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#2 部屋の中
26 既に霧は海になった
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目覚めたのは病院だった。
一時期、決して短くない入院生活をしていたのもあって、実家に帰ったかのような安心感を覚えた。
「ん?」
いやでも、俺は昨日薬も飲まずにすやすやと安らかに眠りについたはずだ。
病院に担ぎ込まれる覚えはない。
俺の部屋が模様替えされたんだろうか。
「……あ、起きたんですね」
聞き慣れた声が聞こえて、俺は体を起こす。
そこにはブライドがちょこんと座っていた。
やはり俺の部屋が模様替えされたらしい。俺は理解した。
「おはようブライド、今日は早いんだな。眠くないか?」
「もう正午ですよ」
ブライドは憮然とした表情でそう言った。
「え?」
「朝になって昼になって、夜になって、次の朝になっても起きないので私がお医者様をお呼びしたんです。そうしたら、こうして入院ということに」
「待って、俺一日寝てたの?」
「その後二日お目覚めになりませんでしたが」
「三日三晩寝てたの? 寝すぎじゃないの俺?」
「そうです。寝すぎです」
ブライドは、やはり憮然とした表情で俺のベッドすぐ側にある椅子に座っていた。
俺は体を起こしてベッドの端に腰掛ける。
どうやら俺の部屋が模様替えされたわけではなかったようだ。
「お前、ずっと側にいてくれてたの?」
「……貴方がいないと困るんです。ココアも飲めません」
「そっか、ごめんごめん。部屋に戻って、すぐ作るからな」
「まだ駄目です」
「え?」
「駄目だと言われました」
「ええ、困るんだけど。俺そんなに有給ないし……」
三日も寝ていては、さすがにまずい。
担ぎ込まれたならある程度は無断欠勤でも許してくれるだろうけど、これ以上は本当にやばい。一刻も早く退院したい。
その旨をブライドに伝えると、ブライドは首を振る。
「私に言われても困ります」
「ああ、ま、そうか。ごめんごめん」
俺は起き上がり、点滴の棒を引っ提げて、医者を探すべく部屋を出てきょろきょろと辺りを見回す。
「……」
ブライドも、後ろから何故か車椅子を押してついてきた。
「どうしたんだブライド? なんで車椅子なんか持ってるんだよ?」
「乗ってください」
「乗ってくださいって、俺普通に歩けるよ? 大丈夫大丈夫」
「乗せてくれと言われたんです。私が叱られます」
彼女が強くそう言うので、俺は仕方なく彼女の押してきてくれた車椅子に座る。
点滴の棒があって車輪も回せないので、彼女が押してくれるままに任せなければならなかった。
「重くないか? 大丈夫?」
「一般的な成人男性程度の馬力があります」
「成人男性? お前女の子だろ?」
「人工生命体なんですから、筋肉量くらいカスタマイズできますよ」
「へえ、いいなそれ。あ、そこ右だ」
「はい」
初めてとは思えないほどスムーズに、彼女は車椅子を操ってくれる。
しばらくそうしていると、懐かしのナースステーションが見えてきた。
そこで俺は、自分が入院しているのが二階の病棟だと知った。
「202号室の方ですか? なんで勝手に出歩いてるんですか?」
「もう元気なので退院したいです。ドクターはどこですか?」
「診療はどうしたんですか?」
「診療?」
「十三時に回診があります。抜け出して来ないでください」
にべもなく追い返され、再び俺は病室に戻された。
するとそこには、途方にくれた男がいた。
「ああ、起きたんだね。良かった良かった」
「先生、俺は仕事があるので帰りたいです」
「まず診察させて貰おうか」
俺は自力でベッドに這い上がり、大人しく診察を受ける。
ナースの一人も連れていないのが気になったので聞いてみると、どうやらみんなに断られたらしい。
「数値の方は問題ないね。深刻な栄養失調は改善したから、退院しても大丈夫だよ。ただ、仕事はちょっと休んで休養に専念して貰えるかな。彼女さん、よろしくお願いしますね」
「分かりました」
「え?」
俺は思わずブライドの方を見る。
「良かったですね」
ブライドは俺にそう言って、少し笑う。
不意の笑顔が堪らなく可愛くて、俺は思わず見惚れてしまった。
「あ……うん。いや、その……」
ブライドは困ったように首を傾げた。
それがまた可愛くて、俺は顔を背ける。
「どうかなさいましたか?」
「あ、うん……もしかして俺、ちょっと記憶飛んでるのかもなと、思って。あー……今、王歴六二四年でいいよな?」
「ええ、そうですが」
「ああ、うん……」
「記憶が飛んでいるとは、どういうことですか?」
ブライドは心配そうに俺を覗き込んだ。
やべえ、可愛い。めちゃくちゃ可愛い。
「あ、あーと……その、あー、えっと、ブライド? でいいよな? 双子とかじゃないよな?」
「そうですよ。実験体5924こと、ブライドです。私のこと、お忘れになられたんですか?」
「えっ、いや違う、そうじゃなくて……」
いやでも、俺の知っているブライドはこんなに可愛くない。
いや、可愛くないとは言わないけどもっとこう、俺に対して厳しいイメージがある。こんな対応をされる覚えはない。
「あ、お腹とか空いていらっしゃいませんか? よろしければ、お菓子でも……ナイフもありますから、果物も剥けますよ。剥くのは貴方ですが」
優しい、すげえ優しい。
何だこの子、俺の知ってるブライドじゃない。物凄く可愛い。
「どうかなさったんですか?」
「いや……俺の知ってるブライドとちょっとこう、雰囲気が違うなあと……」
「……お気に召しませんか?」
「いや、そんなことない、全然そんなことない、うん、めっちゃ好きだよ」
「貴方はいつも、すぐに私に好きだと言いますね」
「好きなんだから仕方ないだろ……」
「私のどこが好きなんですか?」
やばい、すごい積極的に会話してくれる。嬉しい。
「可愛いし……一目惚れっていうか、うん、可愛いし……」
「貴方って、趣味が悪いとか、見る目がないとか、そういうことをよく言われませんか?」
「言われるけど、言われるけど!」
「ほらやっぱり。やめた方がいいんじゃありません?」
そう言いつつ、ブライドはどこで覚えたのか知らないが、屈んで上目遣いで俺を見つめてくる。
……すげえ可愛い。
「え、じ、じゃあどうしたら信じてくれるの?」
「……どうして、貴方は私に不調を隠すんですか?」
「え? 隠してるつもりないけど……」
「様子がおかしかったのも、覚えていらっしゃらないんですか?」
「えっと、何を?」
「覚えていらっしゃらないならいいんです。朦朧としていらっしゃいましたし」
「え? 俺なんかした? 朦朧? 朦朧としてなんかしたの?」
「全く覚えていらっしゃらないんですね」
ブライドは、少し寂しそうに言った。
「待って、ごめん、ホントごめん。謝る。なんでもするから許して」
「どうして謝るんですか?」
「いやそりゃ、何も覚えてないっていうのは問題だろ……」
するとブライドは、困ったように微笑む。
しばらく思案してから、思い切ったように彼女は俺に尋ねた。
「……クロさんって、どなたですか?」
「え?」
「クロさんです。クロ、という方をご存じでしょう?」
クロ、って、え?
