上 下
6 / 35
#1 幼い子供

06 もう二度と戻れない

しおりを挟む
 僕の傷は、泉に通うようになってからますます癒えていった。

 大きな傷跡は所々残ってしまったけれど、概ね昔のように動ける。
 いや、昔がどうだったかなんて、全く覚えてないけど。

 僕はアインと一緒に行動するようになった。
 アインは、僕といるときは鹿を狩ったりしない。大抵彼女は海に行って、釣りをする。


「どうして狩りをしないの?」
「アンタがいるから」

「僕、アインの弓を見たいよ。すごく綺麗だもん。使ってるとこを見たい」


 アインはいつも、大きな弓を持ち歩いている。

 すごく丁寧に手入れして使っていて、別にそう言われたわけじゃないけれど、なんとなく僕はそれに触れることができない。

「別に、見せてあげるよ」
「獲物を仕留めるところを見たいの!」
「アンタみたいな小っちゃいのにはまだ早い」
「僕、もう大人だよ! だってほら、僕の体はこんなに大きいんだもん!」
「体だけでしょ」

 アインはそう言って、結局今日も釣りをする。
 彼女は岩場に腰掛けて、釣り糸を垂らす。
 海は苦手だ。僕はそろそろと彼女に近づく。

 打ち寄せる波の音は大きく、規則的なようでいて変則的で、まるで怒鳴る人の唾を飛ばすみたいな飛沫が体に当たると、次の瞬間には殴りつけられるんじゃないかって身がすくんでしまって、ちっとも心が休まらない。

 地平線はあまりにも平らで面白みがなく、それなのに水面は変にキラキラしている。

 真っ青に透き通っているのに底は薄暗く、信じて足を差し出せば、深くて心臓が揺さぶられる。

 海水は痛い。鞭のように。


「アンタもやってみる?」

 アインはそう言って、岩場に打ち寄せる波から隠れるようにしていた僕に竿を差し出した。
 僕は怖かったけれど、少し興味を引かれて彼女に寄っていく。


「釣りの方法は分かる?」
「やったことがあるかどうかは分からないけど、知ってる」

「アンタって物知りだよね」
「アインと一緒くらいだよ」
「自分のことは思い出せないのに、釣りの方法は分かるなんて、おかしい」

「知識と記憶は別のものなんだと思う。経験に基づく知識は経験と一緒に忘れちゃってるかもしれないけど、多分僕は、勉強が好きだったんじゃないかな」

「アンタは絵を描くのが好きなんでしょ」
「でも、あまり描かなかった……と思うんだ。僕、あんまり思い出せないけど」

「少しずつ記憶が戻ってるのかもね」
「うん、そうだと思う」

 僕はピクピクと不自然に振動する竿先に緊張を募らせながら、そう答えた。


 傷がほとんど完治してからというもの、僕の精神状態はかなり上向きになり、過度な不安を訴えたりすることはなくなった。
 アインと一緒に島を歩くと、多少の不安は消えてしまう。

 それに僕は、忘れてしまった本来の僕に代わる、現在の僕の人格、アイデンティティを獲得しつつあった。

 僕は僕だ。僕以外の何物でもない。僕はここにいる僕だ。

 それは間違いなく、アインが作ってくれた僕だった。

 アインを親のように慕う、年少者としての僕という自我。
 それによって、僕の心は安定することができた。

 しかしそれでも僕は、失くした記憶を探していた。
 その記憶は僕にとっての依代ではないけれど、それでも僕の源だから。


「ねえ、アイン」
「何?」
「僕の記憶って、どうやったら戻ると思う?」

「……何、アンタ、思い出したいの?」

 釣られた魚は、その場でびくびく呼吸をしながら、アインに絞められた。
 僕は生きたミミズを指で摘まんで針を飲ませ、また海に放った。


「うん、思い出したいな」
「どうして?」
「どうしてって……おかしい?」

「アタシはお勧めしない。失くしたものを探す必要なんてないでしょ。アンタは今、それが必要だってわけでもない。自分のルーツなんて知らない方がいいこともあるよ」

「でも、僕自身のことだよ。僕は知りたいんだ」
「どんな事実だったとしても?」

 僕はアインの方を向いた。アインは僕を見ていた。


「アンタは後悔すると思うよ」
「どうして? アインは僕のこと、知ってるの?」

「何も知らない。知らないからそう言ってる。知らないことなんて、知らないままの方がいい。一度知ったら、もう二度と知らなかった頃には戻れない。でもアンタは戻れた。幸運にも。自らその幸運を手放すことはないと、アタシはそう言ってるの」

