夜影の蛍火

黒野ユウマ

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第四章

第六話 共同生活・無自覚ノイズ

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 ¥2,505の黒毛和牛を使ったカレーは、それはそれはもう大罪の味がした。
味よし、食感よし……流石高級肉、と言わんばかりの食べ応えで。食に興味のない影人さんの口からも、「美味い」と言葉が出たくらいだ。

 ……ただ、案の定三口分くらいは残してしまったが。


「お風呂の準備終わりましたよ」
「ん」

 食事と洗い物を終えたボクは浴槽に湯を張り、着替えやタオルの準備を始めた。
影人さんは食休み真っ最中なのだろう、ベッドで寝転がって動画を見ている。

 テレビもラジオもないこの部屋には、芸能人のトークもニュースキャスターの声も流れない。当たり前のようにテレビがついている生活をしている身としては、この静かな空間にまだ慣れずにいる。

 とりあえずお風呂に入ろうか。……と、思った矢先。
ふと、以前泊まりに来たときのことを思い出して立ち止まった。


『一緒に入ろうと思って』
『何で一緒に入らなきゃいけないんですか……温泉でもあるまいし』

『顔赤いけど、もしかして恥ずかしいの? 男同士なのに』
『はいぃ!? な、なに言ってるんですかこのクソ美顔野郎!! 恥ずかしくないわけないでしょうこんな状況で!!』

『なんか女みたいだよね、この辺とか男にしちゃ柔らかいし』
『ひっぎゃぁぁ!! 何してんだこの野郎!!』


(……い、いやいや、今回ばっかりは無理!! 一緒に入るとか無理!!)

 前回のお風呂模様を思い出してしまったボクの顔に、ぐわっと熱が集中した。

 ただでさえ最近影人さんに対して変な気持ちがある……気がするのに。これで一緒に風呂なんて入ろうものなら、ボクの心臓が爆発四散するんじゃないだろうか。
 それはそれで、ボクのメンタルがとんでもない方向に捻じ曲がりそうで。着替えやタオルを抱えたまま、影人さんに振り返る。

「……あ、そ、そうだ。影人さん、先にお風呂どうぞ。ボク、後から入るので!」
「え、何で」
「何でって……。……その、ほら。一人でゆっくり入った方が休まると思いますし……今なら温かいですから、ねっ? ……ねっ?」

 そう促しつつ、お風呂セットを椅子に置く。
「アナタが行くまでボクは動きませんよ~」とアピールするかの如く、影人さんが寝転がるベッドの横に座り込んだ。

 この間はボクが先に入ったから、後から影人さんが容赦なく入ってきたのだ。
影人さんを先に入れて、ボクがじっと待っていれば以前のようなことにはならないはず――

「無理。前も言ったでしょ、ガス代と水道代もったいないって」
「そ、そこを何とか……あの、余分にかかった分は後日払いますから」
「面倒くさいからいいよ、ほらこっち」

 ──だと思っていたのに。
結局同じような理屈で返されてしまったボクは影人さんに腕を掴まれ、浴室へとずるずる引きずられていった……。



◇ ◇ ◇



(……結局、こうなるのか……)

 ぽちゃ、と音を立てながらゆっくり浴槽へと入る。隣には、端に寄って縮こまっている影人さん。
あと少しずれれば完全に肌が密着する、という距離の近さに心臓がうるさい。心なしか影人さんの視線を感じるような気がして隣を見ることも出来ず、ボクの体は今やガチガチだ。

「……どうしたの、蛍」
「え、あ、い、いやあ何でも……」
「この間もそうだったけどさ……もしかして、緊張してる?」
「い、いいいいやそんなことないですけど!? は、恥ずかしいわけないじゃないですか~男同士なのに!!」
「その割には顔が真っ赤だけど」
「お湯が熱くって!!」