俺は思わず後ろを振り返った。
当然のように彼女はいない。
近頃、彼女はほとんど現れない。
見えている時ですら霧の中にいるみたいに姿は朧気で、表情すら分からない。声もしばらく聞いていない。
「えっと、あークロっていうのは、その……」
でも、どうやって説明しようか。
この年になってイマジナリーフレンドはさすがに激イタだろう。
さすがに引く。想像上のお友達とは言いにくい。
だったら想像上の彼女だと言うか?
いやいや、それこそない。絶対ない。
いやそもそも、クロは俺にとって何なんだろう?
死神とか友達とか悪魔とか色々思ってたけど。
彼女のことを説明するのは、自分でも理解していないことを説明するという難しさにぶち当たる。
「たぶん……俺の後輩……かな」
「後輩?」
「ああ、まあ……うん。たぶんな」
「お可愛らしい方ですね」
「ああ、うん……うん? 可愛らしい? 今可愛いって言ったか?」
「ええ」
「え? お前、ブライド、クロに会ったのか!」
「え、そう、ですが……黒髪の女性ですよね」
それは、俺にとってかなりの衝撃だった。
それじゃあ、彼女の声は、姿は、幻覚じゃなかったのか?
俺が誰にも告げなかっただけで、周囲は彼女を知っていたのか?
彼女は普通の人間で、ただ単純に俺をストーキングしていただけなのか?
それはそれで怖いけど……
いや、明らかに人間ではない動きをしてたか。
「そっか、えっと、何を話したんだ?」
「ずっと貴方とお二人でお話されてたじゃありませんか」
「じゃあ、会話はできない、のか?」
「どうして私にお聞きになるんです?」
「いや、その……俺はずっと、クロは俺の幻だと思ってたから……」
「え?」
「あ、うん。大丈夫だよ、頭おかしいのは自覚してるから大丈夫」
「霊的なものではないんですか?」
ブライドは心配そうにしてくれる。
確かに、死者の魂で織られた神域結界の中にあるこの国では、何かに憑かれたとかそういう話が後を絶たない。
ブライドの発想も、当然といえば当然だ。
だが俺はそれを否定した。
「……いや、かなり有名な人でも、見えなかったからな。それはないんだ」
クロが誰にも見えないのは、ルシーやジャックさんで分かっている。
ルシーはもちろん、ジャックさんもかなり高位の使徒なので、そういうものはしっかり見えるタイプなのだ。
なんならジャックさんはコミュ力が高いので怪異繰りなんかもできるらしい。
超現象がコミュ力で操れることには驚きを隠せないけど。
ちなみに俺は全く見えない。レビィも見えないらしい。
「いやぁ、先輩。先輩は本当に面白いことを考えますねえ……」
「ブライド、ブライド見えるか? 聞こえるか? 今喋ってる!」
「そんなに叫んだら人が来ますよ先輩」
クロは苦笑いしながら、病室の壁にもたれかかっている。
「ええ……そうですね。見えますよ」
「おいクロ、俺の妄想ならお前は俺にしか見えないはずだろ! 俺の頭はおかしくない!」
「大丈夫ですかブロウ、急にどうしたんですか?」
「ほら、お姫様が不安がってますよ」
「お前ら会話しろよ! ブライド、ブライドこの子に話しかけて!」
「先輩の幻覚なのに他の人と話せるわけないじゃないですか」
「俺の幻覚だったら他の人に見えないだろうが!」
「お姫様は特別なんですよ」
ひらひらと指を躍らせながら、彼女は底を見せない顔でニタニタと笑う。
「クロさんこんにちは。私は実験体5924です」
「はじめまして。闇から出でし漆黒のなんかです」
「お前! 途中で諦めただろ! 会話できてるし!」
「そりゃあ、先輩じゃないんですから会話くらいちゃんとしますよ」
「お前!」
「まあまあ、こんな狭い病室で暴れたらまた拘束されますよ」
俺が立ち上がって掴みかかると、飄々とした態度でクロがそう言う。
確かに幻覚に掴みかかるのはヤバいと思い、俺は冷静にベッドに戻る。
「大丈夫ですか?」
「ああうん、大丈夫だよ……大丈夫」
ブライドに心配され、俺は笑ってそう答える。
「良かったじゃないですか先輩。先輩にも味方らしきものができて」
「お前は俺の敵なのか?」
「だから先輩の妄想ですよ。妄想に敵も味方もありません」
「俺の妄想だったら、ブライドに見えるわけないだろ」
「お姫様は特別なんですよ」
「ふざけんな、特別ってなんなんだよ!」
「まあまあ、こんな狭い病室で暴れたらまた拘束されますよ」
「さっきも聞いたが、よく分からないんだよその説得は!」
俺は今度こそ掴みかかろうとすると、急に病室の扉が開いたので思わず凍り付く。
反射的にそちらを見ると、不機嫌なナースが俺を睨んでいた。
「……病室ではお静かにお願いしまーす」
扉はそのまま閉じられた。
俺はそのままベッドに戻り、ブライドに尋ねた。
「今、クロいるか?」
「いいえ、いらっしゃいませんが……」
虚空を掴んだ左手をゆっくりと開いたら、思わず口角がひきつってしまった。
「……気が狂いそうなんだよ、俺」
今まで触れていたはずの布の感覚、吐き出されていた吐息、全ては空気と同じ温度を持って俺の指先に絡みついて溶けた。
「ブライド、俺って頭おかしいのかな? 俺なりに頑張ってきたのに、いつも……いつも俺は……なんで上手くいかないんだ? どうしていつもいつも最悪な結果になるんだ? いつも結局、全部失敗して、俺はいつも、助けられてばかりで何もできない、俺は……」
白い霧に視界が覆われて、ああ多分この情緒は血中の薬物濃度が爆下がりしてるからだろうなと思ってしまう。
