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#3 試練

22 大陸の記憶

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 六十日目、早朝のこと。

 大陸に辿り着いた。
 航路が逸れてしまい予定より数日遅れたが、予想通りずっと快晴だった。

 辿り着いた場所も概ね計画通り。
 揺れる床に慣れ切った足裏が、固い地面に違和感を訴える。


 私はその場で荷物を全て鞄に入れ、入らないものは乗せたまま、船を沈めた。
 私の痕跡を残すわけにはいかない。

 二週間ほど旅路を共にした船の、バラバラになって海に沈んでいくのを眺めるのは、何だか不思議な気分だ。

「……すまない」

 無性に情が湧いた。ただの船なのに。

 以前ならこんなことはなかった。
 やはり私は、アインに出会ってから良くも悪くも随分変わった。


 そうやって私は自分が海からやって来たのだという痕跡を消し、髪を念入りにフードに入れて、さらに顔はスカーフで覆った。

 鏡で自分の姿を見て、ただの旅人にしか見えないことを確認する。


 港町の時計台で、久しぶりに時間というものを感じた。
 港町というだけあって、早朝にも関わらずまばらにではあったが人通りがあった。

 久しぶりに生きた人を見た、とまた思った。


 帰って来た、という感覚はあまりない。
 今や私にとって、故郷と言えるのはどちらかと言えばあの島なのだ。

 異国の地、という気持ちの方が大きい。
 それでも、生まれ育った聖都に帰れば、また違った感想を抱くのかもしれないが。


 人とすれ違うことすら、少し難しい。
 「おはよう」不意に話しかけられて、咄嗟に軽く会釈する。

 上手くできただろうか。
 怪しまれないようにしなければ。


 さて、何から始めようか。

 例の傭兵団はこのあたりを縄張りにしている。何から調べてみようか。
 そう思っていたら、街中の掲示板に自分の手配書が張られているのを見つけた。

 掲示板にまで張り出すとは、相当にジャックは本気らしい。


「……嫌われたものだな」

 私はひとまず街を外れ、人目を避けるために別荘に向かうことにした。

 そこは小高い丘の上にあり、しばらく山道を歩いた先にある。

 この別荘はルシファーがこの辺りを訪れる際に使用されるために建てられたらしい。
 しかしルシファーは聖都からほとんど離れられないので、使っているのは専らジャックやブロウ、そして私だった。


 私が幼い頃は、ジャックはたまに私をこの別荘に連れて来たものだ。
 例によっていい思い出はなく、ほとんど怯えてばかりだった。

 この別荘にはほとんど誰も近寄らない。
 別荘の手入れをしている、管理人たちだけだ。


 かつてはこの道も鬱陶しかったが、森の獣道に比べれば散歩にもならない。
 すっかり体が舗装されていない道に慣れている。

 そうして数分上っていくと、人の話し声が聞こえた、私は静かに道を逸れる。

 予想外だ。誰もいないはずだったのだが。


 木の陰に隠れ、ゆっくりと慎重に上っていくと話し声が徐々に大きくなってきた。

 誰だろうか、管理人か?
 それにしては騒がしい。

 敷地が見えてきて、私はようやく気が付いた。


「……なんだよ…………ああ、……」

 ブロウだった。ルシファーの息子、私の甥のブロウ。
 懐かしさに、思わず息が詰まった。 

 姿は見えない。ブロウのことは比較的大嫌いだったが、それでもこうして声を聞くと、元気で良かったと思えてくるから不思議なものだ。

「…………やめて……嫌です…………」

 もう一人聞こえる声がある。
 女の声だ。これは確か、そう、ブロウが恋人に従っていた人造人間。

 ああ、そうだ。実験体5924。
 記憶が鮮明になっていく。記憶は全て取り戻したはずだったが、そうでなかったことを今更思い出した。


 あれはそうだ。
 私が崖から身を投げた、それより十五年ほど前のことだっただろうか。

 私は元来、なんでもかんでも周到に準備をしないと気が済まない。
 ましてや、自分が死ぬというのに何も準備しないではいられなかった。

 私は自分で設立した研究所でブロウを引き取って働かせていたのだが、しかし私は消えることにした。
 私の後継者を作らなければならなかった。


 後継者を考えた時に、真っ先に思い浮かんだのはもちろんブロウだ。

 まあ当然の発想だろう。
 ブロウは私の甥で、ルシファーの息子。

 私にとって最悪の事態は、研究所がルシファーを害することだ。

 ルシファーに多大な恩があるブロウはその点適任だし、時間こそかかるだろうが、育ててやれば研究所を纏める程度のことはできるようになる。
 そのくらいの素質はある、はずだ。

