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36 準備万端な契約書

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 最近の594は俺に優しい。
 気がする。

「君は、本当にオムライスが好きなんですね」
「んっ! すゅき!」
「ケチャップがついていますよ」

 だんだん料理が上手くなりつつある594は、今日も今日とて427のためにオムライスを作って食べさせている。
 それと同じオムライスが、俺の目の前と官吏の目の前にも置かれている。

「二人は仲がいいんだな」

 にこやかに官吏が427のことを眺めている。
 なんだこの光景は。熱出たときに見る夢か?

 
「うん! 僕ゼノさんのこと大好きなの」
「そうかそうか」
「官吏さん、お味の方はいかがですか?」
「たまには流動食以外も悪くないな」
「ゼノさんかわいいでしょ!?」

 調子に乗った427がウキウキなのがあまりにも腹立たしい。
 俺も頷いて、傍らに立っている594の方を見た。


「上手くなったな」

 と、俺は594に言う。

「えっ?」
「お前の料理だ」

 最初はパリパリだったオムライスも、今ではふっくらしていて見るからに旨そうだ。
 
 
「あっ、え、えぇ……そうですか? 良かったです」

 594は照れながら嬉しそうに俯く。
 可愛い。

「こっち向け。お前にも食わせてやる」
「えっ、や、やめて下さ、」

 俺は594の口の中に、スプーンを押し込んだ。
 594は驚いたように目を見開いて、俺を見る。
 俺はすくっとスプーンを引っこ抜く。
 

「らぶらぶだねえ」
「ああ」
「っはぁ、はぁ」
「……」

 427も慣れてニヤニヤしており、官吏に至っては見向きもしない。
 しかし594は耳まで真っ赤になって俯いた。

 まさか口移しで食わせるよりもあーんの方が恥ずかしいとは思わなかった。
 二人きりで監禁していたときより恥ずかしそうなので、衆人環境というのがイイのかもしれない。


「……なっ、なに、するんですか……」

 なんか声も小さいし、これガチで照れてるのか。
 ……可愛い。
 
「もっと食べるか?」
「や、やめて下さいよ……教育に悪いですよ……」
「今更教育もクソもないだろうが」
「でっ、でもその……あっ、やっ、看守さ……」

 迫ると、おどおどしながら潤んだ目で媚びてくる。
 こういうのは好きじゃなかったが、594がやってくるならいいかもしれない。


 それにしても、こんなことをするイメージはあまりないが、何か原因でも?

 ……まさか、官吏のことを意識してるのか?

「……」
「なっ、なんですか……? 怖いんですけど……どうしたんですか、看守さん」
「……」
「……看守さん?」
「……」
「……あの」
「今日は何が食べたい?」
「……オムライスを食べます」
「良い子だ。座れ」
「……看守さんは、私に何も教えてくださらないから、きらいです」

 594は小さく呟き、口を開けた。

「お前に嫌われてることは、よく分かってる」
「……んっ」

 分かってる。
 俺のことが嫌で嫌で仕方なくて、殺してやりたいとすら思っている。

 ……そういえば、もし俺が看守を辞めたら、当然此奴を手放すことになるのだろうか。

 そうしたら594は、やはり処刑されるのだろうか。


「……だったら先に、俺が殺すか」

 殺してしまえば、もう二度と殺せないから殺さない。
 でもどうせ失うことになるのなら、その前に殺してやってもいいかもしれない。


 喉をくびるのは勿体ない。
 綺麗な断末魔を塞ぐから。

 首を落とすのもつまらない。
 最期の瞬間の表情を見られないから。

 炎で炙るのも気に入らない。
 こと切れる瞬間の彼女に触れられないから。
 

「え! やだよ! ゼノさんのこと死なせないで!」

 427は我儘を言って、594を背に庇うようにする。

「……死刑囚なんだから死ぬんだよ」

 他の奴に盗られるくらいなら俺が殺る。
 好きな人ほど殺したいんだ。俺は。


「そうですね」

 594は儚く微笑む。
 もっと醜く取り乱してほしかったのに。

「……お前は死にたくないんだろ」
「ええ、そうですね」
「じゃあもっと取り乱してみたらどうだ? それとも、ハッタリだと思ってんのか?」
「取り乱したら、助けて下さるんですか?」
「助けてやったから、今お前はここにいるんだろ」
「そういえば、そうでしたね……私は貴方に命を救って頂きました」

 醜く、みっともなく、泣き叫んで跪いて懇願した。
 だから俺は助けた。


「死にたくなったのか?」
「……いいえ、まさか」

 彼女はまた儚く微笑み、首を振った。
 その様がまるで死人のようで嫌だった。

「私は生きたいですよ。死を命じられる日まで、生きたいと思っています」
「それなら死刑には抵抗しないと?」
「……執行、するんですか?」
「質問に質問で返すな」
「……死ぬのは嫌ですよ。怖いじゃないですか」

