夜影の蛍火

黒野ユウマ

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第六.五章 高校最後の夏休み

第九話 現実

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夜影の蛍火

「あ、おかえり~!! ……えっと、何かあった?」
千万ちよろず、その顔の赤みは……?」

 ホテルに帰ってみれば、何も知らないであろう窓雪さんと三栗谷先生のお出迎えがあった。
そんな二人に、黒葛原つづらはらさんは目を細めながら

「さぁ? 男同士外でやることっつったら、青春の殴り合いくらいじゃない? 知らないけど~」

 ……と、ちらりとボクらを見ながら言う。言い訳というには少し苦しいものがあるかもしれないが、ボク自身も良い言い訳が浮かばないから何も言いようがない。

「ふむ……とりあえず、まずは千万ちよろずの手当てをするか。話はその後で聞こう。こちらにおいで」

 三栗谷先生が柔らかく微笑んで言う。千万ちよろずさんはそのまま三栗谷先生の手当を受けるようで、二人でその場を後にした。
残された窓雪さんは「そ、そうなんだ?」と困惑してはいるものの、それ以上は特に深入りする様子はない。

「まぁ、確かにその、男同士は拳で語り合い!って言うけどね? 本当に殴り合いしたら痛いから駄目だよ……」
「ホント、あたしが先に見つけておいてよかった。警察呼ばれたら旅行どころじゃなかったんだから。……とりあえず、黒崎」

 びし、と黒葛原つづらはらさんがボクらを指差す。

「あんたも、ちょっと部屋で頭冷やして来な。何があったかは知らないけど、今ここでまたアイツと顔合わせたらヤバいでしょ」
「……」
「行きましょう、影人さん。ボクも一緒にいますから」

 影人さんの背に手を添え、促す。影人さんは「……うん」と小さく返事をして、ゆっくりと歩き始める。
今にもふらふらしそうなその体を支え、ボクも隣を歩く。


「……黒崎くん、なんか落ち込んでる? 大丈夫?」
「大丈夫でしょ、不破君がいれば。……あたし、ちょっと行ってくるわ」
「え? どこに? ちょっと、美影ちゃーん!!!」



 ……そんな会話が、後ろから聞こえたような気がした。



***



 ……部屋に戻ったはいいものの、影人さんはベッドに寝転がったまま一言も口を開かなかった。
こういう時の影人さんは、何を言っても動かない。ボクは、いつだってただ傍にいて、影人さんの方から何かを話してくれるのを待つばかりだ。
それは、今も変わらない。

「……喉、乾きませんか。自販機でなんか買って来ますよ」

 そうしてベッドから立ち上がり、財布を取り出す。部屋を出ようと歩き出したところで、腕を掴まれた。
見れば、影人さんがボクの腕をしっかりと掴みながら起き上がっている。その表情はあまり芳しくない。口元はマスクで見えないものの、その目は不安そうにも怒っているようにも見えた。

「……」
「あ、あの……影人さん?」
「どこ、行くの」
「……自販機に、ですけど。ほら、部屋を出てすぐのところに」
「行かないで」

 そう言って影人さんはボクの腕をさらに強く掴み、ベッドに引きずり込むように引っ張る。ボクの体はそれに引っ張られて、そのまま影人さんの隣へ倒れ込んだ。
影人さんの腕が、ボクをとらえる。どこにも行かせないようにといわんばかりに、その力は強く、痛い。

 マスクを下ろした顔が、性急にボクに迫る。

「……んっ、……影人、さ」
「はぁ……っ……」

 口を塞がれる。影人さんの舌がボクの口内にぬるりと侵入し、歯列をなぞるように動く。
その舌はやがてボクの舌を捉えて絡みつき、くちゅくちゅと音を立てながら何度も角度を変えては深く交わっていく。
息継ぎの暇もないくらい激しくて、そして甘いキスだった。頭がぼぅとして何も考えられなくなりそうな程に。

