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第五章 番外編 影を産んだ女の話
第十話 さいかい
しおりを挟む「あの、先生。私、そろそろ実家に帰りたいなって思うんです。そろそろ兄さんもお休みに入るって言ってたから、久しぶりに一緒に過ごしたくて……」
そんな一言をきっかけに、私は年末直前の一時退院が決まった。
私自身の状態もだいぶ落ち着いてきていること、そして実家の両親からの許しも得られたことで、ようやく要望が通ったのだ。
……もちろん、「息子や夫との接触は禁止」というルールの下ではあったが。
(あぁ、でも……これでようやく影人に会えるのね)
……こんな千載一遇のチャンスを、逃せるわけないじゃないか。
勤務状態が昔と変わりなければ、両親の目を潜ることは簡単だろう。
ただ、問題は兄さんだ。二人より自由が利くこの人の目を潜りさえできれば、きっと――。
「……影都、どうした?」
「あ……ううん、何でもないわ。久しぶりに帰るのが、ちょっと楽しみで」
そんなことを考えているなんて、思いもしないだろう。
隣でハンドルを握る兄さんは、いつものように優しく微笑んで「そうか」と返事をした。
◇ ◇ ◇
そうして実家に帰った翌日、私は兄さんにちょっとしたお使いを頼み……その隙に、影人の家へと向かった。
今か今かと待ち続けること数分――帰ってきた影人は最後に見た時よりも大きくなっていて、もう私を見下ろせるくらい背が伸びていた。
私との再会で感動しているのか、びくとも動かない影人の顔に手を伸ばす。そうして近くで見てみれば……顔の雰囲気、目の形、まさに彰人さんの生き写しのようだった。
そして、そんな彰人さんそっくりな造形に込められた私と同色の瞳。私と彰人さんが愛し合っていた事実を証明してくれる、とても素敵な顔だ。
「私ね、病院の先生に言って一時退院させてもらったの。だから、今日からは影人と一緒にいられるわ。パパも呼んで、三人で暮らそう?」
私も彰人さんもいないアパート……きっと、影人はひとりぼっちで寂しかったはずだ。
この子は、昔から我慢強い子。きっと、兄さんにもそういうことを言えなかったのかもしれない。
でも、大丈夫。今日から私がずっと傍にいてあげるから――そう、思った矢先だった。
「……影人さん、その人誰ですか?」
――見知らぬ顔、聞いたことのない声。
赤と青のピン留めの、影人と同年代らしき女が私たちを見ていた。
――弾んでいた心に、暗雲が立ちこめる。
嵐の前の静けさのように、ざわざわして落ち着かない。
「……あら。その娘、誰? 影人のお友達? それとも……」
……彼女?」
名前も知らない女が、「影人さん」と馴れ馴れしく呼んでいる―― 一瞬の出来事に苛立ちが止まらず、自分でも分かるくらい声のトーンが落ちていた。
その女は「か、彼女だなんて……あの、そもそもボクは……」と、震えた声で言葉を返す。見た感じ、私が怖く見えるのだろうか。
あぁ、でも……それくらいでいい。影人に近づく女を、私は一人も許せそうにない。
もしも「彼女です」と言ったものなら、そのマフラーを掴んで絞め殺してしまうかもしれない――それほど、私は影人を愛しているのだ。
「こいつは……」
ずっとだんまりだった影人が、口を開く。こいつ、というのはきっと私のことだろう。
愛する息子に「こいつ」呼ばわりされるのはとても悲しいけれど、きっとそれも照れ隠し――
「こいつは……俺の、母親……
――母親……だった奴」
影人が、震えた声で言う。「母親"だった"」……私は、一瞬言葉を失いかけた。
「母親"だった"」ということは、今は私を「母親」と思っていない。愛する息子の口から出た言葉に、私の思考回路はエラーを起こしそうになった。
影人は、私のことが嫌いなのだろうか。
……もう、私を「母さん」と呼んでくれないのだろうか……?
(……でも、待って)
影人は、私を「母親"だった"」と言った。つまるところ、私はもう彼にとって「他人」ということ。
彰人さんがいない間、ずっと愛し合ってきた私を「母親"だった"」ということは――?
「ママじゃないってことは……恋人!?」
辿り着いた嬉しい結論に、思わず叫んだ。
影人にとって大好きなママである私を「母親"だった"」と否定するということは……もう、恋人しかないじゃないか。
影人は、私をそこまで愛してくれていた……!