 しかし如何せん彼にはどうにも精神的に不安定な部分が大きかった。
 重圧に耐えられないだろうし、そもそも奴にはあまりにも人を見る目がなかった。

 そして他者とのコミュニケーションを図るのが絶望的に下手で、人を扱わせることができない。

 だから私は考えた。

 相手が人である以上、ルシファーに逆らう可能性はゼロではない。そして私の後を継ぐには、それなりの能力が必要だ。
 しかしその能力がルシファーに牙を剥いたら。

 そして私は、人造人間の研究を本格化させた。

 この人間を造るという禁忌は、私にとってはさほど大きな意味を持たなかった。
 私の神はルシファーただ一人だからだ。ルシファーが否としない以上、何も怖くない。


 実験は繰り返された。
 生命を生み出すことはそれほど難しいことではない。真綿から糸を紡ぐだけの仕事だ。

 しかしその糸を操るのは、容易ではなかった。

 異形の化け物、理性を持たない鬼、善意を知らない妖精。
 何百、何千と実験体が生み出されては殺されていった。


 ようやくそれらがどうにはヒトの形を装い始めたのは、実験開始から八年も過ぎた頃だった。

 適度に意思を持ち、優秀で、絶対にルシファーに逆らわない。

 そんな都合のいい人間が必要だった。
 ただそれだけのために、さらに何千人もの実験体を生み出し、殺した。

 初めは理想の一人の人造人間を作ろうとしたのだが、上手くいかなかった。
 また、その後の健全な施設運営にあたり、もしもの時に容易に代替が用意できるという点でも複数人に業務を分散させる方が効率的だと考え直した。

 その頃から私は、全て自分一人で処理していた業務を分散させるための計画を練り始めた。
 それが実行に移されるのは、私が身を投げる一か月前のことだったが。

 実験体5924は、私が飛び降りた、その七年ほど前に生み出された。

 彼女は人事部で活動させることを目的に、人を多角的な視点で見て、総合的な評価を下すことができるように作ってある。

 第一印象や、衝撃的な何か一つの事物に囚われることなく、人物の能力を総合的に判断できるように。

 人事は、研究所を運営する上で非常に重要だ。
 特に私にとっては、ルシファーの反抗因子を締め出すという意味でも。

 だから彼女の開発には、力を入れていた。
 なるべくたくさんの人物に対するデータを記憶させたし、他の実験体に比べてしっかりした自由意思を持たせた。

 彼女は紛れもなく、普通の人間と同じような思考を手に入れた。


 しかしそれが裏目に出て、彼女は暴走してしまった。

 仕方なく処分を決定し、それをブロウに依頼したところ、あろうことか一目惚れした。
 なるべく相手の本質を見抜くため、客観的に魅力的でない外見に設定してあったのにも関わらず。

 ブロウの恋愛遍歴は悍ましく、ただの一度も穏やかに終わったことがない。
 運と性格と人を見る目がなさすぎる。

 だから実験体5924に惚れたとブロウがそう言ったとき、ジャックは猛反対し、ルシファーはやんわりと反対し、私は諦めて最悪の結果だけは回避しようと手を打った。


「そうだな。うん……それで……」
「……嫌です…………嫌……」

 私は二人の行く末を見守る前にこの世を去ることを決意してしまったので、結局上手く行ったのかどうかは分からなかった。

 ブロウが生きているということは、少なくとも最悪の結果だけは免れたということだろう。
 それだけで十分だ。

 漏れ聞こえる会話も途切れ途切れで何が起きているのかは分からないが、とにかく何かを嫌がられているらしい。

 私はそっと別荘から距離を取った。
 ここにいては、巡回の警備員か管理人にすぐに見つかってしまう。


「いやいっそ、ブロウに助けを求めて……」

 そう考えて、私は即座に自分を否定した。

 アレは嫌いな人間に対しても一応の義理は通す奴だから、私の意を汲むべく一定の努力はするだろうが、全ての言動がルシファーかジャックに筒抜けだ。

 嘘を吐くのも苦手だし、私が軍に指名手配されているとなれば、ジャックに引き渡されて終わりだろう。

 蛇蝎の如く私を憎んでいるジャックは、私の顔を見るなり八つ裂きを命じるに違いない。

 最悪私は死んでもいいが、アインが助からないのは困る。
 それに……


「……剣を、渡さなくては」

 安全を考えるとやはり、一人で行動するしかないだろう。

「……休むか」


 この辺りなら、誰も来ないだろう。
 私は、別荘から少し離れた場所に腰を下ろした。

 ひとまず、ここでひと眠りしよう。
 ずっと一人きりの航海で、まともに眠れなかったし。

 私は深くフードを被りなおして木陰に紛れ、鞄から残った干し肉を一つ出して唾液で湿らせながら噛む。

 本当に疲れていて、私はストンと眠りに落ちた。
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