夜影の蛍火

黒野ユウマ

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第五章

第十四話 引っ越し

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 三が日が過ぎ、お正月ムードも少し落ち着いてきた頃のこと。


「このタンスはうちの車に積もう、後部座席のシート倒せば入りそうだしな」
「そうですね、ボクも手伝います」
「影人、ベッド運ぶの手伝ってくれんかのう」
「えぇ……」

 荷物を積んでは車を出し、アパートとマンションを行ったり来たり。
あと五日もしないうちに学校が始まろうとしているこの時期、不破家と三栗谷先生たちによる合同の引越し作業が始まった。

 書類だなんだの事務的な手続きは三栗谷先生が進めてくれたおかげで、引っ越しの手続きもかなりスムーズだ。この力仕事さえ終えれば、影人さんの住居問題もカタがつく。

 ……三栗谷先生から内緒で聞いた話、影人さんが先生のもとへ引っ越すと聞いた大家さんはかなり安堵していたらしい。

 知り合いの甥っ子で事情を知ってるとはいえ、単身の高校生に部屋を貸すことに不安があったのか。
それとも、影人さんが保護者の下で暮らすことに単純に安心したのか。

 ……できたら、後者であってほしいが。



「そういえば三栗谷先生、影人さんのお母様は……」
「あぁ……あやつはまた病院に逆戻りじゃよ。状態も良くなってきたからと一時退院を許可されていたのだが、影人の家に勝手に突撃したのが仇となってのう……」

 作業中、ふと気になって三栗谷先生に尋ねる。三栗谷先生はどこか悲しそうな、寂しそうな表情で小さく答えてくれた。
ボクや影人さんにとっては驚異となる存在でも、三栗谷先生にとっては「妹」だ。
もしかしたら、ボクたちが向けている感情とは違うものを抱いているのかもしれない。

 ボクも、昔は兄さんが大好きだった。今は違うけれど、あの時は大切な存在だったのだ。
きっと、あの時のボクと同じ感情を、先生は「妹」に向けていることだろう。


「いい加減あんな男のことなど忘れて、他のいい男と幸せになってくれればええんじゃがのう……」

 そう言いながらため息をつく三栗谷先生の背中は、ほんの少しだけ小さく見えた気がした……。



◇  ◇ ◇


「三栗谷先生のマンション、何度見ても圧倒されるよなぁ」
「そうですね……違う世界の人間を見てるような気分というか」

 そんな雑談を交えつつ、叔父さんと共に影人さんの荷物を運ぶ。都会にならザラにありそうな高層マンションも、こんな田舎町だと一軒あるだけでかなり目を引くものがある。
マンションの中にある煌びやかなロビーも、まるでホテルと見紛うような廊下も、何もかもが一般市民の家とは大違い。

 そして、極め付けは──影人さんがこれから住むことになる、彼の部屋だ。

「このタンスは……まぁ、端の方に置いておけばいいか」
「そうですね、後でまた動かせばいいし……というか、結構スペース余りそうじゃないですか?」
「そうかもな……影人君の家、元々物がそんなにないだろう。慣れるまでは大変そうだ」

 影人さんに与えられたのは、大体8畳かそこらはあるボクの部屋の倍くらい広い部屋。恐らく、15畳かそこらはあるんじゃないだろうか。
一人で過ごす部屋にしては、かなりスペースがありすぎる。

 テーブル、椅子、ベッド、タンス、一人暮らし用の小さな冷蔵庫……影人さんの家にあった家具は大体詰め込んでいるが、それでも走れそうなほど余裕がある。
 もはやこれは一個人の部屋ではなく、ホテルの客室。そう言っても過言ではないほど、とにかく広すぎるのだ。

「まぁ、とにかく……これで影人君も落ち着くなら、俺としても安心だ」
「えぇ。このマンションなら、セキュリティもきちんとしてますし……よほどのことがなければ、影人さんも安全なはずです」

「広すぎて、正直落ち着かないけどね」

 後から来た影人さんが部屋に入るなり、ぼそりと呟く。
ベッド、タンス、テーブル……それだけで程よくスペースが埋まっていた影人さんの部屋を思い出すと、高校生の一人部屋にしてはやはり広大だ。
三栗谷先生が飼っている子猫三匹が運動会を始めても、問題なく駆け回れるかもしれない。

「影人君の部屋は、一人暮らしにはぴったりな広さだったからな。俺も一人暮らししてた時代はあったけど、こんなに広い部屋だと逆にもったいないくらいだ」
「……まぁ、そうすね。俺としてはあれくらいがちょうどいいというか……ここまで来たら文句言えないけど」
「そうですよ……寧ろこれだけの高級住宅に住める機会なんてそうそうないですからね」

