稲生物怪録 つづきの話 〜 五十年目の約束〜

保田 明日

文字の大きさ
上 下
2 / 2
其の一

新たなる怪異

しおりを挟む
 稲生家に転機が訪れたのは、怪異から九年後。宝暦八年に旧三次藩が代官支配となったため、三次に住んでいた旧藩士は広島城下へと移ることになった。この移動によって稲生家は家禄を僅かに減らしたが、無事に御徒歩組十二石四人扶持を拝命することができた。

 困ったのは神器の隠し場所である。親戚に管理を任せることとなった三次の屋敷に残しておくのも不安なため、新しく住むことになった組屋敷へ密かに運び込み、納戸の天井裏に同じような包みと一緒に放り込んだ。
 天井裏にわだかまる闇の奥で、ため息が聞こえたような気もしたが、平太郎はさっさと天井の羽目板を元に戻すと、手を洗いに井戸端へと向かい、それきり神器のことはきれいに忘れて過ごした ----。

 
*  *  *


 あれからまた時が流れ、武太夫もついに老境に差し掛かった。
 魔王と名乗った妖の親玉との「約束の日」まであと一年。これまで妖とした約束事も、天井裏に隠した神器も忘れて過ごしてきたが、「約束の日」が近づくにつれ、うなじがチリチリと焦げるような焦燥感を覚えるようになった。

 この日も夕餉を終えた後、武太夫は自室に下がって筆を走らせていた。
 今、武太夫が必死で書き留めているのは、あの時の怪異。脚色した部分削り、多少分かりづらくとも起きた事象を事細かに書き記す作業をしていた。
 薄暗い中、チロチロと揺れる紙燭に照らされながら机に向かうのは、齢六十五歳を迎えた武太夫にとって辛いことではあったが、筆がのってくると若き日のおどろおどろしくも楽しい日々が色鮮やかに蘇ってくる。

 久しぶりに権八ととった相撲やら、武太夫を心配して集まってくれた友人達が怪異におたおたと慌てふためく様を思い出し、フッと笑いをもらした時、背後の障子がスパンと開き、懐かしくも不思議な声色が武太夫の幼き日の名を呼んだ。

「何やら楽しそうだな? 平太郎」
「ちょうどあの頃のことを思い出しており申した。お久しゅうございますな、山ン本 五郎左衛門殿。それとも、魔王様とでもお呼びした方が宜しいか?」
「其方は、どんな時でも驚かぬからつまらぬ」

 「つまらぬ」と言いつつも、ほのかに喜色が浮かんでいる口元を見れば約五十年ぶりの逢瀬を楽しんでくれていることが伺える。この山ン本 五郎左衛門こそ、武太夫が幼名の平太郎を名乗っていた頃に出会った妖の親玉である。

 勿論、本当の名は山ン本 五郎左衛門などと言うふざけた名ではない。真名を呼ぶことが禁じられ、名前がないと面倒だと言って平太郎(武太夫)が適当につけた名をこの風変わりな妖が面白がり、そのまま通称としているだけだ。あの頃は知りもしなかったが、江戸詰の際に少しずつ情報を集め、この妖の正体の検討はついている。

 鴨居に頭をぶつけそうな身の丈と堅苦しい裃姿は五十年前と少しも変わらないが、正体を知ってしまった今だからこそ、その恐ろしさを感じていた。

「約束の日まであと一年。その前に出て参ったのはこれのせいですかの?」
「いかにも。五十年の間、他言無用と申し伝えておったはずだ」
 言外に書に残す武太夫を非難する妖に、武太夫はひたと視線を合わせ「安心してくだされ」と殊更低く抑えた声で答えた。

 武太夫も今まとめている物の危うさは良く理解している。
部屋の隅にわだかまっている闇が一段と濃くなっていることをヒシヒシと感じながら、魔王こと山ン本 五郎左衛門に申し開きをすることにした。

「そも、先般に著した『稲生物怪録』は実話と言いつつも、奥方様の命を受けて物語として成立するように改変しており申す。今日、明日という訳ではござらぬが、某の死後、あの時の怪異が曲がったまま伝わったり、正しい使い方を誰も知らぬまま神器が捨て置かれていては危ういと思いましてな」
「在りかも使い方も誰も知らぬのに危ういか?」
「危ういですな。どんなに隠していたとて、いずれは誰かが見つける。そして、誰も正しい扱い方を知らぬままではいざという時に止めようがない。それに、神器の使い方は彼奴めも知っている……。違いますかな?」

