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第五章
第七話 冷酷冷血無関心
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「……それが、影人君から見た蛍か」
蛍への想いを語る影人に、叔父さんは表情を和らげて尋ねる。
息子を見守る父親のような、穏やかな目を向けて。
「影人君も、蛍のことをよく見てくれてるんだな」
「……まぁ」
「多分、その感じだと蛍から聞いているかもしれないが……蛍は、自分に対して自信が無さすぎるんだ。学校に通うようになってから、義姉さん……母親が、成績優秀な実の兄と比べるようになったそうでね」
ビールを一口含み、寂しそうに微笑む。
影人とじっと目を合わせ、叔父さんは懐かしむように語り始めた。
「俺がそれを聞いたのは、つい一昨年の話だったのだが──」
◇ ◇ ◇
──それは、白夜の事故から一ヶ月後の話。
リビングで憩いの時を過ごしていた叔父さんと叔母さんの耳に、インターホンの音が鳴り響いた。
宅急便でも来たのかと叔父さんが画面を覗き込むと、途端に目を見開く。
そこに映っていたのは──
『……叔父さん、叔母さん……ボク、もうあの家に帰りたくありません』
──ボストンバッグを携えた、中学三年生の甥だった。
時刻は16:30。彼が一人で来ること自体珍しいが、こんな夕方に……というのも稀有である。
目を潤ませながら震えた声で「帰りたくない」と訴える甥に、叔父さんと叔母さんは慌てて玄関へと向かった。
『蛍、一体どうしたんだ? こんな遅い時間に……』
『っ、……う、……ひっ、く……叔父、さん……』
『……中に入りましょう、外は冷えるわ。蛍、ゆっくりでいいから……ね?』
懸命に涙を堪える蛍を中へ招き、リビングへと誘導する。湯気の立つ温かなココアを差し出すと、震えた手でズズ……と飲み始めた。
『寒かったでしょう、蛍』
『はい……。……ボクの家よりも、ここはずっと暖かいです』
震えた声が、落ち着きを取り戻す。暖かな部屋の空気と淹れたてのココアで寒さも引いたのか、蛍の表情も少しだけ和らいでいた。
体が温まりきった頃、蛍はゆっくりと口を動かす。
自身が家でどんな思いをしているのか、どんな扱いを受けているのか──
『……それは、本当なのか?』
『突然ですから、信じ難いかもですが……事実です。あの家に……ボクの居場所は、ありません』
『そんな……酷すぎるわ。二人とも、大切な子どものはずなのに……』
「母親がしきりに兄と自分を比べて蔑んでくる」
「父親は庇ってもくれない」
「兄が優しくしてくるのが逆に惨めで辛い」
蛍の話を聞いた叔父さんと叔母さんは、あまりの残酷さに言葉を失う。
この頃、両家は年に1、2度会えばいい程度の交流であったが、二人は兄弟を平等に可愛がっていた。
子を成すことの出来ない二人にとって、兄弟かはたった一時だけでも親子気分を味わわせてくれる、実の子のように大切な存在だったのだ。
──自分たちでさえ彼らを愛おしいと思っているのに。
激昂した叔父さんはすぐに蛍の実家宛ての番号を押した。
《……もしもし? 急に何かしら?》
『義姉さん、どういうことなんだ? 今、蛍がこっちに来ているんだが……母親としてあまりにも酷い接し方をしているそうじゃないか!』
何の気も無しに出たであろう蛍の母親の声に、叔父さんが声を荒らげる。電話口の向こうに真剣に腹を立てているその様を、蛍はじっと見つめていた。
《あら、突然何の用かと思えば……何? 蛍ってば文彦さんたちのところに行ってたの? いやだわ、勝手に家出だなんて……白夜が心配して勉強できなくなっちゃうじゃない。ほんと、手のかかる子》
