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#1 幼い子供
06 もう二度と戻れない
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僕の傷は、泉に通うようになってからますます癒えていった。
大きな傷跡は所々残ってしまったけれど、概ね昔のように動ける。
いや、昔がどうだったかなんて、全く覚えてないけど。
僕はアインと一緒に行動するようになった。
アインは、僕といるときは鹿を狩ったりしない。大抵彼女は海に行って、釣りをする。
「どうして狩りをしないの?」
「アンタがいるから」
「僕、アインの弓を見たいよ。すごく綺麗だもん。使ってるとこを見たい」
アインはいつも、大きな弓を持ち歩いている。
すごく丁寧に手入れして使っていて、別にそう言われたわけじゃないけれど、なんとなく僕はそれに触れることができない。
「別に、見せてあげるよ」
「獲物を仕留めるところを見たいの!」
「アンタみたいな小っちゃいのにはまだ早い」
「僕、もう大人だよ! だってほら、僕の体はこんなに大きいんだもん!」
「体だけでしょ」
アインはそう言って、結局今日も釣りをする。
彼女は岩場に腰掛けて、釣り糸を垂らす。
海は苦手だ。僕はそろそろと彼女に近づく。
打ち寄せる波の音は大きく、規則的なようでいて変則的で、まるで怒鳴る人の唾を飛ばすみたいな飛沫が体に当たると、次の瞬間には殴りつけられるんじゃないかって身がすくんでしまって、ちっとも心が休まらない。
地平線はあまりにも平らで面白みがなく、それなのに水面は変にキラキラしている。
真っ青に透き通っているのに底は薄暗く、信じて足を差し出せば、深くて心臓が揺さぶられる。
海水は痛い。鞭のように。
「アンタもやってみる?」
アインはそう言って、岩場に打ち寄せる波から隠れるようにしていた僕に竿を差し出した。
僕は怖かったけれど、少し興味を引かれて彼女に寄っていく。
「釣りの方法は分かる?」
「やったことがあるかどうかは分からないけど、知ってる」
「アンタって物知りだよね」
「アインと一緒くらいだよ」
「自分のことは思い出せないのに、釣りの方法は分かるなんて、おかしい」
「知識と記憶は別のものなんだと思う。経験に基づく知識は経験と一緒に忘れちゃってるかもしれないけど、多分僕は、勉強が好きだったんじゃないかな」
「アンタは絵を描くのが好きなんでしょ」
「でも、あまり描かなかった……と思うんだ。僕、あんまり思い出せないけど」
「少しずつ記憶が戻ってるのかもね」
「うん、そうだと思う」
僕はピクピクと不自然に振動する竿先に緊張を募らせながら、そう答えた。
傷がほとんど完治してからというもの、僕の精神状態はかなり上向きになり、過度な不安を訴えたりすることはなくなった。
アインと一緒に島を歩くと、多少の不安は消えてしまう。
それに僕は、忘れてしまった本来の僕に代わる、現在の僕の人格、アイデンティティを獲得しつつあった。
僕は僕だ。僕以外の何物でもない。僕はここにいる僕だ。
それは間違いなく、アインが作ってくれた僕だった。
アインを親のように慕う、年少者としての僕という自我。
それによって、僕の心は安定することができた。
しかしそれでも僕は、失くした記憶を探していた。
その記憶は僕にとっての依代ではないけれど、それでも僕の源だから。
「ねえ、アイン」
「何?」
「僕の記憶って、どうやったら戻ると思う?」
「……何、アンタ、思い出したいの?」
釣られた魚は、その場でびくびく呼吸をしながら、アインに絞められた。
僕は生きたミミズを指で摘まんで針を飲ませ、また海に放った。
「うん、思い出したいな」
「どうして?」
「どうしてって……おかしい?」
「アタシはお勧めしない。失くしたものを探す必要なんてないでしょ。アンタは今、それが必要だってわけでもない。自分のルーツなんて知らない方がいいこともあるよ」
「でも、僕自身のことだよ。僕は知りたいんだ」
「どんな事実だったとしても?」
僕はアインの方を向いた。アインは僕を見ていた。
「アンタは後悔すると思うよ」
「どうして? アインは僕のこと、知ってるの?」
「何も知らない。知らないからそう言ってる。知らないことなんて、知らないままの方がいい。一度知ったら、もう二度と知らなかった頃には戻れない。でもアンタは戻れた。幸運にも。自らその幸運を手放すことはないと、アタシはそう言ってるの」
「でも僕は知りたいよ。きっと僕にとって、大切な思い出だもん」
「大切なら失くしたりしない。アンタは手放すことを選んだ。アンタはそうしなきゃいけないほどに苦しんでた。……アタシはそう思う。アンタはそういう子だよ」
「例え僕がどんな人生を送ってたんだとしても、僕はその人生を知りたい。大丈夫だよアイン、アインのことは忘れたりしないもん」
「……そう。アンタがそう言うなら、アタシもアンタを助けるよ」
「嬉しい! ありがとうアイン!」
「アタシがいなきゃ何もできない子供のくせに、よく言うね」
アインはそう言って、少し笑った。
「まあ、いいよ。子供のしたいことをさせてやるのが、ママの役目だから」
「あはは、アインはすっごくいいお母さんだね!」
「うん。アンタは、いい息子だと思うよ」
僕はまた一匹、大きな魚を釣り上げた。
