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1章
少年と魔女
しおりを挟む少年は、夜の森を歩いていた。
まん丸い姿で夜空に君臨する月に、少年の顔はひどく青白く照らされる。けれどそれは月の光のせいではない。少年の頬に赤みはなく、瑞々しさなどとうに忘れてしまったような肌だったのだ。
やせこけたのは顔だけではなく、月光にぼんやりと輪郭を浮かび上がらせる腕や脚も、そうだった。
骨と皮を通り越し、生きているのを疑いたくなるようなその細い体で、少年はただひたすらに歩く。なにかに憑かれたように、生気の無い体で、けれどその蒼い目だけをギラギラと輝かせて、森の奥へと足を進めていた。
「――ここに、彼女がいる」
少年は呟いて、ようやく足を止めた。静寂に包まれていたそこに、ぽつりと落とされた音に反応したのか、頭上で鳥が一斉に羽ばたいた。
そこは、森の奥、大きな樫の扉の前だった。
夜色は深みを増し、木々が、館を月光から守るように茂っていた。少年は無意識にごくりと生唾を飲み込み、そして顎を上げて眼前に広がる館を見上げる。
館は、森の中には不釣合いなほど、荘厳で立派だった。
古い絵本に、王族の城として登場していそうなそこを見上げて、少年はからからに乾いて色を失った唇を引き結んだ。
蒼い瞳はより鋭さを増し、彼はゆっくりと、扉に手をかける。
鍵は掛かっていない。もう、ずっと誰もこのドアを開けなかったのだろう、力を込めて扉を押し開けると、重い音と共にほこりが舞い上がった。
霧のように視界を遮った埃が落ち着くのを待たずに、少年は扉の隙間に身体を滑らせた。ひやりとした空気が細すぎる体を包み、思わず彼は身体を震わせる。温かさを得るための服はあちこちボロボロと擦り切れていて、あちこち露出した肌に冷たい風が刺さった。
一歩踏み出し、色あせた絨毯を踏む。
裸足で森の中を歩いて傷だらけになった足に、ほこりが付いて痛みが走った。けれど少年は歩みを止めない。むしろ絨毯に触れて足を速めた。人気の無い空気の中で、少年は大きな螺旋階段を登る。その足取りに迷いは無く、ただ、その身体が行くべきところを知っているかのように、よどみなく歩を進めた。
やがて少年の目に入ったのは、館の入口と同じ黒い樫で出来た扉。薄っすらと開かれたそこから、ゆらゆらとオレンジ色の灯りが漏れていた。沈黙に慣れた耳には小さな衣擦れの音がして、少年は小さく息を吐く。
会える。ようやく。そう思って、少年は両手をきゅ、と握りしめた。
「――誰?」
一歩。
部屋へと近づこうとした時、声が響いて少年はびくりと肩をすくませた。
聞こえた声は少し高くて、鈴のようだった。少年は息を飲む。それは緊張のためか、それとも本能的な恐れのためか、そんなことを考える余裕すら、彼にはなかったけれど。
「……森に棲む、望みをかなえてくれる魔女か?」
刹那の沈黙の後、螺旋階段の上から音も無く姿を現した彼女に、少年は小さく問う。
それに、彼女はくすりと笑って、少年を手招きして灯りの漏れる部屋へと誘った。少年がためらう間にも、彼女は優雅な足取りで部屋の中へと消えて行く。少年はそれからまた少し、途惑ってから部屋へと足を踏み入れた。
その中は、館の外見からは想像も付かないほど、豪華な部屋だった。調度品はすべて落ち着いた紅色で統一され、館の朽ちた印象が幻だったのではと彼は疑い、ごしごしと目を擦る。
明らかに人のいない、朽ちた洋館だった外見の屋敷に、一歩入ると異空間のような豪華な館。驚きを隠せない少年に、部屋の中央に置かれたえんじ色のソファーに腰掛けた女性が微笑ましげに笑んだ。
「そんなにこの部屋が珍しい?」
ちいさく、声がして少年は目を見開いた。振り返って、そして自分が何をしに、この昼でも暗い森に入ったのかを思い出す。
「さっきの質問に答えて欲しい。森に棲む、望みを叶えてくれるという魔女なのか?」
「――ふふ、半分正解。けれど、半分不正解」
少年の真っ直ぐな瞳の中で、彼女は妖艶とも言える笑みを浮かべて答えた。
ドアの前、絨毯すら降れずに立ち尽くす彼に、ソファーに腰掛けるように勧める。それからガラスのテーブルにおいてあった、紅茶のポットから紅茶を注いだ。
ふわりと広がった香りと湯気は今まさにいれたてのようだったけれど、その少年が部屋に入った時には既に用意されていたポットで、カップも一つきりだった筈。少年の理解力が追いつく前に、彼女は柔らかな手つきで紅茶を彼に勧めた。
「私はリスポスタ。森に棲む魔女。けれど、私は望みをかなえるものじゃないわ。私は答えを与える者」
名乗ったその時、少年は彼女の瞳が、一瞬黒から金色に変わったのを見た気がした。
「答えを――?」
「そう。望みをかなえることは出来ないわ。それが契約。けれど答えをあげる。さあ、あなたは何を知りたいの?」
小さな少年の呟きに、彼女は静かに目を細めて問う。
それは静かで、けれどどこまでも深い言葉。瞳から心の、否、魂の奥底までのぞき込みそうな、そんな瞳に見据えられて、少年は背中に冷たい汗が伝ったのを感じた。
「さあ、あなたの問いはなぁに?」
甘く囁くような声に、少年はごくりと喉を鳴らした。きゅ、と手を握りしめ、そうして決意するように口を開く。
「――僕の家族は? 父や母、妹や、村の皆は――」
少し震える声で、けれど真っ直ぐに魔女を見据えて少年は問う。言葉にすれば、ひとりぼっちになってしまったことに気付いたあの夜に引き戻されそうで、一瞬目を伏せた少年だった。
少年の視線が外れた瞬間、魔女は一つ笑むと目を細めた。それはまるで猫が獲物を前に舌なめずりするような艶やかさを湛えて、俯く少年を見据える。
「――答えを聞いて、どうするかはあなた次第。私は与えるだけ――それでも、聞きたいと望むのね?」
問う声は全く変わらない艶やかな声なのに、その言葉の裏に冷たい空気を感じて、少年は一瞬、呼吸すら忘れた。
それも刹那のことで、少年は握った手をそのままに、こくりと頷いて意志を示す。
「――もう、あなたはひとりぼっち。家族はいない。あなたも、いない――これが答え」
告げられた答えはひどく簡潔で、少年は目を瞬かせた。
家族はいない。
ひとりぼっち。
そして――僕も、いない?
少年は、言われた言葉を乾いていく唇で反芻した。噛み砕くように、ゆっくりと言葉を理解し――けれど、理解できなかった。首を振り、もう一度答えを求めて彼女を見る。
「思い出して――あの夜、何があったのかを」
囁くような甘い声と共に、彼女はゆっくりと少年に近づく。目の前で立ち止まり、彼女の顔を見上げる少年の頬に触れて、魔女は優しく目を細めた。
「さあ、心の扉を開けて。答えはもう、あなたの中にある」
つい、と、彼女の手が少年の視線を遮る。
眠るように目をつむった少年の身体を、魔女は静かに抱き上げると紅いビロード張りのソファに横たえさせ、テーブルにおいてあるろうそくを灯した。
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