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其の一
新たなる怪異
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稲生家に転機が訪れたのは、怪異から九年後。宝暦八年に旧三次藩が代官支配となったため、三次に住んでいた旧藩士は広島城下へと移ることになった。この移動によって稲生家は家禄を僅かに減らしたが、無事に御徒歩組十二石四人扶持を拝命することができた。
困ったのは神器の隠し場所である。親戚に管理を任せることとなった三次の屋敷に残しておくのも不安なため、新しく住むことになった組屋敷へ密かに運び込み、納戸の天井裏に同じような包みと一緒に放り込んだ。
天井裏にわだかまる闇の奥で、ため息が聞こえたような気もしたが、平太郎はさっさと天井の羽目板を元に戻すと、手を洗いに井戸端へと向かい、それきり神器のことはきれいに忘れて過ごした ----。
* * *
あれからまた時が流れ、武太夫もついに老境に差し掛かった。
魔王と名乗った妖の親玉との「約束の日」まであと一年。これまで妖とした約束事も、天井裏に隠した神器も忘れて過ごしてきたが、「約束の日」が近づくにつれ、うなじがチリチリと焦げるような焦燥感を覚えるようになった。
この日も夕餉を終えた後、武太夫は自室に下がって筆を走らせていた。
今、武太夫が必死で書き留めているのは、あの時の怪異。脚色した部分削り、多少分かりづらくとも起きた事象を事細かに書き記す作業をしていた。
薄暗い中、チロチロと揺れる紙燭に照らされながら机に向かうのは、齢六十五歳を迎えた武太夫にとって辛いことではあったが、筆がのってくると若き日のおどろおどろしくも楽しい日々が色鮮やかに蘇ってくる。
久しぶりに権八ととった相撲やら、武太夫を心配して集まってくれた友人達が怪異におたおたと慌てふためく様を思い出し、フッと笑いをもらした時、背後の障子がスパンと開き、懐かしくも不思議な声色が武太夫の幼き日の名を呼んだ。
「何やら楽しそうだな? 平太郎」
「ちょうどあの頃のことを思い出しており申した。お久しゅうございますな、山ン本 五郎左衛門殿。それとも、魔王様とでもお呼びした方が宜しいか?」
「其方は、どんな時でも驚かぬからつまらぬ」
「つまらぬ」と言いつつも、ほのかに喜色が浮かんでいる口元を見れば約五十年ぶりの逢瀬を楽しんでくれていることが伺える。この山ン本 五郎左衛門こそ、武太夫が幼名の平太郎を名乗っていた頃に出会った妖の親玉である。
勿論、本当の名は山ン本 五郎左衛門などと言うふざけた名ではない。真名を呼ぶことが禁じられ、名前がないと面倒だと言って平太郎(武太夫)が適当につけた名をこの風変わりな妖が面白がり、そのまま通称としているだけだ。あの頃は知りもしなかったが、江戸詰の際に少しずつ情報を集め、この妖の正体の検討はついている。
鴨居に頭をぶつけそうな身の丈と堅苦しい裃姿は五十年前と少しも変わらないが、正体を知ってしまった今だからこそ、その恐ろしさを感じていた。
「約束の日まであと一年。その前に出て参ったのはこれのせいですかの?」
「いかにも。五十年の間、他言無用と申し伝えておったはずだ」
言外に書に残す武太夫を非難する妖に、武太夫はひたと視線を合わせ「安心してくだされ」と殊更低く抑えた声で答えた。
武太夫も今まとめている物の危うさは良く理解している。
部屋の隅にわだかまっている闇が一段と濃くなっていることをヒシヒシと感じながら、魔王こと山ン本 五郎左衛門に申し開きをすることにした。
「そも、先般に著した『稲生物怪録』は実話と言いつつも、奥方様の命を受けて物語として成立するように改変しており申す。今日、明日という訳ではござらぬが、某の死後、あの時の怪異が曲がったまま伝わったり、正しい使い方を誰も知らぬまま神器が捨て置かれていては危ういと思いましてな」
「在りかも使い方も誰も知らぬのに危ういか?」
「危ういですな。どんなに隠していたとて、いずれは誰かが見つける。そして、誰も正しい扱い方を知らぬままではいざという時に止めようがない。それに、神器の使い方は彼奴めも知っている……。違いますかな?」
魔王は眉を顰めて
「彼奴か」と一言、嫌そうに呟いた。
「無いとは言い切れますまい。ここ数年飢饉が続き、民は飢え、死病も流行っており申す。人心が乱れている時に『稲生家に百鬼夜行を操ることができる妖が授けた願いの叶う神器がある』などと耳打ちする者があったら、是が非でも、と手を伸ばしてくる輩が雲霞のごとく湧いて出ましょう。我が稲生家も御徒歩組として禄をいただいているとは申せ、決して高い身分ではござらん。高位の者に命ぜられればそれまでじゃ」
あの当時、稲生家に起きた怪異は隠しようもなく、近在に知れ渡っていた。連日連夜、平太郎を心配する友や親戚、腕自慢の武士がひっきりなしに押しかけるため、やむをえず怪異が収まった理由を説明していたのだ。もちろん神器のことなどは話していないし、魔王の正体なども適当にぼかしている。
魔王が心配していた様に、対立する魔王・信ン野 悪五郎がちょっかいをかけてくることは無かったが、これからも無いとは言い切れない。