『っ……それが母親の態度か!? 蛍から聞いたが、白夜君より成績が良くないからと随分な言い方をしてるそうじゃないか! 自分で産んだ子どもだろう!? テストの点数だの成績表の評価数だの、そんな数字如きで蛍を蔑ろにしていいと思ってるのか!?』
うんざり、鬱陶しい、嫌気が差す──そんな感情を声として剥き出しにする冷酷な母親に、叔父さんは更に怒りを覚える。
実の子どもに対する母親の態度としては、明らかに異常だ。教育ママというのは世間でもよく聞く言葉ではあるが、彼女の場合はもうその度を越している。
出来るところも、出来ないところも、全てを愛してこそ「親」というものではないのか──叔父さんは、そう訴えたかった。
しかし、そんな叔父さんの思いも何処吹く風か。
はぁ……と、電話口の向こうから呆れたようなため息が聞こえてくる。
《うるさいわね、電話口で怒鳴らないでくれる? 私のことを偉そうに責めてるのはいいけど、悪いのは努力の足りない蛍よ?》
『……何だって?』
蛍の母親の言葉に、叔父さんは耳を疑う。
事の責任を全て自分の息子に押し付ける、そんな身勝手さにわなわなと震えていた。
《本人は努力してますなんて言ってるけど、本当にそうなら白夜や私の夫みたいにもう少しいい成績を残せてもおかしくないじゃない。私とあの人の子で、白夜の弟なのよ? それなのに、あの子ってばなんかいつもイマイチ。白夜やあの人が同類に見られたらどうするのよ、あまりにも可哀想だわ》
口を開けば「白夜が」「あの人が」と、長男と夫の名前を出す母親。
母親と思えない言葉の羅列に、叔父さんは握りこぶしを握る。
白夜は白夜、蛍は蛍。同じ兄弟といえど、彼らは違う人間のはずだ。
けれど、この母親は自分の理想しか見ていない──即ち、典型的な「毒親」だ。
優秀な夫の子で、優秀な兄の弟であるならば、お前も優秀であれと……そう、蛍に投げ続けてきたのかもしれない。
『……蛍は、家に帰りたくないって言ってるぞ?』
《あら、そうなの。まあ私としては勝手にしなさいって感じだけどね。出来が悪いのは自分のせいなのに、そうやって何も知らない貴方たちのところに泣きつくなんて、大した根性じゃない》
まるでゴミを扱うかのような声色に、怒りが頂点に達しそうになる。腿に爪を立て、壁を殴りそうになる衝動をどうにか抑えていた。
あくまで「蛍が悪い」と言い切る彼女に、これ以上の問答は時間の無駄だろう。情に訴えたところで、この理想第一の母親の耳には届かない。
消化しきれない怒りを押し込めながら、叔父さんは「なら……」と切り出す。
「もう義姉さんや兄貴には任せてられん、蛍はうちで面倒を見る。幸い、蛍が合格した高校はうちからの方が近いみたいだし、蛍もその方が楽だろう」
《……そう。学校も近くなるんじゃ、その方がいいでしょうね。白夜は寂しがるだろうけど、文彦さんたちのところにいると知れば安心するでしょうし、時間が経てば慣れるでしょ。》
《──あんな子のこと気遣ってばかりで、正直可哀想だったのよね。》
"あんな子"──実の子をどこまでも蔑む母親の声に、昔の血が騒ぎそうになっていた。
もし、これが電話越しでなかったら。もし、誰もいない場所で彼女と対面しようものなら。きっと、原型を留めることなく一日中殴り通していたことだろう。
骨が折れようと、肌が擦り切れようと、痣が数百もできようと、力のままに。
……けれど、それは涙を流す甥のためにならない。この女は殴ったところで、自身を改めることなどしないだろう。
そしてそんな罪を背負おうものなら、守るべき家族を自ら手放すことになってしまう。
感情のままに誰かを殴る時期は、とうに過ぎている。
自分はもう「大人」なのだと言い聞かせ、叔父さんは平静を取り戻す。
『……蛍の部屋は用意しておく。兄貴と白夜君には、義姉さんから話しておいてくれ』
《分かってるわよ。面倒かけて悪いわね、文彦さん》
