夜影の蛍火

黒野ユウマ

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第四章

第二十話 Go your own way

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 ──兄さんが公園を去った直後。
一人残されたボクを、冷たい夜風が包み込む。

 兄さんにあんな顔をさせたボクをじわじわと責めるように──柔らかく。

「……影人さん、」
「……うん。もう話は終わっ……!?」

 ボクの呼びかけに、ザッ、と足音を立てながらベンチの後ろから出てきた影人さん。最後まで言い終える前に、言葉と歩みを止めてしまった。
僅かに見開かれた目、顰められた眉──ボクの顔を見て喫驚したような、そんな表情を浮かべている。

「……どうしました?」
「いや、お前……ここ……」

 影人さんがゆっくりと自分の右頬を指さす。その表情の意味を、ボクはようやく理解した。

 これは推測に過ぎないが……もしかしたらボクの右頬を見て、それだけの表情を浮かべる感情が沸いてしまったのかもしれない。
一瞬でも過去を思い出してしまったか、もしくはボクが不当な理由で兄さんに殴られたと思ってしまったのか。
……どちらにせよ、彼に不安を与えてしまったことに変わりはないのだが。

「あぁ、これですか。……大丈夫ですよ、ボクにとってはこんなのかすり傷にもなりません。寧ろ、本当ならもっと……、…………」

 ──本当なら、もっと痛めつけられたって良かったのに。
そんな言葉が頭を過ぎったけれど、言葉は途中で止まってしまった。

 不意に痛み始めた喉、熱くなってきた目頭。
兄さんと本当のサヨナラをして、傍にいてくれた影人さんを目の前にして、……体中から力が抜けて、体が前に傾いた。

「蛍……?」

 咄嗟に受け止めてくれた影人さんの声が、耳を掠る。
ボクの名前を呼んでくれた大切な友達ひとの声に、視界が滲み始めた。

「……影人さん……」
「……何」

 支えてくれる影人さんにしがみつくように、背に腕を回した。ボクより少し低い体温が、今は何故かとても温かく感じる。

 ……もう少しだけ、甘えていいだろうか。
アナタに頼るのは、甘えるのは……もう、これっきりにするから。

「……兄さんは、善い人なんです。ボク、自分勝手な感情で酷いことしたのに……嫌いにもならない、恨みもしない、……ボクを殴ったのも、きっと凄く必死に悩みながらやったんだと思うんです」
「……うん」
「兄さんは、誰にでも優しくて、人に手を上げることなんて絶対にしなくて、……。……ボクのことも、たった一人の家族で大事な弟だって、……そんな風に言ってくれるほど、いい兄さんでした」

 影人さんの肩に顔を埋め、回した腕の力を少し強めた。
目尻から溢れ出る滴がぼろぼろ流れて、影人さんの肩に染みを作っていく。

「……そんな優しい兄さんに対して、ボクは本当に酷い言葉ばかり吐きました。今まで兄さんが見せなかった顔を、初めてさせてしまったんです。……円満に終わらせるのは無理だと分かってはいたのですが、我ながら本当酷い人間だなぁなんて思ってしまって」
「…………」
「でも、これで良かったんです。……こんな終わり方でも良い、はずなんです」

 兄さんとのことは全てを終えたというのに、まだボクの中には感情が溜まっていたのだろうか。
ダムから水が溢れるように、様々な感情が止めどなく流れ出ていた。

「何年もかけて積み重なった劣等感は、きっと消えない。兄さんへ抱いた羨望も嫉妬も、兄さんが近くにいればずっと留まり続ける。……そしたらきっと、ボクはまたあの人に手をかけてしまいそうになるはず」
「…………」

「……これで……良い、んですよね……」


 温もりに身を委ねながら、呟く。こんなこと、ボクの家とは関係ない影人さんに尋ねたところで困らせるだけだというのに。
それでも言いたくなってしまうのは、「何も悪くないはずの兄さんを傷つけた」──そんな罪悪感がボクの心を蝕んでいるからかもしれない。


「……。……俺は他人だから、お前のやったことに善し悪しの判定はできないけど」

 少しだけ間を置いた後、影人さんがボクの背をぽんぽんと叩く。

「全部、お前がちゃんと考えて決めたことなんでしょ。兄貴と会って話すって決めたのも、酷いこと言ってでも自分から離したのも」
「……えぇ」

 影人さんの問いに、小さく頷く。
……そう、全部ボク自身で考えて決めたことだ。

 影人さんに全て話して、受け入れてもらって。そうしてようやく出せた勇気で、ここまで事を運んだ。

 けれど……決して綺麗な終わり方じゃなかった。
これがドラマか漫画であれば、きっと批判殺到をしたものだろう。


「だったら、それでいいと思う」

 影人さんがボクの背を叩く手を止め──そっと、抱きしめ返す。
背に回された手の温もりに、何かが込みあがりそうになった。

「蛍の人生は蛍のもので、他の誰かのものじゃない。何が良くて何がダメなのかを選ぶのも、誰でもないお前自身」
「……ボク、自身……」
「そう。……俺は否定しないよ、お前がちゃんと考えて選んだ道を。他の奴が何か言ってきたとしても、負い目を感じる必要だってない」

 ──だから、自分の道をしっかり踏みしめろ。
普段口数の少ない影人さんからスラスラと出てくる言葉に、感情の高ぶりが止まらない。

 たくさんの傷を負いながら今まで生きてきた──そんな影人さんからの言葉だからこそ、強く胸を打たれたのだろう。

 今まで聞いてきた彼の過去も、端から見れば肯定されるようなものじゃない。根掘り葉掘り聞こうものなら、きっとたくさんの人が彼を批判することだろう。
そんな人生でも、彼は自分の足でちゃんと歩いている。誰にも左右されることもなく自分で考え、物事の善し悪しも自分の目だけで考えている。

 誰にも寄らない、中立な彼だからこそ……ボクが歩いた道も、そうして肯定してくれるのだろう。

「っ、……影人さん……」
「……何?」

 なんて言えばいいんだろうか。影人さんの言葉に衝撃を受けたあまり、返す言葉が見つからない。
……否、見つからないのではない。厳密に言えば「言いたいことがありすぎて分からない」だ。

 今まで面倒をかけてごめんなさい。……これも、もちろん言いたい。
影人さんの家にずっと居候していたし、兄さんとのことでとにかく迷惑をかけまくってしまって。
いくら頭を下げても、指という指を詰めても、全然足りないくらいだ。

 ……けど、きっと違う。
今は、謝るよりも先に言うべき言葉があるはずだ。


「……あり、がと……ござい、ます……」

 息を詰まらせながら喋る。
再び背中をぽんぽんと叩きながら「後でアイス奢ってよね」と影人さんが返事をした。


 これでいい。これでいいんだ。
ボクら兄弟は、これでようやく新しい道を歩むことができるのだから。

 月が顔を出すまで、ボクはずっと影人さんの腕の中で声を上げて泣いていた。
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