藩は財政の立て直しに必死だ。しかし、どんなに対策を立てたとて、飢饉や水害、疫病、虫害、打ちこわしがひっきりなしに起こる。
先ごろ、五歳になったばかりの側室 お栄の方の子が病没したという。
困ったのは神器の隠し場所である。親戚に管理を任せることとなった三次の屋敷に残しておくのも不安なため、新しく住むことになった組屋敷へ密かに運び込み、納戸の天井裏に同じような包みと一緒に放り込んだ。
天井裏にわだかまる闇の奥で、ため息が聞こえたような気もしたが、平太郎はさっさと天井の羽目板を元に戻すと、手を洗いに井戸端へと向かい、それきり神器のことはきれいに忘れて過ごした ----。
* * *
あれからまた時が流れ、武太夫もついに老境に差し掛かった。
魔王と名乗った妖の親玉との「約束の日」まであと一年。これまで妖とした約束事も、天井裏に隠した神器も忘れて過ごしてきたが、「約束の日」が近づくにつれ、うなじがチリチリと焦げるような焦燥感を覚えるようになった。
この日も夕餉を終えた後、武太夫は自室に下がって筆を走らせていた。
今、武太夫が必死で書き留めているのは、あの時の怪異。脚色した部分削り、多少分かりづらくとも起きた事象を事細かに書き記す作業をしていた。
薄暗い中、チロチロと揺れる紙燭に照らされながら机に向かうのは、齢六十五歳を迎えた武太夫にとって辛いことではあったが、筆がのってくると若き日のおどろおどろしくも楽しい日々が色鮮やかに蘇ってくる。
久しぶりに権八ととった相撲やら、武太夫を心配して集まってくれた友人達が怪異におたおたと慌てふためく様を思い出し、フッと笑いをもらした時、背後の障子がスパンと開き、懐かしくも不思議な声色が武太夫の幼き日の名を呼んだ。
「何やら楽しそうだな? 平太郎」
「ちょうどあの頃のことを思い出しており申した。お久しゅうございますな、山ン本 五郎左衛門殿。それとも、魔王様とでもお呼びした方が宜しいか?」
「其方は、どんな時でも驚かぬからつまらぬ」
「つまらぬ」と言いつつも、ほのかに喜色が浮かんでいる口元を見れば約五十年ぶりの逢瀬を楽しんでくれていることが伺える。この山ン本 五郎左衛門こそ、武太夫が幼名の平太郎を名乗っていた頃に出会った妖の親玉である。
勿論、本当の名は山ン本 五郎左衛門などと言うふざけた名ではない。真名を呼ぶことが禁じられ、名前がないと面倒だと言って平太郎(武太夫)が適当につけた名をこの風変わりな妖が面白がり、そのまま通称としているだけだ。あの頃は知りもしなかったが、江戸詰の際に少しずつ情報を集め、この妖の正体の検討はついている。
鴨居に頭をぶつけそうな身の丈と堅苦しい裃姿は五十年前と少しも変わらないが、正体を知ってしまった今だからこそ、その恐ろしさを感じていた。
「約束の日まであと一年。その前に出て参ったのはこれのせいですかの?」
「いかにも。五十年の間、他言無用と申し伝えておったはずだ」
言外に書に残す武太夫を非難する妖に、武太夫はひたと視線を合わせ「安心してくだされ」と殊更低く抑えた声で答えた。
武太夫も今まとめている物の危うさは良く理解している。
部屋の隅にわだかまっている闇が一段と濃くなっていることをヒシヒシと感じながら、魔王こと山ン本 五郎左衛門に申し開きをすることにした。
「そも、先般に著した『稲生物怪録』は実話と言いつつも、奥方様の命を受けて物語として成立するように改変しており申す。今日、明日という訳ではござらぬが、某の死後、あの時の怪異が曲がったまま伝わったり、正しい使い方を誰も知らぬまま神器が捨て置かれていては危ういと思いましてな」
「在りかも使い方も誰も知らぬのに危ういか?」
「危ういですな。どんなに隠していたとて、いずれは誰かが見つける。そして、誰も正しい扱い方を知らぬままではいざという時に止めようがない。それに、神器の使い方は彼奴めも知っている……。違いますかな?」
魔王は眉を顰めて
「彼奴か」と一言、嫌そうに呟いた。
「無いとは言い切れますまい。ここ数年飢饉が続き、民は飢え、死病も流行っており申す。人心が乱れている時に『稲生家に百鬼夜行を操ることができる妖が授けた願いの叶う神器がある』などと耳打ちする者があったら、是が非でも、と手を伸ばしてくる輩が雲霞のごとく湧いて出ましょう。我が稲生家も御徒歩組として禄をいただいているとは申せ、決して高い身分ではござらん。高位の者に命ぜられればそれまでじゃ」
あの当時、稲生家に起きた怪異は隠しようもなく、近在に知れ渡っていた。連日連夜、平太郎を心配する友や親戚、腕自慢の武士がひっきりなしに押しかけるため、やむをえず怪異が収まった理由を説明していたのだ。もちろん神器のことなどは話していないし、魔王の正体なども適当にぼかしている。
魔王が心配していた様に、対立する魔王・信ン野 悪五郎がちょっかいをかけてくることは無かったが、これからも無いとは言い切れない。
藩は財政の立て直しに必死だ。しかし、どんなに対策を立てたとて、飢饉や水害、疫病、虫害、打ちこわしがひっきりなしに起こる。
先ごろ、五歳になったばかりの側室 お栄の方の子が病没したという。
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