 594は子供じみたことを言って、俺から目を逸らした。


「なら俺と結婚するか?」
「……結婚したら、私の死刑はなかったことになるとでも仰るんですか」
「そうだな。看守長だからな」
 
「……私は、七人も殺してるんですよ?」
「俺が可愛い部下を何人殺したと思ってる? 罪なんてお前が思ってるほど、絶対的なものじゃない」

「……貴方はそれを、何とも思わないんですか?」
「何が?」
「……いえ、すみません。ごめんなさい。愚問でした」

 594はひこりと頭を下げて、それからテーブルの上の皿を下げる。


「俺のせいにするな。嫌がってるのはお前だろ」
「……嫌がっているという、つもりでは……」

「はぁ? お前が俺のことが嫌いなんだろうが」

「ゼノさん、看守さまのこときらいなの?」
 
 427が不安そうに594を振り返る。



「……おいで、奥の部屋で読書でもしよう」

 官吏が珍しく気を利かせて、427に声をかけた。

「?」

 しかし珍しすぎたらしく、427が心の底から不思議がっている。

「君の身体について知りたいことがある。協力してくれ」
「分かりました!」

 なるほど。いつも通りが一番ってことらしい。

 

「……私は、看守さんを嫌っているつもりはありませんよ」
「じゃあ、何か気に入らないことでも?」
「そういうことでは……」

「じゃあなんだ? 宗教上の理由か?」
「……宗教上の理由がなくても、躊躇しますよ。七人もの子どもたちを手に掛けたのに、自分だけ幸せになるなんて……」

「じゃあ何だ? 死んだガキ共の弔いのために死ぬか?」
「……意地悪な人ですね」

「そんなに死にたいなら、殺してやろうか?」
「酷いことを言うんですね」
「俺はずっと酷いだろ」
「……そんなこと、ありませんよ」

 594はボソッと呟いて、何かを振り切るように、俺を見た。


「私、看守さんのこと、……その、好きですよ」

 と、594は言う。
 
「生まれて初めて言われたな」
「茶化さないで下さい」
「茶化してないが?」
「いつもそうやって……看守さんは、曖昧にして。私は……」
「何が言いたいのかハッキリしろ」

「……好きですよ。私。看守さんがいいと言うなら……結婚、したいです。お願い、します」

 594は上目遣いで俺を見てから、胸元で自分の拳を手のひらで包み、頭を下げた。


「……は?」
「……い、いいんですよ、取り消されても。私は……私はそうされても、当然の立場ですし……その、でも私、看守さんのことは、あの……好きです」

「生まれて初めて言われた」
「嘘をつかないで下さい」

 いや、嘘じゃない。
 好きな人に好きだと言われたのは、生まれて初めてだ。

「分かった。結婚しよう」


 俺は引き出しから書類を取り、別の引き出しからペンを持ってきた。

「書け」
「……はい?」

「書け、婚姻届だ」
「……婚姻……届?」

 594の視線が、俺の顔と書類を何度か往復する。

「気が変わる前に書け」
「……常備、してあるんですか?」
「ああ」
「ほぼ、記入済み、なんですけど……」
「そうだな」
「私は、今、恐怖を……感じています……」

 594は素直にドン引きしていたが、一応言われた通りにペンを取った。

「……管理番号ってなんですか?」
「594でいい」
「囚人番号なんですか?」
「獄中結婚専用の結婚届だからな」
「そんなものが存在するんですね……」
「多いからな」
「多いんですか? 獄中結婚が?」

「そうだな。相手が看守っていうのはレアかもしれないが。書いたか?」
「……はい」

 不備なし。俺は確認して、それを封筒に入れる。


「じゃあ提出してくる」
「えっ……今からですか?」
「善は急げって言うだろ」
「……看守さんって、リアリストなところがありますよね」
「俺の謹慎が解けたら、矯正長に恩赦を願い出る」

 俺はルームウェアを脱ぎ捨てながら言う。
 さすがにこの格好で役所に行く気は起きない。
 
「……準備が良すぎませんか?」
「そうか? 俺はやっと先に進んだと思ってるが」
「そう……ですね」

 594は、少し笑って、俯く。


「……私、看守さんのお名前を初めて知りました」
「そうだったか?」
「ええ。これからは……お名前でお呼びしましょうか?」
「いや」
「そう、ですか? 素敵なお名前だと思いますが」
「……呼ばれても分からないからな」
「分からない?」


 何度呼ばれても、呼んでも。
 覚えられない。認識できない。

 名前は数列のようなものだ。
 ある者にとっては何の意味もない数字だが、意味を与えれば特別なものになる。囚人番号のように。

 しかし俺は、その「意味」を理解できない。
 だからいつまでも数列はただの数列でしかなく、記憶も認識もできない。


「いいだろ別に。お前は嫌か?」
「私は看守さんに従いますよ」

 594はそう言って、儚く笑う。

 いつもみたいに、嫌悪感を剥き出しにしてくれていいのに。
 そんな風に哀しそうに笑わないで欲しい。殺したくなる。


「……看守さん」

 綺麗な目をしている。

「これから、よろしくお願いします」
「……ああ」

 そうだな、と俺は言って彼女を抱きしめ額にキスした。

「看守さん」
「なんだ?」
「旦那様と、お呼びした方が?」
「やめろ。そのままでいい」


 奪われないために最も確実な方法は、手に入れないことだ。

 そう誰かが言っていた。


 守れるものは限られている。
 何かを手に入れれば、何かを失わなければならない。

 別にいい。構わない。

 どうせ何も手に入れなくたって、奪われていくのだから。
 何を失おうと、構うものか。
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