「いつも気づいたら取り返しがつかないんだ、だから……あ、うんごめん、大丈夫だよブライド。気にしないで。リンゴ食べる? 切ってあげるよ」
ブライドの、呆気にとられたような表情を見てしまって、俺は空虚に微笑んでそう言った。
何してるんだ本当、俺は……ちゃんとまともになるって決めたのに。
まともに見えるように努力しないと。
「これ、ナイフです……」
「ありがとブライド。やっぱりお前は今日も明日も可愛いな」
「明日はどうか分からないじゃないですか」
ここが腕の見せどころとばかりに、俺は小さなナイフを握って、リンゴをスライスしていく。
フルーツナイフにしても、このナイフは良いやつだ。なんかいつもと切れ味が違う。
これでリスカしたら超血出そう。うふふ。
はっ、うふふじゃねえ。俺は何を考えてるんだ。
ブライドがいるのにそんなこと考えちゃ駄目だ。
ブライドには病んでる俺なんか見せないって決めたんだから。
椅子にちょこんと座ったブライドに、輪切りのリンゴを渡す。
彼女は受け取って、それをまじまじと見た。
なんだこの生き物、可愛いな本当に。
「……変わった切り方ですね」
「こっちの方が食いやすいだろ?」
「パンみたいです」
もそもそと口の中にリンゴを含みながら、ブライドは笑った。
ああ、可愛い。マジで可愛い。
「ブロウ、私はメロンが食べてみたいです」
「メロンはフルーツナイフじゃ捌けないんだよブライド。帰ったら切ってやるから。なあ、その、お前は、俺と付き合ってるってことなのか?」
「こういう時は恋人を装うのが王道パターンじゃないですか?」
「あ、うん、そうだよね、そっかぁ、あはは、うん……一応言っておくと、誰彼構わず恋人のふりはしない方がいいからな。トラブルの元になるから」
「大丈夫ですよ。貴方の婚約者の方には、その点を説明しておきました」
また藪から棒に、変なワードが飛び出して来る。
当然ながら、俺に婚約者はいない。
「誰? 俺の婚約者誰?」
「ジャックさんと仰られる方です」
「ジャックさん……!」
ルシーは気を遣ってくれてたのに、思いっきり本名で現れている。
そういうところがジャックさんのいいところでもあるし悪いところでもあるんだと思う。
でも俺は、ジャックさんのそういうデリカシーのないところは直した方がいいと思うんだ。本当に。
……しかも何勝手に俺の婚約者名乗ってんだよ!
お前男だし、しかも見た目には少年だろうが!
俺が年下の男好きだって思われたらどうしてくれるんだよ!
「あの方って、軍隊総長の方にすごく似てませんか?」
次にジャックさんに会ったら、絶対に一言言ってやろうと俺が心に誓っていると、ブライドがリンゴの隙間にそう言った。
「あ、うん……そうかな……あと婚約者じゃないよ。叔父さんだよ」
「叔父様でしたか」
ブライドはあっさりと信じてくれた。
ルシーの前例があったからかもしれない。良かった。
「うん、先日のルシファー様の弟だよ」
俺は安堵し、そう言った。
「ルシファー様?」
「……」
……結局バレた。
「ルシファー様ってどういうことですか? ルシファーの名を持つ者は、この国でただ一人のはずでは?」
「……ああ、うん。そのルシファーだよ。教会のトップの、この国を牛耳ってる、神域結界の守護者の」
神の子と呼ばれるルシーとジャックさんの糸の強靭さは、常識と限界を超えている。
ルシファーに関しては、一度ギロチンで処刑されて埋葬されたにも関わらず、十三年後には復活したという伝説がある。
事実ルシーの首にはグロい傷跡があって、俺は怖くて真実が聞けない。
何より、あの幼く可愛く無害で優しいルシーをギロチンにかけようなどという輩がこの世に存在したことが怖い。
「え? 聖典の熾天使編ってドキュメンタリーだったんですか?」
「さあ……脚色されてるとは思うけど……」
「でも、処刑転生ってメインのお話じゃないですか」
「お前、神話詳しいのか? 恋愛小説ばかり読んでるのに」
「聖典の内容は、一字一句記憶に縫いつけられています」
「なんで?」
「知識の一部にありました」
「ああ、なるほど……」
確かに、この国で生きていくには宗教のことはしっかりと理解しなければならない。
だからちゃんと知識を貰ったんだろう。
俺は手持無沙汰に、別のリンゴを手に取ってその皮を剥く。
「いやその、まあとにかく俺に婚約者はいないし、恋人に考えてるのもお前だけだし……いや、お前さえ良ければ、俺は付き合いたいと思ってるんだけどな……」
そう呟き、俺は彼女の反応を伺ってみる。
しかし彼女は意に介した様子もなく、しゃりしゃりとリンゴを食べていた。
「私とですか? 恋愛小説の読みすぎですよ」
いいジョークですねと言わんばかりの態度に、俺はさすがに落ち込んだ。
「恋愛小説を読んでるのはお前だよ……俺と付き合うのは嫌か?」
「そうですね、嫌です!」
「そ、そんなはっきり言わなくてもいいだろ? ほら、俺と付き合ったら毎日ココア飲み放題だし、毎日ご飯作るし、欲しいものは何でも買ってあげるよ?」
「嫌ですよ。貴方のように綺麗な方と結ばれたりしたら、間違いなく不幸になるじゃありませんか」
「なんで? おかしくない? なんでそうなるの?」
「私はヒロインにはなれませんから、恋愛はしません」
「なんでそうなるんだよ!」
つまりこの笑顔は、諦めなのか? 悟りの境地にあるのか?