魔王は眉を顰めて
「彼奴か」と一言、嫌そうに呟いた。
「無いとは言い切れますまい。ここ数年飢饉が続き、民は飢え、死病も流行っており申す。人心が乱れている時に『稲生家に百鬼夜行を操ることができる妖が授けた願いの叶う神器がある』などと耳打ちする者があったら、是が非でも、と手を伸ばしてくる輩が雲霞のごとく湧いて出ましょう。我が稲生家も御徒歩組として禄をいただいているとは申せ、決して高い身分ではござらん。高位の者に命ぜられればそれまでじゃ」


 あの当時、稲生家に起きた怪異は隠しようもなく、近在に知れ渡っていた。連日連夜、平太郎を心配する友や親戚、腕自慢の武士がひっきりなしに押しかけるため、やむをえず怪異が収まった理由を説明していたのだ。もちろん神器のことなどは話していないし、魔王の正体なども適当にぼかしている。


 魔王が心配していた様に、対立する魔王・信ン野 悪五郎がちょっかいをかけてくることは無かったが、これからも無いとは言い切れない。

 藩は財政の立て直しに必死だ。しかし、どんなに対策を立てたとて、飢饉や水害、疫病、虫害、打ちこわしがひっきりなしに起こる。
 先ごろ、五歳になったばかりの側室 お栄の方の子が病没したという。

しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

幕末博徒伝

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
江戸時代、五街道の内の一つ、甲州街道が整備され、宿場町として賑わった勝沼は、天領、つまり、徳川幕府の直轄地として代官所が置かれていた。この頃、江戸幕府の財政は厳しく、役人の数も少なかったので、年貢の徴収だけで手がいっぱいになり、治安までは手が回らなかった。その為、近隣在所から無宿人、博徒、浪人などが流れ込み、無政府状態になっていた。これは、無頼の徒が活躍する任侠物語。

新・大東亜戦争改

みたろ
歴史・時代
前作の「新・大東亜戦争」の内容をさらに深く彫り込んだ話となっています。第二次世界大戦のifの話となっております。

愛姫と伊達政宗

だぶんやぶんこ
歴史・時代
長い歴史がある伊達家だが圧倒的存在感があり高名なのが、戦国の世を生き抜いた政宗。 そこには、政宗を大成させる女人の姿がある。 伊達家のために、実家のために、自分のために、大きな花を咲かせ、思う存分に生きた女人たちだ。 愛姫を中心に喜多・山戸氏おたけの方ら、楽しく、面白く、充実した日々を送った生き様を綴る。

崩落!~生存者が語る永代橋崩落事故のルポルタージュ~

糺ノ杜 胡瓜堂
歴史・時代
   江戸時代、文化四(1807)年に発生した「永代橋崩落事故」、一説には1,400人を超える死者を出したという未曽有の大参事を、生存者へのインタビュー等、現代の「ルポルタージュ手法」で脚色したものです。  原典は、滝沢(曲亭)馬琴が編纂した天保三(1832)年刊の「兎園小説 余禄」に収録されている「深川八幡宮例祭の日、永代橋を蹴落して人多く死せし事」です。  「架空」のルポルタージュですが、大筋は馬琴が集めた資料を基にしていますので真実といっていいでしょう。  滝沢(曲亭)馬琴・山崎美成らが中心となって発足した、珍談、奇談を収集する会「兎園会」  その断絶(けんどん論争による)後に、馬琴が個人的に収集した話を編纂したのが「兎園小説 余禄」となります。  余禄には、この永代橋崩落事故や、ねずみ小僧次郎吉の話等、様々な話が納められており、馬琴の旺盛な知識欲がうかがえます。  

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

梅すだれ

木花薫
歴史・時代
江戸時代の女の子、お千代の一生の物語。恋に仕事に頑張るお千代は悲しいことも多いけど充実した女の人生を生き抜きます。が、現在お千代の物語から逸れて、九州の隠れキリシタンの話になっています。島原の乱の前後、農民たちがどのように生きていたのか、仏教やキリスト教の世界観も組み込んで書いています。 登場人物の繋がりで主人公がバトンタッチして物語が次々と移っていきます隠れキリシタンの次は戦国時代の姉妹のストーリーとなっていきます。 時代背景は戦国時代から江戸時代初期の歴史とリンクさせてあります。長編時代小説。長々と続きます。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

処理中です...