 ああ言われればこう返す、言葉と言葉の投げ合い。
影人さんに図星を突かれれば突かれるほど、心臓の速さと顔の熱がどんどん高まっていた。

 本当、出来れば別々に入りたかったのだけれど……どうにもボクは「節約」という言葉に少し弱い。倹約家というわけではないが、相手が「一人暮らしの高校生」と考えるとどうにも強く拒否ができないのだ。
 それに、今はボクが自分の勝手でお世話になってる身だ。彼の負担を増やしてまで、自分の気持ちを優先することは出来ない。

(……負担、といえば)

 ガス代、水道代、節約、負担。このワードで、一つだけ思い出したことがある。
──影人さんの金銭事情だ。

 影人さんはバイトをしているわけでもなければ、家族から仕送りをもらっているわけでもない。……寧ろ、家族からの仕送りは拒否をしているほどだ。
そんな彼に、決まりきった収入はない。……けれど、彼は確かに口にしていた。

『一回こういうこういうことをするだけで、ウン万は軽くもらえるんだよね』

 彼が口にした「稼ぎ」といえば、自分に寄ってきた女性を家に連れて、金と引き替えに交わること。……俗に言う「性行為」だ。
この家にもきっと数多くの女の人を連れてきただろうし、あのベッドでもきっと数え切れないほど──

(……い、いや、そうじゃない。考えるところはそこじゃなくて、ええと……)

 胸の奥から沸いて出てきた不快感、違う意味で早鐘を鳴らす心臓。何故だかもやもやする心を抑えようと、深呼吸。
落ち着け、落ち着け……と呪文のように自分に言い聞かせながら、ボクは思い切って影人さんの方へ振り向いた。

「あ、あの、……影人さん」
「何」
「……その。ちょっと、考えた、んですけど……。ボクがここにいる間、影人さん……女の子、連れて来られないです……よね?」
「うん、それはそうだけど」

 だから何? と言いたそうにボクに目を向ける。相変わらずの、何も考えてなさそうな……ぼーっとした目つきだ。
こんなに近い距離なのに、至って冷静。ボクばかりが緊張している。……前回もそうだったが。
けれど、今は前回以上にボクの心に余裕がなさすぎる。どうしてこんな状況でこの人は落ち着いてられるんだろう、と考えかねないくらいに。

 普通、男同士で風呂だなんてなんでもないはず……なのだが。
緊張やら謎の不快感やらで震えそうになる唇をどうにか動かし、言葉を続ける。

「やっぱり、ご迷惑……です、よね。ボクがいる間、影人さん……お金、稼げなくなっちゃいます、し」
「あぁ……気にすることないよ。別に家でしか出来ないわけじゃないし」
「え?」

 しれっと吐き出された言葉に、思考が止まる。
「性行為」とやらは、家じゃなくてもできる……? "ああいうこと"に関しての知識は全くないボクにとって、それは予想外の答えだった。

 家でしか出来ないわけじゃない、ということは外でも出来るということだろうか。
まさか学校で出来るわけじゃないだろうし、かといって外で……いや、まさか。屋外でまでそんなことするとは思いたくない。それとも相手の家に行ったりするのだろうか?
 ぐるぐると思考を巡らせる。影人さんと見知らぬ女性が二人して一糸纏わぬ姿でそこかしこで交わる想像をうっかりしてしまい、脳も顔も羞恥心でパンク寸前だった。

 そんなボクを見てなのか、「ははっ」という小さな笑い声が浴室に響く。

「お前さぁ……俺が女と部屋でセックスするだけで稼いでると思ってる?」
「……ち、違うんですか?」
「まぁ女を相手にするっていうのは変わらないけど。家でヤッたりホテルでヤッたりする時もあれば、一緒に飯食って適当に遊んで終わる時もある」
「……デート? だけの時も、あるんですか」
「まぁね、俺は金さえくれればいいから。何するかはあっち次第だよ。あんまりな案件は断るけど……だから、蛍は気にしないで家にいていいよ」

