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#4 湖
35 着席、珈琲を啜る
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「今日も今日とて先輩は役立たずですねえ、全くもって嘆かわしい。本当に先輩は何ができるんですか? 何もできないじゃありませんか」
「……」
一日中罵倒されていたらしいブロウは、帰って来るなりベッドに倒れ込んでぐったりと動かなくなった。
「ブロウ、大丈夫ですか」
「大丈夫……今日は疲れたから、寝るよ」
「……はい、おやすなさい」
彼はそのまま気を失うようにして目を閉じる。
私は仕事着を着たまま眠ってしまった彼のベルトを外し、胸元のボタンを外した。
彼は苦しそうに滝のような汗を流しており、顔色は蒼白で、息は浅く肩で息をしている。
「ええ、そうですとも先輩。良い夢を」
クロさんは笑っていて、私は彼女を一瞥しそれからすぐに目を逸らす。
彼女は彼から視線を外し私を見て笑みを深めた。
「お姫様は邪悪な悪魔にお怒りですか?」
「貴女は悪魔なんですか?」
私は冷静に尋ねた。
「悪魔とは何ですか? 概念ですか、それとも何らかの実在するものですか? それとも悪魔が、『私は悪魔です』と自己紹介をすると思いますかお姫様」
「貴女は悪魔なんですか?」
私は静かに繰り返す。
すると彼女はやや笑みを浅くして、囁くように答えた。
「その姿を借りることはありますよ、それになぞらえられることもあります。ですがそれは、お姫様も同じじゃありませんか? お姫様だって、得体の知れないという点では、十分すぎるほど『悪魔』ですよ」
彼女は笑いながら優雅にソファの上に腰掛けた。
ぼすんと音を立ててソファが軋むのに、その足はテーブルを貫通している。
「彼をこれ以上追い詰めないで下さいませんか」
「追い詰めるとは?」
「彼に罵声を浴びせて責めるのをやめてください。彼はとても苦しんでいるんです」
「おかしなことをおっしゃいますねえ、お姫様は」
クロさんは首を傾げてニヤニヤ笑った。
「私めは、王子様の幻覚ですよ。王子様ご自身ならともかく、お姫様まで幻覚に向かってあれこれ指図するなんておかしなことだと思われませんか? 影の形を変えたいのなら、影を踏むのではなく光を覆うのが正しいやり方です。それともお姫様は、王子様の影響を受けておられるんですか? 影響を受けて、受けてしまわれて、気でも狂って?」
私は彼女の前にコーヒーを置いた。
彼女は私から視線を外し、そのコーヒーカップを見た。カップは黒い磁器製で、銀の刺繍みたいな紋がプリントされている。
「私は正気ですよ」
そう答えると、彼女は「参りましたよ」と笑った。
「お姫様は実にお強くていらっしゃる。信念に迷いがなく、自らを正面から見つめていらっしゃるんですねえ」
「貴女は、私のことは褒めて下さるんですね」
「先輩の幻覚なんですから、恋人に優しくするのは当たり前じゃありませんか?」
彼女はコーヒーに手をつけず、揺れない水面を見つめている。
「お気に召しませんか?」
「幻覚が飲み物を飲むとお思いですか」
「ええ、まあ」
「お姫様は変わった方ですねぇ。私めの言えたことではないのかもしれませんが」
そう言って、クロさんは結局そのカップの取っ手を掴んで口をつける。
離すのを待って、私は彼女に尋ねた。
「貴女は何故、彼を責めるんですか」
「何故? それは先輩に聞いてください、私は先輩の妄想なんですから」
「妄想だというなら、彼を責めることはないのではありませんか?」
「妄想だから責めるんですよ、まあ私めは幻覚ですので関係ないんですけれど」
彼女はそう言って、カップを置いた。
口をつけたのに、コーヒーが減っている様子はない。
瞬きすれば、もう気配は消えていた。
「……」
一日中罵倒されていたらしいブロウは、帰って来るなりベッドに倒れ込んでぐったりと動かなくなった。
「ブロウ、大丈夫ですか」
「大丈夫……今日は疲れたから、寝るよ」
「……はい、おやすなさい」
彼はそのまま気を失うようにして目を閉じる。
私は仕事着を着たまま眠ってしまった彼のベルトを外し、胸元のボタンを外した。
彼は苦しそうに滝のような汗を流しており、顔色は蒼白で、息は浅く肩で息をしている。
「ええ、そうですとも先輩。良い夢を」
クロさんは笑っていて、私は彼女を一瞥しそれからすぐに目を逸らす。
彼女は彼から視線を外し私を見て笑みを深めた。
「お姫様は邪悪な悪魔にお怒りですか?」
「貴女は悪魔なんですか?」
私は冷静に尋ねた。
「悪魔とは何ですか? 概念ですか、それとも何らかの実在するものですか? それとも悪魔が、『私は悪魔です』と自己紹介をすると思いますかお姫様」
「貴女は悪魔なんですか?」
私は静かに繰り返す。
すると彼女はやや笑みを浅くして、囁くように答えた。
「その姿を借りることはありますよ、それになぞらえられることもあります。ですがそれは、お姫様も同じじゃありませんか? お姫様だって、得体の知れないという点では、十分すぎるほど『悪魔』ですよ」
彼女は笑いながら優雅にソファの上に腰掛けた。
ぼすんと音を立ててソファが軋むのに、その足はテーブルを貫通している。
「彼をこれ以上追い詰めないで下さいませんか」
「追い詰めるとは?」
「彼に罵声を浴びせて責めるのをやめてください。彼はとても苦しんでいるんです」
「おかしなことをおっしゃいますねえ、お姫様は」
クロさんは首を傾げてニヤニヤ笑った。
「私めは、王子様の幻覚ですよ。王子様ご自身ならともかく、お姫様まで幻覚に向かってあれこれ指図するなんておかしなことだと思われませんか? 影の形を変えたいのなら、影を踏むのではなく光を覆うのが正しいやり方です。それともお姫様は、王子様の影響を受けておられるんですか? 影響を受けて、受けてしまわれて、気でも狂って?」
私は彼女の前にコーヒーを置いた。
彼女は私から視線を外し、そのコーヒーカップを見た。カップは黒い磁器製で、銀の刺繍みたいな紋がプリントされている。
「私は正気ですよ」
そう答えると、彼女は「参りましたよ」と笑った。
「お姫様は実にお強くていらっしゃる。信念に迷いがなく、自らを正面から見つめていらっしゃるんですねえ」
「貴女は、私のことは褒めて下さるんですね」
「先輩の幻覚なんですから、恋人に優しくするのは当たり前じゃありませんか?」
彼女はコーヒーに手をつけず、揺れない水面を見つめている。
「お気に召しませんか?」
「幻覚が飲み物を飲むとお思いですか」
「ええ、まあ」
「お姫様は変わった方ですねぇ。私めの言えたことではないのかもしれませんが」
そう言って、クロさんは結局そのカップの取っ手を掴んで口をつける。
離すのを待って、私は彼女に尋ねた。
「貴女は何故、彼を責めるんですか」
「何故? それは先輩に聞いてください、私は先輩の妄想なんですから」
「妄想だというなら、彼を責めることはないのではありませんか?」
「妄想だから責めるんですよ、まあ私めは幻覚ですので関係ないんですけれど」
彼女はそう言って、カップを置いた。
口をつけたのに、コーヒーが減っている様子はない。
瞬きすれば、もう気配は消えていた。
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