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①チコリッターは可愛い

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終電間際の渋谷駅前大広場。
こんな時間でも、この街は若者で賑わっている。酔っぱらいの大声や、植木を囲むレンガをベンチ代わりにしてスマホを弄る若者たちの姿が目に入る。
彼らは酒や服、スマホゲームにお金を溶かし、薄っぺらい「友達」と無意味に時間を浪費している。
若いってバカだなと思うけれど、今の僕も彼らと変わりない。
何故なら、僕はついさっき彼氏と喧嘩して、勢い任せに家を飛び出してきた所だったからだ。

喧嘩の理由は、こうだ。

僕は今夜、同棲している同性のカレシを、ベッドに誘うつもりだった。ここしばらくご無沙汰で、僕は欲求不満だったし、きっと向こうも同じ気持ちだろうと思っていた。
次の日はお互いに休みだし、久々に楽しい時間を過ごしてスッキリしようと思ったのだ。

しかし、彼が帰宅したのは二十二時。僕はその時、待つことに飽きて、ポテチを摘みながらソファでスマホを弄っていた。

疲れて帰ってきたカレシは、仕事がうまくいかなかったのか、残業続きで疲労が蓄積していたのか、とにかく虫の居所が悪いようだった。
背広と外したネクタイを、椅子の背もたれに投げるように引っ掛けたカレシは、ソファでだらけている僕を見て、益々イライラを募らせたようだった。

「大学から課題出てないのか? 勉強しなくていいのか?」 

怒りを押し殺したような低い声で小言を紡ぐ様子は、まるでお父さんのようだった。僕は、親に小言を言われるのが嫌で実家を飛び出してきたというのに、大好きなカレシにまでそんな態度を取られるなんて。

僕がムッとして黙っているのを見て、カレシは「単位、取れてるのか?そもそも学校にはちゃんと行ってるのか?」と、詰め寄ってきた。
単位をいくつか落としたのは事実だったから、正直にその事を話すと、彼は「ほら見たことか」という顔をした。
その瞬間、僕の中に湧き上がる怒りが抑えきれず、「ご心配なく、アナタに迷惑はかけませんから」と憎まれ口を叩いてしまった。まさに火に油だ。  

  「家賃払ってるのは俺なんだぞ」と鋭く返してきた彼は、僕のどんな言い訳も許さない、という顔をしていた。


カレシは天才肌で、TOEIC900点台、ストレートで大学に進み、大企業に新卒で入社し、オトナとして立派にやっている。

彼は、自分ができることは他人も同じようにできると思っている。そして、一定の基準に達ない者は努力が足りないのだと。自分は有能で、そうでない者は無能なのだと、言動の端々から自信を滲ませている。 

それに対して僕はというと、大学浪人してなんとか入学したチンチクリン。天才肌の彼とは違って、地道に予習・復習・反復するタイプだ。得意な教科は体育と道徳で、苦手な教科は理数系。

付き合った最初の頃は、僕に無い物を持っている彼に惹かれたし、それは向こうも同じだったと思う。

でも、暮らしている内に、少しずつ亀裂が生じた。
お互いの考え方や生き方が理解できず、すれ違いが増えてきていた。
こうやってどちらかがトリガーを引いてしまうと、火花が散るように激しく感情をぶつけ合うことが増えた。
このままじゃいけないと分かっていても、僕たちのどちらも、自分は悪くないと思っていたし、自分の考えを曲げるようなことはしなかった。

気に入らないことがあると、頭ごなしに捲し立てる癖のあるカレシから逃げて、こうして夜の街の隅っこに座り込んでいる。
むしろ、こうやって頭を冷やすための距離と時間を取る僕の方がオトナじゃないか、とすら思えてきた。

はあ…頭を冷やすためにここへ来たはずなのに、イライラが燻り続けている。
あと二時間くらいは時間を潰そうか?
それとも、友達の家に転がり込んで、彼が出社した後に…いや、ダメだ。明日は休みだから、きっとずっと家にいるだろう。となれば、しばらく家出でもしようか?二、三日僕が帰らなければ、あっちも反省するかもしれない。

ぐるぐると、結論の出ない思考を続けている。

向こうの方で、メガネオタサー軍団と、冴えないオタサーの姫(絶対マグロ)がアニソン談義をしているのが見えた。
ああいうやつらに限って、上手いことSEや研究員、公務員なんかに就職して、三〇代半ばで都市部近郊に戸建てマイホームを建てたりするのだ。早いとこ、人生失敗して欲しい。

その反対側では、どこかの大学のバンドサークル連中が下手くそな路上演奏をしている。そんなに目立ちたいのなら、仲間内でカラオケでも行けばいいのに。  

僕はこうやって脳内で嫌味を垂れ流しているクズだが、馬鹿では無いので、他人がカンに障る時は自分に問題がある時だと分かっている。

ふん、そうだよ、カレシの言う通り、どうせ僕は今年度いくつか単位を落とした無能だよ。
あんたの言う通り僕は「足りない」人間だ。アンタみたいに、大企業の最終面接で、直接社長から合格を貰えるような、完璧な人間じゃないんだ。
生まれた星が違う。背負っているものも、求められるものも、全然違う。うさぎと亀、月とスッポンくらい違う。そんなことは分かっている。