「でも僕は知りたいよ。きっと僕にとって、大切な思い出だもん」

「大切なら失くしたりしない。アンタは手放すことを選んだ。アンタはそうしなきゃいけないほどに苦しんでた。……アタシはそう思う。アンタはそういう子だよ」

「例え僕がどんな人生を送ってたんだとしても、僕はその人生を知りたい。大丈夫だよアイン、アインのことは忘れたりしないもん」

「……そう。アンタがそう言うなら、アタシもアンタを助けるよ」
「嬉しい! ありがとうアイン!」
「アタシがいなきゃ何もできない子供のくせに、よく言うね」

 アインはそう言って、少し笑った。

「まあ、いいよ。子供のしたいことをさせてやるのが、ママの役目だから」
「あはは、アインはすっごくいいお母さんだね!」
「うん。アンタは、いい息子だと思うよ」

 僕はまた一匹、大きな魚を釣り上げた。
 アインは、「才能あるよね」って言って、喜んだ。

 僕には、魚が釣れたことよりも、アインが喜んでくれたことの方が嬉しかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

命を狙われたお飾り妃の最後の願い

幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】 重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。 イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。 短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。 『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

幼妻は、白い結婚を解消して国王陛下に溺愛される。

秋月乃衣
恋愛
旧題:幼妻の白い結婚 13歳のエリーゼは、侯爵家嫡男のアランの元へ嫁ぐが、幼いエリーゼに夫は見向きもせずに初夜すら愛人と過ごす。 歩み寄りは一切なく月日が流れ、夫婦仲は冷え切ったまま、相変わらず夫は愛人に夢中だった。 そしてエリーゼは大人へと成長していく。 ※近いうちに婚約期間の様子や、結婚後の事も書く予定です。 小説家になろう様にも掲載しています。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

夫が「愛していると言ってくれ」とうるさいのですが、残念ながら結婚した記憶がございません

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
【完結しました】 王立騎士団団長を務めるランスロットと事務官であるシャーリーの結婚式。 しかしその結婚式で、ランスロットに恨みを持つ賊が襲い掛かり、彼を庇ったシャーリーは階段から落ちて気を失ってしまった。 「君は俺と結婚したんだ」 「『愛している』と、言ってくれないだろうか……」 目を覚ましたシャーリーには、目の前の男と結婚した記憶が無かった。 どうやら、今から二年前までの記憶を失ってしまったらしい――。

溺愛される妻が記憶喪失になるとこうなる

田尾風香
恋愛
***2022/6/21、書き換えました。 お茶会で紅茶を飲んだ途端に頭に痛みを感じて倒れて、次に目を覚ましたら、目の前にイケメンがいました。 「あの、どちら様でしょうか?」 「俺と君は小さい頃からずっと一緒で、幼い頃からの婚約者で、例え死んでも一緒にいようと誓い合って……!」 「旦那様、奥様に記憶がないのをいいことに、嘘を教えませんように」 溺愛される妻は、果たして記憶を取り戻すことができるのか。 ギャグを書いたことはありませんが、ギャグっぽいお話しです。会話が多め。R18ではありませんが、行為後の話がありますので、ご注意下さい。

愛する義兄に憎まれています

ミカン♬
恋愛
自分と婚約予定の義兄が子爵令嬢の恋人を両親に紹介すると聞いたフィーナは、悲しくて辛くて、やがて心は闇に染まっていった。 義兄はフィーナと結婚して侯爵家を継ぐはずだった、なのにフィーナも両親も裏切って真実の愛を貫くと言う。 許せない!そんなフィーナがとった行動は愛する義兄に憎まれるものだった。 2023/12/27 ミモザと義兄の閑話を投稿しました。 ふわっと設定でサクっと終わります。 他サイトにも投稿。

王太子殿下が好きすぎてつきまとっていたら嫌われてしまったようなので、聖女もいることだし悪役令嬢の私は退散することにしました。

みゅー
恋愛
 王太子殿下が好きすぎるキャロライン。好きだけど嫌われたくはない。そんな彼女の日課は、王太子殿下を見つめること。  いつも王太子殿下の行く先々に出没して王太子殿下を見つめていたが、ついにそんな生活が終わるときが来る。  聖女が現れたのだ。そして、さらにショックなことに、自分が乙女ゲームの世界に転生していてそこで悪役令嬢だったことを思い出す。  王太子殿下に嫌われたくはないキャロラインは、王太子殿下の前から姿を消すことにした。そんなお話です。  ちょっと切ないお話です。

前略、旦那様……幼馴染と幸せにお過ごし下さい【完結】

迷い人
恋愛
私、シア・エムリスは英知の塔で知識を蓄えた、賢者。 ある日、賢者の天敵に襲われたところを、人獣族のランディに救われ一目惚れ。 自らの有能さを盾に婚姻をしたのだけど……夫であるはずのランディは、私よりも幼馴染が大切らしい。 「だから、王様!! この婚姻無効にしてください!!」 「My天使の願いなら仕方ないなぁ~(*´ω`*)」  ※表現には実際と違う場合があります。  そうして、私は婚姻が完全に成立する前に、離婚を成立させたのだったのだけど……。  私を可愛がる国王夫婦は、私を妻に迎えた者に国を譲ると言い出すのだった。  ※AIイラスト、キャラ紹介、裏設定を『作品のオマケ』で掲載しています。  ※私の我儘で、イチャイチャどまりのR18→R15への変更になりました。 ごめんなさい。

処理中です...