夜影の蛍火

黒野ユウマ

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第六.五章 高校最後の夏休み

第八話 嬲る言葉

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"いつかは"――その先の言葉は、塞がれた唇と重なって消えてしまった。
何が起こったのか分からなくて固まっていると、千万さんの目が再び細められる。

(え……)
(いま……キス、された……?)

 状況を理解出来ずに硬直しているボクの頬を、千万ちよろずさんの手が優しく包む。
……その手つきがあまりに優しくて、今度は違う意味で固まった。


『……俺だって、蛍君みたいにまっすぐ向き合ってくれる子がいて欲しかった』


 ……そう語る千万ちよろずさんは、なんだか悲しそうな、切なそうな――そんな顔をしていた。
今も、そうだ。どうしてそんな顔をするんだろう。もう何が何だか分からない。

 ただひとつ分かることは……この状況は非常にまずい、ということだけ。

どういうつもりでこんなことをしたのかは分からないけれど、ひとまずこの腕の中から抜け出さなければいけない。
頭の中ではそう警鐘が鳴り響いているのに、混乱のせいで頭が動かない。
力で押しのけようにも、腕力では到底敵わない。……ボクの力では、この腕の中から抜け出すことなんてできないのだ。

(影人さん……!!)

 どこか熱を帯びた瞳で、千万さんが僕を見つめる。
どくどくと心臓の鼓動が速くなり、全身の体温が引いていくのを感じた。

「だ、……ダメです、やめてください千万ちよろずさ――」




 …………突如、響く鈍い音。
不意に、ぶわっと体が軽くなる。

 千万さんの温もりが消えたと思えば、ボクの体が途端に後ろに引き寄せられる。
その衝撃に驚きながらも後ろを振り向くと、そこには息を切らした影人さんの姿があった。

(か、影人、さん……)

 予想していなかった人物の登場で頭が真っ白になる。
……一体、なぜここに?
ボクの頭の中は困惑でいっぱいだったけれど、影人さんはボク抱き寄せたまま、千万ちよろずさんを睨み付けていた。

「……何してんの、お前…………」

 今までに無いほど激昂した様子の影人さんの姿に、ボクは動揺を隠せない。
いつもポーカーフェイスな影人さんがこんなにも怒った様子を見るのは初めてだ。
去年の春、窓雪さんの真横の壁を蹴ったあの時とは比べものにならないほどの気迫を感じる気がして。

(ど、どうしよう……)

 影人さんはボクの体を引き寄せたまま、千万ちよろずさんを睨み付けている。
その形相は鬼のようで、普段の影人さんからは全く想像も出来ない姿だ。
対する千万ちよろずさんは、尻餅をついて赤くなった頬を抑えながら――それでも、どこか楽しそうに笑っている。
その表情は、影人さんを見ているようだった。

「何って……見ちゃったならわかるでしょ?」

 千万ちよろずさんの金色の瞳が、妖しく光る。

「……蛍君のことさ、欲しくなっちゃったんだよ、俺。」
「……何それ。ろうってんの?」
「そうかも……いや、そうなっちゃうね。だって、」

 たたえた笑みはそのままに、一歩……また一歩、影人さんに歩み寄る。
そして、ボクを抱き寄せている影人さんの顔を、威圧するように見下ろした。

「俺の方が、蛍くんのことちゃーんと幸せに出来ると思うからさ」

 ……思わず「は?」という言葉が口から漏れる。
対峙する影人さんも、そう言いたそうに千万ちよろずさんを睨み返していた。


影人おまえさぁ……高校3年間、女に体売る以外に自力で金稼いだことある?」

「見ず知らずの大人たちの中に紛れて、たかがバイトなのにやたら仕事振られて、客に理不尽なクレーム入れられても笑顔で絶えて、……疲れても、疲れても、金のためにあくせく働いて、さ」

「そんなこと、したことないでしょ。いや、する必要なかったもんね。お前には金持ちの元医者っていう伯父さんが生活費も家も援助してくれるんだからさ。その援助を断ってたらしいのはマジで意味わかんないけど、そこまで恵まれてれば汗水垂らして働く必要ないもんなぁ」


 千万ちよろずさんの顔つきが、徐々に険しいものになっていく。
……今まで見たことのない、千万ちよろずさんの顔だ。
ここまで怒りを露にした表情を見たのが、これが初めてかもしれない。


「でもさぁ、そうやって色んな人に甘やかされて今まで来た奴が、蛍君を幸せにできると思う?」

「今はいいかもしれない。でも、今みたいな状況がいつまでも続くわけじゃない。伯父さんだっていつまでも生きてるわけじゃないし、金だっていつまでも沸いて出てくるもんじゃない。」

「……ろくに社会経験も積まないで甘えてばかりなお前がさぁ、どうやって蛍君を幸せにできるの?」

 ……影人さんが、言葉に詰まる。
身も蓋もない言い方だが、千万ちよろずさんの言うことは間違ってないかもしれない。

 影人さんが今までどう過ごしてきたか、ボクはそれを傍で見てきた身だ。
彼は今までで、一度もバイトをしたことがない。やったことといえば……それこそ千万ちよろずさんが言ってたように、女の人に体を売って稼いでいたことくらいだ。
これから高校を卒業して、就職ないし進学……進学をしたとしても、最終的には就職活動がある。そうなった時に就職口を探すのは彼本人だ。
その時は、仮に伯父さんの力を借りられたとしても、ずっとその恩恵を受けられるわけじゃない。その後を続かせられるかどうかは、彼次第なのだ。

 千万さんが見ているのは、今だけじゃない。学校を卒業した後の、その先を見ている。
……厳しいようだけど、当たり前のことだ。進路に悩んでいるボクにも、その言葉が少しだけ刺さっている。
精神を病ませてしまったお母様を支えるために、学生でありながら働き詰めだった彼だからこそ、こんなにも耳が痛い言葉がスラスラと出てくるのだろう。

「今は若くてかっこいい男の子、だから女共も相手してくれるし金もくれるけどさ。歳取って老けていけば、逆にこっちが金払うようになるんだよ?」
「ち、千万ちよろずさん! いくらなんでもそこまで言うことないじゃないですか!!」
「蛍くんだって、影人がいつまでもこのままじゃ不安しかないでしょ? あーあ、それじゃ可哀想だよ。いつまでも他人の力を借りてるようじゃさぁ?」

 ぐ、と拳を握る。この男は、もう一発殴らないと止まってくれないだろうか。
……否、殴ったところで今度はもう止まらないだろう。この人はきっと、影人さんに対して妬みや僻みがあるのかもしれない。
彼も同じ父親の血を引いていて、家族が苦しんで。それでも、こうして明確な違いがあるからこそ──沸々と、そんな感情が湧いてしまっているのだろう。

「だからさぁ、蛍くんも俺にしときなって。俺だったら影人よりも社会経験あるから、就職した後もうまく──」



 ……微笑む千万ちよろずさんと俯く影人さんの横を、ヒュッと空き缶が通り過ぎる。



「……あのさぁ。旅行先で修羅場とか、ホント勘弁してくれない?」


 カラン、という空き缶が転がる音と共に聞こえたのは──不機嫌そうに顔を顰める、黒葛原つづらはらさんだった。
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