた虚ろな目で眺めていた。
ひどい事をしてごめんなさい。ひどい事を言ってごめんなさい。傷つけてごめんなさい。嘘をついてごめんなさい。許して欲しいけどきっと許してもらえない。このままお別れなんかしたくない。こんな最後は嫌だ。せめて最後の一日くらい昔の関係に戻りたい。
やまびこのように反復される謝罪や不安、そして恐怖。中でも強いのは恐怖の感情だ。そりゃそうだろう。サチの心が私に流れて来るように、私の心もサチへと流れ込んでいるんだ。サチの真意を知ってなお、サチへの恨みが拭いされない私の気持ちが流れこんでいるんだ。
心が狭いと言われれば返す言葉もない。けれど私は覚えている。サチに拒絶された不安、サチに突き放された恐怖。
『私も。両想いだね? 私たち』
この世界で一番信頼していた人から告げられた最悪な両思い。今もこうして怯えているサチを見ているだけで清々しいと思ってしまっている。
「……」
サチは黙々と作業を続ける。まるでサチの冷ややかな目線に気づかないフリをして、朝食の準備をする今朝の私のようだった。
「……」
私も私で黙々と自分の作業を再開した。まるで朝食作りに勤しむ私を無視して、自分の朝食を作り始める今朝のサチのようだった。
朝の仕返しとでも言わんばかりに立場が逆転していて、とても気分が良い。サチの恐怖や不安が魔法を通じて伝ってくる度に心が晴れ渡った。思い知れ。私がどんな気分を味わったか、今ここで思い知れ。私の中でサチへの憎悪が深まる。深まった憎悪が全てサチへと明け渡される。その度にサチの嘆きが鳴り止まない。
ごめんなさい。許して。私をそんな風に見ないで。そんな怖い顔をしないで。怖い。ミシンに集中出来ない。逃げ出したい。嫌だ。助けて。ここにいるのが怖い。りいちゃんが怖い。
サチの嘆きを知る度に、私の憎悪も鳴り止まない。
絶対に許さない。お前なんか嫌いだ。お前の怯える姿が楽しい。お前の悲しむ姿が楽しい。お前が全部悪いんだ。泣けよ。見窄らしく涙をボロボロ流せよ。何があったって絶対にお前の事は許さない。
「……っ」
そこで遂にサチの手は動きを止めた。ミシンから手を離し、顔も俯き、両手で口元を覆い隠した。フゥーッ……、フゥーッ……と。激しく荒れるサチの呼吸音。瞳から垂れ落ちた数粒の涙が机に落ちたのを私は見逃さなかった。
(ざまあみろ)
私はそんなサチの姿にほくそ笑みながら、渾身の悪意をぶつけてやった。
何がごめんなさいだ。何が許してだ。もうサチの本心なんてどうでもいい。私の為の嘘とか、演技とか、そんなの知らない。サチの本心がどうであれ、私の脳はサチから受けた仕打ちを忘れてはくれなかった。
忘れられない。頭にこびりついて離れてくれない。どれだけ泣かれようと。どれだけ謝られようと。サチのあの顔が、サチのあの言葉が。一つ一つが今目の前で起きているかのように再生される。これだけサチの本音を受け止めているのに、その全てが嘘のように思えてしまう。サチが願いの為に嫌々私と暮らしていたように思えてしまっ……
(違う‼︎)
……。
突如逆流して来たサチの悲鳴に、私の悪意が行き場を失った。そして私はすぐに後悔する事になる。どうして余計な事を考えてしまったんだろうって。あのまま悪意だけを垂れ流せばよかったのに。壊れた機械のように、ただただ呪いの言葉だけを選んでいればよかったのに。
私は考えてしまった。自分の願いの為に、仕方なく私と暮らしていたと主張するサチの姿を思い浮かべてしまった。サチの願いを思い出してしまった。何度も消しゴムで修正したような汚らしい痕跡が残った、例の冊子を思い出してしまった。
サチは何度も何度も願いを書き直したのだろう。私が留学生活を全うすれば、サチはこの世界の技術をもってしても実現出来ない、どんな願いをも叶えられる権利が得られるはずだ。それなのに一体どれだけの欲に塗れれば、あんな風に何度も願いを修正するハメになるんだろう。修正する前のサチの願いは、どれだけ業の深い願いだったのだろう。
サチは服で涙まみれの顔を拭い、再びミシンを動かした。これだけ無様に泣いて大人の威厳なんてとっくに失効していると言うのに、それでも大人としての役割を果たそうとしているのだろうか。母としての役割を果たそうとしているのだろうか。