脳内を内観で忙しくしていた僕は、「おニィちゃん」と呼びかけられても、しばらく気づかなかった。心の中で渦巻く感情に夢中で、周りの音が全く耳に入っていなかったのだ。



「ちょっと、ニィちゃん」

 「…え?」  

ようやく気づいたのは、植木のレンガに座り込んだ僕の前に「影」が立ち塞がってからだった。 

 「なにしてんの? こんな時間に待ち合わせ?」 

 「え、いや…」  

本能的に、やばいなと思った。  
威圧的に僕を取り囲む三人の男たち。見るからに素行が悪そうで、絶対に関わりたくない層の輩だった。あの、小市民の僕に何か用ですか…?  できたらあっちに行って貰えると…

「ちょっと俺らと話そうよ」  

萎縮した僕の隣に腰掛けてきたのは、へんな柄のヤクザ風の柄シャツの男だった。ポケットに手を突っ込んだままの男の服はヤニ臭くて、おまけに不潔な臭いがした。
僕の前に立ち塞がった二人目の男は、タバコと安っぽい香水が混ざり合ったクレーターニキビ面。

三人目は、顔も見られなかったが、都会のど真ん中に居ながら、ドソキホーテで900円くらいで買えそうなペラペラの突っかけサンダルを履いていることだけは分かった。

急にチンピラに取り囲まれた僕は、言いようのない不安で縮こまった。

「おにいちゃん、この辺よく来るの?」  

「え…あ、たまたま…」

  「そーなんだ、俺らはよく来るよ。さっきもほら、ゲーセン行ってきた」と、ヤクザ柄シャツ服の男が言い、手にしたぬいぐるみを見せてくる。
まだタグがついたままの大きなぬいぐるみは、まさかの、僕が大好きなポケモニ・チコリッターだった。恐怖心で縮こまっていた僕は、馴染みのある丸いフォルムとつぶらな赤い瞳に思わず心が動き、一瞬、恐怖を忘れ、 「それ、可愛いね…」と、口をついて出てしまった。

「何?ポケモニ好きなンか?」と、ヤクザ服がチコリッターを僕に差し出してくる。僕は反射的にそれを受け取って、ふわふわモチモチの感触を楽しんだ。

チコリッターのきゅるんと上がった愛嬌のある口角と、うるうるのまあるい瞳が僕を見返してきて、思わずきゅんと胸が鳴る。
ぬいぐるみは大好きだ。でも、大学生の男の子の部屋にポケモニのぬいぐるみがあるなんてダサいと思って、全部実家に置いてきたんだ。実家の僕の部屋にはピカウチュもイーブーイもあるけれも、ふたりとも生地が固くて、抱き心地は良くない。
でも、このチコリッターはふわふわモチモチで、サイズ感もちょうど良いし、とても抱き心地が良い。

すっぱりと僕の腕におさまったかわいいチコリッターに癒されながら、無言でモフモフしていると、「あ、もしかしてポケモニをくれるために僕に話しかけたのかな?」と思ってしまった。  

それで、ついつい「どこのゲーセンで取ったんですか?」と会話を繋いでしまった。

「こっから看板は…見えねえな、向こうにでかいゲーセンがあんだよ。知らンの?」 

「知らないです…」  

「ピカウチュとかピトカゲもいたし。赤ちゃん恐竜ドゥーウリもあるぜ」 

ドゥーウリというのは、ずいぶん昔に放送された子供向けアニメのキャラクターだ。
愛嬌のあるあのおとぼけ顔が、ぽんと頭の中に浮かぶ。たしかに昔は好きだったけど、僕はもう大学生だし…と思いつつ、ぬいぐるみになったドゥーウリを想像してみた。うん、かわいい。  ほんの少しだけ、心が和らいだ。
でも、この状況はやっぱり不安を呼び起こす。  

「そうなんだ、面白そう」と言いつつも、どこか心に引っかかりを感じていた。周りにいる彼らのネットリとした視線がどうにも気になる。
このまま、この不安定な雰囲気が続くのかと思うと、胸が騒ついた。
チコリッターの柔らかさが、ほんの少しだけ、その不安を和らげてくれる気がした。

「あそこのクレーンゲームは結構アタリだよ」と言いながら、ヤクザ服の男が立ち上がり、残りの二人もそれについて行くそぶりを見せる。

僕はゲーセンに行くなんて一言も言ってないのに…!

でも、チコリッターを受け取ってしまった手前、じゃあこの辺で、と断ることもできなかった。
そして左右を怖いおにいさんにガードされてしまった僕は、足取りも重く、彼らに着いていくしかなかった。

 「ドゥーウリの歌思い出せねえ」とひとりが言い出すと、その言葉をきっかけに、人目を気にせず三人が懐かしの童謡をくそヘッタクソに歌い出した。  酔ってるんじゃないかと疑うほど下手くそで、耳障りだった。けれど、元々あの歌は子供がダミ声で歌うのを想定して作られた曲なので、音痴でもメロディは成立していた。彼らの無邪気さが逆に恐ろしい。
僕はチコリッターを抱えたまま、心の中で「早く帰りたい」と呟いた。
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