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出会い編
抑止のためのフェイク
しおりを挟む「その……悪かった」
ハルは小さな声で話を切り出した。
ユキは天蓋付きベッドの支柱に寄りかかり、腕を組んで静かに立っている。いつもと変わらぬ冷静な姿に見えるが、ハルにはどこか冷たく拒絶されているように感じられた。それは、彼自身が今抱えている不安が作り出した錯覚かもしれない。
「何のこと?」
ユキの声は低く、淡々としていた。それがかえって、ハルの心をざわつかせる。
「おれ……さよならも言わないで、研究室から勝手に出て行っただろ。教授たちとお前が談笑してる最中だったのに」
「ああ、しばらくしてから気づいて、急いで追いかけた。嫌な予感がしたんだ」
「そっか……」
ハルは小さく俯き、記憶を辿る。
「まさか、タチバナがあんなことをするなんて……おれも、何がなんだか……」
声が震えているのが、自分でもわかった。
タチバナがなぜ自分を襲ったのか。
告白すらせず、突然暴力に走った理由。きっと、彼なりに抑えきれない思いがあったのだろう。だが、それを理由に他者を傷つける権利などない。
発情期では無いから、無闇にアルファに襲われることはないと油断していた。
性別に振り回され、他者をも巻き込んで事件を起こす。これがオメガとして生きる者の宿命なのだとしたら、生きるのが嫌になる。
「おれが油断してたんだ」
ハルの言葉は、半ば自己嫌悪の呟きだった。
「ハル……」
ユキは声を潜め、何かを言いかけた。
「ごめん、何でもない。それで、タチバナはどうなる?」
ハルは自責の念に飲まれそうになる心を奮い立たせ、話題を先に進めた。
ユキは一瞬表情を曇らせたが、ハルの意思を尊重し、静かに答える。
「詳しい話は、警察が二、三日の間に聞き出すことになる。そして――起訴か不起訴かを決めるのは、ハルだ」
「……おれが、タチバナを犯罪者にするかどうかを決めるのか?」
「そうだ」
ハルは言葉を失った。
自分の一存で、タチバナの人生を左右する……。
心の傷を考えれば起訴すべきだが、長年の知人だった彼の未来を壊すことへのためらいもある。そして、もしかしたら再犯の可能性も。何一つ簡単に割り切れない。
「上手く考えがまとまらない……」
ハルは両手で顔を覆い、小さく呟いた。
「まあ、そうだろうね」
ユキの声は穏やかだった。彼もまた、研究室でタチバナと会話を交わした相手だ。それだけに、ハルの葛藤を少しは理解してくれているのかもしれない。
ここで、ユキは少し視線を外し、窓の外に目を向けた。
そして低く、どこか抑え込むような声で呟いた。
「……やっぱり、俺があのとき噛み潰してやればよかったか」
その言葉は、静かでありながら鋭く、ハルの胸を刺した。
「お前、まさか本気で……?」
「いや、演技だよ。抑止のためのフェイクだ」
「そうは思えなかったけど……?」
ユキの唇が、ふっと嘲るように歪んだ。その笑みには内心の一部を隠すような冷たさと、ぞっとするような余韻があった。
気持ちを切り替えるように、ユキは大きくモフモフ尻尾を振ると、「まあ、とにかく、彼はもう大学には戻れないだろうね」と言った。
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