「可愛くない女性で幸せになるパターンとかないじゃないですか」
「それは小説の世界だろ、それにお前は可愛いんだよ!」
「ブロウって、やっぱり脳みそ腐ってるんですか?」
「腐ってないよ。お前、なんで平気な顔してそんなこと言えるの?」
「私と付き合っても、貴方には何の意味もないじゃありませんか」
ブライドはそう言って優しく微笑んだ。
思わず芯を取っていた手が止まって、俺は彼女を見つめてしまった。
「そんなことない、意味があるから俺は……お前に付き合ってほしいって言ってるんだろ?」
「そういえばそうですね。不思議です」
「不思議がるなよ、それにほら、お前と一緒にいて意味があるかどうかは俺が決めるものだろ? もちろん、俺と一緒に居てお前がどう思うかは、お前が決めることだけど……」
「そうですね。私は、貴方といても苦痛ではありませんよ」
「え」
意外な答えに、思わず俺は息を詰まらせた。
邪魔に決まってんだろうが、と一蹴されるかと思った。
「私とそんなに恋人になりたいんですか?」
「なりたいよ。俺お前のこと好きだから」
彼女は俺を見て、少し視線を逸らす。
「……いいですよ」
「……ん? いい? いいって言った?」
「言いましたよ」
心なしか彼女の頬は紅潮していて、俺は身を乗り出す。
「え、え、ほんとに? 本当にいいんだよな? え? 嘘、嬉しい、ありがとブライド、俺、嬉しい……大事にするよ! あー、マジか、嘘だろ……いいの? 俺すごいメンヘラだよ?」
「めんへら?」
「あ、うん……なんつーか、精神的に問題があるよ?」
「そうですね」
「待って、ナチュラルに肯定しないで、俺傷つきやすいの」
「でも、貴方の料理は美味しいです。だから別にいいです。それに、信頼しているんです。私にも支えさせてください、お願いします」
ブライドは微笑んでぺこりと頭を下げた。
俺は幸福感で頭がぼぅっとしてしまい、ただ呆然と彼女を見つめる。
「え、でもいいのか、俺のこと好きなわけじゃないんだろ?」
「好きですよ」
「え?」
「好きですよ、こんなに好き好き言われてたら好きになりますよ」
「あぇ、え、本当?」
「どうして疑うんです?」
「いや本当、ちょっと信じられなくてさ、本当泣きそう……」
「ですから、私のことをたくさん頼って下さい。貴方は小動物みたいに自分の弱さを隠そうとするから」
「いや、そんな……本当、俺はお前のことが、こう、純粋に好きなの。別に俺のメンタルケアをしてほしいわけじゃないんだよ」
「私はしたいんですけど」
「だから、えっと……いっぱい俺に我儘言っていいんだからな?」
「メロンが食べてみたいです」
ブライドは真剣な顔をしてメロンを持ってきて俺に言った。
そんな深刻な顔をされても困る。可愛い。何こいつ可愛い。やばい頭が馬鹿になってる。
「そんなにメロン食べたいの?」
「メロンは果物の王様だと」
「そっか……俺が退院したらいくらでも食べさせてあげるから」
「分かりました」
物分かりのいいブライドは、こくんと頷く。
可愛い。
そして俺にオレンジを持ってきた。俺はそれに切れ込みを入れ、飾り切りにしていく。
「お前のことも、良かったら教えてほしいんだけど……」
「私のことですか? 私は実験体5924です」
「それは前にも聞いた。他に自己紹介のバリエーションないの?」
「自己紹介にも変更が必要なんですね」
「うん、そうだな。えっと、お前って人工生命体なんだよな?」
「私は人工的に作られましたが、区分は人間です。ヒト科ヒト目ホムンクルスといったところでしょうか」
「ホムンクルスはヒト科ヒト目なのか……?」
「ただし、私は老化しませんが」
「あ、そうなんだ……ってことは、不老不死、みたいな?」
「不死ではありません。殺されれば死にますし、貴方が死ぬと私も死にます」
「え? なんで?」
「私が貴方に首輪を付けられたからです」
「そうか……契約してるから、俺とお前の糸は従属関係にあるのか」
「私にとって幸運なことです。恒久の時は、いかなる人間も狂わせてしまいます。私は、厳密には人間ではありませんが」
彼女は俺を見つめていた。
そんなに見られているとやりづらい。
「そういえば、私は貴方に私が生み出された理由をお話していませんでしたね」
「え? あ、うん……そういえばそうだな。知ってるのか?」
「知っていますよ。もちろん、私が伝えられた範囲でですが。だからあるいは、真意は別にあったのかもしれませんね」
俺はオレンジを切り終えて、近くにあった大皿に置いた。
彼女は、複雑な線をしばらく観察してから、助けを求めるように俺を見た。
「普通に食っていいよ」
「なんだかもったいなくて」
「気にするなよ、ほら」
一口つまむと、彼女も俺と同じように食べ始めた。
「私は後継者として生み出されたんです。結局、私の計画は頓挫したわけですが」
「後継者? なんの?」
「所長様です。所長様はもともとその座を退かれるご予定でした。何人かの、私と同じように作られた者達が所長様の業務の一部を引き継ぐことで、研究所を恒久的に健全に運営することができるようになる予定でした。何人かは製造に成功し傷つけられても死ぬことのない不死身の体を与えられ、現在も勤務しているようですが……ブロウ? どうかしたんですか?」
「あ、うん……」
「ご気分が優れませんか?」
「平気、大丈夫だよ」
「そんなことを仰らないで下さい、私は……貴方の事が知りたいです。そうして隠されるのは寂しいです」
「……」
所長様。それはレビィだ。
レビィがブライドを作らせた?
つまり、レビィはずっと前から消える準備していたのか?
ブライドが生み出されたのは七年前だ。
少なくとも七年前から、レビィは、自分が消えた後の準備を?
そして俺は、それにずっと気づかなかった?
