お月さま色した、猫

久世ひろみ

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3章 森でのくらし

14話

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 ヴィアは、息をひとつ吸い込んだ。
 相変わらず魔法使いは一言も発さず、振り返ることさえなかったけれど、構うことなくヴィアは口を開く。

「彼女は、このままずっとあの姿のままなのか? すべてを忘れたまま……魔法が解けることは、ないのか」

 ヴィアは、レイルーンが猫の姿なのは魔法使いの力によるものなのだと考えていた。
 森に棲む、世界にたった一人だけの魔法使いは、強大な力でどんな願いも叶えられるといわれている。だから、人を猫にするのだって簡単なのだろうと、そう思っていたのに。

 魔法であって、魔法ではない。そんな謎かけのような回答は、結局よく分らなかったけれど、重要なのは彼女が人の姿に戻れるのか否か、ということだ。
 無論、猫のままでも彼女を幸せにする覚悟はあった。
 過去の記憶がなかろうと、人の姿ではなかろうと、守り、愛して、幸せにする。むしろ、過去を覚えていない方が、彼女はもっと幸せになれるかもしれない。
 痛みと孤独と、悲しみばかりの過去をすべて白紙に戻し、新しい人生を創る。その方が、幸せになれるのかも、しれないけれど。

 それではだめなのだと、彼の心の奥が、責め立てるから。
 だからこその問いに、魔法使いは手の中のカップを見下ろして、ためらうように沈黙した。耳に痛いほどの森閑の中で、時間さえ止まったのではないかと思えたころ、魔法使いは唐突に立ち上がる。
 カップを置き、誘われるように窓の前に立ち止まると、徐にヴィアを見据えた。

「魔法とは何か、知っているか」

 突然の言葉に、ヴィアは片眉を上げた。
 そんなこと。子供だって知っているだろうと表情で語る。

「人の身体に宿る魔力を、意志の力で具現化したものだろう」

 人が宿す魔力は小さすぎるから、小さな明かりを作るとか、生活のちょっとした手助けをする程度しかできないけれど。魔法使いのように、箒で空を飛んだりするのも、みんな魔法だろう、とヴィアは当然のように答えた。

「それもまた、魔法だ」

 低い声で、魔法使いは表情を変えないまま言う。

「それは正解であり、間違いでもある。――魔法とは即ち、願い」
「願い?」
「人の。生きるもの全ての願い。それが『魔法』となる」

 私はその願いを手助けしているにすぎない。そう告げて、空気を掬うように握りしめれば、ぱきんと音が響いて「星くず」が生まれる。手の中で淡く光るそれに目を落とし、何も言わずに零していく。
 ひらひらと落ちていく欠片を、ヴィアはぼんやりと見送った。その視線に気づいているのかいないのか、もう一度「星くず」を零す。

「猫から聞いただろう。『星くず』もまた、魔法の欠片だ」

 生きるものの悲しみが固まり、そして空気に溶けると優しさになるもの。だから夜は悲しくて優しい。
 魔法が願いで、「星くず」が魔法だと云うなら、悲しい心が優しさを願う。それが、「星くず」という魔法なのか、とヴィアはようやく理解した。
 理解、したからこそ、ヴィアは深く息を吐き出し、ひた、と魔法使いを見る。

「レイルーンが猫になったのは、猫となって城を出て、森ですべてを忘れて生きているのは……彼女の『願い』だったと、そう、言うのか?」

 きつく眉根を寄せて、痛みに瞑目するヴィアが、絞り出すように言う。
 魔法使いは、肯定も否定もしない。ただ黙ってヴィアの方を向き、そうして見据える目はヴィアの心の奥底までもを見透かしてしまいそうな程に、深かった。

(願い。彼女が、願ったというのか)

 ヴィアは唇を噛んだ。
 彼女の悲しみも苦しみも、心の傷だって、すべてを受け止める覚悟がないわけではなかった。けれど、自分がこれからしようとしていることが、正しいのか、彼女の為になることなのか――そう考えて、ゆるく首を振る。
 何があろうと、現状に甘んじるわけにはいかないのだと、そう決めたのは自分だった筈だ。そう、言い聞かせるように心で思い、顔を上げた。

 結果がどうあれ、ひとつ大切なことがわかったのだから、もうそれでいいと思う。
 レイルーンが猫になったのは、魔法使いの力によるものではなく。そして――彼女は、「連れさらわれた」わけでも、なく。
 それだけ分かれば、十分だ。そう思うことにした。

「ひとつ……聞かせてほしい」

 思考を完結させて、ヴィアは魔法使いを見つめて声をかけた。
 彼は、ただ興味なさ気な視線をヴィアに投げてよこしただけだった。だから、ヴィアはそのまま口を開く。

「彼女を連れて帰っても、いいのか。それで、君は後悔しないのか?」

 二年を彼女と暮らしてきた魔法使いだから、自分が連れて帰っていいのかと、そう問うヴィアに、魔法使いは無表情のまま小さくため息を落とした。その瞳に感情を読み取ることはできなかったけれど、次の瞬間にはじかれたようにドアの方を振り返ったその瞳には、はっきりと驚きが浮かんでいた。
 魔法使いの視線を追ってみたドアは、僅かに開いていた。この部屋に入ってきたときに、確かにしっかり閉じたはずなのに、どうしてあいているのだろう。その疑問は、ドアの隙間から覗いた顔によって、どこかへ吹き飛んだ。

 魔法使いもヴィアも、互いに言葉もなくそれを見つめ――不意に、魔法使いは身をひるがえして、窓から空を見上げた。
 おずおずと彼を見上げる猫と、それに背を向ける魔法使い。ヴィアは、なにも言えずにソファーに座って、それを見つめていた。
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