取って付けたような謝罪を述べ、「じゃあね」と感情のこもらない声を残した母親。
電話が切れた音と共に残されたのは、下火となった母親への怒りだった。
蛍への想いを語る影人に、叔父さんは表情を和らげて尋ねる。
息子を見守る父親のような、穏やかな目を向けて。
「影人君も、蛍のことをよく見てくれてるんだな」
「……まぁ」
「多分、その感じだと蛍から聞いているかもしれないが……蛍は、自分に対して自信が無さすぎるんだ。学校に通うようになってから、義姉さん……母親が、成績優秀な実の兄と比べるようになったそうでね」
ビールを一口含み、寂しそうに微笑む。
影人とじっと目を合わせ、叔父さんは懐かしむように語り始めた。
「俺がそれを聞いたのは、つい一昨年の話だったのだが──」
◇ ◇ ◇
──それは、白夜の事故から一ヶ月後の話。
リビングで憩いの時を過ごしていた叔父さんと叔母さんの耳に、インターホンの音が鳴り響いた。
宅急便でも来たのかと叔父さんが画面を覗き込むと、途端に目を見開く。
そこに映っていたのは──
『……叔父さん、叔母さん……ボク、もうあの家に帰りたくありません』
──ボストンバッグを携えた、中学三年生の甥だった。
時刻は16:30。彼が一人で来ること自体珍しいが、こんな夕方に……というのも稀有である。
目を潤ませながら震えた声で「帰りたくない」と訴える甥に、叔父さんと叔母さんは慌てて玄関へと向かった。
『蛍、一体どうしたんだ? こんな遅い時間に……』
『っ、……う、……ひっ、く……叔父、さん……』
『……中に入りましょう、外は冷えるわ。蛍、ゆっくりでいいから……ね?』
懸命に涙を堪える蛍を中へ招き、リビングへと誘導する。湯気の立つ温かなココアを差し出すと、震えた手でズズ……と飲み始めた。
『寒かったでしょう、蛍』
『はい……。……ボクの家よりも、ここはずっと暖かいです』
震えた声が、落ち着きを取り戻す。暖かな部屋の空気と淹れたてのココアで寒さも引いたのか、蛍の表情も少しだけ和らいでいた。
体が温まりきった頃、蛍はゆっくりと口を動かす。
自身が家でどんな思いをしているのか、どんな扱いを受けているのか──
『……それは、本当なのか?』
『突然ですから、信じ難いかもですが……事実です。あの家に……ボクの居場所は、ありません』
『そんな……酷すぎるわ。二人とも、大切な子どものはずなのに……』
「母親がしきりに兄と自分を比べて蔑んでくる」
「父親は庇ってもくれない」
「兄が優しくしてくるのが逆に惨めで辛い」
蛍の話を聞いた叔父さんと叔母さんは、あまりの残酷さに言葉を失う。
この頃、両家は年に1、2度会えばいい程度の交流であったが、二人は兄弟を平等に可愛がっていた。
子を成すことの出来ない二人にとって、兄弟かはたった一時だけでも親子気分を味わわせてくれる、実の子のように大切な存在だったのだ。
──自分たちでさえ彼らを愛おしいと思っているのに。
激昂した叔父さんはすぐに蛍の実家宛ての番号を押した。
《……もしもし? 急に何かしら?》
『義姉さん、どういうことなんだ? 今、蛍がこっちに来ているんだが……母親としてあまりにも酷い接し方をしているそうじゃないか!』
何の気も無しに出たであろう蛍の母親の声に、叔父さんが声を荒らげる。電話口の向こうに真剣に腹を立てているその様を、蛍はじっと見つめていた。
《あら、突然何の用かと思えば……何? 蛍ってば文彦さんたちのところに行ってたの? いやだわ、勝手に家出だなんて……白夜が心配して勉強できなくなっちゃうじゃない。ほんと、手のかかる子》
『っ……それが母親の態度か!? 蛍から聞いたが、白夜君より成績が良くないからと随分な言い方をしてるそうじゃないか! 自分で産んだ子どもだろう!? テストの点数だの成績表の評価数だの、そんな数字如きで蛍を蔑ろにしていいと思ってるのか!?』