 1Kの部屋で落ち着いていた影人さんからしたら、かなり大きな環境の変化だ。
正直関わりたくないと思っている血縁者の三栗谷先生と一つ屋根の下……というのも、彼にとっては苦痛であるかもしれないが。

 ただ、これだけの高級住宅──しかも一般家庭には備わることのないセキュリティ付きの部屋に無料で住まわせてもらえるのだ。
影人さんの気持ちを考えれば苦々しい事だろうと思いつつ、ほんの少しだけ羨望が湧いた……気がした。






 影人さんが入ってきてから三分ほど経った後、玄関のドアが開く音が響く。
振り返ってみれば、三栗谷先生が少し疲れた顔をしながらダンボールを抱えていた。

 最後の方に残されていた、影人さんの洋服を詰め込んだ大きめのダンボール。
ゆっくりと床に置くと、三栗谷先生が安堵したように息をつく。

「……ふぅ。荷物はこれで全て運び終えたようじゃな。不破、文彦さん、二人とも感謝するぞ」
「いえいえ。蛍の友達の助けになれて、俺も嬉しいですよ」
「ボクもです。影人さんのためなら、これくらいなんてことありません」

 ボクと叔父さんは、二人で笑い合いながら答える。影人さんを助けたいという一心で手伝っていたのは、ボクも叔父さんも一緒だった。

 「三が日を過ぎたら引っ越しの準備をする」──影人さんがあの時ボクに話していた予定を考えれば、ずいぶん早く済んだものだ。
これで、影人さんもしばらく腰を落ち着けることができるだろう。それだけでも、ボクにとっては十分なご褒美だった。

「礼と言ってはなんだが、一杯どうじゃ? ちょうど、新しいワインが一本あるのだが」
「おぉ、それはいい! 学校の先生と飲み交わすなんてめったにないですからね、ぜひご一緒させてください!」

 今回の件で意気投合したであろう保護者組の二人は、意気揚々とリビングへと向かう。影人さんは少し不満そうにしていたが、無言でその背を見送っていた。

 大人同士、ああいった付き合いもたまには必要なのだろう。どうせ休み中は大した予定もないのだ、今までたくさん協力してくれた叔父さんにも楽しい想いをしてもらいたい。
ボクも影人さんと同じように、二人の大人の背を黙って見送ることにした。





「叔父さんたち、楽しそうですね」
「そうだね」

 二人取り残された、影人さんの部屋。
扉や壁の向こうから聞こえてくる二人の話し声だけが、この部屋を彩っている。

「影人さん家、遠くなっちゃいましたね」
「うん」
「……。なんというか、その……」

 ……その先が言えず、黙って顔を伏せてしまう。

 今までは歩いて数分のところにあったのが、一気に遠くなってしまった。
県外や海外に行ってしまったわけではないから、まだマシといえばマシなのだが──それでも、寂しさは拭えない。

 帰り道がまったく真逆の方向になる。きっと、一緒に帰ることはできない。
それに、遊びに行くにも少し時間がかかる距離だ。

 今までがすごく近い距離だったからこそ、いきなり遠くなったこの距離が、なんだか心寂しい気がして。

「……学校始まればまた会えるでしょ」
「それは、まぁ……そうですけど。でも、一緒に帰れないじゃないですか。だから……ええと」
「……寂しい?」

 唯一隠れていない目元が、三日月を描く。いつもの、ボクをからかう時の目つきだ。
多分顔に出ていたのかもしれないし、続く言葉も想像しやすかったのかもしれない……けれど。

 ボクが言うのをためらった言葉をいとも簡単に吐きやがって、コンチクショウ!
そんなふうに心の中で叫んでは、顔に熱が集中する。今のボクは、いったいどんな顔をしているんだろう。

「まぁ、大丈夫だよ。途中のコンビニまでは一緒に帰るつもりでいるし、登下校もお前と一緒に行こうかなって思ってるから」
「……本当ですか?」
「うん。あいつに送ってもらうとこ見られたら、色々聞かれそうで面倒だし」

 それでいい? と続けながら、影人さんがボクの頭にぽんぽんと手を乗せた。
伸ばされた手の感触に、ふわりと心が舞い上がる。寂しい、とばかり思っていた気持ちが、少しずつ軽くなっていく。

 ほんの僅かに、家の距離が離れただけ。あとは、いつも通り一緒に過ごすことができる。
朝弱い影人さんがボクのもとに来てから歩いて登校……なんて、ちょっとだけ心配だけれど。
それでも、変わらず一緒にいられるという事実が何より嬉しい。

「休みの日、遊びに来てもいいですか?」
「うん」


 冬休みが終わるまで、あともう少し。
影人さんに会える学校での日々を、ボクは待ち焦がれていた。
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