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第四章
第二話 鬼胎
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11月とは思えぬほどに暖かく、雲一つない青い空。
外はこんなにも清々しい空模様というのに、ボクの心は黒雨だった。
「……おはよう、蛍」
「お、……おはよう、ございます。影人さん」
いつも通りの朝。いつも通りの待ち合わせ。いつも通り隣にいてくれる影人さん。
全部、全部、いつも通りの流れだ。何一つ変わらない、平凡な日常で──ささやかな幸せのはずで。
それなのに、何もかもが重い。いつもは活発な表情筋も、今日は上手く動いてくれそうにない。
普段よりずっと強ばっている筋肉で、いつも通りの顔を作れているのだろうか。この唇は、ちゃんと言葉を紡げているだろうか。
ただ、そんな不安が胸を過ぎってばかりいる。影人さんにとっての「いつも通りの蛍」を、ボクが作れているのだろうか。
「……蛍、どしたの」
「え?」
「体調でも悪い?」
ボクの顔に目を向けながら、影人さんが言う。向けられた赤い双眸に、心臓が震えた。
ボクの心をじっと見透かすような目が、今は少しだけ怖い。
──あの人が、ボクに近づいて来ている。
世界一会いたくないあの男の存在が、ボクの家まで来た。学校だけでなく、家にまで。
ボクの生活領域に足を踏み入れつつある、あの人の存在感。今も、もしかしたらこの辺りにいるんじゃないか──そう思うと心が波立って、平静でいられなくなりそうだった。
家で手紙を見てしまってからというもの、胸の中には色々な感情がぐちゃぐちゃにかき混ざって落ち着かない。
恐怖、憤怒、戦慄、苦悶──文化祭の日に再度蓋を閉じて落ち着き始めていた感情が、また溢れ出しそうになっている。
……けれど。
「……大丈夫です。何でもありません」
「……そう?」
「はい。大丈夫、……大丈夫ですから」
影人さんにも空にも向けられない顔を必死に前に向けて、正反対の答えを返した。
話してしまえば楽になるのかもしれない、けれどこれはボク自身の問題で。影人さんに、余計な荷物は抱え込ませたくない。
それに、学校に着いてしまえばこちらのものだ。あの人も流石に学校の中にまでは来ないだろう。
「早く行きましょう」と、影人さんを急かすように早足で歩いた。
◇ ◇ ◇
──手紙の内容は、あの男からボクへのメッセージだった。
叔父さんと叔母さんがまだ布団の中で微睡んでいる中、恐る恐る開けた封筒。中にあったのは一枚の便箋。
形の整った綺麗な字で綴られた言葉の一つ一つに、ボクの心臓は激しい鼓動を打ち付ける。
『蛍へ
もう随分長いこと会っていないけれど、元気にしているか?
お前がそっちに移って、もう一年ちょっとは経ったと思う。
電話もメールも出来ないのは仕方ない。そう分かっているけど、やっぱりお前が心配でたまらない。
お前がいなくなってから、一日だってお前のことを忘れたことはなかったんだ。
ただ、一度でいい。いつかどこかで、お前と会って話がしたい。
あの日、聞きたくても聞けなかったお前の気持ちを、どうか聞かせてほしいんだ。
どれだけ残酷な言葉を吐かれようと、俺は全部受け入れるつもりだ。
それまで、どうか元気で 白夜』
思いを綴った便箋の一番下には、ご丁寧に電話番号とメールアドレスが記載されていた。
「いつかボクが直接話をする気になれたら」 そんな時が来ることを、あの男は期待をしているのだろう。
けれど、残念ながらその時が来ることはきっと無い。
あの人の綴った字を見ただけでこんなにも心を乱しているボクが、「分かりましたお話しましょう」なんて簡単に返事が出来るものか。
(……寧ろ、二度と関わりたくもないのに……)
現時刻、12:15──昼休み直前の4時限目。
現代文・数学・日本史の授業を連続で受けている中ではあるが、教師の説明も今は全く頭に入らない。ただの"音"として、聞き流しているような感覚だ。
それどころか気づけばシャーペンを動かす手も止まっていて、油断をするとノートに写す前に板書を消されてしまう。
来月になれば期末テストもある、こんなことで成績を落とすわけにはいかないのに。
授業に集中しようと意識すればするほど、今朝見た手紙のことが頭から離れない。
(学校にいれば絶対安全のはず……考えちゃだめだ)
あの手紙が郵送されたものなのか、それとも直接手渡されたものなのか……叔父さんや叔母さんには、怖くてまだ聞けていない。
けれど、あの男の存在がボクに近づこうとしているのは確かな事実で。
「──不破、ここ答えてみろ」
「…………」
「……不破! 聞いてるか!?」
「えっ!? ……あ、ええと……。…………す、すみません……聞いてません、でした」
「はぁ……ぼんやりしてると期末でズッコケるぞ、昼前でぼーっとするのは分かるがシャキッとしろ」
呆れたように放たれた先生の言葉とクラスメイトの視線が、ざくりざくりと突き刺さる。
手紙のことばかり考えて、何も頭に入ってこない。"いつも通り"になれない自分に、ほとほと嫌気が差してしまう。