そんな私の考えがサチに届いてしまうように、サチの記憶もまた私の中へとなだれ込んでいく……。
それがいつの出来事なのかはわからない。ただ、視界に映る細かな家具の配置が最近のものと殆ど変わっていない事からして、比較的最近の出来事であるのは容易に想像が出来た。
時計の針が深夜の零時を回った頃、サチが私の部屋の扉を三回叩く。それだけではまだ不安だったのか『りいちゃん、起きてる?』と呟いて、私が確実に眠っている事を確認した。数秒しても私の反応がないとわかるや、サチはホッと一息ついて自分の部屋へと赴いた。そこで机の上に置かれたその冊子と睨み合った。
サチが開いたページは、例の願いを書くページだった。サチは空欄と睨めっこをしながら悩んでいる。悩んで、悩んで、悩みぬいて。そして願いの欄にこう記入した。
『ホリーちゃんの事を忘れたくないです』
冊子にはすぐにその審査結果が反映される。
[その願いは受理出来ません]
それは言い換えると、魔法の記憶を維持したまま魔法の存在しない世界で生きたいという魔界最大の禁忌に触れる願いだった。サチは小さくため息を吐き、消しゴムで願いを白紙に戻した。
『魔法の事を口外したら死ぬ呪いをかけてもいいので、ホリーちゃんの事を忘れたくないです』
次にサチが託した希望は、そんな願い。
[その願いは受理出来ません]
しかし無情にも魔界の審査はその願いも拒絶する。サチは筆を投げ捨てて大きなため息をついた。
そこから何もしない、天井をぼーっと見つめるだけの時間がしばらく過ぎる。数分が数十分かもわからない程の時間が過ぎ去った所でサチは再び筆を取った。その目に絶対に諦めないと言わんばかりの闘志を宿らせて。
『記憶はなくしてもいいので、留学が終わった後もホリーちゃんと暮らしたいです』
『留学が終わった後もホリーちゃんとの接点を持ち続けたいです』
『留学が終わった後もホリーちゃんが元気に過ごせているか、近況を知りたいです』
サチを何度も願いを書き記した。言葉を変え、内容を変え、何度でも筆を動かし続けた。
『魔界に移住したいです』
『私の人生でたったの一度でいいのでホリーちゃんとお話がしたいです』
『私の人生でたったの一度でいいのでホリーちゃんと手紙のやり取りをさせてください』
これがダメならあれ。あれがダメならそれ。願いを書いては白紙に戻し、願いを書いてはまた白紙に戻っていく。譲歩に譲歩を重ねる事で願いの質は確実に落ちて行くが、それでも構わないとばかりにサチは筆を休めようとはしない。
『ホリーちゃんの動画を一つだけ残させてください』
『一枚でいいのでホリーちゃんの写真を残させてください』
『ホリーちゃんの部屋をあのままにしてください』
しかし、そんな事がいつまで続くはずがなかった。どんなに言葉を変えようと、どんなに内容を変えようと、サチの願いは間接的にではあるものの、全てが魔界において最大のタブーとなる魔法情報の漏洩に繋がるものばかり。次第に語彙も使い果たし、譲歩出来るラインにも限界が迫ってくる。
『私がこの世を去る前の一分間で構わないのでホリーちゃんと会わせてください』
どんなに書いても、どれだけ書いても、魔界はサチの願いを受理してはくれなかった。掟に例外はありえない。いつしかサチの願いは、誰が見ても魔法情報の漏洩が不可能だと判断出来るまでに質が落ちていた。
『私がこの世を去る前の一分間で構わないのでホリーちゃんの声を聞かせてください』
それでも魔界はサチの願いを許してはくれない。自分の願いが却下される度に、冊子にはサチの大粒の涙が落ちていった。
『私がこの世を去る前の一分間で構わないのでホリーちゃんの事を思い出させてください』
それでも諦めずに何度書き直しただろう。それでも挫けずに何度やり直しただろう。深夜零時から始まったその挑戦だけど、いつしかその部屋には朝日が差し込んでいて。
『赤ちゃんを産める体に戻してください』
そこまで譲渡を重ねた願いを、果たして願いと呼んでいいのだろうか。それはもはや白紙と呼ぶべき代物ではないのだろうか。朝日に照らされたそんな白紙を、サチは全てを諦めた虚ろな目で眺めていた。
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