俺は、最も近くにいたのに、レビィの近くにいたのに。
「そうだ、な……俺はたぶん、すごく、救いようのない無能なんだな」
「どうしてそう思われるんですか?」
「……俺はコネで研究所に就職したんだ」
「はい。仰いました」
「所長がさ……俺の養父の、ルシーと、兄弟なんだ。彼の弟で、だから俺は……色々世話になってた。なのに、俺、知らなくて、俺……死ぬの、止めれなかった」
「死ぬ?」
「レビィ、さ、その、所長様のことな、死んじゃったの、崖から飛び降りて、死んじゃって……」
涙を拭うのに、その仕草が子供みたいで嫌だと思った。でも流れるままにすることもできなくて、俺はオレンジの香りの残る指で、誤魔化すみたいに目元を拭った。
「所長様がお決めになられたことに、ブロウが責任を感じなくてもいいじゃありませんか」
「でも、俺、俺、レビィに、レビィに、死んでほしくなかった……」
そう、俺は、死んでほしくなかった。
レビィのことが大好きだった。
その気持ちは紛れもなく本物で、俺はルシーと同じくらいにレビィのことを慕っていた。
レビィは厳しかったけど、俺に色々教えてくれて、俺は嬉しくて、レビィに褒められるのが嬉しくて。
「レビィに死んでほしくなかったんだ、俺は、俺は、俺は……」
苦しくて、胸が締め付けられるように痛くて俺は酷く嗚咽した。
溺れて水を飲んだみたいに上手く息ができなくて、それをブライドは俺の隣に移動して背中を撫でてくれた。
どこで覚えたんだろうと、俺はぼんやりそう思う。
「ごめ、ごめんなブライド、本当俺、ごめん、大丈夫だから気にしないでくれていいから、ごめんな、ははっ、ほんと、ごめん……情緒が不安定なんだよ、俺……」
「どうして謝るんですか? 私は貴方の弱みを握ることが好きですよ」
「……はは、ひっどい言い方」
「貴方が弱みを見せてくれるのが嬉しいと言い換えればいいですか? 月並みな表現で、気に入りませんが」
「月並みでいいよ。俺は……なあ、本当にそんな風に思ってるの?」
「思っていますよ。貴方はいつも弱さを隠そうとしますが、そうしようとする貴方は不自然です。貴方は嘘をつくのが苦手なんでしょう」
「……そうだな。俺は取り繕うのが上手くない」
「だから取り繕わないで下さい。下手な仮面より素顔の方が、気に入っているので」
生意気な口調でブライドはそう言って、俺の頭を撫でた。
小説ばかり読んでいるせいで、ブライドが余計なことを覚えている。
「お前は優しいんだな、ブライド」
「そうですか?」
「潰れちゃうよ、俺のことなんか気にかけてたら。俺重いから」
華奢な身体に、俺を預けるのはどうかと思う。自分でも支えきれないほどの体を。
そう思って、俺は彼女にそう呟いた。
「言ったじゃありませんか。体力は成人男性くらいあるんです」
彼女は不服そうに言って俺の顔を覗き込んだ。
「貴方を担ぐくらい、なんの問題もありません」
自信たっぷりに言われてしまうとそういうことじゃないとも言えず、なんかそういう事なのかもしれないなと、俺は逆に感じてしまった。
「そっか」
彼女は俺の顔を覗き込むのをやめて、目の前のオレンジをまた一つ摘まんだ。
「ええ、本来なら車椅子なんか要りません」
「うん、そっか。ありがとな、ブライド」
やっぱ好きだな、と再確認して俺は彼女を横からそっと抱きしめた。
「大丈夫ですか?」
「別に支えにしたわけじゃないって。本に書いてあったろ? 癒されるんだよ」
「なら、正面からしてくださいよ。腕ごと抱えられたら、私が返すことができません」
「いいんだよ、これで」
「オレンジも食べられません」
「はいはい」
俺が手を離すと、彼女はすくと立ち上がって俺の方を向いて、倒れるようにして俺の背中に手を回した。
「オレンジ食べるんじゃなかったの?」
「そうですね、気が変わりました」
「可愛いなお前、本当」
彼女なら、霧の中で溺れる俺に手を差し伸べてくれるだろうか。
そう考えて、俺は少し笑った。
もう既に、霧は海になった。
肺の中いっぱいの水を吐き出して、彼女から与えられた空気を飲めば、ゆっくりとだが確実に体は浮いて、すぐに光が見える。
波に任せて彷徨えば、いつかどこかの島に流れ着くことができる。
それはたぶん絶望ではなく、希望から少しずれたものだと思う。
ただ、霧の中彷徨うことに疲れ果てた俺が立ち止まり見つめていた虚空と、反対側にある何か。
一時期、決して短くない入院生活をしていたのもあって、実家に帰ったかのような安心感を覚えた。
「ん?」
いやでも、俺は昨日薬も飲まずにすやすやと安らかに眠りについたはずだ。
病院に担ぎ込まれる覚えはない。
俺の部屋が模様替えされたんだろうか。
「……あ、起きたんですね」
聞き慣れた声が聞こえて、俺は体を起こす。
そこにはブライドがちょこんと座っていた。
やはり俺の部屋が模様替えされたらしい。俺は理解した。
「おはようブライド、今日は早いんだな。眠くないか?」
「もう正午ですよ」
ブライドは憮然とした表情でそう言った。
「え?」
「朝になって昼になって、夜になって、次の朝になっても起きないので私がお医者様をお呼びしたんです。そうしたら、こうして入院ということに」
「待って、俺一日寝てたの?」
「その後二日お目覚めになりませんでしたが」
「三日三晩寝てたの? 寝すぎじゃないの俺?」
「そうです。寝すぎです」
ブライドは、やはり憮然とした表情で俺のベッドすぐ側にある椅子に座っていた。
俺は体を起こしてベッドの端に腰掛ける。
どうやら俺の部屋が模様替えされたわけではなかったようだ。
「お前、ずっと側にいてくれてたの?」
「……貴方がいないと困るんです。ココアも飲めません」
「そっか、ごめんごめん。部屋に戻って、すぐ作るからな」
「まだ駄目です」
「え?」
「駄目だと言われました」
「ええ、困るんだけど。俺そんなに有給ないし……」
三日も寝ていては、さすがにまずい。
