夜影の蛍火

黒野ユウマ

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短編集

劣等感と飴と

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※「夜影の蛍火」連載開始前に書いた短編です。
 いわばプロトタイプみたいなものなので、設定や関係性など本編と相違があります。





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 じゃあなんでお前はボクを産んだんだ。
実家に残してきたノートの、最後のページに記したのは、そんな言葉だった。
あぁ、つまらないことを思い出してしまった。半開きの目で空を仰ぐボクの姿は、皆にどう映るんだろう。


『蛍、どうして貴方は白夜のように出来ないの?』

 弟なのに。
ボクの母を名乗る女は、いつだってボクを見下ろしていた。
中学生になってその女の身長を追い越しても、見上げられてる気はしなかったっけ。


 ボクには、年子の兄がいる。名は白夜。
ルックスが良く、爽やかで人当たりの良い性格をしていて、その成績もトップクラスで、運動神経だってボクより断然良い。

人から見れば、そう──「完璧」そのもので。
妬み僻みを抱く奴以外のほぼ全員から好かれてると言って良い。
あの女は、そんな息子が誇らしかったのだろう。兄のことは、いつだって誉めていた。

「白夜は本当凄い子ね。今回も、テストで満点取れた上にマラソンも十位以内に入れたなんて! 母さん、鼻が高いわ」

 嬉しそうな笑みを浮かべて、女はいつも兄を誉めちぎる。
苦笑しながらも照れる兄の頭を撫で、その後は──決まってボクの方を見て、こう言うのだ。

「蛍も白夜を見習いなさいね。白夜の弟なんだから、できるでしょ?」

 兄を上げ、弟のボクを下げる。日常茶飯事だった。あの女がボクを誉めたことは、一度だってない。
たとえば、ボクが何かを頑張ったとしても──

「理科のテストで高得点を取れた? ……理科だけでしょ? 白夜は全教科同じくらいの点数取ってるわよ、それくらいで満足してるの?」

 ── ……何度殺そうと思っただろう。拳を握りしめた回数はもう覚えていない。
ボクが理性のない不良であったなら、きっと今頃母に酷い暴力を振って少年院にでも入れられてたかもしれない。
ボクの理性に感謝してほしいくらいには、そんな言葉を投げつけられていたものだった。

「蛍、気にするなよ。母さんはああ言うけど、蛍は蛍の良いところを伸ばせば良い。ほら、蛍は俺より得意なものがあるじゃないか。音楽とかさ。俺だったら、あんなに綺麗な音色は奏でられないさ」

 対して、兄はボクに優しかった。
母に蔑まれ、罵られ、落ち込んでいるボクを、いつも傍で慰めてくれていた。
蛍は今のままでも十分、誰がなんと言おうとお前は俺の弟で、自信を無くす必要なんてない。
母の言うことなど気にする必要はない、頭を撫でながらそんな風に言ってたっけ。

「……」
「蛍?」

 最初はもちろん嬉しかった。
兄は、いつでもボクの味方でいてくれて。厳しい母に叱られた後は、少ないお小遣いでボクの好きなものを買っては元気づけようとしてくれていたりして。

 優しい兄だった。
格好良くて、見た目も良くて、気遣いもできて、頭も良くて、耳障りの良い声をしていて、たくさんの女の子に好かれてて、それから、それから……。

 母にとって誇りと言える優秀な息子で、ボクにとってはどれだけ頑張っても手の届かない存在で。
いつしかそんな優しさが、ボクの心を何よりも鋭く抉る杭になっていた。

「兄さんにはわかんないでしょう!!」
「……え?」

 ずぶずぶと、ボクの心を静かに抉る兄の優しさ。
それは、劣等感と自己嫌悪が生み出した思い込み。わかってはいた。……わかっては、いたけれど。

「兄さんはいつも母さんに、あの女に誉められてたじゃないですか! ボクみたいに、どうして白夜のように出来ないのとか、白夜ならもっとやれるとか、言われたことないでしょう! そうやって比較されたことも、蔑まれたこともないくせに!」
「蛍……」
「兄さんがそう言えるのも、兄さんに比べてボクが劣っているから! 誰にでも誉められて、すごいねって尊敬されてる兄さんからしたら、ボクなんて「可哀想な弟」でしょう!? そういう同情でボクを慰めてるんだったら、もう要らないですから!! 鬱陶しいんですよ、そういうの!!」

 呆然と、目を丸くして黙ってしまった兄。今思い出せば、とても悲しそうな目をしていた……気がする。
その時は、図星だったから返す言葉もなくて黙ってしまったのだと、思いこんでいたけれど。


 ……そんな暴言を吐いてしまったがために、兄さんはボクに近寄らなくなって。
ボクも、兄さんを避けるようになってしまった。

 ──兄さんに合わせる顔が、ない。


「……まぁ、そうなの! いいわよ、蛍ちゃんなら大歓迎! 今度から一緒に住めるなんて嬉しいわぁ~。子どもと家族三人で暮らせるみたいで、楽しみよ」

 高校進学を機に、ボクは少し離れた地に住んでいる叔母さん夫婦の家に世話になることになった。
叔母さん夫婦は、叔母さんが子どものできない体であるが故に、夫婦二人暮らしを長いこと続けている。
だからこそ、居候することになったボクを快く受け入れて……本当の子どものように、可愛がってくれた。

「高校卒業した後も、ずっと一緒に住んでもいいのよ?」
「アハハ、ありがとうございます。考えておきますよ、ここの方が居心地良いんで」
「そう? まぁ、姉さんはああいう人だからねぇ……」

 あの女や兄さんと離れた今は、比較的心穏やかに暮らせている。
叔母さん夫婦はボクを見下ろすことなく、ボクが頑張ったことに対しては何でも誉めてくれる、優しい人だ。
……そう。母に蔑まれていたボクを認めてくれていた、兄さんのように。

「……」

 棒付の小さな飴を見るたびに、兄さんのことを思い出してしまう。
兄さんは、これが大好物だった。いつもどこかで買っては、舐めていたような気がする。

あれだけ、ボクは酷いことを言って……謝罪もせずに、そのまま家を出てしまった。
それ以降、会ってはいないけれど……今頃、どうしているのだろう。

 今でも、どこかで出会ったらボクを受け入れてくれるのだろうか。
変わらず、ボクを「弟」として認めてくれるのだろうか。
「蛍は凄いな」って、頭を撫でてくれたり……するだろうか。

「……めっちゃ甘いなぁ、これ」

 自分で傷つけたくせに、何をふざけたことを言っているのか。
舐めた飴の甘さが、ボクにそう語りかけた気がした。
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