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一章:可愛いキノコ、愛しい殺人鬼
オリエンテーション 23
しおりを挟む『要らないわよ、そんな汚い子。死ねば良かったのに、しぶといんだから。私には必要ないから、捨てようとしただけでしょ。そんなにコイツが好きなら、涼子が育てたら?』
その女の声は、母のものだった。
きっとこの記憶は、いつもすぐ傍にあって、それでいて表面に出て来ないように気付かないフリをされてきた、そういうものなのだ。
忘れていた訳ではない。
常に恐れはあった。
汚い不要物であると他人に知れてしまうことの恐怖が、いつだって明紫亜の胸を締め付けている。
だからこそ、明紫亜の心を掻き乱して潰して、グチャグチャにしていくのだ。
これが三文芝居だと知っていて、頭の中は支離滅裂になっている。
この場にいるのが辛くて、明紫亜は口を押さえたまま何も言わずに踵を返した。
バタバタと音を立て、必死で玄関に向かう。
靴を中途半端に履き、外に飛び出した。
階段を勢い良く駆け降りて行く。
残り数段のところで足を踏み外した。
中途半端に履いた靴がいけなかったのだろう。
ずるり、とバランスを崩し、ズダダダダッ、と下まで転げ落ちる。
臀部と腰を打ち付けて痛んだが、それよりも胸が痛くて、左胸を押さえた。
「痛いよ、苦しいよ、ユキちゃん。ユキちゃん、ユキちゃん、ユキちゃん。怖いよ、辛いよ、苦しい。ぼ、く。要らないんだって。必要ないって。死ねばいいって。それならなんで、そんな不要物、産んだりしたの?」
仰向けに背中を階段に預けたまま上を向くと、顎が剥き出しになり、先程から止まらない涙の流れが変わった。
過去と今とが支離滅裂に絡んで訳が解らなくなる。
何度も叔母を呼んで、そうしないと自分を保てないのだと思い知る。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫」
昔に戻りそうになる度に、明紫亜は叔母のくれた言葉を御守りのように何度も何度も繰り返し唱えた。
「ユキちゃんが、愛してくれる。大事にしてくれる。ユキちゃんがいれば、大丈夫」
叔母の言葉だけを胸に抱いて、それだけを頼りに明紫亜は生きている。
それでも、この日は胸の中で小さく、司破さん、と唱えていた。
きっと司破は、明紫亜の中に入り込んで、意図も簡単に心の傷を癒していく、そういう人間なのだ。
だからこそ、司破に捨てられたら立ち直れない気がした。
ヨタヨタと立ち上がり、明紫亜は痛む体を引き摺りつつもマンションから立ち去って行く。
片手にはスマホが握られている。
それを物陰から窺っている人物には気付くことはなかった。
アシメにした茶髪を片手で掻き乱し、男はおかしそうに嗤っている。
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