担ぎ込まれたならある程度は無断欠勤でも許してくれるだろうけど、これ以上は本当にやばい。一刻も早く退院したい。
その旨をブライドに伝えると、ブライドは首を振る。
「私に言われても困ります」
「ああ、ま、そうか。ごめんごめん」
俺は起き上がり、点滴の棒を引っ提げて、医者を探すべく部屋を出てきょろきょろと辺りを見回す。
「……」
ブライドも、後ろから何故か車椅子を押してついてきた。
「どうしたんだブライド? なんで車椅子なんか持ってるんだよ?」
「乗ってください」
「乗ってくださいって、俺普通に歩けるよ? 大丈夫大丈夫」
「乗せてくれと言われたんです。私が叱られます」
彼女が強くそう言うので、俺は仕方なく彼女の押してきてくれた車椅子に座る。
点滴の棒があって車輪も回せないので、彼女が押してくれるままに任せなければならなかった。
「重くないか? 大丈夫?」
「一般的な成人男性程度の馬力があります」
「成人男性? お前女の子だろ?」
「人工生命体なんですから、筋肉量くらいカスタマイズできますよ」
「へえ、いいなそれ。あ、そこ右だ」
「はい」
初めてとは思えないほどスムーズに、彼女は車椅子を操ってくれる。
しばらくそうしていると、懐かしのナースステーションが見えてきた。
そこで俺は、自分が入院しているのが二階の病棟だと知った。
「202号室の方ですか? なんで勝手に出歩いてるんですか?」
「もう元気なので退院したいです。ドクターはどこですか?」
「診療はどうしたんですか?」
「診療?」
「十三時に回診があります。抜け出して来ないでください」
にべもなく追い返され、再び俺は病室に戻された。
するとそこには、途方にくれた男がいた。
「ああ、起きたんだね。良かった良かった」
「先生、俺は仕事があるので帰りたいです」
「まず診察させて貰おうか」
俺は自力でベッドに這い上がり、大人しく診察を受ける。
ナースの一人も連れていないのが気になったので聞いてみると、どうやらみんなに断られたらしい。
「数値の方は問題ないね。深刻な栄養失調は改善したから、退院しても大丈夫だよ。ただ、仕事はちょっと休んで休養に専念して貰えるかな。彼女さん、よろしくお願いしますね」
「分かりました」
「え?」
俺は思わずブライドの方を見る。
「良かったですね」
ブライドは俺にそう言って、少し笑う。
不意の笑顔が堪らなく可愛くて、俺は思わず見惚れてしまった。
「あ……うん。いや、その……」
ブライドは困ったように首を傾げた。
それがまた可愛くて、俺は顔を背ける。
「どうかなさいましたか?」
「あ、うん……もしかして俺、ちょっと記憶飛んでるのかもなと、思って。あー……今、王歴六二四年でいいよな?」
「ええ、そうですが」
「ああ、うん……」
「記憶が飛んでいるとは、どういうことですか?」
ブライドは心配そうに俺を覗き込んだ。
やべえ、可愛い。めちゃくちゃ可愛い。
「あ、あーと……その、あー、えっと、ブライド? でいいよな? 双子とかじゃないよな?」
「そうですよ。実験体5924こと、ブライドです。私のこと、お忘れになられたんですか?」
「えっ、いや違う、そうじゃなくて……」
いやでも、俺の知っているブライドはこんなに可愛くない。
いや、可愛くないとは言わないけどもっとこう、俺に対して厳しいイメージがある。こんな対応をされる覚えはない。
「あ、お腹とか空いていらっしゃいませんか? よろしければ、お菓子でも……ナイフもありますから、果物も剥けますよ。剥くのは貴方ですが」
優しい、すげえ優しい。
何だこの子、俺の知ってるブライドじゃない。物凄く可愛い。
「どうかなさったんですか?」
「いや……俺の知ってるブライドとちょっとこう、雰囲気が違うなあと……」
「……お気に召しませんか?」
「いや、そんなことない、全然そんなことない、うん、めっちゃ好きだよ」
「貴方はいつも、すぐに私に好きだと言いますね」
「好きなんだから仕方ないだろ……」
「私のどこが好きなんですか?」
やばい、すごい積極的に会話してくれる。嬉しい。
「可愛いし……一目惚れっていうか、うん、可愛いし……」
「貴方って、趣味が悪いとか、見る目がないとか、そういうことをよく言われませんか?」
「言われるけど、言われるけど!」
「ほらやっぱり。やめた方がいいんじゃありません?」
そう言いつつ、ブライドはどこで覚えたのか知らないが、屈んで上目遣いで俺を見つめてくる。
……すげえ可愛い。
「え、じ、じゃあどうしたら信じてくれるの?」
「……どうして、貴方は私に不調を隠すんですか?」
「え? 隠してるつもりないけど……」
「様子がおかしかったのも、覚えていらっしゃらないんですか?」
「えっと、何を?」
「覚えていらっしゃらないならいいんです。朦朧としていらっしゃいましたし」
「え? 俺なんかした? 朦朧? 朦朧としてなんかしたの?」
「全く覚えていらっしゃらないんですね」
ブライドは、少し寂しそうに言った。
「待って、ごめん、ホントごめん。謝る。なんでもするから許して」
「どうして謝るんですか?」
「いやそりゃ、何も覚えてないっていうのは問題だろ……」
するとブライドは、困ったように微笑む。
しばらく思案してから、思い切ったように彼女は俺に尋ねた。
「……クロさんって、どなたですか?」
「え?」
「クロさんです。クロ、という方をご存じでしょう?」
クロ、って、え?
俺は思わず後ろを振り返った。
当然のように彼女はいない。
近頃、彼女はほとんど現れない。
見えている時ですら霧の中にいるみたいに姿は朧気で、表情すら分からない。声もしばらく聞いていない。
「えっと、あークロっていうのは、その……」
でも、どうやって説明しようか。
この年になってイマジナリーフレンドはさすがに激イタだろう。
さすがに引く。想像上のお友達とは言いにくい。
だったら想像上の彼女だと言うか?
いやいや、それこそない。絶対ない。
いやそもそも、クロは俺にとって何なんだろう?
