役立たずの雑用係は、用済みの実験体に恋をする。――神域結界の余り者

白夢

文字の大きさ
上 下
10 / 51
#1 実験体

09 誰かの役に立ちたかった

しおりを挟む
 5924の態度態度は明らかに軟化していた。

 俺を見て少し嬉しそうにした。もちろんそれはココアとまだ見ぬ食料に対してなんだろうけど。

「暇なんですか?」

 そう聞いてきたが、なんだか胸の内のワクワク感を抑えられていない。
 どんだけ懐いてくれるんだよ。

「ああ、まあ……そうだな」

 俺はさすがに少し困惑しながらそう言った。
 しかし彼女は気にした様子もない。

「貴方はカフェでも働けると思います。私はこのココアがとても気に入りました」

 彼女は喜んで新しい水筒の蓋を開けて、香ばしいチョコレートの香りを吸い込む。
 表情も柔らかく、昨日とはまるで別人のようだと思った。

 俺はというと、恐らく昨日よりだいぶ気分が沈んでいた。

「お前、食事とかって貰えるのか?」
「食事は摂りません。ただ一度、四年ほど前に実験として嗜好品を与えられました。私がそれに興味を示すか否かといった実験だったようですね」
「その嗜好品が、ココアだったのか?」
「はい」

 あっけらかんとしているが、つまり彼女は四年前に一度だけ飲んだ味をずっとずっと覚えていたということだろうか。
 他のものは何も貰えないまま?

 ……たかが一度ココアを持ってきた俺に、こんなに懐いた理由が分かった気がした。

「これはなんですか?」
「サンドウィッチだよ」
「ああ、知っていますよ。食べ物でしょう? バランスの良い食事を、器を使わないで片手で食べられるので、重宝されていると」

 豆知識のようなものを自慢げに披露された。
 かわいい。

「こんなに柔らかいものだとは知りませんでしたが……」

 そう言って、彼女は表面のパンを剥がしたり重ねたりしながら中身を覗く。

「これはエッグサラダですか?」
「そうだよ」
「これはハムですね。分かります」

 そんな他愛もないことを呟きながら、彼女は中身に気を遣いながらむぐむぐと咀嚼する。

「知識って、どこまであるんだよ? 味とかは知らないのか?」
「たくさんの知識がありますよ。ですが、体験はありません。私は水を知っていて、水は冷たく、液体であることを知っていますが、冷たいという感覚は知りません。これはあくまで仮定ですが」

 彼女は、パンを一旦袋に戻し、器用にカップにココアを注いだ。

「ココアは甘いです。それは知っていますよ。そして……」

 彼女は、サンドウィッチの入った袋を見て言う。

「パンは甘くて、ハムは塩辛いです。サンドウィッチは、色々混ざっていて、美味しいです」

 どうやら気に入ってくれたらしい。
 俺は、それなら良かったと呟いて微笑みながら檻に触れる。

 金属製の、格子状の檻だ。猛獣を入れるような箱。

「……外に出たくないか?」
「出る必要性を感じません」

 彼女は、ココアを喉に流しながら、俺を遮るようにして答えた。

「だって、貴方は来て下さるでしょう?」
「そりゃそうだよ。でも、外を見たいとは思わないのか? 知識はあるんだろ。花や、虫を見てみたくないのか?」
「思いませんよ。見たところで、私はなんとも思わないでしょうしね」
「そうか?」
「ええ。私、あんまり感情豊かじゃありませんし」

 結構感情豊かな印象だったんだけどな……と俺は俯いてむしゃむしゃとパンを食む彼女を見つめる。

「お前、結構感情豊かだろ?」
「私がですか?」

 彼女は顔を上げて、まじまじと俺を見た。

「あー……」
「どうして顔を背けるんですか」
「いや、その……可愛いから……」
「はい?」

「……ブライドって呼んでいい?」
「え?」
「分かったありがとうそう呼ぶなブライド」
「え? 何を言ってるんですか? ブライドって、花嫁? 貴方は馬鹿ですか? 嫌です、やめて下さい!」
「好きに呼べって言ってただろ。名前としてはそんなに珍しくない」
「殺しますよ!」
「ああうん、好き」
「ふざけないで下さい!」
「ほら、ココア飲んで落ち着きな?」
「ちょっと!」
「明日も明後日もご飯持ってきてあげるから、な? 名前に拘りはないんだろ?」