うんざり、鬱陶しい、嫌気が差す──そんな感情を声として剥き出しにする冷酷な母親に、叔父さんは更に怒りを覚える。
実の子どもに対する母親の態度としては、明らかに異常だ。教育ママというのは世間でもよく聞く言葉ではあるが、彼女の場合はもうその度を越している。
出来るところも、出来ないところも、全てを愛してこそ「親」というものではないのか──叔父さんは、そう訴えたかった。
しかし、そんな叔父さんの思いも何処吹く風か。
はぁ……と、電話口の向こうから呆れたようなため息が聞こえてくる。
《うるさいわね、電話口で怒鳴らないでくれる? 私のことを偉そうに責めてるのはいいけど、悪いのは努力の足りない蛍よ?》
『……何だって?』
蛍の母親の言葉に、叔父さんは耳を疑う。
事の責任を全て自分の息子に押し付ける、そんな身勝手さにわなわなと震えていた。
《本人は努力してますなんて言ってるけど、本当にそうなら白夜や私の夫みたいにもう少しいい成績を残せてもおかしくないじゃない。私とあの人の子で、白夜の弟なのよ? それなのに、あの子ってばなんかいつもイマイチ。白夜やあの人が同類に見られたらどうするのよ、あまりにも可哀想だわ》
口を開けば「白夜が」「あの人が」と、長男と夫の名前を出す母親。
母親と思えない言葉の羅列に、叔父さんは握りこぶしを握る。
白夜は白夜、蛍は蛍。同じ兄弟といえど、彼らは違う人間のはずだ。
けれど、この母親は自分の理想しか見ていない──即ち、典型的な「毒親」だ。
優秀な夫の子で、優秀な兄の弟であるならば、お前も優秀であれと……そう、蛍に投げ続けてきたのかもしれない。
『……蛍は、家に帰りたくないって言ってるぞ?』
《あら、そうなの。まあ私としては勝手にしなさいって感じだけどね。出来が悪いのは自分のせいなのに、そうやって何も知らない貴方たちのところに泣きつくなんて、大した根性じゃない》
まるでゴミを扱うかのような声色に、怒りが頂点に達しそうになる。腿に爪を立て、壁を殴りそうになる衝動をどうにか抑えていた。
あくまで「蛍が悪い」と言い切る彼女に、これ以上の問答は時間の無駄だろう。情に訴えたところで、この理想第一の母親の耳には届かない。
消化しきれない怒りを押し込めながら、叔父さんは「なら……」と切り出す。
「もう義姉さんや兄貴には任せてられん、蛍はうちで面倒を見る。幸い、蛍が合格した高校はうちからの方が近いみたいだし、蛍もその方が楽だろう」
《……そう。学校も近くなるんじゃ、その方がいいでしょうね。白夜は寂しがるだろうけど、文彦さんたちのところにいると知れば安心するでしょうし、時間が経てば慣れるでしょ。》
《──あんな子のこと気遣ってばかりで、正直可哀想だったのよね。》
"あんな子"──実の子をどこまでも蔑む母親の声に、昔の血が騒ぎそうになっていた。
もし、これが電話越しでなかったら。もし、誰もいない場所で彼女と対面しようものなら。きっと、原型を留めることなく一日中殴り通していたことだろう。
骨が折れようと、肌が擦り切れようと、痣が数百もできようと、力のままに。
……けれど、それは涙を流す甥のためにならない。この女は殴ったところで、自身を改めることなどしないだろう。
そしてそんな罪を背負おうものなら、守るべき家族を自ら手放すことになってしまう。
感情のままに誰かを殴る時期は、とうに過ぎている。
自分はもう「大人」なのだと言い聞かせ、叔父さんは平静を取り戻す。
『……蛍の部屋は用意しておく。兄貴と白夜君には、義姉さんから話しておいてくれ』
《分かってるわよ。面倒かけて悪いわね、文彦さん》
取って付けたような謝罪を述べ、「じゃあね」と感情のこもらない声を残した母親。
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