アインは、「才能あるよね」って言って、喜んだ。
僕には、魚が釣れたことよりも、アインが喜んでくれたことの方が嬉しかった。
大きな傷跡は所々残ってしまったけれど、概ね昔のように動ける。
いや、昔がどうだったかなんて、全く覚えてないけど。
僕はアインと一緒に行動するようになった。
アインは、僕といるときは鹿を狩ったりしない。大抵彼女は海に行って、釣りをする。
「どうして狩りをしないの?」
「アンタがいるから」
「僕、アインの弓を見たいよ。すごく綺麗だもん。使ってるとこを見たい」
アインはいつも、大きな弓を持ち歩いている。
すごく丁寧に手入れして使っていて、別にそう言われたわけじゃないけれど、なんとなく僕はそれに触れることができない。
「別に、見せてあげるよ」
「獲物を仕留めるところを見たいの!」
「アンタみたいな小っちゃいのにはまだ早い」
「僕、もう大人だよ! だってほら、僕の体はこんなに大きいんだもん!」
「体だけでしょ」
アインはそう言って、結局今日も釣りをする。
彼女は岩場に腰掛けて、釣り糸を垂らす。
海は苦手だ。僕はそろそろと彼女に近づく。
打ち寄せる波の音は大きく、規則的なようでいて変則的で、まるで怒鳴る人の唾を飛ばすみたいな飛沫が体に当たると、次の瞬間には殴りつけられるんじゃないかって身がすくんでしまって、ちっとも心が休まらない。
地平線はあまりにも平らで面白みがなく、それなのに水面は変にキラキラしている。
真っ青に透き通っているのに底は薄暗く、信じて足を差し出せば、深くて心臓が揺さぶられる。
海水は痛い。鞭のように。
「アンタもやってみる?」
アインはそう言って、岩場に打ち寄せる波から隠れるようにしていた僕に竿を差し出した。
僕は怖かったけれど、少し興味を引かれて彼女に寄っていく。
「釣りの方法は分かる?」
「やったことがあるかどうかは分からないけど、知ってる」
「アンタって物知りだよね」
「アインと一緒くらいだよ」
「自分のことは思い出せないのに、釣りの方法は分かるなんて、おかしい」
「知識と記憶は別のものなんだと思う。経験に基づく知識は経験と一緒に忘れちゃってるかもしれないけど、多分僕は、勉強が好きだったんじゃないかな」
「アンタは絵を描くのが好きなんでしょ」
「でも、あまり描かなかった……と思うんだ。僕、あんまり思い出せないけど」
「少しずつ記憶が戻ってるのかもね」
「うん、そうだと思う」
僕はピクピクと不自然に振動する竿先に緊張を募らせながら、そう答えた。
傷がほとんど完治してからというもの、僕の精神状態はかなり上向きになり、過度な不安を訴えたりすることはなくなった。
アインと一緒に島を歩くと、多少の不安は消えてしまう。
それに僕は、忘れてしまった本来の僕に代わる、現在の僕の人格、アイデンティティを獲得しつつあった。
僕は僕だ。僕以外の何物でもない。僕はここにいる僕だ。
それは間違いなく、アインが作ってくれた僕だった。
アインを親のように慕う、年少者としての僕という自我。
それによって、僕の心は安定することができた。
しかしそれでも僕は、失くした記憶を探していた。
その記憶は僕にとっての依代ではないけれど、それでも僕の源だから。
「ねえ、アイン」
「何?」
「僕の記憶って、どうやったら戻ると思う?」
「……何、アンタ、思い出したいの?」
釣られた魚は、その場でびくびく呼吸をしながら、アインに絞められた。
僕は生きたミミズを指で摘まんで針を飲ませ、また海に放った。
「うん、思い出したいな」
「どうして?」
「どうしてって……おかしい?」
「アタシはお勧めしない。失くしたものを探す必要なんてないでしょ。アンタは今、それが必要だってわけでもない。自分のルーツなんて知らない方がいいこともあるよ」
「でも、僕自身のことだよ。僕は知りたいんだ」
「どんな事実だったとしても?」
僕はアインの方を向いた。アインは僕を見ていた。
「アンタは後悔すると思うよ」
「どうして? アインは僕のこと、知ってるの?」
「何も知らない。知らないからそう言ってる。知らないことなんて、知らないままの方がいい。一度知ったら、もう二度と知らなかった頃には戻れない。でもアンタは戻れた。幸運にも。自らその幸運を手放すことはないと、アタシはそう言ってるの」
「でも僕は知りたいよ。きっと僕にとって、大切な思い出だもん」
「大切なら失くしたりしない。アンタは手放すことを選んだ。アンタはそうしなきゃいけないほどに苦しんでた。……アタシはそう思う。アンタはそういう子だよ」
「例え僕がどんな人生を送ってたんだとしても、僕はその人生を知りたい。大丈夫だよアイン、アインのことは忘れたりしないもん」
「……そう。アンタがそう言うなら、アタシもアンタを助けるよ」
「嬉しい! ありがとうアイン!」
「アタシがいなきゃ何もできない子供のくせに、よく言うね」
アインはそう言って、少し笑った。
「まあ、いいよ。子供のしたいことをさせてやるのが、ママの役目だから」
「あはは、アインはすっごくいいお母さんだね!」
「うん。アンタは、いい息子だと思うよ」
僕はまた一匹、大きな魚を釣り上げた。
アインは、「才能あるよね」って言って、喜んだ。
僕には、魚が釣れたことよりも、アインが喜んでくれたことの方が嬉しかった。
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