 淡々と、声色を変えず語る影人さん。ひとまず場所は選ばない仕事(というにも微妙だけれど)だから、気にするなということか。
ほんの少しだけ、安堵した。とりあえずボクは彼の邪魔になっているわけじゃない、ならそれで良いのだろう。

 ──ただ、それだけで終われば良かったのに。
「そうですか」と返事をするボクの唇に反し、体の内側は先程よりも強い不快感に襲われていた。



◇ ◇ ◇



 謎の不快感を抱えたまま入浴が終わり、気が付けば22:00。
寝支度を整えた影人さんは再びベッドに寝転がり、タブレットで動画を見ていた。複数の男性が公園で楽しそうに遊んでいる、何てことなく平和な動画だ。
ボクはというと、ベッドに寄り添うように横に座り込んでぼーっとしているだけ。
 静かな部屋の中、知らぬ男達の笑い声が響いていた。


(きっと、ここに女の人も一緒に──)

 ──まただ。また、意味不明な不快感と心の痛みが襲ってきてる。
背にしているベッドに、無意識に思考を落とし込んでしまった。勝手に動くボクの思考回路が、勝手にボクの心を殺そうとしている。

 今はこんなことを考えている場合じゃないはずなのに、安全地帯に身を潜められたことで気が緩んだのだろうか。
不可抗力といえど、自分が情けない。今考えなきゃいけないのは、別のことなのに。

「……影人さん。ボク、そろそろ寝ますね」
「あぁ、うん……相変わらず寝るの早いね、お前」
「影人さんが遅すぎるんですよ。……おやすみなさい」

 ごろん、とその場に寝転がって目を瞑る。表情を悟られぬようにと、影人さんに背を向けて。
敷き布団も掛け布団もない床は固くて冷たいが、影人さんと同じ布団に潜る気にはなれなかった。

 この、意味のわからないもやもやをどうにか追い払いたい。それにはもう寝るくらいしか思いつかない。いわゆる「寝逃げ」だ。
そもそもこんな気持ちを抱えたまま寝られるかどうか、それも怪しいところではあるが……何もしないで苦しむよりは、マシなはずだと信じたい。

「……蛍、もしかしてそこで寝るつもり? 風邪引くよ」
「え、……えぇ。影人さんのベッド、狭くなっちゃいます、し。……迷惑……でしょう」

 怠そうな声で話しかけてくる影人さん。少し寒いが、暖房が付いているからきっと大丈夫。寝ようと思えば気合いで寝られるだろう。
気合いで乗り切ろう、なんて非合理的な考え方は普段のボクにはないけれど。今日ばかりは、そんな考え方がボクの頭を塗りつぶしていた。

「別にいいよ……。っていうか今まで何度も一緒に寝たことあるんだから、今更すぎるでしょ」
「そ、そうですけど、……大丈夫です。普段、ちゃんとしてますし……このパジャマ、裏起毛で結構暖かいですから」

 話すたび、心にヒビが入って。
ずきり、ずきり、ボクの中で音が響く。

 ボクは一体、影人さんに対して何を考えているのだろう。
こうして逃げ場を与えてくれた影人さんの言葉に、いちいち背いてばかりでいる。
たとえるなら拗ねた子供のよう。助けてくれた相手に、失礼極まりない態度というのは百も承知している。

 ……今までは、影人さんにこうして反抗するような真似をしたことはなかったのに。閉じた視界の中、沸いて出てきた自己嫌悪感がトドメを刺す。
彼に背を向けたボクの顔は、どんなに醜い表情を浮かべているのだろう。何色かも分からない感情を胸の中に留めたまま、ボクはゆっくり意識を落とすことに集中した。















「……何妬いてんの、変な奴……」


 温かい空間に引き込まれたボクにそう囁いた声を、眠りに落ちたボクは知らずにいた。
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