死神とか友達とか悪魔とか色々思ってたけど。
彼女のことを説明するのは、自分でも理解していないことを説明するという難しさにぶち当たる。
「たぶん……俺の後輩……かな」
「後輩?」
「ああ、まあ……うん。たぶんな」
「お可愛らしい方ですね」
「ああ、うん……うん? 可愛らしい? 今可愛いって言ったか?」
「ええ」
「え? お前、ブライド、クロに会ったのか!」
「え、そう、ですが……黒髪の女性ですよね」
それは、俺にとってかなりの衝撃だった。
それじゃあ、彼女の声は、姿は、幻覚じゃなかったのか?
俺が誰にも告げなかっただけで、周囲は彼女を知っていたのか?
彼女は普通の人間で、ただ単純に俺をストーキングしていただけなのか?
それはそれで怖いけど……
いや、明らかに人間ではない動きをしてたか。
「そっか、えっと、何を話したんだ?」
「ずっと貴方とお二人でお話されてたじゃありませんか」
「じゃあ、会話はできない、のか?」
「どうして私にお聞きになるんです?」
「いや、その……俺はずっと、クロは俺の幻だと思ってたから……」
「え?」
「あ、うん。大丈夫だよ、頭おかしいのは自覚してるから大丈夫」
「霊的なものではないんですか?」
ブライドは心配そうにしてくれる。
確かに、死者の魂で織られた神域結界の中にあるこの国では、何かに憑かれたとかそういう話が後を絶たない。
ブライドの発想も、当然といえば当然だ。
だが俺はそれを否定した。
「……いや、かなり有名な人でも、見えなかったからな。それはないんだ」
クロが誰にも見えないのは、ルシーやジャックさんで分かっている。
ルシーはもちろん、ジャックさんもかなり高位の使徒なので、そういうものはしっかり見えるタイプなのだ。
なんならジャックさんはコミュ力が高いので怪異繰りなんかもできるらしい。
超現象がコミュ力で操れることには驚きを隠せないけど。
ちなみに俺は全く見えない。レビィも見えないらしい。
「いやぁ、先輩。先輩は本当に面白いことを考えますねえ……」
「ブライド、ブライド見えるか? 聞こえるか? 今喋ってる!」
「そんなに叫んだら人が来ますよ先輩」
クロは苦笑いしながら、病室の壁にもたれかかっている。
「ええ……そうですね。見えますよ」
「おいクロ、俺の妄想ならお前は俺にしか見えないはずだろ! 俺の頭はおかしくない!」
「大丈夫ですかブロウ、急にどうしたんですか?」
「ほら、お姫様が不安がってますよ」
「お前ら会話しろよ! ブライド、ブライドこの子に話しかけて!」
「先輩の幻覚なのに他の人と話せるわけないじゃないですか」
「俺の幻覚だったら他の人に見えないだろうが!」
「お姫様は特別なんですよ」
ひらひらと指を躍らせながら、彼女は底を見せない顔でニタニタと笑う。
「クロさんこんにちは。私は実験体5924です」
「はじめまして。闇から出でし漆黒のなんかです」
「お前! 途中で諦めただろ! 会話できてるし!」
「そりゃあ、先輩じゃないんですから会話くらいちゃんとしますよ」
「お前!」
「まあまあ、こんな狭い病室で暴れたらまた拘束されますよ」
俺が立ち上がって掴みかかると、飄々とした態度でクロがそう言う。
確かに幻覚に掴みかかるのはヤバいと思い、俺は冷静にベッドに戻る。
「大丈夫ですか?」
「ああうん、大丈夫だよ……大丈夫」
ブライドに心配され、俺は笑ってそう答える。
「良かったじゃないですか先輩。先輩にも味方らしきものができて」
「お前は俺の敵なのか?」
「だから先輩の妄想ですよ。妄想に敵も味方もありません」
「俺の妄想だったら、ブライドに見えるわけないだろ」
「お姫様は特別なんですよ」
「ふざけんな、特別ってなんなんだよ!」
「まあまあ、こんな狭い病室で暴れたらまた拘束されますよ」
「さっきも聞いたが、よく分からないんだよその説得は!」
俺は今度こそ掴みかかろうとすると、急に病室の扉が開いたので思わず凍り付く。
反射的にそちらを見ると、不機嫌なナースが俺を睨んでいた。
「……病室ではお静かにお願いしまーす」
扉はそのまま閉じられた。
俺はそのままベッドに戻り、ブライドに尋ねた。
「今、クロいるか?」
「いいえ、いらっしゃいませんが……」
虚空を掴んだ左手をゆっくりと開いたら、思わず口角がひきつってしまった。
「……気が狂いそうなんだよ、俺」
今まで触れていたはずの布の感覚、吐き出されていた吐息、全ては空気と同じ温度を持って俺の指先に絡みついて溶けた。
「ブライド、俺って頭おかしいのかな? 俺なりに頑張ってきたのに、いつも……いつも俺は……なんで上手くいかないんだ? どうしていつもいつも最悪な結果になるんだ? いつも結局、全部失敗して、俺はいつも、助けられてばかりで何もできない、俺は……」
白い霧に視界が覆われて、ああ多分この情緒は血中の薬物濃度が爆下がりしてるからだろうなと思ってしまう。
「いつも気づいたら取り返しがつかないんだ、だから……あ、うんごめん、大丈夫だよブライド。気にしないで。リンゴ食べる? 切ってあげるよ」
ブライドの、呆気にとられたような表情を見てしまって、俺は空虚に微笑んでそう言った。
何してるんだ本当、俺は……ちゃんとまともになるって決めたのに。
まともに見えるように努力しないと。
「これ、ナイフです……」
「ありがとブライド。やっぱりお前は今日も明日も可愛いな」
「明日はどうか分からないじゃないですか」
ここが腕の見せどころとばかりに、俺は小さなナイフを握って、リンゴをスライスしていく。
フルーツナイフにしても、このナイフは良いやつだ。なんかいつもと切れ味が違う。
これでリスカしたら超血出そう。うふふ。
はっ、うふふじゃねえ。俺は何を考えてるんだ。
ブライドがいるのにそんなこと考えちゃ駄目だ。
ブライドには病んでる俺なんか見せないって決めたんだから。
椅子にちょこんと座ったブライドに、輪切りのリンゴを渡す。
彼女は受け取って、それをまじまじと見た。
なんだこの生き物、可愛いな本当に。
「……変わった切り方ですね」
「こっちの方が食いやすいだろ?」
「パンみたいです」
もそもそと口の中にリンゴを含みながら、ブライドは笑った。
ああ、可愛い。マジで可愛い。
「ブロウ、私はメロンが食べてみたいです」
「メロンはフルーツナイフじゃ捌けないんだよブライド。帰ったら切ってやるから。なあ、その、お前は、俺と付き合ってるってことなのか?」
「こういう時は恋人を装うのが王道パターンじゃないですか?」
