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#2 スケッチブック

11 目が見えないから分からない

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 今までとは違って、俺の記憶は断片的に戻っていった。
 いつもは絵を描けば、それを皮切りに、まるで雪崩れ込むようにして情報が流れてきていたのに。

 だから、かなりの時間が経っても、俺は全ての記憶を取り戻せないままでいた。

 俺は新しい絵を描くことを止めた。
 最早俺は、アインさえ描いてしまえばそれでいいということを理解していた。

 俺は早くアインを描きたくて仕方がなかったが、次第に、全ての俺に関する記憶を取り戻してからにすべきだという風に意見を改めた。

 情報量は凄まじい。
 今までとは比べ物にならない。整理しなければならない。


「……なあ、アイン」
「何」
「……俺の名前、知りたい?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「いや……最初に出会ったとき以来、尋ねられなかったから、興味ないのかなと思って」

「今まで聞かなかったのは、聞いても無駄だから。知らないことを聞いても仕方ないでしょ? 今までのアンタなら、自分の名前が分かったら大喜びでアタシに報告しに走って来てたよ。アタシが尋ねるかどうかなんて、気にしないで」

「……そうかな」
「アンタは少し成長したみたいだね。いや、成長すべきだってことを思い出したのかな」


 アインは俺の変化を、特別喜ばしいとも、忌まわしいとも思っていないようだった。

 ただそれを事実として受け入れ、彼女は俺のために彼女のものとは別に、ベッドを作ってくれた。

 今までは一緒に眠るか、彼女が床で寝ていた。
 俺が重傷を負っていたので、その習慣で。


「それで、アンタは自分の名前が分かったの?」

 今までは、俺は彼女にべったりだった。
 それはまるで、彼女を母親として慕う子供のように。

 何をするにも彼女に同意を求め、極めて従順に、彼女の意見に従った。
 彼女から離れることに不安を覚え、側にいてくれることで安心感を覚えた。

 でも、今は違った。


「思い出した」
「へぇ、良かったね。それで、アタシはアンタをなんて呼べばいいの?」
「レヴィアタン」
「レヴィアタン?」
「レビィと呼ばれていた」

「ふぅん、レビィね。アタシもそう呼んでいい?」
「もちろん」

 そうしてほしいと俺が言うと、アインはふと俺を見て少し首を傾げた。
 その仕草は、ドキッとするほど魅力的だった。


「レビィ、これからよろしくね」
「……ああ、よろしくな、アイン」

 俺は努めて意識しないようにして、アインの差し出した手を握った。
 少しだけ温かくて、固い手の平を感じた。

「……何、どうしたの?」
「いや、その、別に、なんでもない。……その、今まで、ありがとうというか」
「今までありがとう?」

「そうだ、その……俺があんなに傷だらけだったのは、自業自得なのに、知らなかったとはいえ、治療してもらって、その上、介護までしてもらってしまって……非常に申し訳なかったと、そう感じて……ました……」

 アインの目は、そう思って見ると少し力強すぎる。
 気圧されるように俺は語尾を濁らせて俯いた。


「ふぅん。別にアタシは気にしてないけどね。アンタは死にたかったかもしれないけど、少なくともアタシの前にいたアンタは、生きたがってたから」

「……アインは人格者なんだな。俺はそんな風に思えない」
「アンタは、自分が死ぬべきだと思ってるの?」

「死ぬべきだとまでは思わない、けど。正直、助けられる価値はないかな、って。だって俺は自分から死を選んだんだ、それで苦しむのは自分の責任だろ」

 俺がそう言うと、アインは「ふぅん」といつものようにそう言った。

「アタシはそう思わない。アンタは自分から死を選んだつもりかもしれないけど、アンタは気が付かないうちに、『選ばされた』だけ。だってアンタは『あの方』のために死んだんでしょ」
「……そう、だと思う」

 それは何故か、曖昧だった。

 自分が死んだときのことはこんなにはっきりと思い出せるのに、肝心の理由が思い出せないなんて、少々おかしな話ではある。

 しかし、今の俺には、『あの方』の正体も、何故俺が死ぬことが『あの方』のためになるのかも、全く思い出せなかった。


「それに俺は、何故自分の命を捧げてまで忠誠を示そうとしたのか分からないんだ。俺はどちらかといえば、利己的な人間だろ。自己犠牲的な精神なんか持ち合わせてない」

「そう? アタシはそうは思わないけど」


 アインは銛突きや泳ぎが得意なくせに、俺より釣りが下手だ。俺に教えてくれたのに、自分は全然釣れていない。
 
俺の方が得意だから、釣りは俺が一人でやっている。


「俺が自己犠牲的に見えるのか?」
「見えるよ」
「どのあたりが?」
「アンタの性格」
「性格?」
「そう。アタシは直接アンタの性格が見えるから」
「……」

 直接見えると言われると、そうではない俺には何とも反論し難い。

 俺がいくらそうではないと言っても、「見える」というならそうなのだろう。


「……俺は、自己犠牲的なんだな」

 そう納得するしかない。
 アインは、そんなつまらない嘘なんかつかない。


「別に悪いことじゃないよ。そんなに落ち込まなくても」
「俺は、自分のことすら理解できないのに?」

「自分を理解するのは難しい。アンタは自分を理解してない、それを知ってるだけで十分」

 アインはそう言って、俺の頭を撫でた。
 やはり彼女は、少し俺を子供扱いしすぎている。


「……そうだな。俺はあまり、優秀じゃないから」

 俺が暗い声で言うと、アインはふふっと笑った。

「アンタは優秀だよ」
「そんなことない」
「今言ったでしょ、アンタは自分を、それほど知ってるわけじゃない」
「……俺は優秀?」

「そうだよ、優秀。ほら、また釣れた」
「……」

「アタシはアンタがいてくれて助かってるし、アンタがいることで楽しいと思ってる。アンタは時折自分の存在が嫌になるみたいだけど、アタシはそう思わない」

「……アインが本当にそう思ってるかどうかなんて、なんで分かるんだ? アインは自分のことについて、疑問を抱かないのか? 俺のことが本当は嫌いかもしれないって」

「そうだね。たまに思うよ。アンタがいない方が、アタシの生活はスムーズなんじゃないかって」

「……俺はいない方がいい?」

「でもそう思う度に、アタシは、アンタがいた方が楽しいって再確認する。何もかもが楽しくて、アンタがいない生活なんて考えられない」


「俺、そんなに面白いか?」
「面白いよ。可愛いし」
「可愛い?」
「うん」
「……かっこよくは、ない?」
「アンタが?」

 アインは少し笑って、首を傾げた。

「さあ、アタシは目が見えないから分かんない」
「揶揄うなよ!」

 悪戯っ気に言ったアインにそうやって抗議すると、彼女はふふっと小さく笑って俺の頭を撫でてくれた。


「冗談だよ。アンタはかっこいい。ほら、今度は大物じゃない?」
「……俺、漁師になろっかな」
「アンタってホント面白いよね」

 アインはそう言って、今日も海を眺めている。
 俺はそんな彼女を、横目で盗み見る。
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