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#1 幼い子供

01 知らない、分からない

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 聞いたことのないような音と、嗅いだことのない香りがした。
 僕は半身を起こそうとして、それを止められた。

「動くな。傷が開く」

 うっすらと目を開けると、視界の端に暗い茶髪が見えた。 

 恐らく狩人だろう。声は低く淡々としていて、しかも顔の半分をスカーフで覆っていたので、男か女かすら分からない。

「よく生きてたよね」
「……ここは、どこ?」

 体を起こすには早すぎた。狩人は僕から手を離したはずなのに、全身に力が入らない。
 寝起きだからだろうか。随分長い間、眠っていたようだ。

 僕は仕方なく不自由な首を精一杯捻って、狩人の方を向く。

「先に名乗れ。それが礼儀」
「……」

 尋ねられて、初めて気が付いた。
 僕は何者なのか、僕は知らない。

「……思い、出せないんだ」
「ふぅん」

 狩人は興味なさそうにそう言って、鼻を鳴らした。
 僕はもう一度体を起こそうとして、無理矢理体を捻る。
 激痛に息が止まった。

「な、っ、な、なんで、僕、傷っ、」

 息を吐いて、僕は慌てて自分の体を見る。全身が包帯だらけで、所々血が滲んでいた。

「ね、ねえ、あなたが、僕を傷つけたの?」
「……」

 狩人は何も言わず、こちらに歩いて来る。
 僕は半ば無意識に狩人から離れようと不自由な体を捩らせたが、狩人はただ僕の顔を覗き込んだだけだった。

「アタシはアンタを助けただけ」
「……ごめんなさい」

 狩人は無表情だったが、僅かに眉を顰めるだけでその感情を表した。 

 どうやら、この狩人は僕を救ってくれたということらしい。
 狩人を信じるなら、だけど。

「つまらないことを喋る口があるなら、名前くらい言ってみてよ」
「本当に何も、思い出せないんだ。僕が何故こんな傷を負ったのか、知らないの?」

 狩人は目を細めて僕を見て、それからまたふぅんと言った。

「アタシはアイン。アンタは海で倒れてた。傷を負った理由は知らない」

 ぶっきらぼうな話し方だった。

 アイン。
 どうやら女の人みたいだ、と僕は思う。

「あの、アイン、さん」
「何?」
「……僕が誰か、知ってる?」
「知ってたら、わざわざ尋ねると思う?」

 アインは淡々と言った。

「僕はその、助けてくれたから、てっきりアインさんの知り合いの子なのかと……」
「半死半生の男が、海を漂ってた。だから助けた。それだけ」

 アインは、やはりぶっきらぼうに言う。
 僕に興味がないのか、それか、怒ってるのか。

 感情がよく分からない。

「……僕が、何かの役に立つの?」
「アンタって、本当に疑り深いんだね。まあ、そんな状態じゃ無理もないけど」
「そんな状態?」

 僕の体の傷のことを言っているのだろうか?
 むしろ傷だらけなんだから、「誰のことでも信じたくなる」っていうなら分かるけど。

 尋ね返すと、彼女は「本当に何も分からないんだね」と言った。


「アンタって、酷い人間不信でしょ」
「僕は人間不信なの?」
「アタシにはそう見えるよ」

 アインは、僕の何かを知っているようだった。
 僕は不安に駆られて、苦しくなった。

「……どうして、僕はここにいるの? どうしてこんな傷を負ったの? どうして、僕を知ってるの? 僕の何を知ってるの?」

 息が苦しかった。
 ドクドクと心臓が動いているのを感じたけど、それがなんか、正しくないみたいな風に感じる。


「アタシはアンタを知らない。でもここに鏡がない以上、アンタよりアタシの方がアンタを見るのに都合がいい。それだけの話」

「……」

 極めて冷静な彼女に、僕は何も言えなくなる。
 ただ息が苦しく、不安だった。

 自分が何者か分からず、そしてこの場所がどこかのかも分からない。縋るものが何もない苦しさ、僕は目を閉じた。


「……」

 体が痛い。体中が痛い。
 ここはどこで、僕は誰なんだ。


「ほら」

 促されて目を開けると、アインは、僕に何かを匙に乗せて差し出していた。

「飲んで。アンタはちょっと、考えるのをやめた方がいい」
「だけど、思い出さなくちゃ……」

「別に思い出さなくていい。失ったものを追いかけても、どうせ何も得られない。立ち止まって深呼吸すれば、少なくともこれ以上失わなくて済む」
「……立ち止まって?」

「まずは傷を治すこと。記憶はそれから。まあ、もしアンタの体が薬草を受け付けないっていうなら、今すぐに思い出した方がいいけどね」

 アインはそう言って、何か椀のようなものを手にした。

「元気なら、自分で飲んでくれる?」
「……何、それ?」
「薬」

 アインは椀を傾け、中の液体を僕に見せる。僕は首を振った。

「いらない」
「麻酔も入ってる。飲まないならもっと痛いよ」
「……いらない」
「アンタが眠ってる間にも飲ませた。害がないのは分かるでしょ?」
「いらない! 僕は考えなきゃいけないんだ!」

 それでも僕が拒否すると、アインは静かに首を振った。

「それならいいよ、好きにすれば。別に、アタシは困らない。でも耐えられなくなる前に、早めに飲んだ方がいいと思うよ。もう一度効くまで、半日かかるから」

 アインはそう言って、ベッドから離れて胡坐をかいて座った。

「何かあったら呼んで」

 そう言って、彼女はそのまま壁に体を預けて首を垂れた。
 僕は仰向けになって、目を閉じた。


 考えなければならなかった。
 とにかく、考えなきゃいけないことが、本当にたくさんあった。

 けど僕は、結局、知らないうちに眠ってしまった。
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