彰人さんに初めて感じた時と同じときめきが、じわじわと蘇ってくる。
彰人さんと私の愛の結晶でもある影人に「恋人」だなんて言われて、嬉しくないわけがない。
「ママもね、影人だぁい好き! 実の息子と恋人なんて世間様は許さないだろうけど、そんなの関係ないわ! 私達が良ければいいんだもの!! ねっ?」
ピン留めの女が隣でぎゃあぎゃあ喚いているけれど、もう関係ない。彼女が何を言おうが、これは決定事項。
しょせんはぽっと出の他人だ、私と影人の間にあんたなんかが入れるわけないのだ。
嬉しさと興奮と優越感、勢いで私は影人の腕に抱きつく。影人は相変わらず何も言わないけれど、きっと照れて何も言えないのだろう。
「さっきから黙って聞いてれば……何言ってるんですかアナタは!!」
「何? どこの馬の骨だか知らないけど、私と影人の邪魔する気?」
ピン留めの女が、影人と私の間に割り込む……どころか、私と影人の腕を掴み引き離そうとし始めた。
女にしては力が強く、少しでも油断すれば影人と引き剥がされてしまうかもしれない。
けれど、私は影人の"恋人"だ。こんなところで、見ず知らずの女に負けるわけにはいかない!
「あ、あのですね! 影人さんが母親相手にそんなこと言うわけないでしょう!? 親子で恋人だなんて、フィクションじゃあるまいし!」
「ぽっと出のくせにでしゃばるなんて何様のつもり!? 貴方は影人の何なのよ!!」
「それは! こっちの! セリフです! そもそも影人さんはあんたら両親のせいで……!!」
――私の中で、何かがぷちんと切れる音がした。
親子で恋人だなんてフィクションじゃあるまいし? あんたら両親のせいで……?
彼女が言った言葉を脳内で反復すればするほど、ボルテージが上がっていく。
「怒り」「憎悪」で済んでいるこの感情が、いつか反社会的なものに変わるのも時間の問題だ。
影人の腕を包みこんでいるこの両腕が、そのうち彼女の首元へと伸びていくかもしれない。
影人の恋人でもなんでもないこの女が……私たちの間を知らないであろうこの女が、やすやすと私達の間に割り込もうだなんて、許せない。
このままどうしても引き下がらないと言うなら、本当にこの女を殺して――
「……あのさ、俺……」
攻防を続ける中、ぼそりと呟いた影人。
影人が何かを言おうとしている――息を合わせたかのように、私とピン留めの女が動きを止めた。
……そうだ。影人が宣言してくれれば、この場はスッキリ収まってくれる。
この女が諦めをつけてくれるような言葉を。長い時間の中で築かれた私達の関係を象徴する一言を、彼が言ってさえくれれば。
マスクを外して姿を見せた唇が紡ごうとする言葉に、私は期待を抱いた。
「何ですか、影人さ……」
影人の言葉に返事をしたピン留めの女が、急に体勢を崩した。
彼女のマフラーが影人に引き寄せられ、私が手を出す間もなく二人の顔の距離が縮まっていく。
「……俺、こいつと付き合ってるから。」
――そうして私が見せつけられたのは、二人のキス。そして、唐突に彼から放たれた信じがたい宣言。
「な、……何言ってるの、影人。ママ、全然意味わかんないなぁ……」
……困惑と驚愕で、一瞬時間が止まってしまったような気さえした。
私の大好きな人との子が。私の愛する息子が。
どこの馬の骨かもわからない女と、その唇を重ね合わせた。
状況が掴めない。分からない。――分かりたくない。
どうか嘘であってほしい。テレビでよくある、ドッキリか何かであってほしい。
崩れかけてる私の心は、ただそんなちっぽけな希望に縋るしかなかった。
……けれど。
「言葉通りのまんまだよ。それ以外何も無い」
神様は、そんな私の希望も容赦なく打ち砕く。
それ以外何も無い――影人が放った言葉には、なんの偽りも錯誤もない……ということ。
……嘘。
うそ、ウソ、嘘、嘘、うそ。
「……嘘よ……影人が私以外の女と生きてく? 私やパパはもう要らない……?」
……嘘だ。嘘だ!!
認めたくない、受け入れたくない……そんな状況に、全身から力が抜けていく。
「……そんなのありえない……ありえないわよ!! だって、だって、影人のことを世界で一番愛しているのは私よ!!」
彰人さんがいる時も、いない時も……いつだって、影人の傍にいたのは私だ。
二人で楽しい時間を過ごしたことも、寂しい夜に影人が寄り添ってくれたことも、二人で愛し合った時間も……全部、私の胸の中にある。
きっと、影人だって覚えているはずだ。毎日一緒に暮らした私との日々を、今だって。
(私が一番、影人を理解しているのよ)
……どんな時も、影人は私の傍にいてくれたのに。どこの誰かもわからない女に、影人の何が分かるっていうんだ!
目の前にいる影人への悲しみと、ピン留め女への嫉妬と、それから……形容しがたい感情が混ざりに混ざって、もう何もかもがぐちゃぐちゃだ。
入院する時、恐れていたことが……本当に、実現してしまっただなんて。
「影人のことを一番理解しているのだって私よ!! それなのに、どうして、どうして――」
――影人、貴方まで私から離れていってしまうの?
女の手を引いて走り出す影人を見送ることもなく、ただ心の中で影人の名を叫び続けていた。
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