──あの手紙一つ、ボクの日常を脅かすには十分すぎる要素だった。
外はこんなにも清々しい空模様というのに、ボクの心は黒雨だった。
「……おはよう、蛍」
「お、……おはよう、ございます。影人さん」
いつも通りの朝。いつも通りの待ち合わせ。いつも通り隣にいてくれる影人さん。
全部、全部、いつも通りの流れだ。何一つ変わらない、平凡な日常で──ささやかな幸せのはずで。
それなのに、何もかもが重い。いつもは活発な表情筋も、今日は上手く動いてくれそうにない。
普段よりずっと強ばっている筋肉で、いつも通りの顔を作れているのだろうか。この唇は、ちゃんと言葉を紡げているだろうか。
ただ、そんな不安が胸を過ぎってばかりいる。影人さんにとっての「いつも通りの蛍」を、ボクが作れているのだろうか。
「……蛍、どしたの」
「え?」
「体調でも悪い?」
ボクの顔に目を向けながら、影人さんが言う。向けられた赤い双眸に、心臓が震えた。
ボクの心をじっと見透かすような目が、今は少しだけ怖い。
──あの人が、ボクに近づいて来ている。
世界一会いたくないあの男の存在が、ボクの家まで来た。学校だけでなく、家にまで。
ボクの生活領域に足を踏み入れつつある、あの人の存在感。今も、もしかしたらこの辺りにいるんじゃないか──そう思うと心が波立って、平静でいられなくなりそうだった。
家で手紙を見てしまってからというもの、胸の中には色々な感情がぐちゃぐちゃにかき混ざって落ち着かない。
恐怖、憤怒、戦慄、苦悶──文化祭の日に再度蓋を閉じて落ち着き始めていた感情が、また溢れ出しそうになっている。
……けれど。
「……大丈夫です。何でもありません」
「……そう?」
「はい。大丈夫、……大丈夫ですから」
影人さんにも空にも向けられない顔を必死に前に向けて、正反対の答えを返した。
話してしまえば楽になるのかもしれない、けれどこれはボク自身の問題で。影人さんに、余計な荷物は抱え込ませたくない。
それに、学校に着いてしまえばこちらのものだ。あの人も流石に学校の中にまでは来ないだろう。
「早く行きましょう」と、影人さんを急かすように早足で歩いた。
◇ ◇ ◇
──手紙の内容は、あの男からボクへのメッセージだった。
叔父さんと叔母さんがまだ布団の中で微睡んでいる中、恐る恐る開けた封筒。中にあったのは一枚の便箋。
形の整った綺麗な字で綴られた言葉の一つ一つに、ボクの心臓は激しい鼓動を打ち付ける。
『蛍へ
もう随分長いこと会っていないけれど、元気にしているか?
お前がそっちに移って、もう一年ちょっとは経ったと思う。
電話もメールも出来ないのは仕方ない。そう分かっているけど、やっぱりお前が心配でたまらない。
お前がいなくなってから、一日だってお前のことを忘れたことはなかったんだ。
ただ、一度でいい。いつかどこかで、お前と会って話がしたい。
あの日、聞きたくても聞けなかったお前の気持ちを、どうか聞かせてほしいんだ。
どれだけ残酷な言葉を吐かれようと、俺は全部受け入れるつもりだ。
それまで、どうか元気で 白夜』
思いを綴った便箋の一番下には、ご丁寧に電話番号とメールアドレスが記載されていた。
「いつかボクが直接話をする気になれたら」 そんな時が来ることを、あの男は期待をしているのだろう。
けれど、残念ながらその時が来ることはきっと無い。
あの人の綴った字を見ただけでこんなにも心を乱しているボクが、「分かりましたお話しましょう」なんて簡単に返事が出来るものか。
(……寧ろ、二度と関わりたくもないのに……)
現時刻、12:15──昼休み直前の4時限目。
現代文・数学・日本史の授業を連続で受けている中ではあるが、教師の説明も今は全く頭に入らない。ただの"音"として、聞き流しているような感覚だ。
それどころか気づけばシャーペンを動かす手も止まっていて、油断をするとノートに写す前に板書を消されてしまう。
来月になれば期末テストもある、こんなことで成績を落とすわけにはいかないのに。
授業に集中しようと意識すればするほど、今朝見た手紙のことが頭から離れない。
(学校にいれば絶対安全のはず……考えちゃだめだ)
あの手紙が郵送されたものなのか、それとも直接手渡されたものなのか……叔父さんや叔母さんには、怖くてまだ聞けていない。
けれど、あの男の存在がボクに近づこうとしているのは確かな事実で。
「──不破、ここ答えてみろ」
「…………」
「……不破! 聞いてるか!?」
「えっ!? ……あ、ええと……。…………す、すみません……聞いてません、でした」
「はぁ……ぼんやりしてると期末でズッコケるぞ、昼前でぼーっとするのは分かるがシャキッとしろ」
呆れたように放たれた先生の言葉とクラスメイトの視線が、ざくりざくりと突き刺さる。
手紙のことばかり考えて、何も頭に入ってこない。"いつも通り"になれない自分に、ほとほと嫌気が差してしまう。
──あの手紙一つ、ボクの日常を脅かすには十分すぎる要素だった。
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