「あ、うん、そうだよね、そっかぁ、あはは、うん……一応言っておくと、誰彼構わず恋人のふりはしない方がいいからな。トラブルの元になるから」
「大丈夫ですよ。貴方の婚約者の方には、その点を説明しておきました」
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「誰? 俺の婚約者誰?」
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「ジャックさん……!」
ルシーは気を遣ってくれてたのに、思いっきり本名で現れている。
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ブライドはあっさりと信じてくれた。
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俺は安堵し、そう言った。
「ルシファー様?」
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「そういえば、私は貴方に私が生み出された理由をお話していませんでしたね」
「え? あ、うん……そういえばそうだな。知ってるのか?」
「知っていますよ。もちろん、私が伝えられた範囲でですが。だからあるいは、真意は別にあったのかもしれませんね」
俺はオレンジを切り終えて、近くにあった大皿に置いた。
彼女は、複雑な線をしばらく観察してから、助けを求めるように俺を見た。
「普通に食っていいよ」
「なんだかもったいなくて」
「気にするなよ、ほら」
一口つまむと、彼女も俺と同じように食べ始めた。
「私は後継者として生み出されたんです。結局、私の計画は頓挫したわけですが」
「後継者? なんの?」
「所長様です。所長様はもともとその座を退かれるご予定でした。何人かの、私と同じように作られた者達が所長様の業務の一部を引き継ぐことで、研究所を恒久的に健全に運営することができるようになる予定でした。何人かは製造に成功し傷つけられても死ぬことのない不死身の体を与えられ、現在も勤務しているようですが……ブロウ? どうかしたんですか?」
「あ、うん……」
「ご気分が優れませんか?」
「平気、大丈夫だよ」
「そんなことを仰らないで下さい、私は……貴方の事が知りたいです。そうして隠されるのは寂しいです」
「……」
所長様。それはレビィだ。
レビィがブライドを作らせた?
つまり、レビィはずっと前から消える準備していたのか?
ブライドが生み出されたのは七年前だ。
少なくとも七年前から、レビィは、自分が消えた後の準備を?
そして俺は、それにずっと気づかなかった?
俺は、最も近くにいたのに、レビィの近くにいたのに。
「そうだ、な……俺はたぶん、すごく、救いようのない無能なんだな」
「どうしてそう思われるんですか?」
「……俺はコネで研究所に就職したんだ」
「はい。仰いました」
「所長がさ……俺の養父の、ルシーと、兄弟なんだ。彼の弟で、だから俺は……色々世話になってた。なのに、俺、知らなくて、俺……死ぬの、止めれなかった」
「死ぬ?」
「レビィ、さ、その、所長様のことな、死んじゃったの、崖から飛び降りて、死んじゃって……」
涙を拭うのに、その仕草が子供みたいで嫌だと思った。でも流れるままにすることもできなくて、俺はオレンジの香りの残る指で、誤魔化すみたいに目元を拭った。
「所長様がお決めになられたことに、ブロウが責任を感じなくてもいいじゃありませんか」
「でも、俺、俺、レビィに、レビィに、死んでほしくなかった……」
そう、俺は、死んでほしくなかった。
レビィのことが大好きだった。
その気持ちは紛れもなく本物で、俺はルシーと同じくらいにレビィのことを慕っていた。
レビィは厳しかったけど、俺に色々教えてくれて、俺は嬉しくて、レビィに褒められるのが嬉しくて。
「レビィに死んでほしくなかったんだ、俺は、俺は、俺は……」
苦しくて、胸が締め付けられるように痛くて俺は酷く嗚咽した。
溺れて水を飲んだみたいに上手く息ができなくて、それをブライドは俺の隣に移動して背中を撫でてくれた。
どこで覚えたんだろうと、俺はぼんやりそう思う。
「ごめ、ごめんなブライド、本当俺、ごめん、大丈夫だから気にしないでくれていいから、ごめんな、ははっ、ほんと、ごめん……情緒が不安定なんだよ、俺……」
「どうして謝るんですか? 私は貴方の弱みを握ることが好きですよ」
「……はは、ひっどい言い方」
「貴方が弱みを見せてくれるのが嬉しいと言い換えればいいですか? 月並みな表現で、気に入りませんが」
「月並みでいいよ。俺は……なあ、本当にそんな風に思ってるの?」
「思っていますよ。貴方はいつも弱さを隠そうとしますが、そうしようとする貴方は不自然です。貴方は嘘をつくのが苦手なんでしょう」
「……そうだな。俺は取り繕うのが上手くない」
「だから取り繕わないで下さい。下手な仮面より素顔の方が、気に入っているので」
生意気な口調でブライドはそう言って、俺の頭を撫でた。
小説ばかり読んでいるせいで、ブライドが余計なことを覚えている。
「お前は優しいんだな、ブライド」
「そうですか?」
「潰れちゃうよ、俺のことなんか気にかけてたら。俺重いから」
華奢な身体に、俺を預けるのはどうかと思う。自分でも支えきれないほどの体を。
そう思って、俺は彼女にそう呟いた。
「言ったじゃありませんか。体力は成人男性くらいあるんです」
彼女は不服そうに言って俺の顔を覗き込んだ。
「貴方を担ぐくらい、なんの問題もありません」
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彼女なら、霧の中で溺れる俺に手を差し伸べてくれるだろうか。
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肺の中いっぱいの水を吐き出して、彼女から与えられた空気を飲めば、ゆっくりとだが確実に体は浮いて、すぐに光が見える。
波に任せて彷徨えば、いつかどこかの島に流れ着くことができる。
それはたぶん絶望ではなく、希望から少しずれたものだと思う。
ただ、霧の中彷徨うことに疲れ果てた俺が立ち止まり見つめていた虚空と、反対側にある何か。
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