 そう言うと、彼女は渋々ながら頷いた。
 可愛い。すげえ可愛い。
 やっぱご飯には逆らえないとこ可愛い。

「……俺はちょっと仕事に行かなきゃいけないから、来れそうだったらまた夕方に来るよ」
「その名前、どうしても変更する訳にはいきませんか?」
「可愛いからいいだろ別に」
「私は可愛いと言われたことがありません。その概念は知っていますが、当てはまりません」
「見解の相違だな」
「おかしいのはあなたですからね」

 念を押すようにしてそう言った彼女を、俺は愛おしく思った。
 沈んでいた気分も、少しマシになった気がする。

「じゃあ、またな」
「…ええ」

 彼女は小さく頷いた。

 どこか思い出したように装った無関心を感じて、それがおかしい。
 収容室の扉を開き、無意味な鍵をかけた。

 そういえば彼女は、何故檻に入れられているのだろうか?
 出入りの時に脱走しないように?
 以前猫かなんかであったらしいけど、そんな器用なことができるのだろうか……

 俺は考えながら歩く。

 やがて体で覚えた道順をなぞり仕事部屋に辿り着いて、俺はようやく考えを巡らせるのをやめた。

 そして部屋の使用表に自分の識別ナンバーと生体パーツを登録し、部屋に入った。

「ああそうだクロ、俺は一つ伝えておかなきゃいけないんだけど」
「なんですか?」
「ブライドには、絶対に、俺は普通の、ごく普通の正常な一般人だと言い張るからな」
「無理だと思いますけどねぇ……」
「無理じゃねーよ、俺は正常だ。そうだろ?」
「さあ、どうですかねぇ。取り敢えず、そう繕おうとして友達をなくした前例があるということは知っていますが」
「……さて、仕事にかかるか」

 昨日リストアップした足りない備品の購入予算を計上し、経理部へ提出。
 破損した設備の修理は復旧処理部に依頼書を提出
 ……予算の方は向こうで経理部とやり合ってもらおう。

「先輩にとって、正常ってなんなんですか?」
「普通であることだよ」
「普通とは?」
「異常じゃないことだ」
「抽象的なお答えですねぇ」

 以前はこの依頼書やらも手作業で書いていたが、活版印刷とかいう技術ができたおかげでものすごく楽になった。共同研究だったと思う。
 この小さな機械は、何十人、何百人もの研究者の知恵と努力の結晶だ。

 俺もこんな風に、人の役に立つようなことが出来れば良かったのに。

「俺は特別な人間じゃないから、せめて普通でありたいと願ってるんだよ」
「普通とは平均ですか? それとも平凡ですか? または理想ですか?」

 責めるように尋ねられて、俺は何も言えず、ただ目の前のインクの匂いに集中しようとした。

「特別とは罪ですか? それとも罰ですか? 普通は褒美なんですか? それとも権利ですか? ねえ先輩。あなたにとって、正常とはなんですか? 当然のことを当たり前のように行うことが贖罪ですか? それなら恩返しなんてできるんですか?」

 耳を塞ごうが、頭の中に響く罵声に気が滅入る。
 それとも、気が滅入っているからこんなことを考えるんだろうか。

 ……考える?
 クロの言うことは、俺が全て考えていることなのか?

「どうしたんですか先輩。先輩ったら、いつもに増してご気分が優れなさそうですが」

 俺自身が俺に向かって言っているのだろうか。
 それとも、そう思い込んでいるだけで、クロは俺となんの関係もないただの通りすがりの死神なのだろうか。

「クロ、お前は俺の幻か?」
「いいえ先輩。私は先輩の妄想ですとも」

 そうやって堂々巡りの矛盾をかき回していると、次第に気が狂いそうになる。
 でもそういうものを全部箱にしまって、外側だけでも薄い包装紙で包んでしまって、そうすればまるで、何の変哲もない。笑えるくらいに当たり前の人間。

「気が狂いそうだ」
「今日は正直なんですね、先輩」

 いつものように間違ってますが、と彼女は言った。俺は呻く。

 俺は引きちぎるようにしてタイプライターから紙を回収した。
 部屋から出て、使用表に退出の旨を記し、俺は足早にその部屋を立ち去った。

 クスクスと笑う声が聞こえた。
 彼女の声だったかどうかは分からない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?

せいめ
恋愛
 政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。  喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。  そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。  その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。  閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。  でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。  家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。  その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。    まずは亡くなったはずの旦那様との話から。      ご都合主義です。  設定は緩いです。  誤字脱字申し訳ありません。  主人公の名前を途中から間違えていました。  アメリアです。すみません。    

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...