みおそてぃす

一章：偵察

神沼さん家の事情 19

遠くの方でガタガタと物音がし、扉の開く音が聞こえた。
明紫亜が部屋を出て行ったのだろう。


　淳志はイヤホンを外し、受信機をその場に置いたままのっそりと立ち上がる。
意味などないと解っていた。
それでも明紫亜の顔を見てみたかった。
司破に捨てられた人間の姿を確認したい。
訳の解らない欲求に従い、淳志は階段の見える場所まで移動し、物陰から様子を窺う。


　唐突に、ズダダダダッ、と明紫亜が階段を転げ落ちて来た。
彼は打ってもいない左胸を押さえたまま天を仰いでいる。
頬を伝う涙は、痛々しくもあり、不思議と神聖なものにも思えた。

「痛いよ、苦しいよ、ユキちゃん。ユキちゃん、ユキちゃん、ユキちゃん。怖いよ、辛いよ、苦しい。ぼ、く。要らないんだって。必要ないって。死ねばいいって。それならなんで、そんな不要物、産んだりしたの？」

機械越しにではない、生の声が淳志を貫く。
ひどく衝撃的で、淳志は思わず唾を呑み込んでいた。
彼は、司破に捨てられたことに胸を痛めているのではないのだ。
捨てられたことを通して過去の自分を思い出し、過去の傷に泣いている。
それならば、明紫亜にとって司破とは一体何なのだろうか。
確かに、幼い子供が母親に捨てられた記憶は、淳志の想像も追い付かないぐらいの苦痛なのだろう。
それであれ、あの司破にLINEをさせるまでにしつこく迫ったにしては、司破への執着が全く見えてはこない。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫」

横たわっている少年は、何かの呪文のように、まるでその言葉に縋り付くみたいに何度も口の中で呟いていた。

「ユキちゃんが、愛してくれる。大事にしてくれる。ユキちゃんがいれば、大丈夫」

悲愴な面持ちで、明紫亜は自分に言い聞かせている。
明紫亜の中には叔母しかいないのだと、淳志にも理解出来た。
彼の世界は叔母一人を中心に出来上がっているのだ。
そして、司破への想いは叔母だけの世界を壊すものだった。
一歩を踏み出そうとしていた明紫亜に突き付けられた現実は、また彼を元の世界に引き戻してしまったのだろう。
淳志の中に、ぼんやりとした曖昧な恐れが生まれる。
それが何に対しての恐怖なのか、まだ淳志自身にも自覚はないのだった。


　ヨロヨロと立ち上がり、スマホを片手に覚束ない足取りでマンションを去っていく明紫亜の眼に生気はない。
司破の家からの帰り道をスマホで検索しているのだろう。
スマホを見ながら歩く明紫亜の背中を目に淳志は自然と溜息を溢す。
アシメにした茶髪を片手で掻き乱し、恐怖を誤魔化すように嗤うことしか出来なかった。