「……消毒、しないと」
「へ?」
「あいつに、されたんでしょ。あの時、神社で」

 余裕のない表情を浮かべて、影人さんがまた唇を重ねてくる。
ぐちゅ、と唾液の交じる音がする。口の中を蠢く舌がやけに熱くて、何もかもが溶けてしまいそうな感覚だった。

 ……あの時、と言われてすぐに思い出す。八桜神やさがみ神社で、千万ちよろずさんにキスをされたことを。
そして、その現場を影人さんは見てしまった。……だから、今こうなってしまっているのだろう。

 ボクだって、そうだ。千万ちよろずさんと影人さんがキスをしたと思い込んだ時は、今の影人さんと同じように嫉妬をしたし、その体を──。

「……急に、されました。ごめんなさい。逃げようとはしたんですが、あっちの方が力が強くて逃げられなくて」
「…………」
「……分かってます。それでも、影人さんは嫌……ですよね」

 そう言うと、影人さんの表情が曇る。眉間の皺がさらに深くなり、怒っているのか悲しんでいるのかさえ分からないような顔をした。

「……あいつの言ってたことに、俺、何も言い返せなかった」

 縋るように、ボクの肩に顔を埋めてくる。そこから影人さんは、ぼそぼそ……と言葉を紡ぎ始めた。

「正直、否定したくてもできない。あいつのことろくに知らないけど、……言ってること、悔しいけど殆ど刺さった」
「影人さん……」
「今も昔も、"今"を生きることで精一杯だった。バイトじゃろくに生活費稼げない、でも三栗谷あいつに頼るのも嫌だったから体売って生活費と学費稼いでたし、何かを自分からやる気力もなかったから、好きなこと以外は殆ど何もしてなかったけど」

「……俺一人ならまだしも、だれかと一緒に生きていくってなれば、そうはいかない。」

 ……影人さんは千万ちよろずさんの言葉を、痛いほど理解したのだろう。もしかしたら、ずっと前から心の奥底ではそれを分かっていたのかもしれない。
ただ、今まではそこまで未来のことを考える心の余裕がなかっただけで。


『……ろくに社会経験も積まないで甘えてばかりなお前がさぁ、どうやって蛍君を幸せにできるの?』

 千万ちよろずさんの言葉が、ふっ、と頭を過ぎる。……あれは、真正面きって言われたら痛い。
何度反芻しても心に刺さるほどそれは残酷で、けれど清々しいくらいの正論だ。現実的に考えたら、社会性の面では千万ちよろずさんの方がずっと頼りになるだろう。

 ……それでも、ボクの気持ちは変わらないが。

「……。蛍」
「はい?」
「俺、進路のこと真剣に考えてみようと思う。今までは将来のことなんて考える余裕もなかったけど、このままじゃ千万 光あいつに負けたまんまだし……それに、」

 ── 蛍のことは、俺が幸せにしたいから。
影人さんが、ボクの体を抱きしめる。少し痛いけれど、今はそれが心地いいとさえ思えた。
初めて出会った時からずっと無気力だった影人さんが、前を向けるようになった。そう考えると、ボクも一緒に前へ進めてるように思えて、じんわりと涙が込み上げてきそうだ。

 ボクはそっと、影人さんの体を抱きしめ返した。そして、影人さんの耳元に顔を寄せて言う。

「影人さんがボクのこと幸せにしてくれるなら……ボクも、あなたを絶対に幸せにしてみせますから」
「……うん」
「だから、一緒に頑張りましょう? これからずっと……二人で」

 そう言うと、返事の代わりにさらに強く抱きしめられる。
けれど、それは痛くて苦しいものではなくて──この人に愛されているのだと実感できる優しい力だった。










「……あんたら、いつまで寝てんの? ちょっと話があるんだけど」


 ── ドア越しにその声が聞こえるまで、ボクらはずっと布団の中で抱き合って眠ってしまっていた。
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